第二十三話「先輩、盆踊りする幽霊って怖いですよね……」
「――邪魔を……するなッ!」
私がようやく泣き止もうとしていたとき。
それまで、私をあやそうとオロオロしていた先輩が、突然表情を引き締めて、地面に落ちていた独鈷杵を拾い上げて――私の後ろにぶん投げた。
慌てて振り返ると、そこには何もない空間に突き立った独鈷杵が揺れていた。
「――おぉぉぉぉぉぉぉぉぉぉ……」
不気味な声が響き渡り、ずるりと独鈷杵が引き抜かれるような動きを見せて、地面に落ちた。そのまま、奇妙な雄叫びは桜並木の向こう側へと消え去っていく。
「く……一旦下がったか……しばらく見ない間に、ずいぶんこれはまた……醜悪な形になっておるではないか……! ……まったく。こっちは取り込み中だと言うに……」
先輩が悔しそうに言いながら、嫌悪感も露わに独りごちた。
そして、再び困り果てたような様子で私の方に向き直った。
(……一体、先輩は何を言っているんだ?)
もしや、ひょっとして、先輩は今、見えない手に独鈷杵を当てたのだろうか?
「あ、あの……先輩?」
――突然繰り広げられた、あまりに衝撃的な光景に、浮かべていた涙も引っ込んだ。
(そ、そういえば、自暴自棄になって、すっかり忘れていたけど……普通に今は絶体絶命な状況なんだった……)
「……ふむ。君も見ただろう? まったく、あんな巨大な輩を相手に、独鈷杵一本でどう対処すれば良いのか……的が大きくなったのと、形が変わって姿を消せなくなったのか、ふらふら近づいてきてくれたのが幸いか」
心配そうな顔をしたまま近づき、ぺたんと座り込んだままの私を立ち上がらせた先輩は、ぶつぶつ文句を言っている。立ち上がらせるために握った私の右手を、そのまま力強く左手で引きながら独鈷杵が落ちた場所まで歩いて行き、武器を拾い上げた。
「あの……先輩? 今……なにか見えてたんですか?」
「ん? あの醜悪な外見をした肉団子だよ。ぶよぶよした丸い塊に例の腕が大量に生えていて気色悪かったが……。――まさか、見えてなかったのか!?」
独鈷杵についた土を軽く払っていた先輩が、私の言葉に驚いたようにこちらを振り返った。
どうやら、先輩には姿の見えなくなった腕達が、ごく普通に見えているらしい。
「ええっと……はい。先輩が投げた独鈷杵は、空中で止まってみえました」
「そうなのか……? 私としては、奴の本体に突き立てたつもりだったのだが……」
(なぜ? そんな事に……?)
疑問に思いながらも、正直に見えた通りに説明すると、『これは一体……』と考え込んでいる様子だ。
「そうだな……咲っ……神宮さん。いくつか聞きたいことがあるのだが」
――『咲夜』と私の事を呼びかけた先輩が、途中で慌てて言いなおす。
(そういえば、先輩……さっき……さ、『咲夜』って……)
先輩からの呼び名が、親戚以外から呼ばれた事のないものに一時変わっていたことに、今更ながら気がついた。
――かっと胸の奥に熱が籠もった気がした。
それ以上、その事を考えると、なんだか熱があふれかえりそうな気がして、私は大きく深呼吸をしてから、昔の事を考えた。
(……中学の時、普段誰でも呼び捨てにする明るい子が、私の事を呼ぶときだけ緊張したみたいに『神宮さん』って呼んだときはショックだったなぁ……)
思い出したのは、中学校の時の嫌な思い出。地味にショックだった出来事だ。
そのお陰か、少し胸の奥に籠もった熱量が、ざわりと揺れてくれた。
(そうだよ……うん。今は呼び方なんてこだわってる場合じゃない)
目覚めたばかりの先輩が色々と疑問に思うのも当然だ。
――この変化を引き起こしたらしき私がまだ十分に状況を把握できていないのだから。
だけど、なんとか説明しないことには始まらない。
私は先輩に向かって、『聞きたいこと』に応える準備が終わったことを示すため、こくりと大きく頷いてみせた。
「そうだな……まずは……私の傷が治っているようなのだが、これは神宮さんがやったのか?」
「はい。龍樹様の雫を先輩に……そのっ、怪しげな物、勝手に飲ませたりしてごめんなさい。でも、もしも、もしかしたらって思って……」
先輩の質問に答えながら、いくら瀕死の重傷を負っている相手とはいえ、怪しげな物を口に入れた事を思い出し、語尾がだんだんと力を失っていく。
しかし、そんな私に対して、先輩は大きく破顔すると元気づけるように力強く断言した。
「構わん。おかげでこうして私は一命を取り留めることが出来たのだからな。むしろ、そんな貴重な薬を私の為に使ってくれたことに感謝せねばならん。――ありがとう」
言葉と共に、先輩が深々と頭を下げてきた。
でも、先輩が怪我を負ったのは、私を庇ってくれたからだし、そもそも今回の事件に巻き込んだのは私だ。お礼を言われることなんかじゃない。
(むしろ、御礼を言わなくてはいけないのは私の方……)
「しかし、龍樹様の雫の効果は凄まじいようだ……まったく……本当にここ数日で、ここ五年間の努力が何だったのかと言うほど不思議な事を体験しているよ――いや、すまない。これでは愚痴だな……」
頭を上げた先輩は、身体の具合を確かめるように、両手を二度三度と開いたり振ったりした後、周囲を警戒するように独鈷杵片手に周りを見回している。
「私も、本当に効果があるって思ってなかったんですけど、藁にもすがる気持ちで先輩に飲ませたら、金色の光が先輩を包んで……」
「――ほう……金色の光? 今、この周りを漂っているこの細かな粒子のことかね?」
先輩は、興味深そうな表情を浮かべながら、何もない空間を小さな虫を払うように右手を振り回している。
「……周りに漂ってる……? 確かにさっきはたくさん現われてましたけど、今はもう全然。真っ暗じゃないですか……?」
「……これも、見えていないのか……? なるほど。原因は分からんが、神宮さんが見ている景色と、私が見えている世界が些か食い違っているようだな」
先輩の声音は決して冗談を言っているような物ではない。
となれば、どうやら本当になにか不可思議なことが起こっているらしい。
目の前でこちらを見つめている先輩の瞳は、相変わらず金色に変色し、発光するように輝いている。
――先輩の見える世界が変わってしまったとすれば、それが原因としか思えなかった。
そしてそれは、龍樹様の雫を使う前と使った後で、明らかに変わってしまったところだ。
(――これ、どう考えても、私が龍樹様の雫を飲ませたせいだよね……?)
「その……先輩の、目の色が変わってしまっているのに関係……してるんでしょうか……?」
明らかに自分が飲ませた薬による副作用らしき現象に、罪悪感と後悔……そして焦りが入り交じった複雑な気持ちになったが、それを抑えこんで先輩に伝えた。
「いや、なにこういう疑問は解消しておかねば何事が起こるかわからんだろう? ついつい気になってしまってな」
だが、先輩は『目の色が変わっている』を慣用的表現と認識してしまったようだ。照れたように少し笑みを浮かべながら、私の手を握るその手に力を込めた。
「そ、そうじゃなくて……そのっ……すごく、その、言いづらいんですけど……先輩、目の色がさっきから――金色に変わってるんです」
「――は?」
どうやら、流石の先輩も物理的に目の色が変わっているとは思わなかったらしい。
――仕方なく、私は片手でポケットをまさぐると、髪の毛の具合を見るために持っていた手鏡を取り出し、――向けた。
「――っ、何だ……これは……いや、これって……でも、アイツのは……」
やはり、目が覚めると自分の見た目が変わっているというのは、衝撃的だったのか、目を見開きながら鏡の中の自分とにらめっこをするようにすがめつしている。
「だが……なるほど。原因は十中八九、これだろうな……勘だが」
「ですね……勘ですけど」
私が同意したところで、先輩が何かに気がついたように一瞬動きを止め、先ほどまで寄り添っていた桜の木の辺りをじっと見つめた。
「――さて……時に神宮さん。一つ聞きたいんだが……」
言いながら、私を桜の木の方から庇うように体を滑り込ませる。
――先輩はそっと指を伸ばし、一点――ちょうど、私の巾着袋が落ちている辺りを指さした。
「なんですか?」
「――あそこの異国情緒溢れる男女御両名は見えるかね?」
『さあ、今度はなんだ?』と思っていたら、思っていた以上にホラーじみた答えが返ってきた。
先輩の言葉に、顔が引き攣るのを自覚しながら、もう一度巾着袋が落ちている辺りを確認するが、そこには雑草の中に落ちている見慣れた袋があるだけだ。
(……ああ、しかし……『見えない誰か』……かぁ……)
よく映画で見かけるようなパターンだと、実はそいつらは亡霊だったり、突然次々盆踊りを踊り出したりするのだ。
(――ミイラ男に気をつけよう)
馬鹿な事を考えながらも、それが先輩の冗談でないのは十分に分かっていた。
だが、いくら目をこらしてみても、先輩が指さす先に人影など欠片も見えない。
「……冗談……では、ないんですよね?」
「無論だ……その反応を見るに、やはり見えないようだな。――まあ、半分透けている時点で予想通りだな」
どうやら、その二人の外国人らしい人物は半透明の姿をしているらしい。
(――うん……確かに、それはどう考えても幽霊だ)
「ふむ……神宮さんはそこで待っていて貰えるか?」
なにか納得したらしい先輩が、てくてくと巾着袋の落ちている辺りに近づいていく。一応片手には独鈷杵を握り締めているけど、さっきの先輩の怪我を見た後の私には不安でたまらなかった。
「ちょっと……先輩、近づいたら危ないですよ!?」
「なに、あまり、悪意ある存在にも見えんしな。見えてさえいれば、さっきのような醜態はさらさず済むだろう……それに、宝珠が入った巾着の所に現われているのが気になる」
そういって独鈷杵を軽く持ち上げ、私に示してみせると、私の制止を気にせず先輩はすたすたと歩いて行く。
(……もう、龍樹様の雫は使い切ってしまって、次は無いって言うのに……)
『また、先輩が大怪我を負ったら……』
そう、考えるだけで、胸の奥が引き裂かれるように酷く痛んだ。
(――ああ……そうか)
……だから、私もこんな所に残ってちゃだめなんだ。
(――これじゃあ、もし何かあったら、また僕だけ生き残ってしまうな)
――先輩と一緒に行って、一緒に頑張って。
(……それで駄目なら、その時は……。――うん。やっぱり『一緒』だ)
「わかりました……でも、駄目です先輩。行くなら一緒です」
「いや、なにかあったらいけないからな。神宮さんはそこで待っていてくれ」
「――『なにか』があったら、駄目なんです。もう、さっきみたいなのは、私、見たくないです」
先輩の目を真っ直ぐ見て、自分だけ残るのは絶対に嫌だと意思表示をする。
――すると、先輩はふっと目をそらして、頬を指先で掻いた。
そして、軽くため息をつくと、片手を私の方に差し出してくる。
「……すまない。――なら、一緒に来てくれるか?」
「――はいっ!」
私は、今度は覚悟を持ってその先輩の手を握りしめた。
暖かくて、ほんの少し緊張しているのか、湿気の感じられる手が、たまらなく大切に思えて。
(――今度こそ、離さない)
少し強い力を込めて、握り締めた。





