第二十話「先輩、冗談って難しいですよね」
「――行くって、何処へ行くんですか?」
走る度、足の裏に痛みが走るのに顔をしかめながら、私は先輩の後ろをついていく。
痛みのせいで、どうしても走る速度は落ちてしまうが、先輩は私の走る速度に合わせてくれているらしい。 すこしゆっくり目の規則正しいペースで走り続けていた。
先輩が走る度、着乱れた浴衣の裾が風をはらんで、はためいている。
「――町の入り口に、大きな鳥居があっただろう? あそこに、四時に合流だ」
「『合流』ってどういうことですか?」
「さっき、君の親戚に送った手紙に書いておいた。『無事脱出出来たら四時にそこに行く』とな」
先輩の言葉にようやく納得がいった。どうやら、すでに先輩はお凜ちゃんとの合流まで考えてSOSを送ってくれていたらしい。
(先輩、ちゃんとそこまで考えてさっき手紙を送ったんだ……でも、お凜ちゃんが来たらアレ、ちゃんとなんとかなるのかな?)
私よりも小さい、お凜ちゃんの姿を思い浮かべると、本当にあんな化け物をなんとか出来るのか不安を覚える。
(――でも、私達だけでなんとかするよりも、確かなはず)
なにも知らない素人の私達が考えるより、知識があるお凜ちゃん達の方が絶対に役に立つはずだ。
だから、申し訳ないけど今はお凜ちゃん……。
――いや、神守の人に頼るしかない。
(……映画で怪物に襲われて米軍基地に向かう時ってこんな気分なのかな……)
あの気持ち悪い、生命を感じることのできない空間を抜け出したからだろうか?
家の本棚に一杯刺さっているおばあちゃんの好きな映画を思い出して、自分に少し余裕が出来ている事を実感した。
(後は、空爆を待つときの主人公とか。――あと何分で空爆だって場面……って、そういえば……)
「今、何時なんですか?」
寝起きにいきなり妖魔に襲われた私は、今の時間が何時なのか分からなかった。
襲われている間は時計なんて見ている余裕がなかったし、今は時計を持っていない。
携帯電話も旅館の机で充電器に繋ぎっぱなしだ。
(まあ……携帯電話は使えなくなってるのかも知れないけど……)
どちらにしろこのままでは『4時』に集合と言っても、いつが4時なのかすら分からない。
「――そうか。君は時計を持っていなかったな。これを使うと良い」
先輩が左腕にはめていた金属バンドの時計を外して、走りながら私に向かって差し出してきた。
走っているせいで掴みにくいが、バトンを受け渡す要領で先輩から受け取る。
男物のごつごつとした時計は――ちょうど三時十五分を指していた。
(――まだ、あと四十五分もあるのか……)
考えてみれば、神守の家からここまで本来なら一時間近くかかる場所なのだ。
仮に車を飛ばしてきてくれたとしても、どうしてもそれくらいの時間にはなってしまうだろう。
「……どうやら、隠世とやらの中でも普通の時計は動くらしいな。さっき、手紙を書くときにもちゃんと時間を確認することが出来たよ」
「そうなんですね」
時間の確認が出来なかったせいでこの間は酷い目にあったが、時計はちゃんと役に立ってくれるらしい。先輩から受け取った腕時計の文字盤をもう一度確認して、先輩に返そうと手を伸ばした。
「――咲夜、その時計は君にやるから、持っておいてくれ」
私が時計を返そうとしたのを感じ取ったように、前を向いたまま先輩が言った。
「――え? でも、先輩はどうするんですか?」
「私か……私は、念のために実はもう一本腕時計を持ってきていてな。――問題ない。もし、はぐれでもしたら、時間が確認出来ないと不便だろう?」
どうやら、先輩はこの腕時計だけでなく、他にも持ってきていたらしい。
あまりの準備の周到さに、むしろ感心するより呆れるような気持ちが先に立った。
(……でも、そのお陰で本当に助かってるんだけど)
「――ほんとに準備、良いんですね」
「……はは、まあな。『備えあれば憂い無し』という奴だよ」
尊敬を込めて先輩に伝えると、なぜか一瞬口ごもった先輩が笑いながら肩をすくめた。
――そんな先輩の言葉に、ほんの少し悪戯心を抱いた。
(たしか、傳説は殷王朝だったはずだから……)
「――先輩、殷王朝とかがお好きなんですか?」
「……ん? ああ、封神演義といい、そういえば、そうだな……いや、その発想はなかった。良く覚えていたものだ」
私の振った話題に先輩が怪訝そうに一瞬首を傾げるが、すぐに意味を理解してくれたらしい。――ふっと軽く笑う気配がする。
(そりゃぁ……、あんなことされたら、忘れようと思っても忘れられないよ……)
自分で言っておきながら、あの時の事を思いだして顔が赤くなるのを感じていると、先輩は感心したように走りながら楽しそうに頷いている。
だから、私は少しだけ走る速度を上げて先輩の隣に並ぶと、右手に握り締めていた影喰をちらっと先輩に見せて、皮肉交じりに思いついた冗談を口にする。
「なるほど……それじゃあ――先輩。お凜ちゃんが、今度は目も眩むようなお薬を持ってきてくれることを祈りましょうか。――影喰は役に立たなかったですし」
……
…………
――渾身の冗談を言ったつもりだったのに、無情な沈黙が流れた……
(――あ……すべった……)
――そう、気がついた瞬間。
それまで意気揚々と先輩に向かって冗談を言っていた顔が、引き攣って赤くなっていくのを感じた。
やらかしたことに気がついて、走る速度を少し落として先輩の後ろに逃げながら、向けていた顔をそっと逸らした。
(は、恥ずかしい……)
なぜ、この非常時にこんな馬鹿げた冗談を言い出そうと思ったのか。
数分前の自分の馬鹿さ加減を責めてみても、今更吐き出した言葉は戻ってこない。
「――ッ、ハハ……ハハハッ……」
――しかし、気がつけば笑い声が聞こえた。
先輩の声だ。声のする方では、どうやら先輩が口元に手を当て、肩を震わせているらしい。
(――え? わ、笑ってるの!?)
――どうやら、意外な事に私の冗談は、思いがけず先輩のツボにはまったようだ。
ちらりと振り返る先輩の顔を覗き込んでみれば、目に涙を溜めるほどに先輩が笑っている。
(良かった……笑ってくれた……)
口にした瞬間漂った沈黙に、『失敗した』と思っていた冗談は、どうやら先輩のツボにはまってくれたらしい。
あまり、誰かに冗談を言うという経験が無かった私にとって、とてもハードルが高かったが、これだけ先輩が笑ってくれたのだったら……成功だろう。
「そうだな。『延々と追いかけてくる病』には早々にお立ち退き願いたいところだ」
目に浮かんだ涙を拭いながら先輩が、にやりと少し獰猛な印象の笑いを浮かべた。
「――いや、咲夜。助かった。ありがとう」
「――どういたしまして……?」
急に、改まった調子で御礼を言われて、何のことか分からずに戸惑いながらも、取りあえず応える。
(あ……また意地悪な顔してる……)
私の方を見た先輩が、何故かニヤニヤとした笑みを浮かべていた。
「いや、なに……今の咲夜の得意げな表情が、存外に可愛らしかったのでな。――もう少し、見ていたくなったのだよ」
「――え!? ちょっと先輩……? ど、どういう意味です?」
「くっく……男子一生の秘密というやつだ。気になるのなら、曝いてみたまえ」
『どうせまた、変なからかいがやってくる』
そう、予想していたのにやっぱりちょっぴり焦ってしまう私に、先輩は愉しそうに唇の端を釣り上げながら、上機嫌な様子で前を向いた。
「――さて、そんな咲夜に、少々良くない知らせがある」
そして、そんな上機嫌そうな声のまま、軽い口調でそんな事を言い出した。
(そんな、映画みたいな言い方……)
「……なんですか?」
奇しくも、先ほど思い浮かべていた映画でありそうな言い回しに、思わず平坦な声が出た。
(大概、そういう時に出てくる話って、碌なのじゃないよね……)
だが、まあ先輩の口調を考えれば、案外それほど重要な事ではないかもしれない。
――精々、また私へのからかいというところだろう。
「なんですか?」
ふっと、妙に綺麗に笑う先輩の顔を見て、若干警戒しながら、先輩に向かってもう一度先を促した。
先輩から、変わらない口調で、何気ない様子で言葉が返ってくる。
「――さっきから段々、我々を追うように、隠世の空間自体が移動してきている」
「……え?」
内心、高をくくっていた私は、先輩の言葉が一瞬理解出来なかった。
しかし、すぐに意味に思い至って緩んでいた顔から血の気が引いていくのを感じる。
――慌てて後ろを振り返れば、確かにドーム状の壁に覆われている空間が、ゆっくりと私達に向かって近づいてきている気がした。
「このままでは、四時より以前に追いつかれるだろうな」
「そんな……っ!」
先輩からの絶望的な言葉に、さっきまで希望に浮かれていた分を足した絶望が押し寄せてきた。
くらくらと、視界が歪むような気持ちの悪い感触に襲われる。
「――だから、ここから先は役割分担といこうではないか?」
「……役割分担?」
何を考えているのか。
本当に楽しそうに先輩はそういって変わらず獰猛な笑みを浮かべている。
(先輩の事が、理解出来ない……)
訳が分からないなりに、なんとか先輩の意図を読取ろうと思うが、さっぱり分からない。
(でも、先輩が余裕ありそうにしてるって事は、大丈夫なのかな?)
ただ、何となく、先輩の様子を見ていると大丈夫な気がしてきた。ひょっとしたら、私が分からないだけで何か勝算があるのかもしれない。
――浮かんだのは、神社で腕に襲われたとき、機転を利かせて独鈷杵を取り出した先輩の姿だ。
あの時、先輩がとっさに独鈷杵で戦って、神社に逃げ込む判断をしてくれたから、私達は無事に生きている。
「ああ。咲夜はこのまま走り続けて、指定の場所へ助けを呼びに行ってくれ」
「先輩は――、先輩はどうするんですかっ!?」
だが、自分の事は置いておいてそんな事をいう先輩に、私は慌てて聞き返した。
「――私は、ここに残ってあの妖魔を足止めすることにしよう」
慌てる私を見ながら、なおもおかしそうに先輩が笑う。
(また……私だけ?)
――そんな言葉が一瞬頭をよぎる。
「先輩も一緒に逃げましょうよ!? それか、私も一緒に……」
しかし、私を安心させるように、先輩は走る速度を緩めながら、不敵に笑った。
「なに。大丈夫だ。安心したまえ。ここはさっきの部屋より随分広い。さっきやり合った感じであれば、その場で足止めするくらいならなんとかなりそうだ」
「でもっ……そんな」
「なに、今の咲夜に武器はないのだ。こうするのが、一番だろう。それに、咲夜には悪いが、形成が不利になれば一目散に逃げさせて貰う。その時、君が先に行っておいてくれた方が、私も全力で逃げられるというものだ。さっきの旅館での事を思い出したまえ」
確かに、先輩の言う通り、さっきの旅館で逃げるとき、抱えられていた私は邪魔でしかなかった。
(なんだろう……先輩の説明、すごくまとまっているんだけど、なにか違和感がある)
――まるで、用意していた台本を読んでいるような……
(いや、そんなの流石に考えすぎ。……先輩がそんなことする意味がない)
「それに、咲夜には教えていない秘策もあるのだよ。――だから、気にせず君はこのまま走り続けたまえ」
「……秘策って……?」
「――なに。こういうのは最後の最後まで語らぬが華という奴だ。そっちの方が格好良いだろう?」
「格好良いって……」
何処までも不敵に。気障な事をいう先輩に、私は呆れて言葉を失った。
普段にない、戯けた調子に、どこか肩の力が抜けていく。
(でも、ここまで言うって事は、本当に自信があるって事なのかな……)
「……本当に大丈夫なんですね?」
確認するために、もう一度先輩の事を見つめながら聞いた。
「ああ。だから、安心して君は先に行っておいてくれ。まあ、ひょっとしたら、私が早々にアレを倒して、逃げる意味がなくなってしまうかもしれんがね。その時に、人目があると勝利の舞を踊りにくいだろう?」
戯けた調子で、先輩が盆踊りでも踊るように振り上げてみせた。
――正直、あんまり上手では無さそうだ。
思わず先輩がアマゾンの奥地に伝わっていそうな踊りを踊っている姿を想像して、シュールな笑いが浮かぶ。
「……それは、逆に見てみたいです」
「こらこら」
先輩は、笑う私の事を嬉しそうに目を細めて見つめながら、優しい笑顔を浮かべると、その場で立ち止まった。
「――さて、では話も決まったところで。行きたまえ」
急に立ち止まった事で、走っていた私と完全に位置が入れ替わる。
先輩の向こうに、虹のようなきらめきをあげながら、透明な壁がこちらに近づいてくるのが見える。
「先輩……無理、しないでくださいね?」
その背中に、私は声を振り絞る。
「さて? 薬代わりに少々無理はするかもしれんが、それくらいは勘弁してくれよ?」
「……先に行って、待ってますから!」
巫山戯て肩をすくめながら言う先輩に、『絶対に来て下さいね』という願いを込めて叫ぶ。
応えるように先輩の背中が、月明かりの下で微かに揺れた。
「ああ……そうだ。――咲夜」
――急に、真面目な声に戻った先輩が、私の名前を呼んだ。
「はい」
私が返事を返すと、先輩はこちらに背中を見せたまま言葉を続ける。
「――君は、もう少し周りをちゃんと見てみたまえ。……学校に戻ったら、勇気を出してみることだ」
「――え、それって……どういう――」
意味の分からない先輩の忠告めいた言葉に、首を傾げながら聞き返そうとする。
「――その時計は元々処分するつもりだったのだ。君にやろう。返す必要は――ないッ!」
「――え? ちょっと、先輩!?」
先輩は、そのまま奇妙な事を言った後、私の答えも聞かずに走り出した。
「……先輩……」
――だから、仕方なく。
私はそんな先輩の期待に応えるために、どんどんと遠ざかっていく先輩に背中を向けて走り続けた。
すみません。体調不良のため4/7の更新をお休みします。
次回更新予定は、4/14となります。ご迷惑をおかけ致します。





