第十七話「先輩、結婚なんて……出来ないと思います」
――真っ暗な自分の部屋で、私はテレビを見ていた。
テレビの光を反射する壁の模様も、所々傷のついた勉強机も。
部屋のすべてがおばあちゃんと一緒に暮らし始めてから、段々と変わっていったものだ。
――だけど、今、世界には私しか居なかった。
見つめているテレビも、ただ細かな粒子を散らす砂嵐が写るばかりだ。
――ざぁざぁと。
降りしきる雨音のような音を立てて。
時々なにか写り掛けても、すぐに消えて行ってしまう。
でも、他にすることもなく。
そのザァという音が、ほんの少し孤独を和らげてくれる気がして。
私はずっとテレビを見つめていた。
――ぱっと、急に砂嵐を写すだけだったテレビが、何かを映し出した。
さっきまでの、度々写りかけては消えていく映像とは違って、ちゃんとした映像だ。
まさか、そんなちゃんとした映像が映るとは思っていなかった私は、食い入るようにその映像を見つめた。
写っているのは、モデルルームのような妙に生活感の無い部屋だった。
そして、そこに誰かの人影があった。
画面に顔を近づけていくと、すぐに、奇妙な事に気がついた。
――その映像に写っていたのは『私』だったのだ。
映像の中の『私』は、ほんの少しだけ今より大人びていた。
誰かを待っているように、とても幸せそうな表情で、ソファに腰掛けている。
[ん……まだ、帰ってこないかな……]
――幸せそうな私が、呑気な様子でのびをした。
ぐっと伸ばされた手先がカメラの前を横切る。
その時、左手の薬指に光るものがみえた。
銀色の指輪が、薬指にしっかりとはめられていたのだ。
どうやら、テレビの中の私は――なんとも幸せなことに結婚しているらしい。
……自分とは違う『私』とはいえ、同じ私だ。
幸せそうな人生を送っているらしいことに、ほんの少しだけ、今の私と比べてしまってうらやましく思う気持ちがわき上がった。
でも、それ以上に、画面の中とはいえ『私』は私。
『幸せそうで良かった』という、暖かく祝福する気持ちの方が遥かに大きく胸の中を占めていた。
[――あ、帰ってきた。――お帰りなさい]
――どうやら、待ち人が帰ってきたらしい。
テレビの中の私が、嬉しそうにソファーから立ち上がり、画面の外へと走って行く。
パタパタとスリッパでフローリングの床を走る音が聞こえ、ドアが閉まる音が鳴った。
そのまま、しばらくの間、誰も居ない部屋の中が映し出される。
真新しい白い壁紙が貼られた部屋の中で。
ソファーの前に置かれたテーブルの上に一輪挿しに活けられたスミレのような花が揺れている。
また――パタンと扉の開く音が聞こえて、パタパタと連続した音が聞こえてくる。
さっきより、足音の数が増えているようだった。
そして、また『私』が画面の中に姿を現した。
隣に、誰かの人影が見えて――
(――先輩……?)
『私』と一緒に入ってきた人は、少し成長して見えるけど、どう見ても穂積先輩に見えた。
二人並んで、ソファに正面を向いて座り込んでいる。
(……だらしない顔……)
先輩の隣にいる『私』は、幸せそうに、私が今まで見たことが無いくらいに緩みきった顔をしている。
――隣に居る先輩も優しそうに笑って居て。
テーブルの上で組んでいるがっしりとした手を見てみると、『私』と揃いの指輪を薬指に着けていた。
(……これって……)
――その、『意味』に気がついて、気恥ずかしくなった私は、画面から目をそらす。
[……どうしたんですか?]
なにか気になることでもあったのか、『私』が先輩に向かって訊く声がした。
視線を画面に戻すと、さっきまで優しい顔をしていた先輩が、いつの間にか表情の抜け落ちたような『怖い顔』をしていた。
[――、――――、――。]
なにかを、先輩が画面の中の『私』にしゃべっている。
その言葉を聞いた『私』が、画面越しにも分かるくらいに、顔色を蒼白にしていった。
唇が、震えて、目には涙が浮かんでいる。
――突然、先輩が、薬指に着けていた指輪を外した。
コト……小さな音を立てて、指輪がテーブルの上に置かれる。
気づけば、テレビの中の『私』が、必死になって先輩に縋り付いていた。
先輩の両手を、泣きながら握りしめ、見上げるように先輩の顔を覗き込んでいる。
前髪が、重力に引かれて後ろに向かって流れ、顔の半分を焼く引き攣れた火傷跡がよく見えた。
涙が流れ落ちて、崩れた表情は、火傷跡の醜さを引き立たせ、自分で見ていても嫌悪感を抱くほどだった。
――先輩が、ため息を吐くように左右にゆっくりと首を振り、『私』の手を引きはがして立ち上がった。
そのまま、そこを離れようとするように歩き始める。
私は、去って行く先輩の腕を掴もうと、必死で腕を伸ばした。
――だけど、その手はいつまで経っても届かない。
あと少し、あと少しだけなのに……そのあと少しだけが遠かった。
(――なんで? また……、また、あの……)
いつの間にか、手を伸ばした体は動かなくなっている。
動かそう、動かそうと思うけど、体が全然動かなくて、その間にも先輩の背中が離れていって。
先輩が木製のドアに手を掛けて開く姿が見える。
少しずつ開き始めた扉の向こうは、真っ白な光に包まれていてよく見えない。
(――待って、行かないで! 行っちゃ、やだよ……!)
そう、叫ぼうと思うのに、口は開くのに声がまったく出てくれない。
両目から垂れている涙が、頬を熱く流れて行き、体の中の熱をどんどんと奪い去っていく。
――やがて、動かない。――動けない私を残して。
先輩の姿が扉の向こうへと消えていく。
……パタリとドアが閉まるのが見えた。
「――ぁ、う、ぅうぅぅうう……」
扉が閉まると同時、金縛りが解けたように、呻き声が喉を震わせた。
いつの間にか、床の上に倒れ込んでいた私は、フローリングの上で必死に体を丸める。
泣きながら、両手を握って、まるで殴られるのを堪えるみたいに、懸命に体を縮こませて『何か』を耐えようとした。
でも、耐えようとすればするほど、体の中で正体の分からない圧力が高まっていって、破裂しそうな頭痛に襲われる。
そして、それと同時に、耐えきれなくなってボロボロと何かが崩れて散っていくような感覚が襲ってくる。私は、崩れそうになるそれを逃がさないように、全身に力を込めるが、嘲笑うように大切な『何か』が消えていく。
――耐えて。
――耐えて耐えて。
――耐えて耐えて耐えて耐えて耐えて。
じわっじわっ……と、消えていく存在を感じながら過ごすうち。
ようやく『何か』が崩壊し、流出していくのが治まった。
いつの間にか、周りは真っ暗に。
綺麗だった部屋の中は、何も無い場所になっていた。
それに合わせるように、今は床なのかも分からない場所に転がっている私も。
身体の中身が――身体の中に詰まっていないといけない、『私』を作っている『何か』が。
どこかに消え去ってしまっていた。
――わたしは、なにもない。たんなる、『――』だった。
ぼうっと呆けている私の前に、ぼんやりと浮かび上がるものがあった。
――無数の歯車が組み合わさった、歪なナイフ。
それが、いつの間にか目の前に転がっていた。
気づけば、私はそのナイフに手を伸ばしていく。
折りたたまれていたはずの刃先は、きちんと伸ばされて、冷たい輝きを放っていた。
そのナイフに手を手に取った私は、勢いよくその刃先を自分に――ッ!
「――っ、ああああああああああああああああああ!」
――自分の、叫ぶ声に目が覚めた。
「はぁ……はぁ……」
気がつけば、布団の上でぐっしょりと汗をかいて上半身を起こしていた。
荒い呼吸が、部屋の中で反響している。
……部屋――そう。部屋だ……
「良かった……夢か……っぁ」
ようやく、今、私は旅行に来た旅館に居ることを思い出した。
どうやら、いつの間にか眠ってしまっていたらしい。
「……よかった」
もう一度、大きく息を吐き出しながら、呟いた。
昨日、眠る前に、先輩の事を考えていたからあんな夢を見たのだろう。
(怖かった……)
初めはテレビで見ていたはずなのに、気がつけば自分がテレビの中の『私』になっていた。
だけど、その『私』はボロボロと崩れてしまって……
なんとなく、自分の左手を持ち上げて、薬指を見つめた。
――当然、そこにはなにもない。
それを見て、ようやくさっきのがただの夢だと実感出来て、ほっとため息をついた。
(でも、もし……先輩に見捨てられてまた『一人』だけになったら……)
もし、あの夢のような状況になったら……
――夢の終わりを思い出してぞっとした。
――『大丈夫』とは、自分で信じられなかった。
(――先輩、今、ほんとに隣の部屋に、居るよね? ――逢いに行ったら……無理か……)
――ついさっき。
自分勝手な理由で先輩の大切な心に土足で踏みいったばかりなのに。
先輩に逢いに行くなんて、出来る訳が無かった。
それは、あまりにも自分勝手で都合が良すぎる。
「……待て、私。そもそも、色々おかしい」
――先輩は、あくまで『先輩』でしかない。
そもそもの問題として、現実の先輩と私は単に『同じ学校に通っている』というつながりでしか無い。
別に先輩と私は特別な関係でもなんでも無いわけだ。
――どうやら、さっきの夢の影響がまだ残っていたらしい。
(――っていうか……よく考えたら、勝手に結婚してる夢見てるとかどうなんだ……私……ごめんなさい。先輩……)
先輩に恋愛感情を持ってるならともかく。
ただ『そこに居たから』という理由だけで、そんな夢を見てしまった事が一番申し訳なく思った。
(……喉、乾いたな)
大汗をかいたからか。
それとも、恥ずかしい事に気がついたからか。
抱いてしまった恐怖からか。
いつの間にか喉がからからに渇いていた。
なにか、なるべく冷たいものが無性に飲みたかった。
(確か、冷蔵庫にお茶とか水あったよね)
部屋に備え付けられた冷蔵庫の中に、お茶や水があったはずだ。
それを飲もうと思い、立ち上がるために一度布団の上で正座する。
――なんとなく、習慣から枕元の伊達眼鏡に手を伸ばした。
ゆっくりと目をつぶり、気持ちを切り替えるように眼鏡を着けた。
(――よし。大丈夫)
そっと、目を開く。
――っと。
――目の前に。
――目の前、ほんの数十センチ先に。
昆虫のような光沢を放つ、巨大な異形の存在が居た。





