第一話「先輩、こんな提案どうですか?」
「――土曜日、楽しみだな……んっ……」
自分のベッドの上で、ぽかぽかとした熱を感じながら大きくのびをした。
昨日からずっと色々な出来事が目白押しだったせいで、ずっしりと全身が妙に重かった。
でも、今のそれは決して不快な重さでは無く、運動をした後の心地よいだるさに近い。
ぐるりと寝返りを打って、枕に顔を埋めながら、壁に掛けている近所の薬屋さんから貰ったカレンダーを見ると、右端で青く描かれている数字が大きく見えた。
(――初めてだ。こんな風に休みの日が楽しみなのって)
考えると、自然と口元がだらしなく緩んでしまう。
なんだか恥ずかしくなって、枕の両端をぎゅっと握り締めて、顔を押しつけた。
(……土曜日は、十二時に先輩がうちに迎えに来る。それから、お昼ご飯をコンビニで買って……花見)
頭の中で、夕方喫茶店で話し合った土曜日の予定を復習していく。
たしか、先輩、花見の後は、『帰って食事の支度が面倒なら、何だったら夕食も一緒に食べるか?』って言ってたから、ひょっとするとお別れするのは夜になるかも知れない。
――つまりっ! ほとんど一日中、出かけて遊ぶわけだ。
(……すごい。本当に……本当に、私、遊びに出かけるんだ……っ――そうだっ!)
そわそわする気持ちが抑えられなくて、ベッドから跳ね上がって勉強机の上に置かれたペン立てから、赤いサインペンを抜き取った。そのまま、壁に掛けられたカレンダーに向かって歩いて行き、一行目の一番右端の数字に、大きく丸印を付けた。そして、数字の下にある空白に、大きく『お花見』と書き込む。
サインペンのキャップを閉めると、一歩下がってカレンダーを眺めた。
そこには、花見と書かれた大きな赤い丸がある。
――今度は一歩カレンダーに近づいてみた。
やっぱり、そこには花見と書かれた大きな赤い丸がある。
(~~っ! ――もうっ、明後日なんだ……)
明日の夜を越えたら、もう花見。先輩と出かける日になるわけだ。
(あ、でも、ってことは明日が金曜日……体育の授業があるのか……)
丸の隣が金曜日――高校に上がって初めての体育がある日だと気がついて、さっと憂鬱になった。
――私は、体育の授業が嫌いだった。
別に、運動が苦手な訳じゃない。
ただ、どうしても激しい運動が多くなる体育の時間は、火傷跡を隠すことが出来ないのが問題なのだ。
中学に上がったときも、体育の授業の後から如実にクラスメイト達の態度が変わったのが辛かった。
(きっとまた、教室に戻ったら微妙に距離があるんだろうな。まあ、今年はそもそもあんまりクラスの人と話してないから……まだマシかな?)
クラスメイトとのコミュニケーションを取れていない事で、結果的に後々のダメージが少ないと言うのも、なんとも皮肉な話だ。
まあ、どちらにしろ毎年のことだ。
『どうしたってしょうが無い事だってある』と諦めだってついている。
むしろ、今年は先輩という一緒に遊びに行くような人が出来ただけで出来すぎなくらい上出来だ。
(本当に……本っ当に大変だったけど、それでも、先輩に会えて良かった。――もう、一生あんな事件に遭う事なんて無いだろうし)
冷静に、今回の事件を思い返しながら、改めてその非現実っぷりに思わず笑ってしまった。
窓際に視線を向ければ、昨日バラバラにはじけ飛んでいたドリームキャッチャーと同じものがぶら下がっている。『一応念のため』といって、先輩が帰り際に新しいドリームキャッチャーを一つ用意してくれたのだ。
(『大丈夫です』って言っても、先輩、まったく聞かないんだから……まあ、『なに、そっちの方が私も安心して熟睡出来るだろう?』なんて言われたら、受け取らない訳にいかないよね……)
強引に押しつけられた木箱は、今も机の上に大切に置いている。
本当に諸々含めて、いつかちゃんとお返ししないと。
(でも、お金って言うのもなんだか嫌らしいし……私達くらいの歳の男の子って、どんなものが欲しいんだろう?)
両手の親指をこめかみに当てて、目をつぶりながら考え込んでみても、男の子思考なんて異星人と同じような物で想像がつかなかった。
(……土曜日、出かけた時に先輩にそれとなく聞いてみよう)
ひとまず堂々巡りになっている思考を切り上げて、鞄に教科書を入れたり、真新しい体操服を用意したり、明日の学校の準備を整えた。
(――そうだ。昨日からの事と、土曜日のこと。ちゃんとおばあちゃんに報告しとかないと)
準備を終えたところで、ふとおばあちゃんに何も伝えていなかった事を思いだした。
机の上に、木箱の横にハンカチに包んで置いていた、『龍樹様の雫』が入っていたペンダントの欠片を大切に手に持つと、一階の仏壇に手を合わせるために私は部屋を出て行った。
***
(おばあちゃん。そんな感じで色々あったけど、ついに私にも友達……友達? ――ちょっとは親しい人が出来ました)
――チーンという、金属で出来た鉢から響く残響を聞きながら、私はおばあちゃんに向かって昨日からの出来事を報告した。両手を合わせて、仏壇に置かれたおばあちゃんの明るい笑顔の遺影を見つめながら、私も負けないように精一杯の笑顔を向ける。
(だから、おばあちゃん。心配しなくて大丈夫だよ)
最後に、そう祈ってからもう一度深く頭を下げた。
「――さて」
そう掛け声を出しながら、正座を崩して立ち上がろうとした時だ。
――コッ……コン……コッ……コン……
仏壇を置いている座敷の窓が何かに叩かれた。
(……何だろう? こんな時間に、風かな?)
――もう、夜も十時近い時間だ。
誰かが訪ねてくるような時間でも無いし、誰かが来る予定も無い。
どうせ風か何かが窓を揺らしているだけだろう。
……ただ、昨日から体験していた恐怖体験のせいで、妙に緊張してしまった。
(――ま、まあ、あんな変な事、もう無いだろうし)
さっき考えた事を繰り返しながら、未だ軽いものが窓ガラスにあたるような、コッコとした音に向かって近づいていく。
すると、目隠しを兼ねた障子の向こうで、月明かりに何か大きな影が映し出されている事に気がついた。
(――まさか、またあの手が……)
うぞうぞとひしめき合うように動く無数の腕が脳裏に浮かび、一気に全身の血の気が引いていく。
筋肉が震えるように強張るのを感じた。
――先輩に電話するべきだろうか?
一瞬考えるが、もしそれで単なる『勘違いでした』では余りに申し訳ない。
(やっぱり、風かも知れないし、窓の外で木が揺れているだけかも知れない。とりあえず――確かめないとっ!)
少し悩んだ上で、いつでも先輩に電話できるように部屋着のポケットから取り出した携帯を握りしめ、恐る恐る障子に手を掛けた。身構えながら勢いよく障子を開け放つ。
――パシン。
勢いよく開かれた障子が軽快な音を響かせ、その先にいたのは……
「――なんだ……天風か……」
優に子供ほどの大きさはあろうかという、金色に輝く巨大な鴟だ。
本来なら、そんな巨大な鳥が窓の外にいれば海外のパニック映画のように慌てないといけないところだが……。
――幸い、その鳥には見覚えがあった。
うちの本家筋にあたる神守のお凜ちゃんのペットの天風だ。
「……もう、あんまり脅かさないでよ。こんな時間にお疲れ様。……久しぶりだね」
ほっと胸をなで下ろした私は、鍵を開けて窓を開け放った。
ばさばさと一度羽を広げてから畳み直した天風は、とっ……とっ……と首を伸ばしたり縮めたりしながら部屋の中に入ってくる。
よく見てみれば、その嘴の先には封書がくわえられていた。
天風はいつも本家から連絡事があるとき、おばあちゃん宛に手紙を運んできていたが、どうやら、今回も本家からの手紙を運んできたらしい。
(……ほんと、いつものことだけど、伝書鳩なんてアナログだよね……)
……時代錯誤な方法に、思わず苦笑が口元に浮かんだ。
なぜか、本家からの連絡は、電話でもメールでも、郵便でさえ無く伝書鳩(伝書鴟?)でやってくるのが常だった。
天風が部屋の中に入ったのを確認した私は、雨戸を閉めてから窓をしっかりと施錠した。
嘴に加えられていた手紙を受け取り、開いていく。
丁寧にたたまれた巻紙に書かれた手紙を開いていくと、しっかりと整った筆文字で手紙が書かれている。
(良かった……お凜ちゃんの字だ)
三歳年下のお凜ちゃんは、歳に似合わないしっかりとした文字は書くが、変に崩したりしたりせずに、きちんと楷書で書いてくれるので私でも読むことが出来た。
おばあちゃんのいない今、他の人からの手紙なら、解読するのに一晩中頭を悩ませないといけないところだ。
(本家の人、みんな凄く達筆だから……)
――だが、お凜ちゃんからの手紙を読み進めていくうちに、私はむしろ読めない方が良かったんじゃないかという気持ちにさせられた。
(今週の末に至急本家まで来ること……なんて、どういうこと?)
その手紙に書かれていたのは、一方的な言葉だった。
どうやら、私に今週の土日を使って本家に来るようにということらしい。
――本家なんて、もう何年も行ってない。
一瞬、おばあちゃんの訃報がちゃんと伝わっていないのかと思って、手紙の宛名を見てみると、ちゃんと私の名前になっている。
(――本当に、どういうことなんだろう?)
第一、今週の土曜日と言えば先輩と一緒に花見に行く予定だ。
こんな手紙に従っていたら、せっかく先輩と遊びに行く予定が台無しだ。
(……断るしか無いよね?)
突然、こっちの予定を考えずにこんな形で呼ばれて、たとえその日にいけなくても、それは仕方が無いと思うのだ。
ただ、おばあちゃんが亡くなってから、きちんと本家の人に挨拶したわけではないことが気になった。
それに、『今』このタイミングでこんな連絡が突然来たのも気がかりだ。
――特に、お凜ちゃんと言えば、昨日見た夢の中でおばあちゃんが『本来なら』頼るべきと言っていたはずだ。
(……龍樹様の雫の件だってあるし)
そうは思うのだが、やはり先輩との予定を取りやめるのはどうしても嫌だった。
罪悪感に苛まれながらも、私は天風をその場に残して、一度自分の部屋に戻って、机の引き出しから、置き薬屋さんからオマケで貰ったレターセットとボールペンを取ってきた。
台所の机の上にレターセットを広げて、お凜ちゃんに断りを伝えるための文章を考え始めた。
(……本家、かぁ……どんなところだったかな……)
レターセットを前に、ふと不思議な本家の事について考えた。
本家と言えば、初めに思い出すのは、やはり龍樹様の事だ。
多分、誰でもあの龍樹様の大きさを見れば、なかなか忘れられないだろう。
……他に思い出すことと言えば、巨大な敷地を贅沢に使った屋敷と、そこで働く人間、それに神守の面々の姿だった。
麓の町から、車に乗って一時間近くの道のりを昇っていくことになる。
世俗から隔離されたあの家は、そこだけ時間が止まってしまっているようだった。
小さな頃、春に遊びに行ったときは、確か大量の桜が咲いていて屋敷全体が桜に――
(――待って……そういえば……)
本家の屋敷の様子と、麓の町並みを考えて、ふと思いついた事があった。
(――でも、そんなの、いや、でも……)
思いついた事が、もし実行できるなら、確かに先輩との予定も、手紙の内容も叶える事が出来る。
――ただ、それはあまりにも先輩に申し訳ない気がするし、きっと長丁場になってしまう。
そんな図々しいことをお願いして良いのかわからない。
なにより、それはなんとも気恥ずかしいし、勇気がいる提案だった。
私が思いついた事。それは……
――先輩と一緒に、関西にある神守の本家。
正確に言えばその麓の町まで一緒に花見に行くということだ。
(ど、どうしよう……)
確かに、本家に挨拶に行っている間は先輩を待たせてしまう事になるし、そもそも先輩はそんな遠出するとは思ってないはずだし……
でも、本当にあの辺りの桜はとっても綺麗だし、どっちの予定も守れるし……ひょっとしたら、先輩の好きそうなお話しとかも聞けるかも知れないし……
レターセットを片手に、私は思いついてしまった魅惑の選択肢に一人考え込み、途方に暮れた。
(と、とりあえず、早く相談しないと……)
――頭の中にさっき見たカレンダーを思い浮かべる。
花見の赤丸はもうすぐそこだ。
もし、先輩を誘って一緒に神守の近くの町で花見をするなら、『予定変更しませんか?』と早く聞かないといけないだろう。
それに、今週神守の家に行けるのかどうかの手紙も早く出さないといけないだろうし……
(……先輩、まだ、起きてるかな……?)
夜更けに学校の先輩に電話を掛けるという事に、どきどきと心臓が高鳴るのを感じながら、恐る恐る携帯電話に手を伸した。





