第二十六話「先輩の、……スケコマシ」
二人が消え去ると、しんと静まりかえった夜だった。
最後の最後。次から次にやって来た怒濤の展開に、完全に処理不良を起こした頭が、ずきんずきんと重い痺れと熱を持っている。
激動の余韻を示すように、緊張したままの心臓が、『ドッ……ドッ』と鈍く音を立てていた。
「……終わった……か……」
私のことを後ろから抱きしめていた先輩が、そっと体を離したらしい。暖かかった背中に、春夜の風が吹き抜け、じっとりと汗ばんでいた熱を奪っていく。
しかし、それに寂しさはなく、不思議な高揚だけがその場所に留まって、今もじんじんと脈打っている。
背後で、先輩が立ち上がる気配がして、緊張から凝り固まって動けない私の視界に先輩の姿が映った。先輩は宝珠が割れた辺りに近づくと、地面に落ちていた何かを拾い取って戻ってくる。
「――立てるか? 咲夜」
雲を割って現われた月を背景に、こちらに微笑んで手を差し出す先輩の言葉に、かぁっと顔が熱くなった。
(――そ、そういえば、さっきから先輩、私の事『咲夜』って呼んでたんだった)
おそらく、先ほどの『嬉しかった』という言葉を受けてだろう。
先輩が私の事を名前で呼ぶようになっていた。
――そして、それと同時、重大な事をやらかしていたことを思い出す。
(――っていうか、さっき、私、先輩のこと『穂積』って呼び捨てに……!)
さっきは、どうしようもなく昂ぶってしまった勢いに任せて、先輩の事を名字で呼び捨てにしてしまっていた。
(ど、ど、ど、どうしよう……! よく考えたら、ものすごく失礼なことを言ってしまった……?)
「あ、あの、ありがとうございます――先輩」
とりあえず、目の前に差し出された手を握りながらお礼を言う。
私の手を掴んで、ぐいっと力強く引っ張り上げて立たせてくれた先輩は、その言葉を聞いてにやりとしたいつものちょっと意地悪な笑みを浮かべた。
「どうした? 『穂積』ではなかったのか?」
「あ、あれは、その、その時の勢いというか……その――ごめんなさいっ」
――私が頭を下げると、先輩が堪えきれなくなったように吹き出した。
そして、『あ、はっはははは』と無邪気な少年のような笑い声を上げている。
「――というか、咲夜。君は前から口調、なにか無理をしているだろう?」
先輩が笑いながら、そんな事を聞いてきた。
(――そういえば、先輩の前では時々私、昔みたいな話し方が出てたんだった)
多分、無理をしているって言うのは、そういうことだろう。
「随分と可愛らしい話し方をすることがあるではないか。――別に良いのだぞ? 無理に敬語を使わず、そちらの話し方でも」
完全にあっちが私の素の話し方だと思っている先輩が、そう言って私に意地悪な笑みを向けてくる。
ただ、なんというか、私はいまはこっちのしゃべり方が本来の私だと思っているのだ。
――あっちの話し方の方が例外なのだ。
(――まあ、それだけ敬語以外で話す相手がいなかったってことなんだろうけど……)
「あの……先輩、違うんです。その、あの話し方は、昔の自分の話し方というか……その……ちょっと男の子っぽい感じで……家族とか親戚にだけ使う話し方というか……最近の私はやっぱりこっちなんです」
(――事故以来、臆病になった私とも言えるかも知れないけど)
事故に遭って、両親が居なくなって。
『できるだけ、みんなに嫌われない話し方をしなきゃ』と考えた結果が今の話し方だった。
だから、臆病にならなくて大丈夫な、安心できる先輩には、ついついあんな話し方になってしまうのかも知れない。
でも、確かにあの話し方……『僕』なんて言い方をしているときは、少し昔に戻ったような感覚がして、心なしか勇気が出てくる気がした。
――なら、ちょっと、どこかで話し方を変えてみても良いのかも知れない。
(――だって、今は普通に話せる人が出来たんだから)
「ふむ……まあ、無理強いはしないからな。気が向いたら使えばいい。私は別に、どちらでも気にしない」
「……ありがとうございます」
伝わるかは分からないけど、私は『普通に話せる人』にむかって、深く頭を下げながらお礼を言うのだった。
「――さて、では、ようやく日常への帰還と行こうか。……流石に中々疲れたな」
「はい……すっごく疲れました……」
夜の闇を歩き始める先輩の後ろ姿を見ながら、私もつくづく同意する。
――本当に、一日が長かった……
全身が、澱のような倦怠感に包まれて、ただ、頭の回転だけが妙に加速しているのを感じる。
(ていうか、よく考えたら、今日はまだ平日なんだよね……? ――この後、学校……行けるのかな……)
入学早々、学校を休もうかと少し不良染みたことを考えながら、追いついた先輩の右側に並んだ。
(……まあ、そういう訳にもいかないから、ちゃんと行くけどさ)
「しかし、君は思っていたより随分体力があるのだな。もう、軟弱とは言わないから安心したまえ」
「……言ったじゃないですか。私は結構タフだって」
先輩が、しみじみと言うのがおかしくて、私は少し胸を張りながら先輩にちょっと自慢げな顔をしてみせた。
(――どうだ! 見返したかっ!)
「――初めての釣りだって、先輩のおかげで大物でしたからね」
ちょっと調子に乗った心情が表に出たのか、ついついそんな冗談が口をついて出た。先輩は、その冗談を聞いて面白そうににやりと笑う。
「――あれだけの大物、なかなか無いだろうからな」
「ちゃんと釣れましたね、先輩、釣りが苦手だって言ってたのに」
満足げに笑う先輩に、つい嬉しくなって余計なことまで言ってしまった。
――途端に、先輩が子供みたいに『心外』だと言う表情を浮かべる。
「な……っ、私は別に釣りが下手ではないぞっ!? ……あの時は、たまたま釣れなかった上に、アイツが釣れすぎなだけだ」
「――ああ、そうでしたね。先輩――ごめんなさい」
私は素直に謝って頭を下げたんだけど、先輩はちょっと納得がいっていないみたいだ。
悔しそうな顔をしながら、顔を地面に向けて肩を落とした。
(あ……言い過ぎた……?)
――調子に乗ってしまったせいで言い過ぎてしまったと思った。
もう、長いこと友人と話をすることが無かったせいで、ついつい距離感が掴めずに傷つけてしまったのかも知れない。
慌てて謝ろうとしたとき、先輩が顔を上げた。
その顔は、悲しそうという訳では無く、どちらかというと不敵な様子に見えた。
……なんというか、意地を張った子供のようと言えばいいだろうか……?
「――いいだろう……その様子、絶対信じてないな!? 分かった。そういう態度なら分かったとも。――今度絶対釣りに行くぞ。――海釣りだ。俺の腕前を見せてやる」
先輩が、妙に意地を張った様子で、そんな事をいうのがなんだかおかしくて、耐えきれずに再び笑ってしまった。
――どうやら、私の言葉で先輩を傷つけてしまった訳では無かったらしい。
笑いながら内心で、ほっと胸をなで下ろした。
(でも、一緒に釣りか……しかも、海。――楽しそうだな)
おばあちゃんと二人だと、そういう遊びはしたことないから、本当はそういうレジャーにも少し憧れがあったのだ。
(――うん。先輩となら、絶対楽しい)
「もちろんです。――しっかり見せて下さい。先輩」
私が笑顔でそういうと、先輩はなぜかまた少し悔しそうにしている。
――だが、すぐにふっと『意地悪な顔』に先輩が表情を切り替えた。
(……?)
「しかし……」
先輩はそう言って立ち止まると、すっと私のそばに寄って――耳元に口を近づけた。
「――軽々に異性を膝枕などしてやるものではないぞ? ――独鈷杵を持っていた理由は嘘ではないのだからな」
言い切ると、先輩はさっと身を離して、鼻歌交じりに歩き出す。
耳元で囁く艶のある声に、一瞬どきっとしたせいで、先輩の話した内容を理解するのが遅れた。だけど、すぐに少しずつその意味を理解していき――
「~~ッ! やっぱり、先輩の、スケコマシ……ッ!」
***
「――先輩、夜明けですよ!」
神社のある山から無事に下山出来た私達は、麓のバス停から白む空を眺めていた。
――ようやく、本当の夜明けがやって来たのだ。
「ああ……ようやく、無事に終わった気がするな」
「そうですね。後は、戻って学校に行かないとですけど」
「そうだな……『行かないと』だな。――中々にきつい仕事だが学生たる者、早々休むわけにもいかんからな……」
「そうですね……」
先輩と二人、疲れ切った体で朝日を眺め、今日の学校を考えて、少し憂鬱に言い合う。
帰り道に無事回収した制定鞄が、今は妙に重い気がした。
(――先輩なんて、ついさっき死にかけてたんだよね……)
終わってみると、今、隣で苦笑を浮かべている先輩が死にかけていたなんて、非日常すぎて現実感がなくなってしまっていた。
でも、先輩の制服に開いた大穴と、どす黒く乾いた血で染まった二人の制服が、さっきのことを現実だと――
(あ、れ……? 血……?)
「……先輩。大変です」
「どうした? 咲夜」
(――う、やっぱり不意打ちで名前を呼ばれると落ち着かない……)
ただ、名前を呼ばれただけなのに、なんだか照れてしまう。
でも、私は言わなくてはならないことがあるから、口を開いた。
「……こんな血まみれで、バスは乗れるんでしょうか? ……そもそも、ここ、通報されませんよね?」
「あ……」
――先輩の、そこまで間抜けな声は、初めて聞いた気がした。
……結局、二人とも血に濡れたブレザーは脱いで畳んで手に持って。
先輩の脇腹に開いた大穴と、ブラウスの血に濡れた箇所は制定鞄に隠すという荒技を披露しながら、二人して通報されないことを祈って通りかかったタクシーで地元に帰るのだった。
――待っている間。春の朝の空気は冷たかった。
***
「それでは、また後で会おうか……とりあえず、風呂に入って着替えねばな……」
先輩が、家の前まで私達を送り、そのまま自分の家に向かって戻っていく。
(――そ、そういえば、先輩のお家ってご両親居るはずだけど、大丈夫なのかな……)
そんな先輩の背中を見つめながら、無断外泊する事になったが大丈夫なのか、ふと不安になった。ご両親は心配していないのだろうか?
……不安には思うものの、学校の時間がある。あまりのんびりもしていられない。ポケットから、携帯電話を取りだして時間を確認した。
――六時三十二分
(――ね、寝てる暇はないよね……?)
よく考えてみれば、私は昨日少し眠らせて貰ったから精神的な疲れと、走ったりなんだので少々疲れているだけだが、先輩は昨日一睡もしていないはずだ。
――私なんかより、先輩の方がよっぽど休息が必要なはずなのだ。
とりあえず、私は、手早くシャワーを浴びて、予備の制服に着替えた。
(――あ、先輩からネクタイを返して貰ってない)
鏡の前で制服を整えながら、ネクタイをしていない自分に気がついた。
昨日の晩からしていなかったから、なんだかネクタイがないのにも慣れてしまっている。
(――たしか、ネクタイ無しでも校則で問題ないって言ってたし……大丈夫だよね?)
なんだったら、放課後に先輩の教室に行くことになってるから、その時に返して貰えば良い。
そう思って、授業の準備を鞄に詰めて、玄関を飛び出そうとして……。
――ローファーが泥だらけになっているのをみて慌てて泥をぬぐい取った。
今度こそ、玄関を開けて外に飛び出す。
「おはよう」
「――お、おはようございます?」
扉を開けると、家のすぐ前で先輩が待っていた。
制服はすでに穴のない新品らしいものに着替えられていて、ローファーも新品なのか磨き込まれてぴかぴかしている。
『おはよう』と挨拶しただけなのに、なぜか名前を呼ばれた時みたいに妙に照れくさかったけど、先輩の隣に慌てて並ぶ。
――ゆっくりと歩き出した先輩の隣、じわじわと活気づいていく町を歩くのは、なんだかとても気持ちが良かった。
***
朝の学校に、先輩と一緒に登校すると、昨日より遅い時間という事もあって、随分と人の気配がした。
私の隣を歩く先輩は、時々クラスメイトらしい人達に、『遅いじゃんどうしたの?』なんて声を掛けられているが――私は誰にも声を掛けられることもない。
「それじゃあ、放課後にお伺いするようにします。……あの、ホントに良いんですか?」
「ああ。――ただ、今日はこっちの授業が一コマ多いからな。少し待たせてしまうことになるが」
「大丈夫です」
先輩が、私の予定を申し訳なさそうに聞いてくるが、別に一コマ分待つくらい大したこと無い。普通に授業が終わって、終礼を終えてから荷物をまとめたりしていればそれくらいになるだろう。
……先輩に手を振って、それぞれの教室に向かい歩き出すと、急に寂しさがこみ上げてきた。
なんとなく、先輩が握ってくれた手を、二度三度開いたり閉じたりして、もう一度あの感触を味わうように思い出す。
教室に入るとき、前髪の具合を確かめるために、手鏡を取り出すと、やはり先輩の顔が頭に浮かんだ。
(この手鏡、先輩も使ったんだよね――)
今日、この手鏡を見せたときの事を思いだす。
先輩に、目の色が変わってしまったのを教えるために、この手鏡を使った。
(そういえば……先輩、目の色が金色のままだけど大丈夫なのかな?)
ついつい、金色になっているのが当たり前のように受け入れていたからうっかりしていたが、先輩のあの金色の目は、どう考えても先生から怒られるような気がする。
(――あ、あれ?)
そういえば、先輩の目の色について、あの後私はまったく言及した覚えがなかった。
(……先輩、まさか、もう目の色は治ってると思っているんじゃ……?)
そんな疑問が頭をよぎり、ざわざわと不安感が胸の中で盛り上がっていく。
(……ていうか、私……結局ネクタイも返して貰い忘れてるし……)
『キーンコーン』という予鈴が鳴り、いよいよ教室に入るという段階になって、私は色々とやらかしていた事実に気がつくのだった。
次話で第1章本編が終了です。
現在、2章の表紙イラストをぴーすさんにお願いしているのですが、
少し時間がかかっているため、2章は少し間を開けての投稿になると思います。





