第二十二話「先輩……っ見てたんですかっ!?」(挿絵あり)
――桜の花びらが散っていた。
少し、強さを増した風が吹き抜ける度、ザァ――という音共に、真っ白な雪のように、無数の花びらが舞い散っていく。
――その中心に、私は居た。
目の前の、一際大きな桜の木の下で、先輩は力尽きたように目をつぶっている。
先輩の周りの地面は、流れ出した先輩の血で浅黒く変色している。
血だまりに沈んだ先輩に、ゆっくりと近づいた私は、先輩の男性らしい骨格をした首筋に触れた。
――触れた指先に、じっとりとした熱を含んだ汗が纏わり付いたけど、それが妙にくすぐったくて――こんな状況なのに、なぜか笑みがこぼれた。
トク……トク……
それは微かで、とても弱々しかったけど、確かに指先に先輩の生命を感じる。
(――まだ、生きてる。先輩……)
その確認をした私は、先輩の隣に行くとゆっくりと地面に正座した。
先輩の頭を抱きかかえ、膝枕をするように膝の上に乗せる。
(……先輩、やっぱり、あったかいな)
先輩の顔にかかっている髪の毛を払ってあげようとした指先が――震えた。
指先が定まらなくて、結局親指の腹で撫でるように先輩の顔を拭う。
(もう……別に、今、あの白い手が襲ってきたって構わない……)
独りで恐怖に怯えているより、こうしている方がずっと幸せだった。
――右手に握り締めていたペンダントを見た。
ペンダントは変わらず継ぎ目一つ無い流線型の中に、静かに液体をたたえている。
(……どうやって、この液体を取り出そうか)
少し迷いながら、左手に持っていた独鈷杵を勢いよく振りかぶる。
おばあちゃんの形見を壊すことに、微かに罪悪感を覚えたけど、それでも私は鋭くとがった先端を突き立てた。
パキン
罅が入るような音を立てて、あっけなく石に小さな穴が開いた。
(――これを、飲ませればいいんだよね?)
得体の知れない液体を人に飲ませるのは、とても怖かった。
――でも、出来ることをしないのも嫌だった。
先輩の口元に、ペンダントを近づけていく。
(――映画だと、口移しなんだろうな)
今まで、キスの一つもしたことのない人生を思い返して、少しの憧れと、突発的な危険な衝動を抱いたけど、流石にそんな先輩を侮辱するような真似はしない。
先輩の口を少しだけ開けると、柔らかそうな唇に触れたペンダントを傾けて、中身を先輩の口の中に流しこんだ。
意識を無くしている先輩は、なかなか液体を飲み込んでくれない。
ふと、思い出した事があって、先輩の硬く突きだした喉仏を少しだけ撫でた。
――すると、ゴクリと上下に動いて、液体が流れ込んだ。
(――ふふ、さっきとは、逆ですね)
まさか、さっきされたことをやり返すことになるとはおもわなかった。
(……ちょっとした仕返しですよ)
……そうやって、独り笑いながら龍樹様の雫を飲み込んだ先輩を見つめる。
――でも……待っても……待っても、先輩の様子に変化はなかった。
傷口もまったく治る様子もないし、先輩が目を覚ます様子もない。
(――ああ、ほら。やっぱり嘘だった。そりゃあ――そうだよね)
傷口を見つめながら、手元の穴が開いたペンダントを見つめる。
――やっぱり、迷信は迷信に過ぎなかった。
その事を再確認した私は、自分の行動の無意味さに自嘲のため息がでた。
――どうせあんな、白い手なんて余計な物が実在するなら、薬くらい、実在したら良かったのに。
急に、腕に、全身に。力を入れるのが辛くなって、両手を地面にだらりと垂らした。
(……役立たず)
内心で罵っていると、また、じわりと世界の輪郭がゆがみ始めた。
視力が落ちたみたいに、じんわりと視界が滲み、目の奥が熱く、見下ろしている先輩の顔がよく見えなくなっていく――。
(――ああ。……ああ……そっか……)
白く塗りつぶされていく視界の中で、握り締めた拳に刺さるペンダントの硬い感触が、自分の中に残っていた感情を浮き上がらせた。
(――私、どこかで期待してたんだ……本当に、本当にこの薬が効いてくれるんじゃないかって)
あの事故の時、割れたペンダントをお母さんが握り締めていたのは、ひょっとして私がいまここに居る理由じゃないかって。
――本当は……本当に、おばあちゃんが言ってたことが正しくて。
あの薬は、お母さんじゃなくって、私がお母さんに飲ませてもらって生き残って。
――おばあちゃんは病気だったから使えなかっただけ。
だから、先輩に飲ませれば、本当に助けることが出来るんじゃないかって。
(でも……だめだった)
全然、ぜんぜん、そんな都合の良いものは、この世の中に存在しなくて、世の中には都合が悪い物しかなくって、みかただっていなくって。
それでも――それでも、信じたかった。
(……一つくらい……たった一つくらいっ、御都合主義が通ったって良いじゃないか……ッ!)
『運命の神様』なんてのが居たら、本当に、本当に、馬鹿みたいに性悪だ。
(――神様なんて、ほんと……大っ嫌いだ!)
伊達眼鏡のレンズに、ポトポトと落ちていく雫を見つめながら、私は先輩の躰を引き寄せた。
――抱きしめた先輩の躰は、まだ僅かに暖かくて、筋肉質で固い感触がした。
それが、余計に『私』とは違う『誰か』だと私に訴えかけてきて。
――先輩を、失ってしまった事を、私に実感させた。
「――っぅっくぅ……」
震える唇を揺らしながら、私は夜桜が舞い散る世界の中で。
「――先輩ッ! 先輩ッ! 目を開けてくださいよッ! ――穂積先輩ッ!」
先輩の制服にシワが入るくらい、強く抱きしめ――慟哭する。
「――nあ」
――微かな。声が聞こえた。
(――え?)
――その瞬間、突然、金色の光が溢れて舞い散った!
金色の粒子が、周囲の桜の花びらを飲み込むように――夜を塗りつぶしていく。
――世界が、時を止めたように動きを鈍らせた。
その中を、無数の光の粒子が乱舞している。
(――いま、先輩が、声を……)
そんな明らかな異常事態。――その光の中心に居るのは、先輩だった。
反射的に目を閉じそうになるほど眩しい光が、先輩の全身を覆っている。
(――これ……っまさか……そんなっ……うそ……)
一度は諦めてしまった心が。変化していく状況に適応出来ずに動揺しているうちに。
目の前の事態は刻一刻と変化していく。
――見る間に先輩の傷口がふさがっていく。
失われた肉がどんどん盛り上がってきて。
時計の針を戻すように、凄い勢いで脇腹に空いた拳大の穴が消えていく。
まだ、信じられない。
だけど……だけれどもッ! ……全然、まったくっ、信じられない話だけどっ――!
……生まれて初めて『運命の神様』が私に向かって微笑んでくれたのかもしれない。
――世界を祝福するように踊っていた粒子が、今度は一定の規則を持っているかのように、大河のような流れを形作り、先輩の体へと戻っていく。
(――綺麗)
それは、まるで神話の一説のような幻想的な光景。
神秘的で、巨大ななにかの存在を感じさせる光景だった。
――やがて、その現象も終わりを告げ、じわじわと収束していく。
そして、先輩の周りが微かに光を伴うだけになった頃。
――先輩が、先輩の目が、ゆっくりと開かれた――ッ!
「――さく……や……?」
見開かれた、先輩の瞳は、なぜか金色に輝いていたけど、そこに浮かぶ意思の力は、変わらない先輩の物で……
私の名前が呼ばれた瞬間、一度は収まりかけていた涙が、また勢いを強めて流れ出した。
――多分、今の私は酷い顔をしていると思う。
必死で眼鏡を押し上げながら目元を拭って、先輩に涙でぐちゃぐちゃになった顔を見られないように隠そうとする。
でも……それより、なによりも、今は……
「はい……っ! 穂積、先輩……! 四日前から、後輩になった神宮咲夜です」
「……何を、泣いているんだ……可愛らしい顔が、酷い有様だぞ」
先輩が、私の膝の上に頭を乗せたまま、片手を上げて、私の顔を伝う涙を優しく拭った。右目の下の涙が拭われて、くすぐったさに思わず目をつぶる。
そして、目をつぶり先輩の暖かな手の感触を感じていると、一瞬熱が離れて、次は左目の下に――
――先輩の指先が、私の左側の顔を覆う火傷跡に触れた。
(――っしまった!)
先輩が傷跡に触れた瞬間、頭の上から冷水をぶちまけられたように、ふわふわと舞い上がっていた感情がすっと冷え込んだ。
唇と後頭部の辺りが一気に冷え込み、波の引くように血の気が引いていくのが分かった。
(――見られた? ……見られた。 ……見られた!)
頭の中が、自分の犯してしまった失態でぐるぐると回り出す。
(『先輩』に……火傷跡を……見られたッ!)
――泣きながら抱き寄せた先輩の顔は、私が思っていたよりもずっと近くにあった。
それは、ちょうど先輩からは見上げるように。
完全に確実に、もはや前髪程度では隠せないほどの位置取りで。
――言い訳のしようも無く、醜い火傷跡を間近で先輩に見られたのだった。
(――ああ、だめだ。 ――せっかく……せっかく先輩の傷が治ったのに……)
この傷が見られてしまったら、また、先輩だって私のことを変な目で……
「――いやっ! せんぱ、先輩っ! 見ないで下さい!」
もう、今更の事だというのは分かっていけど、顔を背けずに居られなかった。
傷口を見られないように、まるで殴られるのを畏れるように必死に両手で覆い隠した。
肩が、さっきとは違う恐怖でガタガタ震え、流れてくる涙もその質を変えていた。
(――ああ……本当に、世の中って言うのは思った通りには行ってくれない)
――そう、後悔するけどもう遅い。
私は、先輩から顔を背けるようにして、ただ震えていた。
「……? どうした? ひょっとして、その傷跡のことか?」
先輩が、不思議そうに声を掛けてくる。
膝の上から圧力が消え、暖かかった体温がなくなり、春夜の風は熱を奪い冷めていく。
――それが、なんだか余計に先輩が遠ざかっていくのを暗示している気がして、辛かった。
「……隠しててっ……、ごめんなさい」
……せめて、今まで隠していた事を先輩に謝らないといけないと思った。
先輩も、今まで一緒に居たのが、こんな、こんなにも気持ち悪い奴だったなんて、相当不快に違いない。
――情けない気持ちで……震える気持ちで、ただただ謝罪する。
でも、どうしても言い訳がその後に続いてしまう。
――ごめんなさい。ごめんなさい。
(……でも、せっかく感じた暖かさを失いたくなかったんですっ!)
心の中に浮かぶのは、やはり私の傷跡と同じ、醜い言い訳だった。
あまりの自分の醜さに、私から離れていった先輩の顔を見ることも出来ない。
「……? よく、意味が分からないのだが、ひょっとして、私からその傷跡を隠しているつもりだったのか?」
「――え?」
――続いたその声は、思っていたすぐ近くから聞こえた。
「――もし、そうだったのなら、すまない。初めて会ったときから気づいていたぞ?」
(――そんなはずない)
「……うそ……」
だって、教室に行くときだって、前髪をちゃんとチェックしてから入っていたし、それからだって、いつも見られないように注意してきた。
(――きっと、私がショックを受けているのを見て、適当に言ってるんだ)
先輩は、優しいから。
しかし、そんな私の考えは、先輩の次の言葉でひっくり返されることになった。
「君は……一体誰が高崎診療所まで君を運んだと思っているんだ……普通に顔ぐらいはとっくの昔、出会ったときに確認して居るぞ?」
――思わず、傷跡を隠すのも忘れて、先輩の方を振り返った。
そこに有ったのは、呆れたような表情を浮べる先輩の顔で。
呆れたような先輩が口にした言葉は、私が入学式の日に気を失って倒れてしまったときのことで……
そう。それがあったから先輩に出会ったのだった。
(――でも、それじゃあ……先輩はずっと傷跡のこと知ってた?)
でも……それじゃあ、出会ってからずっと接してきた、心地良い、先輩の態度もすべて傷のことを知った上の事で……っ!
それはつまり、今の失いたくなかった暖かさが、これからもずっと、『傷跡を見せなければ』なんて条件無しで続くってことに違いなくて……
――ましてや、もうとっくにそれは条件でもなんでもなく、通り過ぎてしまった過去で……
「……もしや、なにか特別な配慮を要するような症状だったのかね?」
黙り込んでしまった私を見て、先輩が『しまった』という表情を浮かべて、そんなことを申し訳なさそうに聞いてきた。
(――違う。そうじゃない。そんな事じゃない)
「ぅぇうううううああああ……」
こみ上げてきた涙に、声を上げて泣きながら私はただ首を振った。
「な……お、おい……こ、こら、そんなに泣くな……!」
――先輩は子供のように泣きじゃくる私の前で、普段の態度が嘘のようにオロオロするのだった。





