第二話「先輩、……あなたがホヅミ先輩ですか?」
翌日の昼休み、昨日もらった女医さんのアドバイスに従って二年の教室にやってきた。
たかだか一歳差。されど一歳差。
入学したばかりの私達にとって、二年生の先輩というのはなんとも緊張する相手だ。
ましてや、いきなり迷惑を掛け。菓子折を片手に訪れるのに必要な勇気というのはなかなかの物である。
思わず、『二年A組』と書かれた教室の前で立ち止まり、火傷跡がちゃんと隠れているのか確認するために、ポケットから手鏡を取り出した。
鏡に映ったいかにも緊張した面持ちの自分とにらめっこをしながら前髪を軽く引っ張り整える。
「どしたのーなんか用事?」
確認を済ませて手鏡をポケットに仕舞い込むと、教室の入り口近くで集まって話していた女生徒の一人が私の制服についている一年生の学年章を見て、気を遣って声を掛けてくれた。
「……失礼します。ホヅミ先輩っていらっしゃいますか?」
『ホヅミ』という単語を聞いた瞬間、室内がざわざわとにわかに騒ぎ出した。
見れば、声を掛けてくれた女子生徒も、チシャ猫のようなにやにやとした笑みを何故か浮かべはじめている。
女生徒は、室内をのぞき込み、教室の奥に向かって元気な声で呼びかけた。
「ほづみんーっ! 客っ! お客さん。もぅー、新学期早々さっそく後輩引っかけたのー?」
「――佐竹、君も相変わらず、随分と人聞きの悪い事を言ってくれるな。 ――ああ、昨日のお疲れ娘か。大丈夫だったか?」
呼びかけに応え、女生徒のからかいの言葉に、苦笑を浮かべながら歩いてきたのは男性だった。
てっきりホヅミ先輩は女性だとばかり思い込んでいた私は、一瞬その男性が『ホヅミ先輩』だと認識できなかった。
しかし、胸元につけられた名札を見ると、『穂積』と几帳面な文字が書かれている。
――それで、ようやくその男性が『穂積先輩』なのだと思い至った。
その『穂積先輩』は、すぐに私の正体に気がついたらしく、私を見るとすぐに気遣うように微笑んでくれる。
(――どことなく、胡散臭い笑みを浮かべる先輩だなぁ)
恩人に対して、大変失礼な事だとは思うのだが、私がはじめに抱いたのはそんな印象だった。
……ひょっとすると、先輩の整った顔立ちが、その仕草に現実感を失わせているせいかもしれない。
「はい。おかげさまで。どうも貧血だったみたいで、先輩にはご迷惑を――」
「ああ。やはりそのことか。なに、『困ったときはお互い様』というものだ」
『まずはお礼を言わないと』という使命感に従い、出来るだけの礼儀正しさを持ってお礼と謝罪を述べようとしたのだが、先輩は戯けるように肩をすくめて見せた。
「いえ。それでも、本当に助かったので。――あ、お金。返します」
先輩の様子に調子を崩されるのを感じながらも、お礼を言いつつ茶封筒を取り出して先輩に差し出した。
中には、昨日の病院で支払う予定だったお金が入っている。
そう。実はあの後お金を支払って帰ろうとすると、高崎女医は受け取らなかったのだ。
――曰く。先に料金は受け取っていると。
どうやら、目の前にいる先輩が、私に持ち合わせがなかったらいけないと気を利かせて支払ってくれたらしい。
「……ああ、なんだ。別に後輩からお金を巻き上げるつもりはないからな。気にするな」
茶封筒を取り出した私に、先輩は目を細めると、苦笑しながら受け取りを拒否した。
……そのまま、鷹揚な仕草で降参するように両手を挙げている。
――それと同時に、私が茶封筒を取り出すのを見た教室からは『ほづみんが後輩からカツアゲしてるー!』などと野次が飛んでいた。
「こらこら……佐竹ッ……! ……まったく。いつも勝手な事を言うなと言っているだろう! ほら! 私はこの通りなにも受け取っていないぞ?」
先輩は教室から飛ぶ野次に向かって空の両手を振って受け取っていないアピールをしている。
……こうなってしまうと、なんともお金を渡しづらい。
ひょっとすると、先輩はこんな反応をクラスメイトから受けるのを承知していて、お金の受け取りを断ったのかも知れない。
(――教室で渡そうとしたの、失敗だったかな?)
結果的に、クラスメイトに白い目で見られるような事をしてしまったのだとしたら、恩を仇で返したようで、申し訳ない事をしてしまったと反省した。
「な、ならせめてこれだけでも……その、つまらないものですが……」
昨日急いで買ってきた菓子折の入った紙袋を差し出した。
「――まったく……そんな気を遣わなくて良いのだが」
そう言いつつも、再び苦笑を浮かべた先輩は、今度はのんびりした様子で片手を伸ばして、あっさりと紙袋を受け取ってくれる。
片手に持っていた紙袋の重さがなくなると、その分だけ少し肩の荷が下りた気がした。
「……しかし、これでは、まるで好意の押し売りのようで少々気が引けるな」
「いいえ――本当に、ありがとうございました!」
なおも、居心地が悪そうにしている先輩に、最後に心からの感謝を伝えるために、改めて深々とお辞儀をする。
この感謝には、一切嘘や建前は含んでいなかった。
本当に、今回の一件は、ここのところ荒みがちだった心をじんわりと暖かな気持ちにさせてくれたのだ。
「そう畏まって頭など下げなくても良い。周りも驚いてこちらを見ているではないか」
「あっ、すみません」
口調は尊大なのに、周りを見回しながら慌てた様子で頭を上げるように先輩が言うものだから、失礼とは思いつつも少し可笑しい気分になった。
でも、確かにこんな周りに人がいる中では、あまり大げさに反応するのも失礼だったかもしれない。
「そうだ――少し、ここで待って貰えるか」
先輩は、紙袋の中を覗き込むと、なにか思い出したように教室の中に入っていく。
(あれは、先輩の机……?)
椅子の下に置かれた制定鞄の中を漁ると、何かを握りこちらに戻ってきた。
「なにもお愛想が出来なくてすまない。こんなものしか無いが、持って行くと良い」
そういって、手のひらに収まるほどの棒状の何かを突きだしてきた。
よくよく見てみると――『本煉羊羹』
――墨痕鮮やかにそう記されていた。
「……羊羹?」
思わず口に出した私に、先輩は照れたように、でも何となく自信がありそうな表情を浮かべた。
「――松月庵の羊羹。甘さがくどくなくてな。良いぞ? なかなかの絶品だ」
松月庵といえば、この辺りでは老舗として有名だ。
おばあちゃんへの差し入れでよく頂いたから知っている。
ただ……私は、別に羊羹の説明が聞きたかった訳じゃない。
「ん? ああ、羊羹といえば小豆だろう? なんとなく鉄分が多そうな気がするではないか。貧血というのなら、ちょうど良いかと思ってな。……ああ、もしや、羊羹は苦手だったか? ――ふむ、それであればなにか他に見繕うが」
「あっ、いえ。その、羊羹は好きですけど……先輩、いつも羊羹持ってきてるんですか?」
そのまま真剣な表情で、『なにか渡せるものがあっただろうか』と考え出した先輩に、慌てて大きく首を振る。
――なんというか、浮き世離れしているというか、独特のテンポを持った先輩だ。
「――はは、まさか。 通学途中に偶然羊羹を貰ってな」
『おかしな事を聞く奴だ』とでも言うように先輩が笑っているが、『通学途中に偶然羊羹を貰う』シチュエーションが、私には想像がつかなかった。
(試供品の配布でもしていたのかな?)
不思議な気持ちになりながらも、私は先輩の差し出す羊羹を受け取った。
「休み時間は短いからな。もう教室に戻った方が良いだろう。 ――それに、そろそろ、こちらも周りの視線が痛い」
「あ、はい。分かりました。その、ありがとうございました……」
「良いさ。ちゃんと食べる物は食べて、もう倒れないようにな」
私が羊羹を受け取るのを確かめると、気遣うように先輩はそういって、いそいそと話を切り上げて教室へと戻っていった。
少し中をのぞかせて貰うと、ちょうど先輩は読みかけだったらしい本を手に取ったところだった。
見たところ洋書のようで、遠目にタイトルを確認することは出来なかったが、随分と立派な革張りの装丁の本だった。
ノートにメモを書き付けながら、とても熱心に視線を落としている。
(――ひょっとすると、取り込み中だったのかもしれない)
今更ながらに先輩の貴重な休み時間を邪魔をしてしまったかもしれない事に気がつき、改めて申し訳ない気持ちになりながら最後に軽く会釈すると、先輩は本から目線を上げ右手を軽く振ってくれた。
先輩が再び本に視線を落とすのを確認した私は、先輩の教室に背を向けて歩き出した。
「――なんで……羊羹なんだ?」
歩きながら、手元に視線をやりながら、どこか解せない気持ちで手元の和菓子に向かってつぶやくのだった。