第二十五話「先輩、鯛よりきっと大物です」
『私の目になる』と言った先輩は、今まで見た中で、一番真剣そうな表情をしていた。
……なんだか、その真剣な瞳のせいで、どうしても、ちょっと意味深な気がしてしまって。そんな状況じゃないのは承知しているのに、頬どころか、外気に触れている耳までが――熱い。
戸惑いはあったが……それでも、先輩がそんな大役――もしも、失敗してしまったら、先輩も私も『最後』かも知れないような役目を任せてくれるのは――嬉しい。
「あの……その……本当に……良いんですか?」
「ああ……申し訳ないと思うが、ここは、どうしても神宮さんが頼りだ」
――先輩と目が合って。
その一言を言われた瞬間、ぞわっと、首筋に甘い痺れが走り、全身に鳥肌が立った。
……『頼りだ』なんて、今まで生きてきて一度も言われたことのない言葉だ。
(――嬉しい)
特に他の人に比べて秀でているところなんて無くて、周りに迷惑を掛けるだけだった私を、頼ってくれる人が居る。しかも、頼ってくれる人は、私の『ありのまま』を受け入れてくれた人……
(――嬉しい――ッ!)
……これで嬉しいって思わない方がどうかしてる。
全身を、舞い上がってしまいそうな熱が、歓喜が、走り抜けていた。
本当は、怖いし、もし万が一失敗したらと思うけど、それでも……それよりも『やりたい』『やってみせる』という気持ちの方が強かった。
「――っ、あのっ……ありがとうございます!」
「神宮さん……。すまない。――助かるッ!」
頭を下げる私に向かって、先輩が一瞬申し訳なさそうに。
しかし、すぐに力のこもった言葉を返ってきた。
――私は、その言葉を聞きながら、ただ、ぐっと右手を握りしめた。
***
(――心臓が、破裂しそうだ)
極度の緊張状態で、血圧が上がっているのか、ぐわんぐわんと鼓動に合わせて妙に目の前が歪んでいるような気がする。
「神宮さん……こっちだ」
――目の前にあるのは、桜の木を背に、地面に座り込んだ先輩の姿だった。
先輩が、私を誘うように微笑みながらこっちに向かって手を伸している。
「し、失礼します……」
顔に血の気が昇って、火照っているのを感じるが、それはどうやっても治まってくれそうになかった。
小さく、蚊の鳴くような声で断りを入れながら背中を向けて、先輩が座っている前に腰を下ろしていく――。
スカートの裾を押さえながら先輩の前に座り込むと、ゆっくりと先輩に背中を預けるように体重を掛けていった。
(……ぅ……あっ……)
――先輩とふれあう面積が広がっていき、制服越しに先輩の体温をうっすらと感じた。
そして、それとは別の何か……
――暖かくて、熱い。
全身を巡る血液のような何かが先輩から流れ込んで体の中を巡っていく。
それは決して、あの白い手に触られた時のような不快感のあるものではない。
むしろ、どこか安心するような心地よさを感じるものだった。
(――ひょっとすると、母親のお腹の中にいる赤ちゃんってこんな気持ちなのかも)
「あの……先輩……重くないですか?」
(――こんな事になるなら、ダイエットの一つでもしておくんだった)
今まで、考えたことのないことが、今は頭の中にパチパチと爆ぜるように次々と浮かんできた。
(――そういえば、こんなに近くで……その、髪の毛とかぼさぼさなの、すぐ分かるよね……)
意識的に遠くを見ていた目の焦点を少しずらし、視界を半分ふさぐように目の前に垂れ下がっている髪の毛を見ながら考える。
(ただでさえ、昨日の朝は髪の毛お湯で整えただけだし……昨日から動き回って汗、かいてるし、どろどろだし……ああっ……、そういえば、今日はお風呂だって入れてないんだったっ!)
暖かく、包みこむような熱量の中を、揺蕩うように巡りゆく、心地よい波に揺れながら、こっそりと一人そんな後悔をしても後の祭りだった。
「ああ、大丈夫だ。――安心して、もっともたれかかってくれても構わんよ」
だけど、先輩はそんな私の後悔なんていざ知らず、私の肩を軽く掴み、安心させるように自分に向かって少しだけ引き寄せた。
(――だッ! ――ああっ! もうっ、どうにだってなったら良いっ!)
もうとっくに限界を迎えた恥ずかしさに半ばやけになって、両手に持った宝珠に力を入れながら、目をつぶり、ぐいっと先輩にもたれこんだ。
――真っ暗な世界に、先輩から伝わってくる熱が敏感に伝わってくる。
「二人は、私の死角から奴が来ないか見張っておいてくれ」
先輩が、斜めを向くように頭を動かす気配がして、幽霊の二人組に呼びかけているのが聞こえた。
(――そういえば、その二人はこの姿を見ているんだよね……)
――あたかも、抱きしめられているかのようなこの体勢を見られている。
その事に気がつき、余計に頭に血が上るのを感じた。
(――幽霊の姿が見えなくて良かった)
もし、見えていたら、とっくの昔に上がりすぎた血圧に頭の血管の一本や二本切れてしまっていたかも知れない。
(ああ……だめだ。目を、つぶってたら、余計に気になってきた……)
視覚的な情報が無いからか、自分の今の姿が客観的に脳内に浮かんできて、恥ずかしくなってきた。
――耐えられなくなって、外気に触れさせるように目を開く。
……瞳が、風邪を引いてしまったときのように潤んでいた。
「――神宮さんは、アイツがこっちに向かってきたら、私の示す方向に向かって、両手で宝珠を放り投げてくれさえすれば良い――方向はこういう形で示そう。親指と人差し指の先を結んだ先に、アイツが居る」
後ろから先輩が安心させるように私に向かって、低い声で囁きながら、人差し指と親指を伸ばした拳銃のようなポーズを取ってみせた。
あくまで、私のやることは『たいしたことではない』と、緊張しないようにしてくれているんだろう。
(――あの、その、先輩? 別の意味で非常に緊張するんですけど……!)
心の中で、情けない悲鳴を上げながら私はこくこくと頷いた。
あまりに緊張しているのが伝わったのか、後ろで、先輩が少し微笑む気配がした気がする。
そして、ぱらりぱらりと散りゆく白い桜の花びらを見ながら、私達はアレが現われるまで待ち続けた。
「――あ、あの、先輩……」
「どうした?」
色々な意味での緊張しながら時間が過ぎていく中、高まっていく圧力を吐き出すように、私は口を開く。
――緊張からか、先輩も私も、二人そろって囁くような会話になった。
「さっき、『咲夜』って私のこと呼んでくれましたよね?」
「――ああ、すまなかったな」
勝手に親しげに名前を呼んでしまった事を申し訳ないと思ったのか、先輩が謝った。
「いいえ。そのっ、家族以外から名前で呼んで貰うのは、初めてで……少し嬉しかったです」
「――そうなのか? 女子の方が、友達同士でこういう呼び方は多いと思ったが? ……ああ、あだ名か?」
「違いますよ――私、友達居ないんです。……ほら、この見た目なので」
そういって、私は片手で少しだけ左の髪を掻き上げた。
――『大丈夫』だと言われても、やっぱり、改めて他人にこの傷跡を見せるのは抵抗があった。
……もし、改めて傷跡をみた先輩が、『気持ち悪い』とか言ったらどうしよう。どうしても抑えられない不安を抱きながら……確かめるように、もう一度傷跡を先輩に見せた。
『ドクッ、ドクッ……』とさっきまで少し落ち着いてきていた心臓が、再び五月蠅く音を立て始めた。
――だが、待っていても先輩からの返事がない。
「……先輩……?」
――今、先輩はどんな顔をしているんだろう。
――ひょっとすると、顔を嫌悪に歪めているんじゃ無いだろうか?
どんどんと膨らんでいく不安に耐えきれなくなって、先輩に掠れた声を掛けた。
「――来た……っ!」
しかし、先輩から返ってきたのは、緊張を含んだ事態の変化を告げる言葉。
――そして、その一言を聞いた瞬間、耳の奥で鳴るドクンドクンという音が、速い速度でドンドンという太鼓を叩くような物へと変化していく。
さっきの羞恥を含んだ緊張とは違い、手にじっとりと汗をかくような緊張に体の奥がかじかんだように震えるのが分かった。
「――ふっ、安心しろ」
先輩は自信に溢れている声と共に、左手をすっと銃の形にして伸ばした。
それと同時に、私の頭を抱え込むように先輩の右手が添えられて、少しだけ頭を左に傾けられる。
後ろの方から聞こえていたその声は、いつの間にかずっと近づいていて、左の耳を先輩の熱い吐息が擽って……
――やがて、左の頬にある火傷跡に、先輩の頬の感触が――触れた。
「いいか……? 今、奴はこの先に居る。ギリギリまで引きつけてから投げつけてやるんだ。――なに、釣りと同じだ。餌に食いついたら引き上げるだけだ」
先輩の低い声が、耳元で語る間に、ふれあっている火傷跡にもドクドクとした熱い物が流れていく――。
でも、それと同じように私自身の顔も熱を高めていって。
――二つの熱さが溶け合って、どっちがどっちが判断がつかなくなった。
そのまま、高鳴る胸の音に身を任せながら、先輩の合図を待つ。
「――まったく、『初めての花見』は散々なものになってしまったが、『初めての釣り』は、中々に大物が釣れそうだぞ……?」
――どこまでも、冗談めかした先輩の声は楽しそうで。
――きっと、この先輩に私の心の中なんて、全然伝わって無くて……。
「――咲夜、今だ!」
――先輩の、合図が聞こえた。
(――ああ……もう……っ!)
先輩の声に、反射的に指し示された場所に向かって、全力で宝珠を投げながら、心の中は色々な感情がぐるぐると渦巻いていてショートする寸前だった。
だから、もう、全部、全部、ありったけの物をぶつけるように叫んだ。
「――穂積のっ……スケコマシッ――ッ!」
私の大変不名誉な叫びと共に、宝珠はどうにかこうにか直線的な放物線を描きながら飛んでいき……数メートル先の空間に激突した――ッ!
――バリンッという激しい音が鳴り響き、空間に罅のような激しい亀裂が走る。
そして、その隙間から、あの醜悪な肉塊が顔を見せ、罅の間からは触手のような腕達が我先にと逃げ出すように伸びていく。
放物線を描いて飛んでいた宝珠が、出来た罅の隙間から肉塊の元へと辿り着き、そのゼラチンのようなぶよぶよとした部分に触れる。
――瞬間、宝珠は爆発するようにはじけ飛び、金色の粒子を吹き上げたッ!
そして、その粒子の渦に乗るように、古い異国風の装束に身を包んだ男女が陽炎のように姿を現した。
精悍な顔立ちをした金髪の男性が、身の丈はあろうかという剣を引き抜き、肉塊に向かって斬りかかる。
肉塊が、白い腕を盾にするように、男性との間に大量の腕を集めるが、男性の剣は光に包まれると、魔法陣のような幾何学的な図形を描き出し、次の瞬間にはレーザーのような雷を放ち、腕ごと肉塊を貫いた。
「ぉぉぉぉぅぉぉぉぉ……」
肉塊が、裂け目のように開いた口から、悲鳴らしい叫び声を上げ、今までのゆっくりとした動きが嘘のような速度で無事な腕を男に向かって突き出していく。
男は、剣を振り上げ、二度、三度とその腕を切り払うが、さらに速度を上げた腕が男に向かって刺突を繰り返えす。
――すると、今度は後ろで男が戦うのを見ていた女性が、杖のような物体を振るった。
杖からは、無数の炎が槍のように吐き出され、無数に存在した腕をすべて焼き払っていく。男性もそれに合わせるかのように、再び剣を振るい魔法陣を生み出すと、次から次へと雷を生み出していく。
無数の雷が、炎が、嵐のように吹き荒れ、圧倒的な光量で視界を焼く。
そのあまりの光量に、体が反射的に動き、右手を目の前にかざした。
「ぁぁぁおぉぉぉぉぉぉぉ――ッ!」
肉塊は、なす術もなく、断末魔のような悲鳴を上げると、男女の猛攻にそのまま全身を焼き払われ、切り払われ、ぐずぐずに崩れて消えていった。
……やがて、肉塊がその姿を完全に崩したのを確認すると、男女はこちらを振り返る。
――そして、そのまま私達に向かって礼を述べるようにぺこりと頭を下げた。
「ッ待て――っ!」
慌てたような大きな声で、先輩が私の後ろから声を掛けた。
男女は頭を上げると、先輩の言葉の先を待つようにこちらを向いた。
「……最後に、一つ聞きたい。――雪華という者を知っているか?」
先輩の言葉に、男女は顔を見合わせると、先輩に向かってゆっくりと首を振った。
「そうか……呼び止めて済まなかった。この度は本当に感謝している……そして、この国の者が、長年にわたって多大な苦労を掛けたことを詫びよう」
先輩が、怖いくらい真剣な声を出しながら、なぜか謝った。
男女は、そんな先輩の事を少し驚いたように目を見開き見つめたが、やがて優しく微笑み首を振った。
――まるで、謝罪など必要ないという風に。
そして、最後にもう一度、お別れを告げるように頭を下げると、二人はお互いに向かい合った。
「――え? わ……っ」
向かい合った二人は、そっと正面から抱き合うと情熱的なキスをした。
――突然の行為に『見ちゃいけないっ!』と思った私は、慌てて目をそらした。
おそらく数秒間だっただろうか。
少しだけ目をそらした後、恐る恐る視線を戻す。
――二人は未だ唇を合わせたままだった。
しかし、その足下がさらさらと光の砂のように崩れて、天に向かって昇っていく。じわりじわりと、二人の体が崩壊していき、金色の粒子へと変換されていく。
その間も、二人は抱き合い、口づけを交わし合っているままだ。
(……綺麗だ)
だが、それを見て私は決して『いやらしい』とは感じなかった。
むしろ、幻想的で……神聖な物であるようにさえ感じた。
……見てはいけない。そう思っても目が離せない。
――そして、私達が見つめる中……二人は春の空。桜の花びらと溶けて消えていった。
後3話(本編2話+エピローグ1話)で第一章終了です。





