第六話「先輩、『心づけ』って物ですか?」
バスに揺られることおよそ一時間、それまでの山道がぱっと拓けた。
――山間に広がる町を染め上げるように、無数の桜が咲き誇っている。
風が吹く度に大ぶりな桜が揺れて、ざわざわと白雪のように辺りに花びらを散らしている。
そんな幻想的な風景を日常世界から区切るように、道路をまたぐように巨大な鳥居がかかっていた。
「――なるほど。これは確かに見事だ」
頭の上を通り過ぎていく鳥居を、窓にもたれかかるように見上げていると、先輩の声がすぐ耳元で聞こえた。
気がつけば、先輩も景色をよく見ようと私の方に身を乗り出し、私の顔のすぐ近くの窓枠に手をついている。
「咲夜が勧めてくれるのもよく分かる。これは確かに少々遠出した甲斐があるな」
「――そう言って貰えて……よかったです」
先輩がいう言葉が妙に深く響いていて、本心から褒めてくれているのが伝わってきた。
自分が紹介したところが褒められると、まるで自分が褒められているような気がして嬉しい。
(ほんとに、昔見たまま、変わってないな……)
……昔ここに来たときは、おばあちゃんもまだ元気だった。
もう、おばあちゃんとここに来ることは出来ないけど、それでもこんなところまで今は一緒に来てくれる人が出来た。
もう一度、そっと、先輩に視線を向ける。
すぐ目の前にある引き締まった横顔が、子供みたいな無邪気な様子で窓の外を見つめている。
金色の瞳に、窓の向こうの景色が流れて行き、そこには嬉しそうな自分の顔が微かに写っていた。
「……ありがとうございます」
すぐ近くにいる先輩に聞こえないように、口だけを動かして小さく私は呟いた。
***
「――それで、咲夜。この後君はどうするのだ?」
町の中心にある旅館に、先輩と二人ならんでチェックインしていると、先に書類を書き終えたらしい先輩が荷物を手に持ち直しながら聞いてきた。
「そうですね。私は、この後部屋に荷物を置いたら、神守の使用人がここまで迎えに来てくれる予定です。あと……十五分くらいですね」
携帯電話を引っ張り出しながら時刻を確かめると、予定の時間がだいぶ差し迫っていた。
予定通りとは言え、随分余裕のない時間だ。こういうとき、手紙しか連絡手段が無いというのは本当に不便だ。
(……電話くらい出来たら良いのに……)
「なるほど。ならばあまり時間は無いということだな。早々に部屋に荷物を置きに行くとしようか」
「はい」
二人で仲居さんの案内に従って旅館の中を進んでいく。
こっちに来たときはいつも神守の家に泊まっていた私は、外観だけは何度も見かけていたが、初めて見る内部は思ったよりも現代風な造りになっている。
先導する仲居さんは、『観光ですか?』と丁寧でありながら、随分気さくな様子で私達に話しかけてくれた。
「どうぞ」
そのうち、エレベーターに乗り込む段になり、仲居さんにの奥へと案内される。
……一瞬至近距離に仲居さんがくることに、傷跡が見られるのでは無いかと不安を抱いた。
思わず。前髪に触れてちゃんと傷跡が隠れているか確認する。
しかし、偶然なのか――先輩がするりと上手い具合に身体を滑り込ませ、私と仲居さんの間で視線を遮った。
驚いて先輩の方を見上げると、先輩の視線が一瞬こちらを向く。
しかし、先輩は微かに肩をすくめ、すぐに視線を仲居さんの方に向けると世間話を再開した。
……なぜか、先輩がこっちに視線を向けた瞬間、緊張したように全身に力が入り強張った。
(あ、あれ……?)
よく分からない感覚に首を傾げながら、到着した階の廊下を歩いて行く。
すると、すぐに目的の部屋についたらしい。
仲居さんが立ち止まり、こちらを向き直る。
「こちらのお部屋とこちらのお部屋。お隣の部屋でご用意させて頂いております。お部屋はオートロックになっておりますのでお気を付け下さい」
そういって、仲居さんが部屋の鍵を二本差し出してきたのを先輩が受け取った。
「それでは、ごゆっくりお過ごし下さい」
仲居さんは丁寧な仕草で頭を下げた後、しずしずと下がっていく。
「――先輩、どっちの部屋が良いですか?」
「――君が、好きな方を選びたまえ」
二人そろって、細長い鍵二本を前に譲り合う。どうやら考えることは一緒だったらしい。
……隣り合った部屋だから、特になにか景色が違うという事も無いはずだ。
「――どっちでも良いですね……」
「……私もだ」
私も先輩も思わず苦笑する。
エレベーターの中から続いていた緊張が、一気にほぐれて行くのを感じる。
結局先輩の手の中から特に部屋番号を気にせずに鍵を抜き取った。
「どうする? せめて見送りくらいはさせて貰いたいが?」
「ええと……それじゃあ、先輩、また荷物を置いたら合流で良いですか?」
「ああ。分かった」
お互い、短く告げて部屋の中へと入っていく。
部屋に入った瞬間、畳に使われている藺草の爽やかな香りが漂っていた。
思っていたよりも部屋の中は広く、奥に面した大きな窓の向こうには、立ち並んだ桜並木が見えた。
(うわっ……凄く良い景色だな……良い部屋だ)
きっと、隣に入っていた先輩にも、同じ光景が見えているのだろう。
(――と、いけない。時間が無いんだった)
束の間、窓の向こうに広がる景色に目を奪われたが、時間が無いことをすぐに思い出して、そそくさと部屋の隅に荷物をまとめると部屋の外に出――ようとして、旅行鞄が目に入った。
(――あ、仲居さんに渡そうと思っていた菓子折、渡し忘れてた……)
慌てて、鞄の中から神守に持って行くための菓子折と、旅館の仲居さんに渡そうと思っていた菓子折を取り出した。
そして、今度こそ扉を開けて部屋を出る。
――「「バタン」」
扉を開ける音が二重に重なった。
――驚いて横を見ると、同じように扉から頭をのぞかせた先輩の顔がある。
先輩も驚いたようにこちらを見つめていた。
「――奇遇だな」
「――ですね……」
お互い、妙に気まずい笑顔を浮かべながら廊下に滑り出て近づいていく。
「桜、見えましたか?」
「やはりそちらも見ていたか。いや、本当に良いところを紹介してくれた」
先輩と二人、廊下を部屋から見えた爛漫な景色について、今度は会話の華を咲かせながら歩いていく。
「――咲夜はどれくらいで戻ってくる予定なのだ?」
「どれくらいか、正直あんまり……ただ、一時間くらいで話が終わったとしても、八時頃になると思います」
そもそも、今回呼ばれた理由もまだ分かっていないのだ。
正確な時間が何時頃になるのか、正直予想がつかなかった。
(……流石に何時間も話し合うことになるとは思わないけど……一応、昨日の手紙に、友達と一緒に行くって書いておいたし……)
「そうか。ならば、夕食は少し遅い時間になってしまうかもしれないな……仲居さんには軽食が準備できるか聞いておこう」
先輩が時間の読めない私に気遣って、そんな風に言ってくれる。
(夕食……そういえば、一緒に食べられるのかな?)
今日のお昼を途中で一緒に食べたときの事を思い出しながらそう思った。
誰かと一緒に食べるちゃんとした食事は――正直とても美味しかった。
また、あんな風に笑いながら食べたいなと思うと同時。
先輩を待たせてしまったら申し訳ないという気持ちが一緒に去来してくる。
「ありがとうございます……その、私が遅くなりそうなら先に食べてて下さい?」
結局、先輩に気遣いさせないように、そういうと先輩は『何を言っている』とでも言いたげに軽く鼻で笑った。
「――一人で食べるよりも、咲夜が一緒にいて食べる方が美味しいに決まっているだろう。流石に、咲夜が戻ってくる前に先に食べ始めたりはせんよ。……まあ、その分できれば神守の家では食事をせずに戻ってきてくれるとなお嬉しいが」
『その場合は、満腹の君の隣で結局一人寂しく食事という羽目になる』と肩をすくめながら最後は冗談めかして先輩は笑う。
――思わず、私が満足そうなに寛ぐ隣で、先輩が仏頂面でおにぎりを頬張っている姿を想像して――
「……っく」
「――何を君は笑っているのだね? ずいぶんじゃないか?」
つい、抑えきれなかった笑いが喉を鳴らすと、先輩がじとっとした目線をこちらに向けた。
「す、すみません……でも……想像したら可笑しくて……」
「……そう思うのなら、そうならないようにしてくれよ?」
「分かりました。それじゃあ、その間先輩はここの温泉とか入ったりして時間をつぶしておいて下さい。まだしばらくはこの辺りのお店もやってるはずですから、観光も良いと思いますから」
「……いいだろう。羽を伸ばして過ごさせて貰おうか」
こちらをじとっとした目で見つめてくる先輩に、私も笑いながら答えた。
そうこうしているうちに、もう玄関先だ。
「あ、そうだ。――先輩、申し訳ないんですけど、これ、さっき仲居さんに渡し忘れてて……」
旅館を出る直前に、手に持っていた紙袋を先輩に向かって差し出す。
中身は、さっき仲居さんに渡し忘れていた菓子折だ。
「……なんだ。君もか……実は私もうっかりしていてな……おそらく、後で挨拶に来るだろう。その時、一緒に渡しておく」
「ありがとうございます」
どうやら、先輩もなにか心付けを渡そうと準備していたらしい。
苦笑しながら、受け取る先輩を見ながら、ひょっとすると先輩も緊張しているのかもしれないと思って、少しほっとした。
旅館の自動扉を抜け、一歩外に踏み出したところで周りを見てみると、黒塗りのセダンが一台ちょうどこちらに向かってくるのが見えた。
ホテルのある通りに面して営業している、写真屋らしい緑色の看板のついたお店の前を通り過ぎて、そのまま、旅館の正面玄関にぴたりと自然な動きで停車する。
助手席から、パンツスーツ姿の女性が姿を現した。
「――神宮咲夜様でいらっしゃいますか?」
「ああ、はい。神守の方ですか?」
「お待たせいたしました。凜様よりお迎えを仰せつかりました。どうぞ」
そういって、恭しい動作で女性は後ろの座席の扉を開いてくれる。
(――な、なんだか緊張するな……嫌な奴になった気分だ)
年上の女性にこんな対応をされると、悪い事をしている訳でも無いのに、罪悪感に襲われる。
もう、この時点で明らかに神守の家が私と住み世界が違うのがよく分かるというものだ。
「――せ、先輩。その……っ、――行ってきます」
「ああ。行ってらっしゃい。気をつけていくんだぞ?」
そんな事はないのだろうが、微動だにしない女性の姿に『早く乗れ』というプレッシャーを感じて緊張しながら、後ろを振り返り、先輩に別れを告げる。
すると、先輩は優しく、家族のような笑みを浮かべながら送り出してくれた。
私は意を決して黒塗りの高級車の後部座席に乗り込んだ。
(――よし。それじゃあ、早く用事を済ませて、戻ってこよう)
音もなく閉じられた扉の向こう側。
ゆっくりと走り出す窓の外で、こちらに向かって軽く手を振る先輩の姿が、だんだんと遠く小さく消えていった。
***
一時間弱ほどの間、異常に振動が少ない車の座席に体を預けていた。
移動中の車中、せめて世間話の一つでもしてくれれば良いのに、前に座る二人組は一言も言葉を発さない。
(き、気まずい……確かに乗り心地は良いかもしれないけど、居心地は最悪だよ……)
さっき、山を登るときに使ったバスの方がよっぽど居心地は良かった。
――それは、主に隣に座る先輩との会話が楽しかったからかも知れないけど。
どちらにしても、まるで置物のような運転手と助手席に座る女性の二人組と密室空間に閉じ込められているのは、ぎりぎりとやすりで何かを削られていくような気分にさせられる。
……特に、この辺りの風景は、どうしても嫌な記憶と直結しているせいで、余計に一人取り残されているような気がした。
(……迎えに来て貰ってるのに、そんな事を考えたら失礼か)
そう思いながら、胃の辺りに手を当てていると、いつか見た光景が窓の外に見えた。
――山中に突然現われる巨大な鳥居。
それは麓の町の入り口にあったものより数段大きい。
その向こうに見えるのは、『屋敷』という言葉が示す通りの巨大な日本家屋。
まるで古い城のように周りを高い壁に覆われて、その屋敷はあった。
先輩が今住んでいる旧園田邸もずいぶんなお屋敷だが、この屋敷は比較するのもおこがましいほどの広大な敷地だ。
鳥居を車でくぐり抜けると、私達を迎え入れる巨大な門の周りには、客人を歓迎するように大ぶりな枝の桜が咲き誇っている。車が門に近づくと、勝手にその扉が開いていった。
そのまま、車は止まること無く屋敷内へと進入していく。
しばらく走ると、車は一つの建物の前で停車した。
建物の前では、すでに何人もの使用人の方々が待機している。
「足下にお気を付け下さい」
助手席を降りた女性が、後部座席の扉を開き私が座席を降りるのを手伝ってくれる。
踏み出すと、シャリと美しい石が敷き詰められた地面がきしんだ音が聞こえた。
「ご案内いたします」
女性は私が降りるのを確認すると、ゆったりとした歩きで私の前を歩き始めた。
どうやら、お凜ちゃんのいる場所まで案内してくれるらしい。
「どうぞ、そのままで」
靴を脱ぎ、履き物を揃えようとすると、玄関先で立っていた女性の一人が声を掛けてきた。
(げ、下足番……?)
昔来たときは特に意識していなかったけど、やっぱりとんでもない所に来てしまったと思う。
(……和式のマナーとか、全然分からないよっ!?)
なんで自分の親戚の家に来るのにこんな変な緊張をしなくてはいけないのか。
動きの一つ一つがおかしくないか、妙にギクシャクした動きになるのを気にしながら廊下を歩いて行く。
「奥で凜様がお待ちです」
そう言って、『失礼します』と一声掛けると、女性は膝をつくと襖を開いた。
「――ああ。咲夜ちゃん久しぶりやなぁ。えらい遠から来てもろて悪かったわ。――まあ、入ってきてよ?」
開かれた襖の向こうから、妙に年寄り染みた話し方の、幼さを多分に含んだ、あどけない声が掛かった。
「――お凜ちゃん……久しぶり」
女性が開いた襖の奥――薄暗がりの部屋の中に。
――美しい日本人形のような少女の姿があった。





