プロローグ「昏き夜に嗤う者」(挿絵あり)
『ソレ』は、酷い飢えに耐えながら、深い山の中を彷徨っていた。
天敵に追われ、追い詰められて。逃れ逃れて逃げ惑った結果だった。
しかし、もはやその逃避も限界だった。
そろそろ食らわねばならなかった。
――血を。肉を。魂を。
現世からいくらか深く潜った世界を、外殻に覆われた体をギチギチと打ち鳴らし、ソレは移動していく。
だが、いくら進めど、ソレに取っての良質な『餌』は見つからなかった。
むしろ、進むうち、ソレを追い立てた天敵が、存在を誇示するように築いた硬い壁に行き当たった。
力弱いソレにとって、その壁は余りに厚く、通り抜ける事は出来そうにない。
ギチギチと再び甲殻を打ち鳴らしたソレは、その場で辺りをうかがうように、ハンミョウの頭部のように長く伸びた頭を巡らせた。
――ふと、頭部を一方向に向けたところでソレは動きを止める。
そちらの方向から、とても美味そうな匂いが漂ってきたのだ。
匂いと言っても、物理的な香りでは無い。
ただ、ソレの本能と食欲を刺激する、力の塊を感じたのだ。
その餌の香りは、今までソレが口にしたどの餌よりも芳醇で、飢えに耐えかねていたソレにとって、あらがえないほど魅力的なものだった。
『これを食べれば、あの憎き天敵共にも抵抗できるかも知れない』
……その香りの元は、ソレにそう思わせるほどの大きさと濃度を持っていた。
「ギギギ……」
ソレは、長い頭の先に突いた巨大な顎を歓喜に打ち振るわせながらその香りの元へと向かい始めた。
「――ギッ……」
だが、すぐにそれは歩みを止めて、再び頭を伸ばして辺りをうかがい始めた。
――ザプッ……
――突然、鈍い音を立てて、クワガタの口のように、左右に開いた顎の先がすっぱりと消失した。
「――あかんあかん。変に聡いんは早死にの元やで?」
カラカラと嘲笑うような少女の声が響き、ソレが先ほど近づいていた壁の向こうから、小さな影が姿を現した。
――その影を見た瞬間、ソレは全力で明後日の方向に向かって逃げ出し始める。
――そう。その影は、ソレがかつて対峙した天敵に比べて、いくらか見た目の大きさは小さいようだったが、紛れもなくソレの天敵と同質の存在だったのだ。
「ああ。あかんよ。どこ行きはるん? そっちやあらへんよ?」
瞬間――少女が嗤う声が響き、ソレが逃げ出した先の地面が『消失』した。
大きく一本、巨大な刀が切り裂いたかのように、ソレの目の前に一本巨大な線が真一文字に描かれる。
「ギギッ!」
本能で危険を察知したのだろう。ソレは、巨体を急減速させその場に踏みとどまると、巨大な体躯を反転させた。
どうやら、逃げるのは不可能と判断したのだろう。ソレは、壁の上に立つ少女に向かって破れかぶれの特攻を決めたようだ。
「あかん。ほんまにあかんわぁ……それは悪手や。一番あかへん選択やなぁ……」
少女は、いっそソレの事を哀れむように口にすると、右手をふっと振り下ろす。
――ガキンッ!
甲殻同士がぶつかり合う衝撃音が響き、急にソレは身動きが取れないように、その場で動かなくなった。
ギシッギシッ……とソレが動こうとする度、全身が押さえつけられたように不快な音を奏でた。
「――こっちへ来るんやったら、怖い怖いお姉さんが相手したるわ。せやけど、他にええ香りするもんがあるんとちゃうん?」
少女が、歪んだ笑みを浮かべながらソレに向かって謳うように語りかけた。
人語を解さず、碌な知能も持ち合わせていないソレにとって、その言葉は何の意味も成さないだろう。
――本来であれば。
だが、その少女が放つ、圧倒的な強者としての存在感が、立ち向かうことの無意味さをソレに示していた。
「――ほな……、お利口さんなら、早よ逃げなはれ」
少女がポンポンと軽く小さな手で柏手を打つと、ソレは自由な動きを取り戻したようだ。
その場で、ソレはなにか悩むような素振りを見せたが、すぐに体を反転させ逃げ出した。
もはや、ソレに取っては少女から逃げるためには、その先ほどから強くその存在を主張する、濃厚な香りの元を食らうしか方法が無かったのだ。
「――おお、ええ子やええ子や」
逃げるソレの背後では、変わらず嗤う、不気味な存在の声が響いていた。





