第十八話「先輩、……山賊じゃないんですから」
(……えっ……なんっ……)
――突然、目の前に現われた異常に、言葉さえも出なかった。
部屋の暗がりの中、明らかな存在感を持って『ソレ』はそこに居た。
呆然と、私が座ったまま呆けていると、紅い――昆虫の複眼のような器官がぎょろりと動いた。
――目が合った。
そう、思った瞬間、ソレは猛烈な速度でその右前肢を動かした。
ドンっという重い衝撃が、左腕を襲い――私の体は宙を舞った。
「ぐっ……う……」
状況が理解出来ないまま、私は襖を突き破り、入り口近くの床へとたたきつけられた。
直接ぶつかった腕を突き抜けてきた衝撃が。
床にたたきつけられた衝撃が。
体を挟み込むように打ち抜いて――肺の空気を押し出す!
一瞬、自分の体がどっちに向いているのかが分からない感覚に陥り、藻掻いた腕が壁に当たった。
(――こ、こっち……)
必死にその感触を頼りに、体を起こし、襲いかかってきたソレを確認する。
――少し距離が出来たことで、それの姿を見ることが出来た。
それは、巨大なハンミョウのような物体だった。
長く伸びた首の先に、クワガタのような左右に開く巨大な顎を持っている。
その先端は、まるで巨大な刃物で切り裂かれたかのように断ち切れていた。
こちらの様子をうかがうように。
ギチギチギチギチと耳障りな金属同士をすりあわせたような、軋んだ音を立てている。
(な、なに……? ――に、逃げないと……ッ!)
『ソレ』が、何かが分からない。
――が、危険な存在であることは明確だ。
私は、それの姿を見つめたまま、壁伝いにドアの前へと這いずるように移動した。
ゆっくり、ソレを刺激しないように体を起こしながら、後ろ手にドアの鍵に手を掛ける。
――緊張から、キンとした耳鳴りの奥で、心臓が異常な速度で鳴り響くのが遠く聞こえた。
震えて空を切りそうになる手を、なんとか鍵の周りを這わせて動かした。
――カチャリ。
小さな音を立てて、部屋の鍵が開いた。
――瞬間ッ。
ソレがこちらに向かって突進してくる!
――ガツンッ!
激しい音を立てて、ソレの開いた顎が。
私の喉を押さえ込むように部屋のドアに突き立った。
「かっ……ぁ……」
ドアの中に入っていた緩衝材らしき白い繊維が、部屋の中に舞い散った。
大きく顎を開いたまま突撃してきたことで、顎が刺さってとっさに閉じる事が出来ないようだ。
首を押さえ込んだまま、『ギチギチギチギチ』と音を立てている。
私は、両手で必死に押し返そうとソレの顎を掴んで押すが、びくともしない。
ミシッ……ミシッと扉が悲鳴を上げ、じわじわと真綿で首を絞めるように首が締っていく。
――時々、プツッ、プツッ……と自分の首の皮に、尖ったなにかが突刺さり。
ゆっくり、ゆっくりと破れていく音が聞こえた。
(――っぁ、苦しい……)
息が出来ない苦しさに、段々ぼうっと視界が霞み始めた。
必死で掴んでいる両手に、じわじわと力が入れづらくなっていく。
(駄目だ……これ、本当に、死……やっ、怖い、痛い……なんで……)
――力が抜ける中、『死』という言葉が頭に浮かんだ。
理不尽に突然訪れた死の危険に、頭が正常に理解するのを拒んでいた。
自分の事なのに、どこか他人の事を見ているような、不思議な感覚に陥って行く。
(――先輩、大丈夫かな……)
不意に頭に浮かんだのは、私を襲っているコレが、隣の部屋の先輩を襲ったりしないかということだった。
私が死んだって、どうせ消えるだけだけど。
ただ、さっき私が傷つけてしまった、嫌な思いをさせてしまった、私なんかを心配してくれた――優しい先輩が大丈夫か気になった。
(先輩に……何かあったら……嫌だな……)
薄れていく意識の中、浮かんでくるのは、そんな事だった。
だが、そんな私の考えに応えるように。
――そんな私を、嘲笑うかのように。
コンコン……という控えめなノックの音が頭のすぐ後ろから聞こえ――
「――咲夜?」
――最悪のタイミングで、先輩の声が聞こえた。
(――なんでっ! こんなタイミングで……)
『逃げて』その一言を発そうとしても、すでに締め付けられているせいで、押しつぶされて詰まった喉はまともに声が出てくれない。
(せめて……せめて、一言だけでも……っ、『逃げて』って伝えないと)
「――ッっく……!」
――歯を食いしばった。
力の抜けかけた両手に、体に残っていた力の全部を込めて。
なんとか首元に隙間を空けようする。
だが、私の首から流れ落ちた血が、ぬるぬるとした感触を残すだけで、手は虚しく固い殻の表面を滑り、撫でるだけに終わってしまう。
何度か、滑る手を顎に掛けたところで、大きく手が空振り――激しくドアに腕がぶつかった。
ぶつかった左手が――ガンッという大きな音を立てる。
「ッ――咲夜!? 大丈夫かっ!? 開けるぞ!?」
そんな先輩の声と共に、私のもたれかかっているドアが、ぐらっと揺れた。
「――ッっぁ――!」
その振動で、喉への食い込みが強くなり、声にならない声が漏れた。
そして、外の光が壁と扉の隙間から入ってきて――先輩の顔が少し覗き込んで――
「――咲夜っぁ!」
血相を変えた先輩が、叫び、扉を開き部屋の中へと飛び込んできた。
「ッの! ――放せっ!」
先輩が、ハンミョウのような怪物の、長く伸びた顎の下辺りを思いっきり殴りつけた。
――だが、ガツンという音を立てて、振動が伝わってくるだけで動かない。
むしろその分、私の首への食い込みが強くなる。
「――ええい。くそっ!」
口汚く悪態をついた先輩が、今度は独鈷杵を取り出した。
振りかぶった独鈷杵の鋭く尖った先端を、怪物の眉間にあたるであろう辺りに突き立てる。
「ギィイイ」
今度は、鈍く、ゴリッとした音を響かせ、表面の甲殻に少し穴が開き突刺さった。
怪物が、苦悶するように不快な音を上げながら、頭を振り回すように少し後退する。
首に棘が食い込むような気持ちの悪い感触に、思わず顔を歪ませると、ふと喉にかかっていた圧迫が和らいだ。
「――っらあああああああああ!」
そのタイミングを見計らったように、先輩がドアと怪物の顎に手を当てて押し開いく――っ!
――っと、ドアから怪物の顎が完全に――抜けた!
「――ぁ、お、ッコ、ごほっ……」
ドアに首から磔にされていた状態だったのが解放され、その場に崩れ落ちる。
――足に、力が入らなかった。
つぶされていた喉が、急に解放されたことで痙攣を起こしたように引き攣れ、身体をくの字に折って咳き込む。
咳き込み、顔を上げると、涙で歪んだ視界の向こうで、先輩が部屋の中に走り込み、怪物に向かって独鈷杵を突き出しながら奥に向かって押し込んでいた。
「――はっぁぁああああああああ!」
怪物が首を振った瞬間、先輩がかがみ込むように体を落として、独鈷杵を突き出す。
先輩の頭の上を、恐ろしい速度で怪物の顎が通り抜け、その下で先輩の突き出した独鈷杵が、怪物の腹にあたる部分に突刺さった。
「――ッぅギィィィイイイイッ!」
再び、怪物は叫ぶように鳴くと、ばったばったと暴れ回る。
「ッ、チッ!」
暴れ回る怪物の、昆虫のように枝分かれした前肢が、先輩の浴衣の胸元に触れかけた。
先輩が身をそらせると、触れた浴衣の端が切り裂かれる。
「――っ、先輩っ!」
ようやく、なんとか声を上げることに成功した私が叫ぶと、先輩は身をそらせたまま、後ろ向きに体を床に投げ出すように転がった。
「――逃げろッ! 咲夜!」
「でもっ!」
(先輩、また残って……戦うんじゃ!?)
先輩の叫び声に、思い出すのは血まみれの先輩を置いていった時の事だ。
そんな事、あんな思いはもう嫌だと、私は先輩の言葉に反抗する。
だが、そんな私を叱りつけるように先輩が必死の形相で叫んだ。
「そこっ、に、居たら、私も逃げるに逃げられんっ! 走れっ! 今がチャンスだ! 逃げるぞっ!」
――先輩の後ろでは、半狂乱になった怪物がビタンビタンとその場でのたうち暴れ回っている。
(っ! ――確かに、今ならアイツもこっちを襲ってこない)
先輩の叫んだ意味をようやく理解した私は、ともすれば力が抜けそうな体に力を入れて、ドアノブを支えに立ち上がった。
後ろを振り返れば、一瞬布団の辺りでしゃがみ込み、何かを拾い上げた先輩がこちらに向かって走ってくる。
「――行くぞッ!」
もたもたしていた私に一瞬で追いついた先輩が、私の手を引き旅館の廊下を走り出す。
夜中だからか、旅館の廊下はまったく人の気配が感じられない。
腕を引く先輩の方を見ると、廊下の角を曲がり、非常扉を蹴破るように開いている所だった。
「――っ、ああっ、咲夜。――すまん。失礼するぞ」
言葉と共に、繋いだ手をぐっと引っ張られ体が前につんのめる。
すると――不意に先輩に抱きしめられた。
(――え、なん――っ)
――だが、抱きしめられたかと思ったのは一瞬。
ふわりとした浮遊感に内臓が浮き上がるような感覚がした。
そのまま、浮かび上がった私は――先輩の肩の上に俵のように担ぎ上げられた。
「――え? ちょっ……」
目の前で、階段が後ろ向きに勢いよく流れて行く。
「――口は閉じておけっ!」
がくんとした振動がしたと思うと、今度は横向きに力が加わり、また後ろ向きの階段が目の前を流れて行った。
――どうやら、先輩は私の体を抱え上げたまま、階段を飛び降りて行っているらしい。
見る間にどんどんと階段が流れて行き、あっという間に一階の踊り場へとたどり着いた。
私を担ぎ上げたまま先輩が非常扉を開き、一階へと飛び出していく。
そのまま、飛び出していった先は旅館のロビーだ。
受付があり、普段なら――
(――あれ……?)
本来なら、時間を問わず誰かしらの人が滞在しているはずの受付に――誰の姿も無かった。
(そういえば……いくら夜中でも、いくらなんでも静かすぎない……?)
これだけ大騒ぎしながら旅館内を走り回っているのに、周りで人が反応する様子すら無い。
疑問に思ううちに、先輩が旅館の入り口にさしかかる。
(旅館を出れば、ロータリーが広がっていて、その向こうに歩行者用の橋があって――)
昼間見た光景を思い描きながら、担ぎ上げられたまま旅館の外へと飛び出した。
「……なに……これ……?」
――確かに、想像通りのロータリーがあった。
歩行者用に赤く塗られた橋も架かっている。
だが、その向こう。
町の中へと続く橋の向こうに広がっていたのは、歪んだ空と、歪んだ建物。
――陽炎のような巨大な壁だった。





