第三話「先輩も、本を読むのは好きですか?」
学校が終わり、私は帰宅しようと町を歩いていた。
まだ、学校が始まって間もないというのに、同じ制服の生徒達が集団で、カラオケボックスや映画館、ゲームセンターへと遊びに入る姿を見える。
賑やかに、楽しそうに、青春らしい明るい未来を秘めて笑う姿に、入学初日から倒れて病院に運び込まれた自分を比較して『うらやましい』と思ってしまった。
何となく、いじけた気持ちを紛らわせるように制服のポケットに手を差し入れると、角張った固い感触があった。
……指先でつまんで取り出してみる。
――羊羹。
そういえば、先輩から貰った羊羹をポケットに入れたままだった。
羊羹の箱をもてあそびながら、今日出会った先輩を思い出す。
(――不思議な先輩だったけど、随分と人の良さそうな人だったな)
まさか、お礼に行った先でもらい物をするとは思わなかった。
胡散臭いなんて思ってしまった事に胸が痛む。
むしろ、無遠慮な突然の訪問にもかかわらず、わざわざ自分の勉強の手を止めてまで丁寧に対応してくれたわけだから、面倒見の良い先輩なのだろう。
入学式早々、町中で倒れてしまったことは情けないし、申し訳なくも思う。
だけど、顔に刻まれた火傷跡のせいで人と関わる事が苦手な私にとって、久方ぶりに人の暖かさを感じて、静かに心が弾む気がした。
胸の中に灯った小さな火を大事に抱きしめるように手元を見てみれば、羊羹の入った小箱がある。
(……そういえば、なんだかちょっとお腹が空いてきた気がする……)
ここの所あまり食欲もなかったのに、不思議な物だ。
――行儀が悪いけど――ここで頂いてしまおうか。
ふと思いついた考えに、『街中で、歩きながらものを食べるなんてはしたない』そんな葛藤を覚える。
でも、周りを見てみれば、ソフトクリームだの、クレープだのを持った学生が歩きながら頬張っている姿がある。
(少しくらい、歩きながらなにか食べても、許されるんじゃ……)
なんだか、せっかくほっこりと暖かくなった気持ちを無駄にするのがもったいない気がして、今、歩きながら頂き物を口にすることに決めた。
こそこそと周りを伺いながら、ドキドキと弾む心臓を意識しないように気をつける。
周りに人がいる中、歩きながら物を食べるという行為に、どことなく背徳感を覚えながら、羊羹の包みを丁寧に開けていった。最後の薄い銀紙を開くと、中から黒く艶やかな物体が姿を現した。
封が開いた事で、微かに和菓子独特の甘い香りが立って、その存在を強く主張していた。
(――ああ、これは確かに美味しそう……)
小さく口を開けて、端の方をかじり取った。
さくりとした心地よい弾力を感じながら噛みしめると、小豆の香りが鼻腔を抜けて、後を追うようにじんわりとした甘味が口内に広がっていく。
(うん――美味しい……)
うっすらと、口元が緩むのが自分でも分かった。
――別に、ここの羊羹を食べるのは初めてではない。
それでも、お腹が空いていたのか、今までに食べたことがないほど、蕩けるような美味に感じた。
二口目、三口目と、一口一口大切に羊羹を食べ進めていく。
……それでも、さほど大きなサイズではない羊羹だ。
食べ終わるのにあまり時間はかからなかった。
羊羹を食べ終えると、ほぅ……と満足感がそのまま形になったような息が自然と出てくる。
糖分を摂取したからか、先ほどまで妙にイライラとささくれ立っていた気持ちが落ち着いていくのが分かった。
――思えば、ここの所、本当に余裕がなかった。
落ち着いた頭で考えてみれば、いくら何でも、たかだか夢に追い詰められすぎだ。
久々の睡眠と、栄養源となる糖分を摂取して、ようやく少しずつ冴え始めた頭で反省する。
(いや、しかし、まったく、それもこれも、あの気持ち悪い夢が悪いんだ)
余裕が出てきたからか、さっきまでは怖がるばかりで縮こまっていた気持ちが、いつの間にかムカムカとした奇妙な夢への腹立たしさに変化していく。
そう。昨日は幸い、お昼から悪夢を見ずに眠る事が出来たが、それだってまたいつあの夢が始まらないとも限らない。
(ああもう! 本当に、一体なんで、どうしてあんな夢を見る羽目に……)
大体、あの夢は一体何なのか。
毎日毎日私の邪魔をするように不気味な夢ばかり。
ひょっとして、私の気づかないところで、『ストレス』という奴でも溜まっているんだろうか?
(――なら、なにか今日は嫌な事は忘れて、気分転換をするようにしてみようか)
今までは、『何か分からない怖い夢』だったものが、『自分のストレスが見せる夢』と考えたら、段々と怖くなくなってくる。
(よし、今日は久々にストレス発散してやる)
……とりあえずは――あそこ。
そう思って、私は目についた並びにある書店へと目標を絞り歩いて行く。
――そう。あの書店ならこの辺りで一番品揃えが良い。
欲しい本の一冊や二冊見つかるはずだ。
(――久々に、何か無性に本が読みたい)
元々、『本の虫』だとか呼ばれていた血が騒いだのか、書店に入る足取りは妙に浮き足立っていて、導かれるように私は歩みを進めていった。
***
鬱屈としていた気持ちを払いのけるように、しばらく鞄片手に店内を見回っていると、昔読んでいた伝奇物の続きを見つけた。
このシリーズは、出てくるキャラクターが生き生きと描写されていることで有名だ。
とても緻密に描写されたキャラクターはおどろおどろしい雰囲気にも関わらず、読んでいるとあたかも映画のように想像がかき立てられ、いつもワクワクする気持ちにさせられる。
その時の、現実と小説の世界が融合するような感覚が、たまらなく私は好きだった。
(――よし、買おう)
即決して、棚に出ていた続刊をすべて手に取り、レジに向かって歩き出す。
すると、レジへと向かう間に気になるコーナーの看板が目に入った。
『夢』
そう短く書かれた帯が貼り付けられた本棚には、黄色やピンクといった、色とりどりの書籍が並べられている。
――『夢を見る心理。』
――『夢は守護霊の警告。』
――『人は眠るとき世界とつながる。』
どうもその一画はオカルトじみた内容まで、夢に関する話題の本が集められているらしかった。
あまりにも自分にとってタイムリーな内容に、つい微苦笑を浮かべてしまいながらも、ついつい誘われるように書棚の前へと近づいていく。
(こういうの、普段はあんまり読まないなぁ……)
女性向けなのか、パステル調の派手な色彩をした書籍が並べられた空間に自分がいるというのが、なんとも言えず無性に愉快だった。
……よっぽど、今の私は参っているのだろう。
「――ん? ……その様子では、随分体調はよくなったようだな」
一人、本棚の前で自嘲に口元を歪めていると、後ろから呼びかけられた。
どこかで聞き覚えのある落ち着いた男性の声だ。
「え?」
開いていた本を勢いよく閉じながら後ろを振り返ると、そこに居たのは件の『穂積先輩』だった。
「奇遇だな。入学早々、参考書の買い込み……っというわけでも無さそうだな」
『夢占い』と書かれた間仕切りを見つめながら、先輩は柔和な笑みを浮かべている。
(――は、恥ずかしい……)
これはとんでもない失態だった。
なんとも夢見る乙女のような少女チックなコーナーで目撃されてしまったものである。
(――だいたい、この先輩も先輩だ)
……昨日倒れていた後輩が、寄り道しているのを見かけて心配になったのかも知れないけど、なにも声を掛けてこなくたって良いのに。
完全な逆恨みをしながら、持っていた本を両手で抱きかかえるようにして隠した。
「――せ、先輩!? あ、いや、その僕は――」
冷静に考えればそんな必要はないはずなのに、ついつい慌てて言い訳をしようとした私は、思わず最近は使わないようにしている僕という一人称を使い掛けた。
慌てて口を噤むが、そのせいで話しかけた途中で突然話を切り上げたようになってしまう。
「――ん? どうした?」
「……いえ。なんでもないです。ちょっと、気分転換でもしようかなと思って寄り道したんです。先輩も買い物ですか?」
案の定、不思議そうな顔をする先輩に、愛想笑いを浮かべて、本を抱きかかえたまま両手を体の前で振る。
何となく先輩の手元を見てみるが、本を持っていないところを見ると、何か購入した訳では無いようだ。
先輩は軽く後頭部を掻きながら、『ああ……』と軽く相づちを打つと、にこりとした笑みを浮かべた。
「今日、注文していた本が届いたと連絡があってな。その受け取りに来たのだが……しかし、昨日から、随分と縁のあることだ」
「そうなんですか……」
(……凄く綺麗に笑う人だな……しかし、縁なんて、やっぱりちょっと古風な話し方をする……)
にこりと笑った先輩は、『そういうこと』に興味が薄い私でも思わず惚れ惚れしそうなほど綺麗な笑い方だった。
あまりこんな風に純粋な笑顔を向けられた事のない私は、なんと返事をしたら良いかがわからなくて、ついつい素っ気ない返事をしてしまう。
「――そちらは、随分と買い込むのだな」
先輩が私の手元に目をやりながら、感心したように呟いた。
視線につられてみれば、そこにあるのは学校の制定鞄と、大量の先ほど手に取った伝奇小説達だった。
(しまった……一冊二冊ならともかく、十冊近く持っているのは流石に目立つよね)
いくらストレスがたまっていたからとはいえ、流石に大人買いが過ぎる姿を見られて、少々バツが悪かった。
「……なんだ『妖き語り』ではないか」
「――あ、先輩もご存じですかっ!」
しかし、先輩は特にそれ以上冊数に関しては言及せずに、私が買おうとしていたシリーズに目をつけたようだった。
どうやら先輩もこのシリーズを知っているらしい。
知名度を考えれば当然と言えるかも知れないが、自分の愛読していた小説を他の人も知っていたことに、仲間を見つけたシンパシーを感じてしまい、思ったより弾んだ声が出た。
「あ、ああ。――そうだな。初めからと考えれば、各巻十回は読んでる計算になる……のか」
(――十回っ!)
先輩は、何故かうんざりとした表情を浮かべていたが、それだけの回数読み返すって事は相当なファンなんだろうと予測がついた。
「先輩、この本お好きなんですね! 私もこのシリーズが凄く好きで……考察がしっかりされていて、物語に深みがあって――最近はあんまり読めて無かったんですけど」
「ふむ……確かに嫌いではないのだが……しかし、それで、その大量買いか」
ホクホクしながら本を掲げてみせると、先輩は鈍い笑みを浮かべた後、呆れたように力を抜いて笑った。
――あ、可愛い。
先ほど教室で『胡散臭い』と思った笑みや、さっき声を掛けてきたときに浮かべていた笑顔に比べると、その笑顔は人間味に溢れていて、先輩の元の顔の良さも相まって、可愛らしいという印象を抱いた。
「――最近、あまりよく眠れないので、夜の時間をつぶすのにもいいかなと……」
「……なんだ、眠れないのか? それはあんまりよろしくないな。本など読んでいては、かえって寝付けなくなるのではないか?」
「あ、先輩も本を読み始めると、中々眠れなくなる人ですか?」
世の中には、本を読み出すと興奮して眠れなくなる人間と、逆に猛烈な眠気に襲われる人間がいるらしい。
(――読書好きな私にとっては、眠くなると言うのは理解出来ないけど)
読めば読むほど先が気になって目が冴えてしまう私としては、本を読んでいて眠くなる感覚が分からない。
だが、私の場合は一人で音楽を聴いていると、眠くなったり、ついつい踊ってしまったりすることがあるから、そんな感じなのだろうと思って納得はしている。
「『先輩も』という事は、君も眠れなくなるクチか?」
「実は――……」
先輩が、心配そうにこちらを見つめながら、少し嬉しそうに聞いてくる。
(なんで、そんなに心配そうに?)
一瞬考えて、すぐに自分が昨日倒れているのを見られていたことを思い出した。
(ああ、『眠れない』なんて言わなかったら良かった。……そりゃあ、心配するよね)
倒れたところを目撃されている手前、バツが悪い気持ちで恐る恐る肯定すると、先輩も私の気まずさを感じ取ったのか苦笑を浮かべているだけである。
「――まあ、読書もほどほどに……だな」
「はい……」
結局、先輩はまるで夜更かしを咎めるおばあちゃんのような表情をうかべながら、やんわりと注意してくるのだった。
「――聞いて良いかが分からないのだが……なにか悩みがあるわけではないのだな?」
「あ、はい。別に悩み事とかは……」
しょぼくれた私を見かねたのか、心配そうに先輩が声を掛けてくれた。
……そう。別に悩み事はないのだ――眠ると悪夢を見るだけで。
それもある意味で、『悩み事』といえるのかも知れないが、別にそんな子供っぽい悩み。
家に帰って、布団に入って、ゆっくり自分ひとりで向き合うことだ。わざわざ他人様に言うようなことではない。
――ましてや、今日会ったばかりの先輩に相談するような事ではないはずだ。
「あ、でも……」
「『でも』?」
――そう思っていたのに、なぜか口は言葉を続けていた。
「あの……そ、その、夢が……夢見が……悪くて……っ…怖…ずっと……ぅぐ……」
(家に帰ったら、また独り、あの夢に挑まないといけないんだ……)
そう考えたら、昨日夢の中で私の腕を掴んだ腕の冷たさや、不快な触感が思い出されて、背筋の辺りに冷たい何かがぞわぞわと這いずり回りはじめた。
体の手先が冷たく、力を失っていき、手に持っていた本が思わずばらけてしまいそうになる。
「お、おい……? ど、どうした? 泣いているのか?」
霞んでしまった視界の中で、先輩が慌てた様子で視線を合わせようと少しかがんでみせた。
(そりゃそうだ。慌てるに決まってる。目の前で突然泣き出したんだから)
でも、もうずっと押さえこんでいた反動みたいに、目からは勝手に次々涙がこぼれ落ちてきて、それが余計に悔しくて。
――ぽた、ぽたと水滴が床に向かって落ちていく。
「……とりあえず、こっち来い」
「あ、その……大丈夫、大丈夫……っつ」
「はぁ……その状態はどう見ても『大丈夫』ではなかろう……とりあえず若い娘が人前で泣いて崩れた顔を晒す訳にもいかん。……こっちだ、着いて来ると良い」
先輩は、私の手の上に積み上げられた本を、涙で濡れる前に手早く取り上げると、元の棚に戻して私の手を引いて歩き出した。
――私の手首を掴む、大きな手の温かさを意識すると、止めようとしていた涙は余計に流れて止まらなかった。