第十六話「先輩、ごめんなさい。私は、醜いです」
「――先輩の、お姉さん……『だった』?」
――先輩が告げた、『雪華さん』の予想していなかった素性。
そして、そこにつけられた語尾に、完全に私は地雷を踏んでしまった事を悟った。
(……先輩の、『家族の事』……だったんだ……)
気づかないうちにどこか興奮していた気持ちは冷め。
顔から血の気がさあっと抜けていって、冷たくなっていく。
――これは、やっぱり。完璧に先輩にとってのプライベートな事。
しかも、『だった』という言い方をしているってことは……
(そうだよね……探してるっていう事は、今は一緒に居ないってこと……良くても、行方不明って事のはずだし……)
考えを巡らせれば巡らせるほど。
自分の今のした質問が。
どれだけ愚かな質問だったのかということが理解出来た。
(――ああ、私、本当に最悪だ……)
目の前の先輩の顔がざっと遠くに滲んでいくように感じて。
耐えきれなくなって顔を伏せた。
それでも、先輩の呟くような、懐かしむような、僅かに憧憬を含んだ声が追いかけてきた。
「まあ……姉と言っても、血のつながりがあった訳でもないし、ごく短い間だったが……アイツは確かに俺の姉だったんだ」
(『血のつながりが無い』ってことは、ひょっとして……)
先輩の言葉を聞いて、頭に思い浮かんだのは、一昨日見上げた桜の下。
血まみれの先輩に言われて取り出した――パスケースに挟まれた一枚の写真だった。
「……パスケースの……」
……思わず、顔を上げ呟くと、先輩は意外そうに僅かに眉を上げた。
「――ああ、そうか。咲夜は……写真を見ていたんだったな」
しかし、すぐにそう言って。
納得がいった様子で頷くと、ポケットの中から大切そうにパスケースを取り出した。
一昨日先輩の制服から取り出したときと違って。
いつの間にかその茶色い革製のケースは真新しいものに取り替えられている。
(多分……一昨日、血がついて汚れたから、すぐに新しいのにしたんだ……)
――大切な、ものだから。
違う。
大切な――『人』だから。
そんなところから、先輩がどれだけその写真を。
――そこに写っている人を大切にしているのかが伝わってきて、胸が苦しくなった。
思わず右手を胸に当て、ぎゅっと浴衣の上から押さえ込む。
手のひらに当たる、浴衣の生地のざらりとした感触が。
私の力を反映するように、形を変えて皺を作るのが分かった。
「――これが、『雪華』だ。どうだ? なかなか、美人だろう?」
先輩が、どこか自慢げに指さしたのは、取り出した写真に写っている外国人の少女だった。
この間見たときは、暗い中だった。
それに、『先輩が死ぬかもしれない』という恐怖の中で。
自分が、また一人になるかも知れないという我が儘な恐れの中で。
ちゃんと見ることが出来なかった。
――いま、改めて先輩の手に握られている写真をじっくりと確認する。
銀色の髪を微かに風になびかせ。
今の先輩みたいな金色の瞳を、ほんの微かに細めて。
……照れくさそうな幼い先輩の横で自慢げに微笑む女の子。
その女の子は、今まで映画なんかで見かける、外国のモデルさんと比べても。
とても綺麗な顔をしていた。
「――はい。とっても……綺麗ですね。外国の……人だったんですか?」
たとえ顔の傷なんか無くても。
自分なんかとは、比べること自体おこがましいくらい、別次元の存在だった。
その美貌に、お姉さんの事を自慢げに話す先輩の言葉も、お世辞では無く受け入れられる。
ただ、なぜか。
その女の子の写真を見ていると、ざわざわと胸が潮騒のようなざわめきをあげている。
だからだろう。写真を見たらすぐ分かる、当たり前の事を聞いてしまった。
「ああ……恐らく……な」
しかし、そんな私の『当たり前』だと思った質問に、先輩は奇妙な反応を示した。
「恐らく……?」
「いや……実は、私も、両親も、雪華がどこでどうやって育ってきたかを知らないんだ」
聞き返した私に、先輩は少し後悔しているように告白した。
「――私が雪華と出会ったとき、アイツは家無し子だったのだよ」
(『家無し子』……って……写真の先輩、十歳くらいだよね? ……その前に出会ってたとしても十年くらい前までだろうけど……)
そんな、『家無し子』なんて存在が現代日本であり得るんだろうか?
(ああ……でも、おばあちゃんが私を引き取ってくれなかったら、私も家無し子になってたかもしれないのか……)
先輩の発言を否定的に一瞬考えてしまって。
すぐに自分も『一歩間違えればそうなっていたかも知れない』という事実に気がついて思い直した。
「――だから、私が知っているのは、アイツが名乗った『雪華』という名前と、アイツが『魔法使い』という事だけだ」
先輩が、その時の自分を責めるように、歯を食いしばっている。
(――多分、先輩、もっとちゃんと雪華さんのことを知っておくべきだったって考えてるんだろうな……居なくなった後に後悔する気持ち……少し、分かるかも)
そう思ってから、ふとした疑問が湧いてきた。
(雪華さんと、先輩が会えなくなったときってどんなだったんだろう……? 普通、引っ越したとかだったら、引っ越し先が分かるはずだし……)
あり得るとしたら、なにか事件に巻き込まれたか。
あるいは、それこそ『魔法』に関する何かか。
――でも、それを今の先輩に尋ねる勇気は、無かった。
(やっぱり……こんな話、興味本位で聞いちゃいけなかったんだ)
私に悟られないようにしているんだろう。
声は、なるべく変えないまま。
それでも、歯を食いしばりながら話す先輩は、今まで見たことが無いくらい悔しそうで……
――きっと、その雪華さんとの思い出は。
先輩にとってかけがえ無い思い出のはずで。
大切な宝物のはずだ。
それを不躾に、野次馬のように聞き出すのは、やってはいけない事だろう。
つい、『咲夜には話しておこう』という先輩の言葉に甘えてしまっていたのだ。
「その……先輩。ごめんなさい……込み入ったこと聞いてしまって」
「――いや、そんなに謝るような事じゃ無い。本当に。――昔、……そんな奴がいたというだけだ」
罪悪感に押しつぶされそうになりながら、私が謝ると。
ただ、先輩は寂しげに笑った。
しかし、すぐに何かを思い出したかのように。
先輩は、そのどこか沈んでいるような、影を感じる表情を。
ふっと静かに和らげる。
「――ああ、そうだ。――咲夜」
そのまま先輩が、急に真剣な声で。
私の名前を呼んだ。
(お、――怒られる!?)
――なぜか、そう思った。
真剣な、先輩の声に。びくっと身体が震える。
反射的に落とした視線の先で、湯飲みに入った緑色の液体が僅かに波紋を立て――揺れていた。
「――な、なんですか?」
――身をすくませるが、続く先輩の言葉はやってこない。
……一秒、二秒と時間が経っていき。
――耐えきれなくなって、ちらっと先輩の顔を盗み見た。
すると――そこにあったのは、優しげな表情の先輩だった。
唇を微笑するように緩ませ、私の事をじっとみつめている。
しかし、その目つきだけはただただ真剣だった。
「――咲夜。……君は、もう少しだけ。――落ち着いて、周りの事を見てみると良い」
(……周り……?)
先輩の言葉に、思わず部屋の中を見回す。
今も座っている窓際の椅子から見える光景は、さっき見てから何も変わらない。
いつもとは違う、旅行先の。
先輩と出かけた旅先の一室が見える。
――くっく、と押し殺した忍び笑いがが聞こえた。
笑い声を上げる先輩を見てみると、先輩は苦笑を浮かべている。
「……咲夜、なにも、今、『この場所』を言っているのではない。――ただ、月曜日。また、学校に戻ったら。――少しだけ頑張ってみろと言っているのだよ」
『学校』――それは、とても意外な言葉だった。
なぜ、今そんな事を言うのか?
頑張ってみろというのは、どういうことなのか?
頭の中を走り抜ける疑問に、一瞬だけ落ち込む気持ちがどこかに行った。
「……学校……ですか?」
「ああ。――世の中、意外な真実というものもある訳だ」
問い掛ける私に向かって、はぐらかすように先輩は笑った。
「……少しだけ、ほんの少しだけだ。勇気を出して、周りのことをちゃんと見てみると良い。……うちの学校は、割と真面目な人間が多くてな。――君を探している者も居るかもしれんということだよ」
(……探してる?)
――そんな人間、居る訳ない。
頭に浮かぶのは、金曜日の体育の時。
私の顔を見てしまったクラスメイトの表情。
放課後、私が教室を出た後、誰かが私の名前を口にする声。
先輩は、金曜日の一件を。
教室内で、皆がどんな風に私の事を見ているのかを知らないから。
――そんな事を言えるのだ。
……今まで、軽くだったら先輩にも話せた。
正直、先輩が居たから、もう、気にならないと思ってた。
――でも、教室で、皆から恐れられている。
――嫌われている。
そんな事実を改めて先輩に知られるかもと思うと。
今まで、当たり前だと思ってたことでも、この人だけには知られたくなくて。
「……はい」
話を終わらせるために、そう短く答えた。
***
自分の部屋に戻って、畳の上に敷かれた布団の上で、眼鏡を外して天井を見上げていた。
光源が、障子を通して入ってくる月明かりだけの青く暗い部屋の中で。
どこかで空調がうごいているゴウンゴウンという重い微かな音が聞こえている。
(――やっちゃったなぁ……)
さっきの自分のしでかした事を考えて、目を閉じて右腕を瞼の上に乗せて両目を覆った。
じんわりと腕の冷たさが、眼鏡を外した後の目の奥に染み渡っていくような感覚がする。
そうして真っ暗になった視界に。
さっきの寂しそうな。辛そうな。悔しそうな、先輩の姿が浮かんでいた。
(……さっきのは、やっぱり聞いちゃいけなかった。――私の馬鹿。本当、最悪だ)
――思い出すと、自己嫌悪が涙が出そうだった。
(なんで……あんな事聞いちゃったんだろう……)
普段なら聞いたら駄目だと分かったはずだ。
――いや、今日だって、本当は聞いたら駄目なことだって分かっていたのだ。
今までおばあちゃんと暮らしていた中でも、本当は気になっていることとか、聞きたいこととか、色々あってもちゃんと分別はつけてきた。
なのに、なぜか――今日の私は抑えが効かなかった。
(たしか……急にお凜ちゃんの顔を思い出して……胸のあたりがきゅってなって……)
今も思い返すと、背中から肩の辺りに、冷たい感覚と痛みが残っていた。
段々、体の奥が冷え切っていくみたいな……
(あ……)
その感覚を、ごく最近体験していた事を思いだした。
――恐怖だ。
(……私、さっき、お凜ちゃんを思い出して、凄く、怖かったんだ)
(――でも……なんで……?)
別に、お凜ちゃんが『なにかしてくる』事なんて無い。
そんな事は、いくら馬鹿な私でも分かってる。
でも、さっき、先輩と話しているのを見たときだけは、どうしようもなく『怖かった』。
(あの時、私、何考えたんだっけ……?)
あの時の自分の心の中に入り込み、考えれば考えるほど、ドクッ……ドクッ……と心臓の音が大きくなっていく。
(確か……お凜ちゃんが、うらやましいって……なんで? ――先輩と話してた――、でも、それで? あ、そうだ。確か、あの時、お凜ちゃんが先輩に笑ってて、先輩の方も、それに呆れたみたいに笑ってて、仲よさそうで、綺麗で……、それに、お凜ちゃんは、先輩が知りたい事調べる事も出来て……頼りになって……でも、私は――そんなの、できないから――でも、先輩しかいないから――)
――ああ、そうか。
ストンと、何かが収まっていくような気がした。
「……私、寂しかったんだ」
気づけば、それは言葉になって口から飛び出していた。
あの時、確かに私は怖かったのだ。
……先輩が、私のこと気にしてくれなくなるんじゃないかって。
――私の居場所が無くなるんじゃ無いかって。
私には、他に誰も、何も、居ないのに。
先輩が居なくなったら、またたった一人だけになってしまうかもしれないのに。
――そう……思ったんだ。
(だから、そんな先輩が知りたい事、ずっと興味を持ってることが知りたくて……)
「……最悪だ」
そんな完全に、言い訳もしようも無く。自分勝手な気持ちで。
他人の大切な思い出に、柔らかいところに、無遠慮に踏み込んでしまった自分が本当に信じられなくて。
(――こんなの、明日、どんな顔して先輩に会えば良いんだよ……)
気づいてしまった、傷跡なんかと比べものにならない自分の醜さに、部屋の暗がりに、溶け込んでしまいたかった。
――でも、そんな事出来るはずが無く。
ただ、私は暗い部屋の中で。
顔を覆い隠し、瞼の奥の暗闇を見つめながら。
浮かんでくる寂しそうな先輩の幻影と、自分の愚かさとに向き合いながら夜を過ごすのだった。





