第二十一話「先輩、ひとりは寂しいです」
(――なんでッ!? どうしてッ!?)
先輩の体から生えている真っ白な腕を見た瞬間、頭の中がなにかずれてしまったように、真っ白になった。
ただ、それでも身体は反応するのか、ドクンと不規則な鼓動を感じた後、心臓が発する音が耳の奥でドンドンと強まっていった。
(――どこから現れた? ――どうして――先輩に?)
確かに今この瞬間まで、白い手は姿を現していなかったはずだ。
――それが、なんだ? いつの間にか先輩の脇腹に腕が一本突き刺さっている。
私は、刺さってからしか認識することができなかった。
――もし……『もし』、先輩が手を引いてくれなかったら、あれに襲われていたのは私だったろう。
(一体どうなって……どうなってるんだ!?)
現実を認めたくなくて、私の頭が理解を拒む間にも、先輩は独鈷杵を振り上げて、自分の脇腹で蠢く血にまみれた白い手を刺し貫いた。独鈷杵に貫かれて、色を失った腕を忌々しげに引き抜き、地面に向かってたたきつけている。
先輩に傷を負わせた腕は、独鈷杵の一撃には耐えきれなかったようで、地面でビクリと大きく痙攣すると、すぐに溶けるように消えてなくなった。
「――ぐっ……うっ……」
先輩が歯を食いしばりながら、痛みを耐えるように声を出している。
――ああ……先輩の左わき腹のあたりからは、血が滝のように流れ出てきていて。人の体から、これだけの勢いで血が出ていくのというのが……信じられない。
『作り物かも』なんて一瞬考えてしまう。
でも、目の前の光景は現実で……先輩が大けがを負っているというのは事実で……
――さっきまで、光に満ちていたはずの世界が、どんどんと暗く閉ざされていくような気がした。
「……行くぞ。――これは謀られた。やってくれる……。――奴ら、芋虫よろしくのたうち回っておきながら、知能は十分ということか」
そういって、先輩は満身創痍にもかかわらず、先輩は、道の両脇に盛り上がる藪の方へと近づいていく。
「……状況を考えれば、前も後ろも、どうも奴らに囲まれている可能性が高い……」
よろ、よろ……としたぎこちない動きであったが、先輩は私に向かって語りかけながら、道を外れ、藪を分け入り、奥へと進んでいく。
「だから、ここは奴らの薄そうな場所を突破していくしか……あるまい――ッ!」
私に向かって言い聞かせるように。
まるで自分の怪我のことなど大したことでもないとでも言うように。
ただ、私のほうに手を伸ばしながら厳然と告げた。
――しかし、そんな先輩の伸ばす手が、だんだんと暗く沈んでいく気がして……
(――いや、違う……っ! これは……これは、本当に周りが暗くなってきているんだ――っ!)
「先輩っ! ――空がっ!」
はっとして見上げた空は、さっきまでの聖域のような澄んだ色ではなく――どす黒い、私たちが乗り越えようとしていた空の色をしていた。
(そんな……じゃあ、今は……)
「――はっ……まさか、姿を消せる上に、夜明けも偽装とはな……恐れ入る。すっかり騙された。――確かに、妙に夜明けが早いとは思っていたのだ……時計がなかったから、時間を誤認するように仕向けられたのだよ」
自嘲するように鼻で笑う先輩の言葉を聞いて、ようやく私は理解した。
――まだ、夜は終わっていないことに。
――終わってなど、いなかったことに。
そして、さっきの腕は、私が気付かなかっただけでなく、本当に突然現れたのだという事実に。
――私たちは、罠にかけられていたのだ。
夜の世界、逃れられない場所まで。
――私たち……『獲物』が出てくるように。
(――あいつらは、今どこにいる?)
……ひょっとして、今この瞬間もすぐ後ろに迫っているんじゃないか?
――まるで、おもちゃのように弄ばれる感覚だった。
緊張に――呼吸が、どんどん詰まっていく。
だんだんと、事実を理解するにつれて、どす黒く冷たい感触が、のどの奥をごりごりと突き破り、胃のあたりから体の奥へと広がっていく。
キンと耳の奥が静かにつまり、そうして、広がった冷たさは背中へ、腕へと伸びていく。
――そう。それは、まぎれもなく『絶望』という感覚だった。
「くっ……」
「――っ! 先輩っ!!」
やがて、桜の花が咲き誇る、少し開けた場所に出たところで、前を走っていた先輩が、ぐらりとその体を揺らめかせた。
たまらず倒れ掛かった先輩が、横にそびえたっていた桜の大樹にもたれかかる。
(――そうだ。先輩、ひどい怪我をしてたんだ……)
自分の体を支えきれないように、木の幹に背中を預けた先輩が、ずるずると滑り落ちるように崩れ落ちた。
――慌てて、先輩の元へと駈け寄る。
「……いかんな。……すまない……神宮さん。どうも下手を打ってしまったようだ。すまないが、動けそうにない」
「っそんな……先輩……っ! 支えますから!」
弱気な事を言う先輩の左手をつかみ、泣きそうになりながら、何とか担ぎ上げようと体を先輩の体の下に潜り込ませる。
――ぬるっとした、油をつかんだ時のような温かい感触が手を滑らせる。
(――っ、これ……血……? こんなに……!)
「――いいか。神宮さん。よく聞け……この傷では、どの道私は助からん……」
「そんなっ! 馬鹿なこと言わないでください!」
(お願いだから、そんな真剣な声音で……すべてを悟ったような口調で、もう助からないだなんて言わないでっ!)
さっきまでと違う冷たさが全身を覆っていた。
――思い出すのは赤い光景。
――血だまりに沈んだ母の姿。
――目をつぶり、片手に大事にしていたペンダントを握りしめ、息絶えていた両親の姿。
(――あんな思い……もう、したくないんだ……っ!)
「――いいからっ、聞けっ!」
だが、そんな私の言葉を殴り飛ばすように、先輩が珍しく声を荒げて怒鳴った。
まさしく鬼気迫るという表現が正しい迫力の先輩に、思わず体がびくりと震えた。
「いいか? もう一度言う……私は、『助からない』。――だから、咲夜! 君は、宝珠をここにおいて、逃げろ……! 逃げて、絶対に助かって見せろ!!」
叫ぶ先輩の脇腹からは、今も大量の出血が続いていて、抱えている腕からも力が抜け、だんだんと重くなっていく。
そんな中、先輩はそれでも私に向かって生き残る道を選ぶように言った。
こんな……こんな状態なのに、先輩の目は、どこまでも力強くて、私に生きるように言っていて。
――抗えない迫力に、私は先輩の腕から手を放し、正面から先輩を見つめた。
「――これを、持っていけ。――武器もなし、というわけにはいかないだろう?」
殊更に優しい、僅かに笑いを含んだ声で言いながら、右手に握りしめた独鈷杵が私に向かって突き出された。
差し出している先輩は、今も激痛が走っているだろうに、いつものように口の端をゆがめた皮肉気な笑みを浮かべていて……
「せん……ぱい……っ! せんぱい! せんぱいっ!」
気が付けば、私は泣きじゃくりながら先輩から、金色に輝く独鈷杵を受け取っていた。
ひんやりとした、固い感触の奥に、先輩の暖かな体温が宿っている気がした。
「――いい子だ」
そういって、私の頭をやさしく撫でた、先輩は、まるで父のようで……
出逢ってから先輩はこうして私のことを助けてくれたのに……
(――私、ほんとうに何一つ返すことできてない……私なんかにできることがあれば、なんだってするのに……)
こんなところで突然お別れだなんて……
(――こんなのって……あんまりだ……)
「わたし、わたし、なんにもおんがえしだって……」
「――はっ、なに……気に……するな……そう……だな、俺の内ポケットに……パスケースが入ってる……そいつを、出してもらえないか……? ――それで、十分だ」
だらりと、力なく地面に垂れて落ちている先輩の右手を見て、言葉の意味に気が付いた。
(――もう、先輩……手を動かすこともできないんだ……っ!)
さっきまで、力強くこっちを見つめていたその瞳も、もうどこを見ているのかもわからないくらい焦点が定まっていない。
「……出します! 出しますから! まだ、まだ、だめです! 先輩っ!」
――何が駄目なのか。言っている自分でも分からない言葉で必死に呼びかけた。
意識が混濁している先輩のジャケットに手を突っ込んで、うすべったい硬い感触を引っ張り出す。
取り出したパスケースを、だらんと垂れていた先輩の右手に載せ、両手で握りこませる。
――ぽとりと、先輩の手の中からパスケースが落ちて、先輩が力なく伸ばしていた足の上に落ちた。
(……握ることも、できないなんて……)
ますます、ゆがんでいく視界の中で、人の体から、生命力が失われていくのをまざまざと感じた。
裏返って落ちたパスケースを、せめて先輩が見えるように膝の上で先輩の方にむけてひっくり返す。
――それは一枚の写真。
おそらく、どこかに出かけた時に家族で撮った写真だろう。
照れくさそうにしている小学生くらいに見える先輩と、以前見かけた先輩のお母さん、それからお父さんらしき男性。
……最後に、外国人らしい美しい銀髪の女の子の姿が映っていた。
ご両親はとてもうれしそうな笑顔で、先輩はちょっとぶっきらぼうな感じで顔を赤らめている。
最後の女の子も、無表情気味だが、うっすらと微笑んでいるような気がする。
――そこにあったのは、暖かな家族の姿だった。
「ごめん……」
先輩が、最後にそう言ったのは、私へのお礼の意味だったのか、写真に写る人へのものだったのか。
それっきり、先輩は気を失ったらしく、がっくりと全身の力を抜いた。
***
「……逃げなきゃ」
脱力していた私は、ゆらりと立ち上がった。
涙は、いつの間にか止まっていた。
――なにも、考えられなかった。
ただ、先輩が、逃げろって言ったから。
ただ、その命令に従って立ち上がっていた。
宝珠も、何もかもおいて。
先輩から貰った、独鈷杵だけを握りしめた。
ぜんぜん……足が動かない。
それでも、体を引きずるようにして歩いていく。
――また、一人だ。
――また、独りだけになってしまった。
今はまだ、握りしめた独鈷杵の硬さだけが、私の心をつなぎとめていた。
振り返ったところで、白い手の姿はなく。
狂ったように咲いていた桜が、随分と遠くに見えた。
先輩が、もうあんなに遠い。
――逃げなきゃ。
――もっと、遠くへ。
せんぱいのいったとおり、イキノコッテ……
(――生き残って、どうするんだ?)
――湧き上がってきたのは、そんな疑問。
仮に生き残ったって、また、私は独りなんだ。
だれも……だれも周りに居ない。
味方なんて、どこにも居ない。
また、孤独の中でたった一人で寂しく過ごさないといけない。
それなのに……生きる意味なんて、あるのかな……?
こんな思いをしてまで、どうして生きなくちゃいけないんだろう?
――どうして、私だけ。
また、頭に浮かんだのは、もう何度も何度も考えた不安。
そして、次々と私の幸せを奪っていく世界に対する憎しみだ。
(……生き残るのが辛い)
――そう、思ってしまった。
(――こんな考えは、駄目だ)
胸の中を暴れ回る薄暗い衝動を慌てて否定する。
ぎゅっと締め付けられるような苦しさを覚えて、右手で制服の上から自分の胸元を押さえ込んだ。
カツン――と、指先が硬い物に触れあった。
(――なに……?)
一瞬、それがなにか思い出せなくて、無意味に思考が空転した。
……だが、すぐにその存在をおもいだす――おばあちゃんの形見のペンダントだ。
「――っ。――おばあちゃん。ごめんなさい……ごめんなさい……でも、やっぱり……独りは……辛いよ……怖いよぅ……」
普段なら私を勇気づけてくれるそれは、今の私にとっては、人と過ごす暖かさを思い出させる、辛く、痛く、苦しい物だった。
(――なんで、おばあちゃんも――お母さんも、死んじゃったの!?)
――もし、もしこれが、本当に万病の薬だって言うなら――っ!
――もし、これが本当に誰かを助けてくれるなら――っ!
(だったら、みんなを助けてよ!)
――おばあちゃんも、お母さんも、みんな、なんで死んだんだ!
……辛くて、悔しくて。
八つ当たりしたい気持ちだけが込み上げてきて、思わずペンダントを握り締めて首から提げていた紐を引きちぎると、地面にたたきつけようと振りかぶった。
(――いや、待って……そうだ)
振りかぶったところで、熱くなった思考を遮る物があった。
――ペンダントを握り締めた、自分の右の拳を見つめる。
(……そうだ。どうせ……どうせ、生き残ってもまた独り)
苦しい想いをしないといけないんだったら……
――最後は、だれかと一緒に迎えたい。
(いや、違う……)
別に、今から私は死にに戻るんじゃない。
ただ、先輩が助かるかも知れない方法があるから、戻るだけだ。
決して、これは後ろ向きな考えじゃなくて、ただ、最後の希望に賭けるだけだ。
最後の希望を『魔法の薬』に賭けて――それで、それで……全然先輩の傷が治らなかったら……
――諦めよう。
だから……その時は先輩。
(――ごめんなさい。こんな、不気味で、出会ったばかりの親しくもない後輩だけど)
――最後に私と一緒にいてくれませんか?





