第十九話「先輩、……おやすみなさい」
「ネクタイはもう外しておいたらどうだ? 疲れるだろう?」
「……そうですね」
ペンダントを取り出すために一度解いたネクタイを結び直そうと、襟のボタンを外していると、先輩がそんなことを勧めてきた。
……たしかに、学校にいるわけでもないのに、いつまでもかっちりとネクタイを着けたままなのは息苦しいだけだ。
結ぼうとしていた手を止めて、ネクタイを丁寧に折りたたむ。
……そうして、先輩の方を向いてふと気がついた事があった。
「――そういえば、先輩はネクタイをしていないんですね」
「ああ。一応なにかあったときのために持っていってはいるがな。その日の気分によって、つけたり外したりと言ったところか」
「……それ、大丈夫なんですか?」
先輩の返事に、ちょっと先輩の事が心配になった。
「どういう意味だ?」
「その……ネクタイを外していて怒られたりしないんですか?」
(まさか、こう見えて実は札付きの悪として名前が通っていて、ネクタイぐらいじゃ先生からも注意されない……なんてことはないよね?)
思い浮かべるのは、昔の不良を題材にした映画にでてくる不良男子だ。
ビー玉を口に入れて殴りつけるようなそんな印象。
――もし、そんな事があったとしたら、先輩に対する見る目を少し変えないといけない。
(……まず、あり得ないけど……)
先輩の姿を頭の先から見下ろすように見つめながら、『不良』という単語の似合わなさに少し口元が緩んだ。
まあ、それにしても普通は制服を着崩していたら注意の一つくらいはされると思う。
「なんだ。そういうことか。別にそれについては問題無いな。――うちの学校は、基本的に外部にお呼ばれする時を除いて、ネクタイの着用は任意だ」
「そうなんですか!?」
先輩が予想もしていなかった浅間高校ルールを教えてくれる。
――てっきり、制服なんてどれも校則で着用必須だと思い込んでいた。
「ああ。……一応、そのためのボタンダウンらしいからな。加えて、女子はリボンかネクタイか選べるから、皆結構自由にいじっているはずだが……? 見なかったか?」
(ぜ、全然気がついてなかった……)
というか、入学式からこっち、それどころではなく色々ありすぎて、そんなところまで注意していなかった。
「神宮さんは真面目なのだな」
私が手に持っているネクタイを見ながら、先輩は感心したようにそう言ってくれるが……
(――言えない。……制服はそのまま着ておけば問題ないと思って、特に気にせずにまるごと一式身につけていたなんて……)
流石に女子として致命的に『そういうこと』への興味が欠けていると自覚している私でも、先輩の感心したような視線を受けてはそう言い出すのが憚られた。
「いえ……もうちょっと、考えてみます……」
結果として、そんな曖昧な返事をしながら、手が滑って再びほどけてしまった手元のネクタイを、くねくねと踊らせながら巻いていくことになったのだった。
(――あ……)
――ひとまずネクタイを巻き終えて、さあ片付けようとしたところで、思い出した。
鞄をどこかに放ったままだったんだった。
(仕舞う場所は……とりあえず、巾着袋に入れとこうかな?)
そう思って、巾着に手を伸して、巾着袋がかなりぎゅうぎゅうに膨らんでいる事に気がついた。
考えてみれば、中に、宝珠とドリームキャッチャー……それから、見ると顔に血が上ってくる布が入ったままなのだから、流石にちょっと入れる場所がない。
「どうした……? 結局ネクタイ、着けるのか?」
「……仕舞う場所、なくて……」
先輩に聞かれて、ちょっと情けない気分になりながら、三度ネクタイをほどこうとする。
「――ああ。じゃあ、こっちの鞄に入れておこう」
私の膨らんだ巾着袋をちらりと見た後、こっちにすっと手を差し出してきた。
どうやら、自分の鞄にネクタイを仕舞い込んでくれるようだ。
「え? そんな。悪いです」
「いや、鞄に入れておくくらい構わんよ。そんなことで変に疲れて活動に差し障りが出る方が困るだろう?」
(うっ……)
さっきお茶を飲もうとしたときの情けない醜態を見られている分、今のままで問題ないとは言えない。
……そう。言えないのだが、こう……分かるだろうか?
なんとなく、他人に自分の衣服を預ける気まずさは。
たかだかネクタイ一つとは言え、何となく気まずい物がある。
(でも、これを着けていたから息が上がったとかなったら……)
そう思うと、少々の無意味な葛藤なんかのせいで、というのは馬鹿らしい気がする。
(――まあ、そうは言っても私のネクタイだし……いいか)
考えているうちに、なんだか自意識過剰な気がしてきた私は、悩んだ末に預けることにした。
「……先輩、お願いしてもいいですか?」
「ん。構わんよ」
私が悩んでいる間に、先輩は空になったペットボトルをナイフで切って、中をウエットティッシュで丁寧に拭ってビニールを敷いている。
「先輩……何作ってるんですか?」
「ああ。よく考えると、ネクタイケースが自分の分で埋まっていたからな」
そういって鞄から専用の筒状になったケースに入った自分のネクタイを取り出すと、中身をペットボトルを切った方に移し替えた。
「ほら」
思い悩んでいた私とは対照的に、気楽な様子で手を差し出してくる先輩に、恐る恐るネクタイを手渡す。
……先輩の手のひらの上で、自分のネクタイが、『ふにっ』と動いていた。
受け取った先輩は、さっきまで自分の分を入れていた、きっちりとしたケースに私のネクタイをいれて、慣れた仕草で巻き付けると、鞄に仕舞い込んだ。
「――ん? ああ、ネクタイケースなら購買で売っているから、欲しいなら買うと良い。さほど値段もしないはずだ」
――私の悩みなどまったく気がついて居ない様子で、平然としている先輩に少し恨みがましい視線を向けていると、視線の意味をどう解釈したのか、ネクタイケースの購入場所を教えてくれた。
(――違う。そうじゃない。なんか分からないけど、違う……)
『ネクタイを預けるのが恥ずかしかったんです』とは言えなかった私は、先輩の行動になんとも言えないもやもやだけが残ったのだった。
***
「――先輩、そういえばアレはやっぱり宝珠を狙ってきてるんでしょうか?」
気持ちを切り替えて、今の現状を確認するために疑問を口にした。
おばあちゃんは、あの白い手は『見崎の宝珠』を狙っていると言っていたけど、なんで宝珠を狙うのだろうか?
――奴らには、何か叶えたい願いでもあるのだろうか?
「――正直それは分からんな。手がかりになるかも知れんこの本も、この暗がりでは読むことも出来ん」
「……本当にすみませんでした」
暗がりの原因を作ってしまった事を思いだし、床板を見つめながら謝った。
すると、隣で先輩が破顔する気配がした。
「――ああ、いや。さっきから言っている通り、決して責めているわけではない。言っただろう? あの状況なら懐中電灯を取り落とすくらい仕方の無いことだ。それよりも神宮さんが無事で良かったことを喜ぶべきだな」
「ありがとうございます……」
私を励ますように、後半に熱を込めた様子で先輩がそう言ってくれる。
――先輩が、本心ではどう思っているかは分からなかったが、それでも、その言葉から感じられる暖かさだけは信じたかった。
「しかし、奴らの狙いについては――宝珠以外に私達が襲われる理由も思い当たらんからな」
「そうですね……」
やはり、宝珠が狙いだろうという先輩の推測を聞いて、思いついたことを提案する。
「――でも、だったらこの宝珠をアレに渡してしまったら、もう追ってこないんでしょうか?」
『おばあちゃんから託された物』という事もあって、この宝珠をあいつらに渡さないで居るつもりだ。
だけど、どうしてもその選択肢が頭の中をちらついて離れない。
「……それも、分からんな。正直この状況がすでに常識の埒外なのだ。下手に願いを叶えるという宝玉を渡すことで、どんな問題が起こるのか予想もつかん」
しかし、先輩は、『宝珠を渡す』という考えについては渋い顔をした。
宝珠を渡すと、状況が読めなくなるのを懸念しているんだろう。
(――一体、『願いを叶える宝珠』があいつらの手に渡ったら、どうなるんだろう?)
「確かに、そう……ですね。ひょっとしたら、もっと大きな事件になるかも知れないですし」
「その通りだ。無関係の人間まで巻き込む恐れもある。それは避けたい――ただ……」
納得する私に先輩は静かに同意しながらも、なにか拭いきれない不安を語るように言葉を続けた。
「……ただ?」
「――朝になって。あの手がそのままあそこに居て、ご退場頂けないというのであれば、それも考えなくてはならんやもしれんな」
(――確かに、それは最悪の事態だ)
ずっとここに籠もっている訳にはいかないし、どうやって、逃げ出せばいいのか。
どうやって、この状況から抜け出せばいいのか思いつかない。
その時は、他の事なんてなりふり構わずに、先輩と二人で逃げ出すしかないんだろう。
「それは、そうですね。じゃあ、その時は宝珠をあいつらに投げつけて、その間に逃げましょう」
「そうだな。もとよりこちらの対抗手段は限られているのだ。それ以外に手はないだろうな――無論、ベストの解決としては、あいつらが朝になったら消えていて、その間にこの宝珠をなんとかするという方法だろうな」
「宝珠をなんとかって、なんとかする方法なんてあるんですか?」
先輩の口ぶりは、なんとかする当てがあるかのようなものだった。
思わず、興奮するのを感じながら聞き返す。
――しかし、期待を込めて聞いた私の言葉に返ってきたのは、薄暗がりの中肩を大げさにすくめる先輩の、『もはや想像にすぎんのだが……』というため息交じりの前置きだった。
「――今考えているのは、二つ。一つは、宝珠をどこかの神社仏閣に預けてご供養をお願いすることだ。この手の伝承ではよくある解決方法だな。――実際、見ての通り奴らはこの神社の中にも入ってこられないようだ。効果が見込めるのではないかと思っている」
先輩は人差し指を立てながら、一つと数えるように説明する。
(確かに、こういうときの『よくある話』が『本当の話』だって前提で考えるしか、対処方法の考え方なんて無いよね……)
どこか語りながらも半信半疑な先輩の姿に、改めて自分たちが置かれている非現実的な状況を感じて、絶望的な気持ちになった。
「それから、二つ目は、その宝珠を壊してしまうことだな。……まあ、これが一番手っ取り早い。ただ、神仏から賜った物を狙った物と取り合って壊したが為に災いが起こってしまうという伝承もあってなぁ……これは、最後の手段にしたいところだ。一度その方法を採ると、元に戻せなくなってしまうから、判断は慎重にしなくてはな」
――災いが、起こる。
先輩の、ぴんと伸ばされた人差し指と中指を見つめながら考えた。
――確かに、何となく宝珠を壊すというのはとても罰当たりなことの気がするし、『覆水盆に返らず』じゃないが一度壊れた物は直らない。壊すのは最後の手段にしたいのは、私も同じだった。
「――どちらにせよ、それで奴らが引いてくれるか分からないのが目下の悩みと言ったところか」
「あいつらは一体何なんでしょう?」
私の根本的な疑問に、先輩は難しげに腕組みをして首をひねる。
「正直、手や腕が追ってくると言うのは、伝承としてはあまりにもメジャーすぎてな。江戸時代の今昔百鬼拾遺にも描かれているくらいだ。これらは大概の場合、死者が亡霊となったものや付喪神といったものが現われた結果と言われている」
「――『死者』の腕……」
……言葉を聞いた瞬間、奴らに触られたときのひやりとした不快感がよみがえってきた。
確かに、もしも、黄泉国から生き返ってきた死人に触られたらあんな感覚になるのかも知れない。
今も、あの時の事を思い出すだけで、ぞわぞわとした奇妙な感覚で、全身の産毛が逆立って、微かな寒気を感じる。
――思わず二の腕の辺りを手のひらと擦り合わせた。
「とにかく、今は様子を見ることしか出来ないが、いざというときの為に、体力は温存しておいた方がいい。もし眠れるようなら少し眠っておけ――なに、ここには奴らは入ってこられんようだし、もし神宮さんが悪夢にうなされているようならすぐに起こすことは約束しよう」
……寒そうに腕をすりあわせている私を見たからだろうか?
先輩は、私の事を安心させるように、優しげな声で少し睡眠を取るように勧めてきた。
――なんだか、そう勧める先輩の声が、いつもより少し早口な気がした。
「……先輩は、眠らないんですか?」
先輩の言葉に、僅かな違和感を感じた私は、その言葉にどうも先輩自身の事は含まれていない事に気がついた。
……先輩はどうするつもりなのか――とても気になった。
「――ふむ。私は一晩くらい眠らなくとも、運動に差し障りがないからな。今日は寝ずの番と行こうかと思っていたのだが……?」
――やはり、私だけ眠らせて、先輩は一人で見張りをするつもりだったらしい。
……『いざって言うときどうするつもりですか』と先輩の言葉を借りて、反論しようと思っていたが、私の言葉を先読みしたかのように、寝なくても大丈夫だと予防線を張られてしまった。
でも、先輩一人に番をさせて、私だけ休むなんてそんなこと出来るわけもない。
「先輩が寝ないんだったら、私も寝ないでこうしてます」
「……気を遣う必要はないのだぞ?」
「……でも、巻き込んだ私だけ、のほほんと寝てられないです。それに、眠れるかもわからないですし」
(――う、うざったい後輩とか思われてないよね?)
先輩に反抗しながら、少し生意気だったのではないかと脈拍が早くなるのを感じた。
しかし、実際の所、今日一日、色々なことがありすぎて神経が立ってしまっていて、眠れる気がしていないのも事実だ。
先輩は、私の答えにしばらく悩んでいたようだったが、しばらくして自分の中で折り合いをつけるように頷いた。
「そうだな……では、神宮さん、交代で眠るとしようではないか? 先に神宮さんが少し眠ると良い。私はしばらくしたら起こそう。その後は、私が休ませて貰うから、その間の見張りは頼む。もし、眠れないなら、無理に眠らなくても、目をつぶっておくだけでもだいぶ違うはずだ。――案外、アクシデントの後は気づかないところで疲れている物だぞ?」
「……交代なら……わかりました」
二人そろって寝こける訳にはいかない今、確かに、先輩の言う通り交代で休むというのが一番現実的な妥協点かも知れない。
(――でも……本当に、こんな目が覚めてしまってる状況で眠れるかな……?)
かわりばんこで休むというのに納得は出来ても、実際休めるかどうかはまた別の話だ。
(たしかに、先輩の言う通り、目をつぶるだけでだいぶ頭の疲れ具合が違うって言うのは聞いたことがあるけど……)
「なら、一旦『おやすみなさい』所だな。――ゆっくり休むんだぞ?」
「……眠れるかわからないですけど、頑張ってみます」
考えている間にも、先輩は『時間が勿体ない』とでも言うように会話を終えにかかっていた。
――私が、とにかく休まないと、先輩の休んでいる時間が無くなってしまう。
焦った私は、先輩の言葉を聞くと、ぐったりと体重を預けるように壁にもたれかかった。
――そのまま、目を閉じる。
「……おやすみなさい」
――そういえば、だれかに向かって、『おやすみなさい』というのは、なんだかとても久しぶりな気がして……
胸の奥辺りが妙にくすぐったかった。





