第四話「先輩、運動するのは好きですか?」
――バシンッとボールが跳ね回る音が響いていた。
今は金曜日。昼食後すぐの時間割だった体育の授業も、もはや終わろうとしている。
最後のチーム同士が試合をするのを、残った皆がコートの周りに集まって観戦していた。
クラスメイト達は、普段の授業と違って体を動かしていたからか、比較的落ち着いて授業を受けることの多いこの学校の生徒にしては、妙に興奮したように楽しそうに笑い合っている。
――どうやら、やはり私の知らないところでグループがほぼ出来上がっているらしい。
即席で組むことになったチームメイト達も、思い思いのクラスメイトと一緒に座り込んで話し込んでいた。
……だから。そんな中、私は憂鬱な表情で一人座り込んでいる。
(……なるべく、見られないようにはしたけど――やっぱり、どうしても見られるよね……)
周りのクラスメイト達は、さっきからちらちらとこちらに視線を向けていた。
まあ、元々普段から、いくら髪の毛で隠しても、間から少しだけ痣のように火傷跡は見えている。
ましてや、体育のように跳んだり跳ねたりとなったら、傷跡をどうやっても隠しようが無い。
私が何回目かのアタックを決めたときに、周りにいたギャラリーから『きゃっ』か細い悲鳴が上がっていたから、見えてしまったのは間違いないだろう。
(せめて、後ろの方なら良かったのに……なんでよりによってアタッカーなんて……一番ジャンプしないといけない場所じゃ無いか……っああ……教室に戻るの嫌だな……ッ駄目だ。――大丈夫。明日は旅行。だから、楽しい。……大丈夫)
何度も見てきた、教室中の視線がこちらを向いてひそひそと聞き取れない声が響く光景を考えて、落ち込む気持ちを明日からの旅行の事を考えて紛らわせながら耐え続ける。
そうこうするうちに、ピーと試合終了のホイッスルが鳴り響き、最終試合が終わった。
名前を覚えていない子達が、お互いにハイタッチをしながら勝利を祝っている。
授業で使った道具を片付けるために、皆が集まり始めた。
私も、手近にあったボールをいくつか手に持って籠に戻していく。
試合をしていた子達は、コートを区切っていたネットを片付け始めた。
バレーボールの後、一番厄介になる太い金属製の支柱は、数人の女子がワイワイ騒ぎながら床から引き抜いているようだ。
――っと、その支柱がぐらりと揺れた。
「――きゃぁっ!」
(あぶなっ――ッ!)
女子の悲鳴が響き、瞬間、慌ててそっちの方を注視すると、世界が静止したようにゆっくりと見えた。
――どうやら、持ち上げていた女子が不意にバランスを崩したらしい。
支えていた鉄柱が、大きく揺れて倒れていく――
そして、その先には随分小柄でぼさっとした髪の毛をした大人しそうな子がいた。
このままだと――ッ、あの子に支柱が勢いよくぶつかる――ッ!
一瞬で鉄柱の重さを思い出した私は、とっさにその場で少女に向かって走りだした。
昨日、――散々走り回ったおかげか、私の足は普段よりも速く回ってくれた。
(――間にッ――ッあえええええええッ!)
鉄柱が倒れ、少女に向かって迫り来る中、ぎりぎり私は呆けていた女の子の腰の辺りをひっつかみ、勢い任せに体育館を転がった――ッ!
そのまま、体育館の床に女の子を抱え込んだまま倒れ込んで、ぼうっと天井からつり下がっている水銀灯を見上げた。
板張りの床を、ナイロンで出来た体操着で転がったせいで、地面と触れるばしょが摩擦熱で熱かった。
「はぁ、はぁ……っ痛った…… ――大丈夫?」
地面に転がった拍子にぶつけたらしく、じんじんと痛む後頭部を押さえながら、腕の中の女の子に声を掛ける。
「――??」
だが、女の子の方は、一体何が起こったのか良く理解出来ていないらしい。
体を硬く縮こませたまま、身動き一つせずに目を白黒させている。
「――ちょっと、貴方たち!? 大丈夫!?」
いち早く立ち直ったらしい体育教師が、焦った様子で叫びながらこちらに向かって駈け寄ってくる。
その声を切っ掛けに、周りの生徒達も徐々に立ち直り始めたらしい。
ざわざわと興奮した声が波を打つように広がっていく。
あわせて、パニックに陥ったような女子生徒の悲鳴も聞こえ始めた。
「――あ、神宮……さんでしたか? その、ありがとう……ひっ!」
自分の足先で倒れている鉄柱を見ていた女の子が、私の方を向きながら御礼を言いかけ、その表情を固まらせた。
(――しまったッ!)
その反応だけで、すべてを悟るのに十分だった。とっさに自分の顔に手を当てる。
――やっぱりだ。
仰向けに彼女を抱きかかえる形になったため、完全に髪の毛が垂れて顔の火傷が露出してしまっている。
腕の中で顔を恐怖に引き攣らせた女の子が、私から逃れるようにぱっと飛び退いて尻餅をついた。
(――やっぱり、これが普通の反応だよね……)
仕方ないと思いながらも、少しだけ――いや、かなりショックを受けている自分がいた。
先輩が、私の傷跡を見ても全然気にしないから、心のどこかで少しだけ期待してしまっていたのかもしれない。
(――だいじょうぶ。いつも通り。いつも通りなんだから)
自分に言い聞かせながら、怯える女の子を刺激しないように気をつけながら、前髪をさっと下ろしながら立ち上がる。
(――早く、明日、来ないかなぁ……)
ぼうっとする視界の中、こちらに困惑顔に微かに怒りを滲ませて近づいてきた先生の姿を見て、なぜだか無性に先輩に会いたいと思った。
***
……やはり、体育の時間は注目を集めすぎたらしい。
体育の後の更衣室では、私の周り半径二メートルに誰も近づいて来なかったし、教室に戻ってからも、四方八方からこちらを伺うような視線を向けられて、針のむしろのようだった。
助けたあの子も、あの後私の方をちらちらと見てきていたが、よっぽどさっき見た物が怖いのか、視線が合いそうになるとすぐに目を背けてしまった。
どうにかその日の授業を乗り切り、終礼が終わると、私は逃げるようにまとめた荷物を持って教室を出て行った。
私が教室を出ると『神宮さん』という単語が教室の中から聞こえてきていたから、私の噂話が始まっているのだろう。
(……大丈夫……大丈夫)
また――呪文のように心の中で言い聞かせる。
……別に、私だって好きでこんな見た目になったわけじゃない。
もうどうにもならにという諦めはついている。
私は、これからもずっと、この呪いとは付き合っていかないといけないんだ。
――そう思っても、だけど、やっぱり……どうしても、目頭が熱く痛んでしまうのが押さえられないのだった。
「……穂積…先輩……」
「――なんだ?」
ぽつりと、無意識に口から出てしまった言葉。
すぐに、その場の春の風に運ばれて消えてしまうはずだった助けを求める声に、後ろから答えが帰ってきた。
「――え?」
潤んだ瞳を拭うのも忘れて、言葉に引き寄せられるように後ろを振り返る。
すると、そこには心配そうにこちらを見つめる見慣れた先輩の姿があった。
「……名前を呼んだのは君だろう? なにをそんな幽霊にでも出会ったような顔をしているのだ」
「どう……して?」
「いや、級友と遊んで帰るかと話していたところに、前に君の姿があったので挨拶でもと思って近づいたのだが……名前を呼ばれてな。むしろ、こちらこそどうしてと聞きたいのだが?」
「あ、その……」
よく見てみれば、困惑した顔をした先輩の後ろには、先輩の友達らしき二人組の姿が見える。
短髪の厳つい見た目の男性と、線の細い印象の幼い男の子だった。
二人とも、先輩の後ろから心配そうにそっと顔を覗かせていた。
「あ……ごめんなさい。なんとなく、先輩の名前、読んじゃって……」
「『なんとなく』……か」
本当に、自分でもなんで口にしたか分からなかった。
ただ、本当につい口に出してしまったのだ。
「……すまない。元彦、翔。――今日の予定はまた後日にして貰えるか?」
「おう。いいぞ」
「――今度埋め合わせはちゃんとしてよね?」
「恩に着る」
(――え? え?)
先輩が、友達に謝罪すると二人とも先輩に笑ってバシバシと背中を叩いた後、さっさと坂道を降りて行ってしまう。
「あ、あの……先輩! お二人帰っちゃいますよ!?」
「ああ。そうだな――帰るか。咲夜」
そういって先輩は、笑いながら振り向き歩き出した。
その速度は、先に行った二人に追いつこうとするような速度ではなく、ゆったりと私に合わせるような速度で……
(一緒に……帰ろうって事? でも、予定があったんじゃ……?)
「その……良いんですか?」
「――そのために二人には帰って貰ったのだから構わんよ。それともなにか? 君は迷惑だから私に一人で帰れというのかね?」
「そんな事ないです!」
肩をすくめながらいじけたように言う先輩の言葉を慌てて否定する。
歩き出した先輩に向かって、少し駆け足で近づいて追いつく。
「あ、あの……ありがとうございます」」
「ふむ。明日の確認をする意味でもちょうど良いからな。――咲夜も、なにか私に用があったようだからな」
(……別に、なにか用があったわけじゃない。さっき言った通り、ただ、何となく先輩の名前を呼んじゃっただけなんだ……)
先輩は、なにか私が重要な用件を秘めているみたいに考えているみたいだけど、本当になにも用件はない。そう。さっき考えてたのは、その前のクラスメイト達の反応を見たからで、その時に思ったことが頭をよぎっただけで。
……頭によぎったのは――そうか。
「……ただ、『先輩に会いたいな』って思ったんだ」
「……これはまた、随分といじらしい事をいってくれるな。……どうした?」
言われて、ついつい考えていた事を口に出していた事に気がついた。
先輩は虚を突かれたように驚いた顔をして、優しげな笑みを浮かべた。
「え? ――あ! っ、その、今の、違った……! 違いますっ!」
無意識に考えていた事を口にしてしまった恥ずかしさに、かあっと顔が熱くなるのを感じながらぶんぶんと首を振った。
髪の毛が舞い上がるけど、なぜかそれが全然気にならない。
そんな私に、先輩は優しげだった笑みをいつもの意地悪なにんまりとしたものに変えた。
「――くっく……良いだろう良いだろう。――可愛い奴め。会いたかった『穂積先輩』に存分に甘えると良い」
「――だからっ! その、違っ、違うんです! 聞いて下さい!」
さも愉快だというように笑う先輩に、思わずしがみつきながら、必死で訂正しようとする。
すると、必然的に先輩との距離が近づいて、ニヤニヤしている先輩の顔がしっかりと目に入った。
(――あれ? 先輩、少し顔が赤い?)
「――分かった分かった。釈明くらいは聞いてやろう」
先輩は変わらずに笑いながら、私をやんわりと引きはがした。
じっと、その先輩の顔を見てみると、やっぱり少しだけいつもより顔が赤いように見えた。
(先輩……ひょっとして、照れてる? そういえば、少しいつもよりテンションも高いような……)
もしも、照れているのだとしたら、先輩も予想外の言葉に面を食らったのだろう。
(それでも、なんだかんだで誤魔化しながらなにがあったのか、私から聞き出そうとしてくれてるってことか……)
そう思うと、やっぱり先輩の気遣いが感じられて、急に胸が熱くなるのを感じた。
――なんだか、もうさっきまで沈んでいた気持ちも、どこかに行ってしまって、さっきとは別の原因でじんわり瞳が潤んだ。
「――先輩、やっぱり、今の、違いません。……明日の旅行、楽しみですね!」
「あ、ああ……」
満面の笑みを浮かべているだろう私の脈絡も無い言葉に、先輩は戸惑ったようにそっと視線を背けるのだった。
そして、『この話はもう終わりです』という私の心の声を読取ったように、先輩はこの後もう無理に何があったのか聞き出そうとはしなかった。
そうしてそのまま、暖かい気持ちを抱えたまま、夕暮れの町の中を先輩と二人、明日の予定の再確認をしながらゆっくりと帰っていった。
もう、心の中のもやもやはどこかに綺麗さっぱり消えてしまっていた。





