第二話「先輩。心の準備ってものがあるんです」
電話だから、別に見られる訳でも無いのに。
何となく前髪を引っ張りながら、先輩に繋がるボタンを押した。
カコンという軽い感触と共に、あっさりと携帯電話はプップップ……と途切れた呼び出し音を立てている。
「――どうした?」
(――早っ!?)
プルルルという本格的なコールが始める前に、携帯電話からは低い男性の声が聞こえてくる。
心の準備が十分に出来ていなかった私は、なぜか妙に焦って、とっさに携帯電話を一度顔から離してしまった。
「……咲夜?」
返事がない事を訝しむように、不思議そうな先輩の声が私の名前を呼んだ。
声がうわずらないように注意しながら、早く返事をしなければという焦りを押さえ込んで返事を返した。
「――あ、は、はい。先輩」
「ふむ……ちゃんと繋がっていたか。電話が切れたかと思ったぞ」
あまりに早かった応答に――ひょっとして、なにか電話をしている最中だったのでは無いかという想像が脳裏をよぎった。
もし、なにか取り込み中の邪魔をしてしまったのだったら申し訳ない話だ。
「すみません。ひょっとして、今電話まずかったですか?」
「いいや。大丈夫だ。今は……少し夜風に当たりに外に出ていたところだ。もう降りる」
(――降りるって、どこかに昇ってたのかな?)
良く聞いてみると、電話の向こうでは微かに風の音がしている。
少なくとも、家の外に出ているのは確からしい。
「――よし。降りた。大丈夫だ。何かあったのかね?」
一瞬の沈黙の後、すぐに落ち着いた様子の先輩の声が聞こえてきた。
俄に、ついさっき思いついた提案をする緊張から携帯電話を持つ手に力が入った。
「あ……すいません。実は、土曜日の事で……」
「やはり花見の件か。どうした?」
先輩は、どうやら私から電話があった時点で、花見の事かも知れないと推測していたようだ。
案の定と言った様子で先を促してくる。
「その、先輩の教えてくれた場所には行ってみたいんですけど、もし先輩さえよければ、今回は別の場所に出来ないかなと思いまして……」
「ほう。どこかおすすめの見所でもあるのかね?」
ついつい勇気が追いつかず、持って回った言い回しをする私の言葉に、意表を突かれた様子で先輩は面白がるように聞いてくる。
――どうやら、私が提案する場所というのには興味を持ってくれたらしい。
「――その、実は、神守の実家の近くなんですけど……」
「……ふむ。なにか、事情がありそうだな。そちらに行った方が良いか? 五分貰えれば大丈夫だが?」
「――ええっ!? そんな、悪いですよ」
私が、『神守』の名前を出した途端、先輩は急に真剣な声音に戻り、うちに来ようかと言った。
でも、こんな時間に先輩にわざわざうちに来て貰うというのは、先輩を使いパシリにするようで、なんだか気が引ける。
慌てて遠慮させて貰うと、どこか笑いを含んだ軽い口調が返ってきた。
「なに、どうせ外に出ているついでだ。別に遠い距離でもなし、電話しているよりも会って話す方が早かろう」
「――良いんですか?」
電話から聞こえてくる先輩の声は随分と乗り気のようだった。
その声に、申し訳ないと思いつつも、電話で話すよりも早いというのも分かる私は、恐る恐る聞いてみる。
「構わんよ。まあ、時間も時間だ。もし、君の方がなにか障りがあるなら止めておくが?」
「いえ。私の方は大丈夫です。それじゃあ、五分後ですね」
「ああ」
こちらの都合を気遣う先輩に感謝しながら、特に問題が無いことを伝えた。
――なにせ、もともと今日は寝るだけだったのだ。特に予定や用事はなにもない。
だが、先輩がこれからうちに来ると思うと、妙に気分がそわそわした。
携帯を握っていない方の手で、まだ微かに水気のある髪の毛をぺたぺたと撫でつける。
――そうしていると、ふと、服の袖口が目に入った。
「――っ! 先輩ッ! やっぱり十分後でお願いしますっ!」
(――あ、危ない。私、今部屋着だったんだ)
慌てて、電話に向かって叫んだ。
電話の向こうでは、ごそごそとちょうど電話を切ろうとしていたらしき気配がする。
「ああ。承知した。十分後だな。ゆっくり向かおう」
先輩は、そう言って今度こそ電話を切ったようだ。
ツーツーという、電子音が携帯電話から流れている。
一瞬、ほっと息をつき――すぐに自分の服と家の中を見回して、気を引き締め直した。
(せ、先輩が来る前に、とりあえず着替えないと――ッ! 散らかってる所は無かったよね? 今朝靴から払った泥は綺麗にしてたっけ!?)
バタバタと慌ただしく、私は先輩を迎え入れる準備をするのだった。
***
「――夜分遅くお邪魔すっ……なぜ、君は制服なのだ?」
「い、いや……その……色々ありまして……」
玄関先で出迎えた先輩は、開口一番不思議そうな顔をしながらもっともな質問をしてきた。
結局あの後、玄関と応接室に汚れがないかチェックした私は、なにか着替えをと考えた結果、目についた制服のスカートとブラウスを着込んだのだった。
(――とっさに、人に見せても大丈夫な服が思いつかなかったんだから、しょうが無いじゃ無いか……)
そう思いはするが、冷静になって考えれば、別に家の中だし、その辺りに買い物に行くときのような格好で良いはずだ。
ある意味パニックに陥っていた私は無難なチョイスをしたつもりで、際物なチョイスをしてしまっていた。
そんな私とは対照的に、先輩の方は、制服から着替えたラフな格好をしている。
制服姿の先輩しか見たことの無かった私には、初めて見る先輩の私服姿が妙に新鮮だった。
普段街中で見かける人と変わらないはずだが、『自分の家の中』にいるのがどうにもくすぐったい気がして――なぜか、先輩の方をじっと見ていられなかった。
「――分かった。入浴を済ました後のように見えてな。少々気になっただけだ。詳しくは聞かないでおこう」
「……すみません」
(……そんな察したように目をそらさないで!?)
何となく、先輩は分からないなりに、大体の事情を察したようだ。
じっと私の濡れた髪の毛を見ていた先輩がそっと目線を逸らしている。
「と、とりあえず、先輩。こっちにどうぞ」
玄関の隣にある応接間の扉を開けて、先輩を中に案内する。
「ああ。失礼する」
気を取り直したらしい先輩は、一言断わると玄関口に膝をつき、脱いだ靴を揃えて、応接室の中へと入っていった。
「どうぞ、奥に座って下さい。今、お茶入れてきます。あ、コーヒーか紅茶の方がいいですか?」
「いや、こんな時間だ。気遣いはいらんよ」
「そ、そうですか……」
(確かに……あんまり長く引き留めちゃったら悪いよね?)
窓際の時計を見て、思っていたよりも遅い今の時間を見て少し冷静になった私は、先輩の向かいのソファに腰を下ろした。
――向かい合ったところで、言葉が途切れて、一瞬静かになる。
(なんでだろう……すっごく恥ずかしいな……)
先輩とは二人で話す事が多かったはずなのに、なぜかそれが家の中だと思うと、いたたまれない位恥ずかしかった。
「――それで、神守の本家に花見に行くという話だったか?」
「あ、はい。本家に見に行くと言うより、神守の本家に行くまでにある龍観町の桜なんですけど……」
ソファに腰掛けたまま、足下の赤いスリッパを見つめていると、先輩が話を振ってきてくれた。
ようやく話し出すタイミングを掴めた私は、それに乗っかるようにして話し始める。
「また、なぜ突然そんな話になったのだ? 今日の夕方話したときはそんな事は言っていなかっただろう?」
「実は、あの後神守の家から手紙が来たんです。そこに、今週末にこっちに来るようにって書いてたんです」
そういって、手元に持っていたお凜ちゃんからの手紙を先輩に見せた。
手紙を覗き込んだ先輩が、手を口元に当てながら何事か考え込んだ。
「なるほど。手紙か……ならば、投函したのは数日前……」
先輩の口元に当てられた右手を見つめながら、私は事情を説明する為に言い訳するように少し慌てて言葉を続けた。
「――初めは断ろうと思ったんです。けど、あそこの桜も綺麗だったなぁって思い出して。それで、もし、先輩さえ良ければ、そっちで花見出来ないか相談しようと思ったんです。ほら、あそこのお話し、先輩も気に入ってくれてたみたいでしたから」
(――もし、先輩が嫌そうにするなら、断りの手紙を入れよう)
改めて決意しながら、単刀直入に私からの提案を口にする。
しばらく物思いに耽っていた先輩は、一つ咳払いをしてこちらに向き直った。
「そうか。まあ、可愛い後輩がわざわざそんな提案をしてくれたのは素直に嬉しい……別に花見の場所を変えるに否ということも無い。……のだが、少々問題点があるな」
(――また、このっ、先輩は可愛いとかさらっと言うっ!)
内心、軽い口調で告げられる先輩の言葉にドキドキしながらも、なるべく冷静に聞こえるように気を付けながら聞き返した。
「問題点ですか?」
(やっぱり、予定でもあったのかな?)
――先輩が、うっすらと目を細めていた。
気づけば、随分先輩に向かって身を乗り出していたらしい。
先輩の金色の瞳が思っていたよりもすぐ間近にあった。
「いやなに。別に大した事では無いのだが……神守の家は関西なのだろう? どういう乗り継ぎになるのかは知らんが、流石に土曜日に行って帰ってのとんぼ返りは辛くはないか?」
「え? あっ……そうか……」
もっともな先輩の言葉に、頭の中で、神守の実家へ向かうルートを考えていく。
(えーと、ここから駅までが大体三十分で、そこから新幹線がある駅に出てだから……)
――頭の中で、ざっくり大まかに計算してみると、龍観町までで十時間ほどかかってしまう計算になった。
もし、途中でお昼でも食べたりすれば、下手すれば半日仕事だ。
「ほんと……ですね……ごめんなさい……片道十時間くらいかかるから、花見してる時間無いですね。その、勝手に舞い上がってわざわざ先輩に来て貰ったのに……実家には断りの手紙を出すように――」
「――まっ、待て待て待て待て。――別に、その話を断れと言っているわけじゃないだろうっ!?」
普通に考えれば分かって当然のことを失念して、一人舞い上がってしまっていた自分に自己嫌悪を覚える。
――だが、そんな私の言葉を先輩は慌てた様子で手を振って遮った。
「それに、それだけ急いで来るようにという事は、神守の方でもなにか大事な用件があるのではないのか?」
「そ、そうですけど……でも……っ」
――でも、それは先輩と出かける予定が無くなるってことで。
しかも、その代わりが『一人』で寂しく遠出する予定になるってことで。
(先輩の事だから、『またいつか』って言ってくれるだろうけど、でも、もしかしたらこれっきりになったりしたら……!)
――そんなのは、絶対に嫌だった。
先輩と過ごす花見と、一人で寂しく遠く神守の本家まで行く旅路を考えて、あまりの天国と地獄の落差に、じんわりと目頭が熱くなるのを感じながら、どうしたかったのか、右手を先輩に向かって伸ばしかけた。
――その時だ。
――先輩が、肩をすくめながら悪戯っぽく笑ったのだった。
「――別に、日帰りで行かずとも、のんびり泊まりがけで行けば良いだろう? それとも、咲夜はなにか週末に予定でもあるのか?」
「――へ?」
思わず、私の口から気の抜けた声が飛び出した。
それは、先輩が何を言ったのか理解出来なかったからだ。
(とまり……? ッ! ――って泊まりぃっ!?)
初めは感じが思い浮かばなかった言葉を、徐々に頭が理解し始めた。
――そう、詰まるところそれは、『日帰りできないなら二日掛けて回ればいいじゃない』っていう力業で。
それはちょっと近所に花見とかもうそういう次元の話じゃ無くて。
――友達と一泊二日の小旅行に出かけるということだった。
(――ってちょっと待て私。なんで今、口元緩んでるんだっ!?)
気づけば、へらっと歪みそうになっている口元に気がついて、慌てて顔を伏せる。
両手をスカートの上でぎゅっと握り締めて、顔が崩れそうになるのを必死に我慢した。
ドキドキと、期待に高鳴る胸の熱さが抑えられなくて、ぎゅっと握った拳で胸の辺りを押さえた。
「――それで、咲夜は予定があったのかな? ……それとも、私が旅の相手はご不満かな?」
先輩が、追い打ちを掛けるようにそういった。
「……予定……なんて、ないです」
なんとか、声を絞り出して、これだけでは足りない事に気がついた。
だから、なんとか、周りの空気を吸い込みながら言葉を続ける。
「……その、不満も」
「――ふむ。では、もう明後日だ。早々に宿を取っておかねばな」
一杯一杯に言葉を絞り出した私の頭上からは、携帯を取り出した先輩の、とても楽しそうな弾んだ声が聞こえてくるのだった。





