第二十話「先輩、なにか生えてますよ!」
[――r、――は、――ったいに、――りしないっ! ――ッげろ! ――ッ華!]
――どこからか、声変わり前の少年のようなソプラノボイスが聞こえた。
焦燥に駆られたように誰かに向かって何事か叫んでいる。
その声は焦りと……悲壮な覚悟を感じさせた。
しかし、それと同時に、どこか勇気に満ちあふれていて、困難を打ち破ろうとする決意を感じさせるような――そんな声だった。
――でも、なぜだろう。その声は、聞いたことなんてないはずなのに、何故かどこかで聞いたことがある気がする声で……とても落ち着く声で……
(――ああ。そうだ。この声って……)
――先輩。
……
…
――目が覚めた。
(……何だ、今の……夢……?)
どうやら、私はいつの間にか眠っていたらしい。この所見ていた悪夢とは違う、なにか不思議な夢を見ていた気がする。
(――そうか、先輩に目をつぶっておくように言われて……)
寝起きでぼうっとしながら、右肩から感じる心地良い暖かさを感じていると、徐々に頭の中が冴えてきて、今の自分の状況を思いだしてきた。
目をつぶってすぐに記憶が無いところを見ると、『眠れないかも』と言っておきながら一瞬で眠ってしまったらしい。
視力を取り戻してくる視界の中で、ゴツゴツとした男性の大きな手が、何かを握り締めているのが見えた。
(――って、ああ、先輩か……独鈷杵と……パスケース?)
すぐにその手の正体が先輩のものだというのは分かった。
先輩は、まだ私が起きたことに気がついていない様子で、カードサイズの何かを握り締めている。薄暗がりで、細部は見えないが、それはちょうど定期なんかを仕舞っておくパスケースに見えた。もう片方の手にはまた、何故か独鈷杵を握り締めている。
「……先輩、すみません。眠ってました」
(――先輩、徒歩通学のはずなのに、なんでパスケースなんて見てるんだろう……?)
不思議に思いながら声を掛けると、先輩は慌てたようにパスケースを内ポケットに仕舞い込んだ。
「あ、ああ。済まない。もう起きたのか? 随分早いお目覚めだな。 ――しかしまあ、良いタイミングではあったというところか」
(――私……どれくらい眠ってたんだろう?)
体感時間では、ほんの五分くらいに感じたけど、先輩の反応をみるともっと長い間眠っていたみたいだった。
……なんだか、そのせいで先輩の見ちゃいけないところを見てしまった気がする。
「……どれくらい……眠ってました?」
「ふむ……時計がないから正確には分からんが、二時間くらいか?」
「――っ、そんなに……」
「ちなみに、いつの間に眠ったのかは分からないからな。今の時間は――『私を枕にしてから』という前提になる」
――そういう先輩の声は、なぜか妙に近い位置から聞こえてきた気がした。
(――ん? 『私を枕』って……)
先輩の、微かに笑いを含んだ声に、何故か嫌な予感を覚えながら、私は考えた。
……そういえば、さっきから感じてる暖かいのって……
(――ぁ、ッ!!)
「――ご、ごめんなさいっ!」
慌てて、体を先輩から離した。
どうやら……いつの間にか、私は先輩にもたれかかるようにして眠っていたらしい。
――というか、もう、半分先輩と壁の間に挟まりこむように倒れかかっていたらしい。
(――ゃっ、これ、私が寝ている間、先輩全然身動きできなかったんじゃないの!?)
「いや、……あれだな。後輩の女子にしな垂れかかられるという、世の男どもの浪漫的なものを体験させてくれたのだろう? ふむ、確かにこれはなかなかに悪くない。もう少し、そのままで居てもらっても構わなかったのだが?」
――伸びをしながら早口にそういう先輩の声は、話している内容とは正反対でどこか疲れていて、どうやらなかなか無理をしてくれていたようだった。
「いえ――あの、違いますっ! その、えっ、ええと……すみませんでした!」
「いや、なに、ちょっとした役得というものだ。……まあ、しかし本当に良いタイミングだったようだぞ?」
焦りながら何度も謝ると、先輩はそんな冗談をいって肩を回しながら、言葉をつづけた。
「――見ろ。どうやら我々が考えていたより、存外寝始めたのは遅い時間だったようだ。――空が白み始めた。夜明けだ」
そういって先輩が指さす先には。
――いまだ何度も音を立てながら衝突してくる手の向こう側で、じわじわと黒を水色へと変化させている空があった。
――待ち望んだ、夜明けが来た。
***
「っ、先輩、……手が!」
「――どうやら、私たちの運はなかなかのようだ。どうやら、神宮さんは、ずいぶんと普段の行いが良いらしいな」
空の明るさが増していくにつれて、だんだんと白い手たちが、その色を薄れさせていく。
そして、色を無くした手は徐々にその輪郭を陽光に溶かされるように、ひとつ……またひとつ……と消え去っていく。
消えていった腕は、もう再び現れることはなく、やがて目に見える範囲には一つも残さず消え去った。
――いつの間にか、一晩中聞こえていた弾けるような激突音も、聞こえなくなり、私たちのいる神社の周りは、いつも通りの朝の光に照らし出された日常の風景を取り戻している。
「神宮さんは、いったんここで待機していてくれ。念のため周囲を見てこよう。――何もなければ、一緒に戻れるな」
独鈷杵を取り出して握りしめた先輩が、格子戸の近くに寄って、警戒するように外の様子をうかがっている。
どうやら、武器を持っている先輩が周りを確認するつもりらしい。
(先輩に、危険な役目を頼むのが心苦しいけど……)
……今一緒に私が行っても足手まといになるだけだ。
先輩が、恐る恐る扉を開けながら、周囲を確認しながら本殿の外へと出ていく。
――足手まといのなるのが悔しい。
だから、せめて先輩が見て回る足しにでもなればと、入り口に隠れるようにへばりついて、先輩の周囲に目を光らせた。
本殿の周りは、さっきまでの騒音が嘘のように、しんと静まり返っていて、ただ先輩が地面を踏んだときに立てる、ギュッギュッという微かな音だけが聞こえている。
こうして、少し離れた所から見ていても、先輩の周りに何の異変も見受けられなかった。
(――そういえば、先輩、結局寝てないわけだよね……?)
しっかりとした足取りで歩く先輩の姿を見ながら、改めて申し訳ない気持ちがこみあげてくる。
――結局最後まで私は足手まといになってしまったわけだ。
せめて、このまま何事もなく終わったら、先輩にはゆっくり休んでもらいたい。
(なにか、手伝えることがあればいいのに……)
「よし。大丈夫そうだ。神宮さんも一緒に行こう」
「わかりました!」
そんな事を考えるうちにも、周りの探索を終えた先輩が、私に向かって声をかけてくる。
――そう。だから、『これから』いつかきちんと恩を返すために。
(――よし。恩返しするためにも、まずは、ちゃんと日常に帰らないと)
***
――先輩と二人帰り道を歩いていく。
周囲に不審な影はなく、穏やかな朝の陽ざしに照らし出された樹木だけが生い茂っていた。
昨夜見たときは、ずいぶん不気味な森のように感じていたが、改めてこうしてみると、不気味さよりも、神秘的な雰囲気のほうが強く感じるのだから、人の感覚なんて当てにならないものである。
「――桜か。花見にはよい時期だな。神宮さんは、花見には行ったのか?」
「花見ですか? 今年は行ってません。去年までは毎年見に行ってたんですけど」
山にところどころ白い花びらをつけている桜を見た先輩が、緊張を解すように世間話を振ってくれた。
――お花見。
去年まではおばあちゃんと一緒に花見に行くことが多かったが、今年は一人だ。
とても、花見に行く気にはならなかった。
「そうか。実はな、うちの高校は結構花見の名所でな。近隣住民の皆さんが、家族連れでえっちらおっちら花見に来ているようだ。――さすがに、酒類は厳禁だがね」
「ああ、浅高の桜は確かに、綺麗ですからね」
学校の敷地内。校舎に至るまでの坂道。その、桜並木を思い返しながら応えた。
浅間高校の桜は、去年までも、遠くから見ることはあったが、入学してから学校に通いながら見てみると、枝振りの良い桜が生えそろっていて壮観だった。
――残念なことに、入学してからこっち、落ち着いて桜を見る余裕なんてなかったけど。
(でも、家族連れで外部の人間が花見に入ってくるなんて、セキュリティ的に大丈夫なのかな? ……まあ、こんな田舎町で大それた事件なんて起こることないと思うけど……)
「まあ、あの桜並木の坂のせいで、生徒には不評だがね」
「――ああ、確かに入学式の日は、坂道で死ぬかと思いました」
山を切り崩して建てられた学校の、長い……長すぎる坂道を思い出しながら、四日前の入学式の日のことを思い出す。
(――そういえば、あの後、結局帰りに気を失って、先輩に病院に運ばれたんだよね……)
……そう考えてみると、倒れた原因にあの坂道がダメ押しだった気がしないでもない。
「――そういえば、もう体は大丈夫なのか?」
私の、『死ぬかと思った』という言葉に、出逢った時の事を思いだしたのか、先輩が気遣ってくれる。
実際の所、本当にあの時は寝不足続きで倒れてしまっただけで、今ではこうして元気に出歩ける位である。
(――そのせいで、先輩には本当余計な心配掛けちゃったな……)
「ええ。本当に夢のせいで寝不足だっただけですから」」
「……まったく、夢の分際で本当に難儀なものだな」
「ふふ……そうですね」
笑う私のほうを振り返った先輩が、何かを思い出したような顔をしてにやりと笑った。
――なにか、とっておきの場所を教える悪ガキのような笑い方だ。
「桜の名所といえば、学校を挟んで反対側の山を入ったところに桜の植えられた広場があってな? ――それがまた見事なのだ。しかし……人もその割に来ないようで、去年見に行った時も貸し切り状態だったが、いや、なかなかに良かったよ」
「そうなんですか?」
頭の中で家から学校に向かって歩いて行って、裏側に回り込んでいく。
――『ああ、あの山か』と思う場所は思い付いたけど、そんなところに桜の名所があるとは聞いたことがなかった。
でも、先輩がわざわざそう言うってことは、きっといい場所なんだろう。
(――まあ、一人で花見っていうのも、悪くないのかもしれない)
この所いろいろとあって、疲れてしまった心を落ち着ける意味でも、のんびり一人で花見に行ってみるというのも悪くなかった。
それに、おばあちゃんの形見のペンダントはいつも身に着けているんだから、ある意味、おばあちゃんとの花見になるのかもしれない。
――そう思ったら、なんだか少し楽しみが出来たのかも知れない。
「今度、その場所を教えてもらってもいいですか?」
少しだけ、自分でも前向きになっているのが分かる気持ちで、先輩おすすめの絶景スポットを教えて貰うようにお願いしてみた。
すると、先輩は少し悩むような仕草をした後、ふっと表情を緩めると、今度はすこし不敵に笑った。
「ああ。構わんよ。――だが……どうだ? 無事にこのまま何事もなく終われば、祝いがてら、二人で花見と洒落込むというのは」
(……?)
――一瞬、私は、先輩がにやりとした笑顔のまま、楽しそうに言った言葉の意味が一瞬理解出来なかった。
――しかし……段々とその意味が頭の中に染み渡っていく。
(二人で花見……それって……つまり……今、先輩は、私の事を遊びに誘ってくれてるっ!?)
「――っいいんですかっ!?」
「――ああ。構わんとも。私は、夏の次に春が好きだからな。こういう年間行事は体験しておきたいのだよ」
(わ、わ、わ、家族以外の誰かと花見に行くなんて……初めてだ)
もう、誰かとどこかに遊びに行ったりすることなんて無いと思ってた。
だから――こんな風に誘ってもらえるなんて――思ってもみなかった。
――ただ、純粋に、本当に、うれしかった。
(――おばあちゃん……。やったよ!)
この自分の嬉しさを伝えたくて、おばあちゃんに向かって報告するために、心の中で静かに両手を合わせる。
昨日、夢の中であったおばあちゃんが、確かに微笑んでくれているような気がした。
「――道祖神だ」
和んでいた私を他所に、急に雰囲気を引き締めなおした先輩が、道端に建てられたお地蔵様を見ながら、警戒心を高めた。
――前回奴らが襲ってきたのはこのあたりだ。
私も、警戒しながら周りを見回すが、それらしい怪しい影は見受けられない。
――しばらく、その場に留まり警戒するが、風に揺れる木々の音が聞こえるだけで、鳥の鳴き声一つ聞こえない。
「……大丈夫、そう……ですね」
不安を抱えながらも、ひとまず奴らの影が見えないことに安堵した私は、目の前で周りを見回している先輩の近くに近寄った。
「そうだな……、――ッ!」
――先輩が、同意を示そうとしたその時。
――ガサリ、と大きく物音が聞こえた。
慌てて、先輩と二人、音のした方向を振り返る。
――だが……なんの姿もない。
……どうやら、風か何かが木を揺らした音だったらしい。
「……なにも……いません……ね?」
「ああ……。っ、いやッ、――くっ!」
――突然、先輩が何かに気が付いたように手を伸ばし、ぐいっと私を大きく引っ張った――ッ!
安堵から一瞬力を抜いていた私は、急に引っ張られたことで、バランスを崩して先輩の後ろへとつんのめるように追いやられる。
「先輩……っ!?」
――そして、蹈鞴を踏みながら後ろを振り返りながら私が見たのは――
苦悶の表情を浮かべる先輩の左脇腹から生えている内臓を引きつぶそうとするように、憎しみのこもった動きでぐちゅちぐちゅちと湿った音を立てて蠢動する――白い手だった……
「――っせ、先輩ぃっぃいぃぃぃぃっっつ!」





