第二十一話「先輩、僕は――」
しばらく走り続けると、周りの景色が段々と暗くなってきた気がした。
街灯の数が段々と減っていっている事もある。
でも、一番は――心細さがそう感じさせるのだろう。
ずっと走り続けているせいで、浴衣の下で身体は熱を帯びているのに、妙に寒い気がした。
「――っ痛っ」
――狭まっていく視界の中で。
なるべく周りを見ないように走り続けていると、踏み出した足の裏に鋭い痛みが走った。
……足を止めて、なにも履いていない足の裏を見る。
土や埃のせいで、足の裏は真っ黒に汚れているが、そこを赤い血が微かに垂れ落ちていた。
どうやら、道に尖った小石かなにかが落ちていたらしい。
(……先輩、ほんとに大丈夫かな……?)
暗い中でも目立つ、その赤い色を見て先輩の事が心配になった。
(――でも、『大丈夫』っていってたし。それに、すぐに、逃げるっていってたから……)
――大丈夫……私は、先輩が言った通りにしないと。
そう、さっきからずきずきと疼きを訴えている不安を胸の奥に押し込み直して。傷を負った足を地面に着けた。
幸い、足の傷は大した事は無さそうだ。
少し痛みはあるが、我慢出来ないような痛みじゃない。
(――今の時間は……三時三十分。あとちょっとだ)
先輩から貰った左腕の時計を見て時間を確かめる。
蓄光塗料の塗られた針が、薄暗い夜の中でも今の時間を教えてくれた。
(そういえば、先輩……さっきの『時計はやる』ってどういう意味だったんだろう)
去り際に、突然先輩が言い出した言葉の意味を聞き損ねてしまった。一度、立ち止まってしまったからか、色々な事が頭の中を過ぎ去っていく。
だけど、こんなところで立ち止まっている訳にはいかない。また、走り出しながら考えた。
(……普通に考えて、『腕時計を持っていない私を見かねて』ってことなのかな……やっぱり、早く買っておくべきだったな。先輩に、気を遣わせちゃったみたいだ)
――この間の反省を踏まえて、予備の時計まできっちり準備していた先輩と、大違いだ。
来る途中の電車で、『今度買おうかな』なんて呑気な事を考えていた自分に、嫌気がさした。
(あの時、確か先輩が腕時計を見せながら笑ったとき、もう二度とあんな体験、懲り懲りだって思ったけど……駄目だったな。……あの時、先輩も『昔持ってたのを引っ張り出した』なんておどけてたけ――あれ?)
――気がつけば、走り出していた足が再び止まっていた。
電車の中で、隣に並んでいた先輩の顔を思い出す。
あの時は確か、先輩が時計を着けているのに気がついて、それで、『昔の腕時計だ』って先輩が言って。
(――違う。あの時、先輩は本当はなんて言ってた?)
なにか、大事な事に触れた気がして、ざわっと、首筋の辺りで産毛が逆立った。
――あの時、確か先輩はこう言ったのだ。
「『昔使っていた腕時計を引っ張り出して、一本試しに着けてきたのだよ』……」
思わず、口から飛び出した言葉が。
誰も居ない。肌寒い。――夜の向こうへと消えていく。
(……普通……いくつも持ってきてたら、『一本』なんて言い方……しないはず……)
ドク……ドクッという心臓の音が、少しずつ……少しずつ速度を上げていく。
さっき、先輩と話していたときに感じていた違和感。
それが、だんだんと形になっていく気がした。
(でも……なんで、先輩、そんな嘘を?)
信じていた事が、崩れて行くような気がして。目眩を覚えた。
(――でも、それでもっ、ここで、思考を止めたら駄目っ!)
焦燥感が、身体の中心から私を焼き上げていた。
思わず、左手で顔の傷跡に触れながら、理解出来ないまま、私は考える。
――私は先輩から、先に行くように言われた。
――逃げる先は、四時に鳥居の場所。
――この場所と時間はお凜ちゃんにも伝えてある。
――時間稼ぎが出来れば、先輩は後から追っかけてくる……
――でも、先輩は、時計を持っていない。
――だから……時間は分からないし、時間通りに鳥居には来られない。
――つまり……
(――ッ! やられた! 先輩の馬鹿ッ! ――先輩は、初めから逃げるつもりなんてない。私を逃がすための時間稼ぎするつもりだ――ッ!)
そうだ。思えば、さっき先輩が言った言葉。
――まるで、遺言みたいじゃないか。
そう、気がついた瞬間、左腕に着けた、ぶかぶかの時計が。
別の意味を持った。
(――先輩、これ、形見のつもりなんじゃ……!?)
考えてみれば、この間だって先輩は最後、身代わりになって、私だけでも助けようってしてたのに。
……気がつけたかもしれない事に気がつかなかった自分の馬鹿さ加減が嫌になる。
先輩はそういう、人なんだ……
(――先輩、私が一人で残っても意味なんてないんですよ……っ!)
全身に、痛みにさえ感じるような焦燥感に駆られ、私は元来た道を走り出す。
今も、妖魔と戦っているはずの先輩の元へ。
――今度こそ。
――『独り残される』ことが無いように。
***
目の前に、ゆらゆらと柔らかく揺れ動く壁があった。
そして、その揺れる壁の向こう側。
音の聞こえない向こう側で、狂ったように暴れる巨大な化け物と戦う先輩の姿があった。
化け物は、全身から体液のような、薄く発光する気持ちの悪い液体をまき散らし。
何度も何度も独鈷杵を使って殴りかかってくる先輩を振り払うように、鞭のように硬い甲殻に覆われた全身を振り回している。
だが、それに対峙する先輩も。どうやら、致命傷こそ負っていないものの。
いくつも傷を負っているらしい。全身が遠目にも分かるほど滲んだ血で汚れている。
戦ううち、傷口が開いていっているのか。
音の無い雄叫びをあげながら、先輩が腕を振るう度。
少しずつ先輩の浴衣のあちこちから『赤』が広がっていく。
――その光景を前にして。
いつの間にか私の足は――止まっていた。
(――怖い……)
そう思った瞬間。それまで勢い任せに動かしていた足が、がくんと足が止まったのだ。
この間、神社で先輩の所に戻ったときは、『龍樹様の雫を使うため』『先輩を助ける為』という理由があった。
だが、今回戻ってきたのは、言い訳のしようがないほど身勝手な理由だ。
先輩の決死の覚悟を無駄にする行為だ。
(……だけど、やっぱり、我が儘でも、嫌な奴でも、一人は嫌……っ)
そう、思うのに。
最後の一歩を踏み出すための足が――重かった。
「――うぅ……っ!」
気づけば、目の前で光り輝く壁が。その向こうの光景が。
――混ざり合うように滲んでいる。
(……なんでっ! なんでっ、私の足は動いてくれないんだ! こんなっ、最悪で、自分勝手な理由で戻ってきたのに……っ!)
「――なんで、さっきの私は逃げたりなんてしたんだ……」
根を張ったように動かない両足に、握り締めた両手を叩きつけた。
――だって、先輩が『先に行け』って言ったから。
考え無しだった自分を心の中で責めていると、無意識に言い訳している自分を見つけた。
(――違う)
そんな、勝手な自分を慌てて否定する。
だが、心の中の嫌な私は、より声を大きくしてざわざわと騒ぎ立てる。
――なんで? 言われた通りにしないと嫌われるよ? ほら。今からでも逃げよう?
そんな巫山戯た事を考える自分に必死になって首をふる。
(――違う)
――だって、結局みんな、私を哀れんでるだけなんだよ? だから言うこと聞かないともっと皆に嫌われるよ?
(――違うッ!)
いつの間にか、心の中の声は、先輩との事だけでなく、普段から私が思っていることにすり替わっていた。
……そうして、気づけば、私の足を止めていたのは、『良い子の私』だった。
事故で、両親を失ってからずっと、『良い子』で居ようとして、人の言うとおりにして、大切な判断も人任せにして。
なるべく嫌われないように。変に関わらないように。
ずっと殻に閉じこもるだけだった『良い子の私』だった。
――臆病で、弱気で、いろんな事を諦めてしまっていた私だった。
(……なんだ……結局、私、先輩に嫌われるの――『独り』になるのが怖いんだ)
――そう。
死への恐怖で止まっていたと思っていた足は……
言われたことを守らなくて。
たったひとり、私を嫌わないで居てくれた先輩に、嫌われるのが怖くて止まっていたのだ。
(――はは、馬鹿か。私。……行かなきゃ、どっちにしろ一人だ)
思わず漏れ出た笑いと共に、馬鹿な自分の考えを一蹴し。
そんな私を振り払おうとすると、また別の私が口を開く。
――先輩は、今だって、中に居るのに。私のせいで、そこに居るのに。
自分を責めて。責めるだけで、『いかなきゃ』と思いながらも、結局動こうとはしない私。
(いやっ、それも――ッ! 違うっ!)
――今、必要な私は、臆病じゃ無い私。
たとえ、嫌われたって。
嫌がられたって。
我が儘を。
――独りが嫌だってワガママを通すための私だッ!
だから、私は必死になって思い出す――
あの日、事故に遭う前の私を。
世間知らずで、生意気で、負けん気の強かった私を――
「――僕はっ! そんな、『良い子』なんかじゃない――ッ!」
思い出し、沸き上がる感情にまかせながら――私は両手を振り上げた。
――ガツン
壁に向かって叩きつけた両手が、固い壁にぶつかったかのように止まり、痛みが走った。
目の前で、不定形に揺れる壁は、虚しくなるほどになんら変化をもたらさない。
(くそっ……外からじゃ入れないのか!?)
さっき出てくるときは、先輩の独鈷杵でこの壁を切り裂いてから出てきた。
だとすれば、今回入るためには、同じようにこの壁を切り裂かないといけないのかもしれない。
だけど、私にそんな便利な武器はない。
ただ、手の中にあるのは、お凜ちゃんから貰った影喰。
――刃が折りたたまれたままの、役に立たないガラクタだけだ。
(……だけどっ! それでもっ、僕は――っ!)
歯車でぎざぎざとした柄を力一杯握り締め、影喰壁に向かって叩きつける。
右手の手のひらを、熱く焼けるような感触が走り抜けた。
どうやら、歯車の歯が手のひらに食い込んだようだ。
握り締めていた拳の間から、赤い血が一筋流れ落ちてきた。
――たとえ、先輩の所に行ったって、何かが出来る訳じゃ無い。
――非力な私は、先輩の邪魔かもしれない。
――それでも――ッ!
「――僕はッ、もっと穂積と一緒に居たいんだっ!」
血に濡れる影喰を、もう一度大きく振りかぶって隠世の壁に向かって叩きつけた。
――その瞬間、握り締めた手の中で。
――『カチリ』と歯車の動く音がした。





