第十九話「先輩、……役立たずでごめんなさい」
巨大な透明な壁の向こうの景色は、真夏に見かける陽炎のように歪んでいる。
まるで、分厚いビニールを通して見通しているかのようだ。
「――なるほど。これが、咲夜の親戚の子が言っていた『隠世』という奴か」
先輩がその光景を見て、納得したように頷くのを感じた。
「先輩……?」
米袋のように後ろ向きに担ぎ上げられたまま、頭をひねって先輩の方を見みようとするが、先輩が正面を見ているせいで表情はうかがえなかった。
ただ、声音からは先輩が目の前の光景に感心しているようにも感じられた。
「凜君と言ったか? あの娘が言っていただろう? 妖魔は隠世に潜むと。――なるほど、また私達は隠世とやらに閉じ込められたようだな」
神守の本家に行ったときに聞いた、お凜ちゃんとの会話を思い出す。
――確かに、これは……
「隠世……これが……でも、じゃあ、やっぱり、あれは『妖魔』なんでしょうか?」
「……まあ、十中八九そうだろうな。まったく……存外世の中には不可思議な存在が跳梁跋扈しているらしい……」
苦々しげにいう先輩の言葉に、さっき襲いかかってきた昆虫のような、『異形』と言うしか無い存在の姿が頭をよぎった。それは確かに、一昨日戦ったあの醜悪な肉塊とも通じるところが有る。
――言われてみれば、この空間に漂う雰囲気のようなものも、あの時の神社の雰囲気に似ているような気がした。
(――でも……でも、もし、あの時と同じだったら……)
あの時は、いつまで経っても道祖神の置かれた空間より先に行くことが出来なかった。
もし、これがあの時と同じ状況だったら――また逃げられないのかもしれない。
「――はてさて……問題はここからどうするかだな。――ここから、外に出られるのか?」
同じように考えたらしい先輩が、朱色に塗られた橋の手前で足を止めた。
そのまま、思案するように少し考え込んでいるみたいだ。
「――あ、あの……下ろして下さい」
「――あ、ああ。すまん」
私を担ぎ上げている事を忘れていたような先輩に、背中を軽くたたきながら言う。
先輩が、焦ったように声を出しながら、担ぎ上げていた私に両手を沿えてそっと降ろしてくれた。
宙に浮いていた私の足が、しっかりとした地面に下ろされる。
「――っ!」
地面に足を下ろした瞬間、足の裏に『ちくり』とした鋭い痛みを感じて、思わず先輩の浴衣の胸元を握り締めた。
「っ、すまない。大丈夫かっ!?」
「……はい。ちょっとびっくりしただけです」
目の前で心配そうに私の事を見つめている先輩に、首を振りながら足下を確かめる。
(……そっか。裸足で出てきたからか)
部屋を直接飛び出してきたせいで何も履かないままだった素足に、地面のごつごつとした小石があたって痛みが走っていた。
「――すまんな。履き物にまで気が回っていなかった」
「あ、いえ。あの状況でしたから。――それより、さっき言ってたのって、この間みたいに、同じ場所に戻ってきたりするかもしれないってことですか?」
申し訳なさそうに私の足下に視線を落とした先輩の視線を遮るように体で足下を隠しながら、さっきの言葉の意味を確認する。
「ああ……もしも、あの時のように元の場所に戻ってくるようなら、難儀だと思ってな。不意打ちで場所が変わるわ、あれに追いつかれてしまうわでは目も当てられん」
「――でもっ……」
――あの妖魔から逃げない。
そうすると、考えられる対応は一つしか無かった。
(――あの妖魔と……戦う……)
――この間は、『見崎の宝珠』があったからなんとかなった。
でも、今――あの宝珠ももう無い。
(それに、あれが有ったってあの時先輩は……)
目の前で厳しい顔をして考え込む先輩の姿に、血まみれの姿が重なって見えた。
光を失っていく瞳……力の抜けていく先輩の手……
(嫌だ……)
どこからか風に乗せられてきた桜の花びらに。
独り――先輩の独鈷杵を握り締めて歩いたときの感覚が蘇ってくる。
――自分の中で、ざわっと、さっき反省したばかりの気持ちが再び膨れあがるのを感じた。
それは、『また一人になるのは嫌』という、自分勝手な気持ちだ。
(……また、一人はいやだ)
そんな事を考えた私の顔を見て欲しくなくて、先輩の顔を見上げていた視線を落とした。
「……そんな泣きそうな顔をするな……。まあ、色々と試してみるしかあるまい」
「――え」
そう言って先輩は、浴衣の袂に手を突っ込み何かを取り出した。
暗がりの中、しっかりと目をこらしてみると、その正体が分かった。
白い折りたたまれた紙束と、使い古した真鍮のような光沢を持つ一振りのナイフだった。
(お凜ちゃんから貰った紙束と……影喰……そうか、私の部屋で先輩が拾ってたの……影喰だったんだ……)
影喰は昨日、先輩の部屋から戻ってきて、布団の枕元に置いたまま眠ってしまったはずだった。
それがそこにあると言うことは、さっき先輩が私の部屋で妖魔と戦ったときに拾ってくれたらしい。
「――君の部屋を出るときに、取りあえず回収しておいた。武器がない事には、守れるものも守れんだろう? ……使えるか?」
先輩が差し出してくる影喰を、浴衣の裾で手についていた自分の血を拭ってから受け取った。
(――これ、浴衣旅館に返すとき、なんて説明しよう)
思ったよりべっとりとついた血に、一瞬そんな呑気な事を考えるが、非常事態だ。仕方ない。
先輩は、私が影喰を受け取ったのを確認すると、ペンを取り出してお凜ちゃんから受け取った紙に手早く何かを書き込んでいく。
その間に、私は受け取ってからちゃんと確認していないままだった影喰の確認をする。
(――まさか、こんなに早く必要になるなんて……『また今度』なんて考えずに、先に使い方、確かめておくんだった……)
まさか、この瞬間にもすぐ後ろに妖魔が迫っている中で使い方を確認する羽目になるとは思わなかった。こんなナイフ一本、あんな巨大な『異形』を相手にするには、いかにも心許なかった。
(それでも……貴重な武器には違いないんだし……)
そう考えながら、ナイフの柄の部分に納められた刃の背にあたる部分をつまんで引っ張る。
「――あ、あれ……?」
しかし、引っ張ってみても、ウンともスンとも言わない。
固く錆び付いたように、一ミリも動かず固まってしまっている。
(ひょっとして、こっちの歯車を回すのかな……?)
そう思って、ナイフに無数についている歯車の中でも一際大きなものを一つをぐっと押してみるが、ギザギザとしている歯車の歯に指の肉が食い込んで痛い思いをしただけだった。
「――っく、この……」
なんとか刃先を開こうと、全力で引っ張ってみるが、やはり頑として動かない。
そうする内に、『パンッパンッ』という破裂するような音がして、思わず手が滑りそうになった。
慌てて音のした方を見ると、ちょうど先輩の手元から真っ白な鳥が一羽飛び立つ瞬間だった。
先輩の手元から飛び立った鳥は、透明に揺らぐ壁にぶつかり、一瞬壁に裂け目が走ったかと思うと、すり抜けていく。
うっすらと見える外の世界を、鳥は天高く飛び立っていく――。
「……なるほど。あれはちゃんとこの膜を通り抜けていく訳か……」
先輩が、少し感心したように呟いている。
どこか、その声には安堵したような響きが含まれているように感じた。
(そうか……あの鳥が壁を越えられるんだったら、私達も一緒に抜けられるんじゃ――)
俄に浮上してきた安心出来そうな材料に、手元の使い物にならなそうなナイフに焦っていた気持ちに少しだけ余裕が出てきた。
「――咲夜、どうだ? ……開かないのか?」
鳥を見送った先輩が、私の方を振り返り近寄ってくる。
ひょいと、私の手元から影喰を取り上げた先輩が、ひっぱったり歯車を回そうとしたり、私が試したのと同じような事をやってみている。
「……なるほど。錆び付いているのか、まったく動かんな……残念だが、これは、使い物になりそうにない」
「……すみません。役立たずで……」
(お凜ちゃん……気持ちはありがたいけど……不良品じゃないか……)
でも、ここでお凜ちゃんを責めるのは違う話だ。
お凜ちゃんだって、義理もない私の為に、色々考えてくれての事だったんだから。
ただ、それも含めて申し訳ない気持ちになって、少し困ったように表情を硬くする先輩に、私はただただ先輩に頭を下げた。
「いや、確認していなかったのは私も同じだ。――とはいえ、肝心の咲夜の武器がこれでは、不安なのは確かだ。少なくとも、『戦う』という訳にはいかないだろう……」
「ごめんなさい……」
「なに、気にするな。もとより、君が戦うような事は、なるべく避けるつもりだったからな。むしろ、なんとしても逃げなくてはならんという事が分かった訳だ」
先輩が私を慰めるように、そう言ってくれるがなかなか納得するのは難しかった。
どうしても、『足手まとい』となってしまっていることを感じてしまう。
(――先輩一人だったら、きっと上手く逃げられるのに……)
「――幸い、ここから出られる可能性もあるようだ。――なんとか、なるだろう」
――肩の上に、暖かな感触がぽんぽんと触れた。
固く沈みかけていた気持ちが、その温かさに少しだけ浮かび上がってくるのを感じる。
(――うん。駄目だ。今は、助かる事を考えないと)
「――さっきの手紙ですよね?」
「そうだ。あれが、ここから出て行けたのだから、私達が脱出出来てもおかしくないだろう?」
先輩は不敵に笑いながら、独鈷杵を陽炎のように歪む壁に突きつけた。
そうして、勢いよく独鈷杵を突き立てながら振り下ろす――っ!
――ジィっという、神社であの奇妙な肉塊のような化け物が姿を現したときと同じ。
ビニールが裂けるような音がして――壁に大きく裂け目が走った。
「ッ先輩っ! これって!」
壁の向こうで、ぐにゃぐにゃと光が折り曲げられたかのように歪んでいた光景が、普段見るのと変わらない光景に変化するのを見て、声に喜びが滲むのを抑えられなかった。
「ああ。さっきあの鳥が裂け目を作って飛び出していくのをみて、『もしや』と思ったのだが、どうやら正解のようだ」
しかし、そうしてお互いに言い合う間に、せっかく出来た裂け目は再び傷口がふさがるように消えていってしまう。
――どうやら、一定時間で裂け目は消えてしまうようだ。
「よし。アレが来る前に逃げるぞ。咲夜」
「はい!」
(――大丈夫……だよね?)
先輩の言葉に、勢いよく返事をしながら……どこか不安に思っている自分もいた。
(……これを越えた瞬間、先輩と離ればなれとか……)
『大丈夫だろう』とは思いながらも。
そもそもの前提が不可思議な状況に安心することは出来なかった。
「あ、あの……先輩……」
「――どうした?」
今、まさに再び独鈷杵を振り下ろそうとしていた先輩に、呼びかけた。
声が、緊張でか細く震えるのを感じる。
先輩が、一瞬手を止めてこちらに視線を向けた。
「……その、越える間だけ……手、握ってて貰っても……良いですか?」
「――ああ、構わんよ」
先輩は、一瞬私の子供みたいなお願いに目を丸くしたようだったが、すぐにほっとする笑顔で私の手を握ってくれた。
私の手を包みこんだ、ごつごつして大きい手からは、暖かいなにかが流れ込んでくるような感覚があった。それは、ちょうどさっき先輩に触れられた時に感じた暖かさと同じものだった。
(そっか……これ……『霊力』ってお凜ちゃんは言ってたっけ?)
こんな時なのに、先輩に触れた所から伝わってくる暖かさは心地よくて。
寒い春の日、日だまりに触れたときのような気持ちがする。
「――行くぞ」
「――はいッ!」
今度こそ、勢いよく答えた私の言葉に同調するように。
先輩は力強く独鈷杵を振り下ろし、壁を大きく切り裂いた。
(――っ)
息を詰め、出来た裂け目に二人そろって飛び込んだ。
――するり。
なんの抵抗もなく。
意気込んでいたのが気恥ずかしくなるほどのあっけなさで。
私達はその壁の先へと踏み出した。
一歩、壁から踏み出した先は、見慣れた世界だった。
ぽつぽつと道路を照らす街灯の周りでは、虫が飛び回り、カツンカツンとぶつかる音を立てている。
灯りの消えた家からも、微かに人が生活している気配が漂っていた。
「――案外、あっけなかったな」
「ですね」
先輩も恥ずかしさを隠すように、ぽつりと呟いて後ろを振り返った。
そこには、もう私達が飛び出してきた裂け目もなくなり、透明な壁とその向こうに揺らぎながら見える旅館だけがあった。
「……ああ……ちと、時間を取り過ぎたか……」
「――え?」
振り返った先輩が、何か口にするが無事にあの不気味な空間から外に出られた事に安堵していた私は、聞き逃してしまう。問い返すが、先輩はなんでも無い様子で小さく首を振った。
「……なんでも無い。咲夜。――行くぞ」
右手を握った先輩に導かれるように、私達は夜の道を駆け出した。





