第一話「見知らぬ貴方は私の先輩!?」
――ああ、最近、どうも夢見が悪い。
数ヶ月前から、首に掛けるのが習慣になった、おばあちゃんのペンダントを握り締めながら考えた。
別に、なにか大きな悩みがあるとか、そんなわけじゃない。
高校生になろうかというこの時分、両親が居ないのにも慣れた。
私を引き取って育ててくれていたおばあちゃんが、突然の事故で他界してもう数ヶ月。
当初は、最後の肉親との離別という事実を、なかなか受け入れられなかったが、今では高校入学を楽しみにしてくれていたおばあちゃんの期待に応えるためにも、高校生活を頑張ってみようと思えるようにだってなった。
たまに、私以外誰も居なくなってしまった家が、妙に広く感じられて、ほんの少し――ちょっとだけ寂しくなることはあるけど、きっとそれは誰もが抱く感傷だと思う。
そう。だからこそ、こんなにも夢見が悪くなった理由が分からなかった。
――毎晩毎晩、夢の私は音の聞こえない暗闇の中、一つの宝玉を大事そうに抱え込んでいる。
その琥珀色をした球体は、宝石のように磨かれていて、どこかからの光をよく反射していた。
妙に現実感のある夢では、触覚まで再現されているらしい。
すべすべと無機物的な質感をした球体からは僅かに暖かさを感じるのだった。
そうして、そのまま暖かさを感じていると、その球体を狙っているのかのように、暗闇の中から薄気味悪く発光する無数の白い手が現れ、私に向かって伸びてくるのだ。
私は、恐怖に苛まれながら、必死でその手をふりほどき走り出す。
だが、その手はどこまでも、いつまでも、じわじわと距離を詰めながら追ってくるのだ。
――いよいよ手が迫ってきて、『逃げられない』そう思ったとき、なぜか必ず目の前におばあちゃんが現れる。
おばあちゃんが、猫でも追い払うようにシッシと手を振ると、その無数の手の群れは残念そうに居なくなるのだ。
そうして、私はようやくその悪夢から解放される訳だ。
――ただ、そのおばあちゃんが現れるのが、日を追うごとに遅くなっている。
はじめは気のせいかと思えるほどの違いだった。
でも、確かに日に日に、迫り来る腕の群れは、私との距離を縮めている。
三日前に見た夢では、ついに私の体に触れようかというほどまで奴らは近づいてきていた。
だから、情けないことに、ここのところは悪夢が終わって目が覚めてからも、部屋の暗がりに白けた手が蠢いているように感じられて、なかなか眠りにつけない日々が続いている。
――そう。実は、私はここ三日間、一睡もしていない。
おかげで、体調だって最悪だ。
今日は、せっかく高校の入学式だったというのに、学校にいる間、ずっとガンガンと痛む頭と、揺れる視界。
そして、襲いかかってくる吐き気と悪戦苦闘していた。
おかげで、新しく出来たクラスメイト達と何を話したかさえ思い出せない。
左頬に刻まれた大きな火傷跡のせいもあって、普段から、『目つきが悪い』『目が死んでる』だとか、『取っつきにくい』だとか言われる私の事だ。
きっと、最高に最悪に無愛想な態度だったに違いない。
……そう思うと、これからの高校生活を思って、ただでさえなくなってきている気力がさらにすり減っていく気がした。
今は、猛烈にゆがむ視界の中、なんとか下校途中にあるスーパーで、今晩の食材を買って帰っている。
(――ああ、今日は随分夕暮れの太陽の光が目に滲みるなぁ)
足下のアスファルトが熱せられたバターみたいにぐにゃぐにゃと不安定に揺れ、一歩踏み出す度に沈み込み、とても歩きづらい。
頭の上から、細い糸が地面につながって、子鬼か何かがせっせせっせと汗水ながして引っ張っているようだ。
(――あれ?)
(なんで……こんなに地面が盛り上がってる……の……?)
突如として盛り上がってきた地面が迫ってくる中、なにかとても暖かいものに包まれた気がした――
***
暗闇の中、無数の腕がこちらに向かって伸びてきた。
『来るな来るな来るな来るな……』
恐怖の中で、必死に心の中で念じながら迫り来る『奴ら』から逃げようと足掻く。
だが、無数の腕はこちらに向かってゆっくりと、静かに。
しかし着実に距離を詰め近づいてきている。
『だめだ――捕まるッ!』
そう、思うと同時、ひんやりとしたモノが私の右腕に触れた。
――手だ。
今まで一度も触れることのなかった、奴らの手が――ついに私に触れた。
掴まれた右腕からは、ぴりぴりと感覚を麻痺させるような冷気が体に流れ込み、薄皮の下を潜るようにざわりと広がっていく。
『や、なに……これ……ッ!』
恐怖だけではない。
ぞくぞくとした嫌悪感に似た感情が心を責め立てていく。
『助けて! おばあちゃん!』
必死に、いつも助けてくれるおばあちゃんに、助けを求めるが、その声はただ虚しく消え去った。
『助けて! 助けてぇ! 誰かぁ!』
掴まれた場所から、産毛を押しのけ這い上がってくる、ねっとりとした感触に体を戦慄かせながら助けを求めた。
頬を今まで、流さないように努力していた涙が、じわりと溜まり流れていく。
――誰でも良い。誰でも良いから……助けて。
必死に哀願するが、その願いは叶わず、左手、右足、左足と掴まれる場所が増える度、じわじわと痺れが広がっていくばかりだ。
――私の顔を目指すようにまっすぐに伸びてきた手が、ペタリと妙に水気を薄気味悪い感触を伴って、私の左頬――大きな火傷跡に吸い付いた。
傷のせいか……、記憶の……せいか。
随分と私にとって敏感な、誰にも触れられたくない場所に、うぞめく不気味な感触が触れて、だんだんと抵抗する気力すら奪われ、諦めに似た気持ちが浸食していく。
ああ……あああ……どうして、どうして私がこんな目に。
どうして? どうして? どうして? どうして――私ばっかりこんな?
直面している恐怖から逃れるために、世界の全てを呪うような薄暗い考えが巡り廻っていく。
濡れた恐怖が、徐々に乾いた心を侵していった。
(――ああ……もう、だめだ)
完全に、心が折れそうになったとき、ふわりとした光が目の前に浮かんだ。
不定型な光が、不思議な暖かさを持っていて、冷え込んでいく体を優しく包み込んでゆく。
その光が触れたところから広がる暖かさは、緊張を解きほぐし、恐怖をどこかに追いやっていった。
(――暖かい……)
いつしか、私に迫っていた無数の腕は、光に追いやられるように姿を消していた。
(――きっと、大丈夫……)
なぜか、そう確信できた私は光に身を委ねるように、全身の力を抜いた。
そんな私を、ふわっとした光は持ち上げ、支えてくれる。
『――大丈夫か?』
光が、とても優しく落ち着いた男性の声で、私にささやきかけた。
『ああ――』
私が、光に答えると――
***
うっすらと目を開くと、初めに目に入ったのは市松模様にパネルが敷き詰められた天井だった。
――どうやら、私はまた夢を見ていたらしい。
反射的に胸元に手をやり、おばあちゃんの形見のペンダントを握り締めた。
……今日の夢は、おばあちゃんも出てこなかったし、変な光は出てきたし、随分おかしな夢だった。
(――いや、そもそも、同じ夢を見続けるという事自体おかしな事なんだけど)
悪夢を当たり前のものとして受け入れている自分に、心の中で苦笑をする。
……一体、私は――
――ッ
(そうだ! 私、今どこで寝ているんだ!?)
……たしか、今日は買い物をして、その帰りに地面が揺れて――
「気がついた?」
慌てて身を起こそうと動き出すと、右の方から女性の声が聞こえた。
「……え? あ、ああ……いえッ、はい!」
そちらの方を向いてみれば、白衣に身を包んだ妙齢の女性がこちらに向かって来るところだった。
落ち着いて周りを見回してみると、薄いブルーをした布製の衝立が立てられている。
――どうやら、どこかの病院に私は寝かされているらしい。
「……あの、ここは……?」
「ああ、そんな急いで体を起こさないで。横になったままで良いから」
体を起こしながら問いかける私を、女性は優しげな笑みを浮かべながら制止した。
そして、私の腕をつかんで脈をとったり血圧を測ったりと、てきぱきと診察を始める。
「ああ、っと。ごめん。ここがどこかだっけ? えーと、ここは高崎診療所っていう病院。駅前にあるんだけど知ってる? ――あ、お腹の音聞くから服捲って」
高崎診療所――女性の言葉に、記憶をたどっていくと、確かに駅前でそんな古びた看板を見た気がする。
言ってはなんだが、割と寂れた感じの病院だったので、今まで来たことはなかったが、印象には残っていた。
「ええ」
「そっか。良かった良かった――うん。大丈夫そうね」
一通り、診察が終わったらしい女性がトントンと私の肩を叩きながら太鼓判を押した。
そのまま私の背中に手を添えて起き上がらせてくれる。
すぐに、普段は顔半分を隠すように覆っている前髪を引っ張って、きちんと傷口が隠れるように整え直した。
体を起こしたことで、医師らしき女性と視線が正面から合った。
彼女は、笑みを口元に浮かべたまま優しげに話し続ける。
「それで、どこまで覚えてる?」
「……確か、駅前で買い物を済ませて、その後目が回ったところまでは……それからは……」
そう、今から考えればあの時は地面が揺れていたのではなく、ただ単純に目を回していたのだろう。
おそらく、私はあのまま気を失ったに違いない。
(――ね、寝不足で倒れるなんて……情けない……)
「うーん。でしょうね。見たところ貧血みたいだけど、ちゃんと寝てる? 朝ご飯は食べた?」
不甲斐なさに情けない気分になりながら答えると、案の定女医さんからは、貧血だと告げられ心配された。
「実は、今日は高校の入学式だったので、あまり寝付けなかったんです。それで――朝食もつい」
「あー。今日、入学式かぁ……なるほどね。楽しみなのは分かるけど、ちゃんと休まないとだめよ?」
「……すみません」
この歳になって、『夢見が悪くて寝付けませんでした』というのは流石に恥ずかしくて嘘をついた。
本当は、朝ご飯も、どうにも食欲が湧かなくて食べていなかっただけだ。
どっちにしても恥ずかしい事には違いないが、あの怖い夢の事は思い出したくもない。
――そういえば、今日は目覚めてから、あのなんとも言えない不安感が消えている。
(いつもだったら、おばあちゃんが現れて、奴らを追い払ってくれた後も、収まりの悪い不安感が残っているんだけどな)
不思議な事に、今は、ちょうど春の日差しのようなぽかぽかとした暖かさだけが残っていた。
「その制服、浅高でしょ? 貴女を連れてきてくれた子にはお礼言っときなさいよ」
「連れてきてくれた子?」
なにか紙束のような物を机の中にしまい込みながら、私の制服を見た女医さんが、気になることを口にした。
(そういえば、誰かが私をここに運び込んでくれたのかな?)
だとすれば、確かにお礼を言わなくてはいけないだろう。
――でも、それと高校に何の関係があるのだろうか?
「ああ、言ってなかったっけ。突然貴女が倒れたのを見て、連れてきてくれた子がいたのよ。うちの常連さんでね。貴女の一個上、だったかな。アサ高の生徒よ」
「先輩が……」
どうやら、私はいつの間にか、見ず知らずの高校の先輩のお世話になっていたようだ。
(は、恥ずかしい……)
そんな迷惑を掛けていたのだったら、明日は、学校に行ったら必ずお礼を言わないといけないだろう。
「……その、もしよろしければ、その先輩のお名前をお聞きしてもいいですか?」
「ふふ……本当は、だめなんだけどね。あの子のことだし、特別よ? 『穂積 優結』さん。変わった子だけど、とても面倒見の良い子。確か、今年もA組って言ってたわね」
「――ホヅミ、先輩……」
A組……上位クラスだ。
『ユウ』という可愛らしい名前の響きからして、女性だろうか?
何となく、とても真面目そうな落ち着いた女性を思い浮かべた。
(――ちゃんと菓子折でも、持ってお礼に行こう)
……帰りに買って帰らないといけないものが増えた。