第十七話「先輩、なんてトコ触ってるんですか!?」
「――先輩……せっかく……その、すみませんでした。あの、ハンカチも……今度、洗濯して返します」
ペットボトルと一緒に、出来ることならすぐにでも処分したい布を持ち、隅で背中を向けている先輩の元へとぼとぼと歩いて行く。
――歩きながら、今までに経験したことのない情けなさと羞恥を感じていた。
「……ああ。昔、私も父に稽古をつけられた後に、一度経験がある……喉は潤ったか? おそらく、次は飲み込めると思うが……」
「だ、大丈夫……です?」
――正直、喉が潤ったという感覚は無い。
カラカラだった口の中が、僅かに水気を帯びたおかげで、すこし楽になった気がする程度だ。
「……はぁ、まったく……その様子では、『あまり』といった感じだな。まだしばらくここに籠もることになるだろう。脱水症状でも起こしたら事だ。一応、もう少し飲んでおけ」
「うっ……分かりました」
(――脱水症状か……そういえば、今日は本当にあんまり飲み物飲んでないから、それは心配かもしれない……)
恐らく、この状況で脱水症状を起こして体調を崩したりした日には、ただでさえ『足手まとい』なのがさらなる『お荷物』になることが目に見えていた。
手元のペットボトルを見つめながら、最悪の事態を想像し、葛藤する。
(確かに……飲んだ方が良い。良いんだけど……でも、また同じ事になったら、今度こそ立ち直れない気がする……)
手の中で、ずしりとした存在感を主張している硬質な塊をぎゅっと握り締めた。
「――あ~……そうだな、注意点としては、本当に少量だけ口に含むことだな。喉を濡らすくらいにしておくといい。――それでも無理なら、手伝ってやる」
「……うぅ……はい……っ」
私が悩んでいるのが伝わったのだろう。ペットボトルを親の敵のように見つめている私に、気の毒そうな顔をしながら先輩がそっとアドバイスをくれた。
(――が、頑張ってみよう。……そう、そうだよ。お茶を飲むだけ。――なに、そんなにびびっているんだ。僕は……)
ペットボトルの蓋を開き、そっと口に近づけていく。
同じ醜態はさらさない。本当に微かに湿らせるつもりで、失敗しても布を口に当てなくて済みそうな量だけ口に含む。
(――あ、これ……駄目だ)
――しかし、口に含んで早々に失敗を悟った。
さっきの失敗がどうしてもチラついて、この僅かな量でも飲み込むのが難しいようなのだ。
――というか、まず喉が動いてくれない。
思わず、先輩に助けを求めるように視線を向けると、先輩は軽くため息をついた。
「――駄目だったかぁ……失礼するぞ……?」
いかにも『弱った』と言いたげな、普段に比べるとどこか幼さを感じる表情を浮べた先輩が、視線を逸らしてこっちを見ないようにしながら手を伸してくる。
(――そういえば、『手伝う』ってどうするんだろう?)
そんな先輩の姿に、一瞬疑問が浮かぶが、気がついた時には先輩の指先が喉元に伸びていた。
――つっ、と私の喉に触れた、暖かい先輩の指先が、軽く上下に愛撫するように撫でさする。
「~~~!~、~!!!」
予想もしていない、ざわりとした感触が喉で動き、反射的に身体に変な力が入って固まった。
――ごくり。
(あ……飲み込めた)
私の喉が動いたのが分かったらしく、次の瞬間、先輩はぱっと凄い勢いで手を離した。
そして、私から逃げるように距離をとる。
「――ほ、封神演義は知っているかねっ?」
(――封神演義っ!? なんでっ、そんな話が今っ!?)
思考回路が固まってしまった私が、身動き一つせずにいると、酷く慌てた様子で、他所を向いたままの先輩が、両手を振りながら妙な質問をしてきた。
「一応、読んだことはありますけど……」
戸惑いながらも、一応素直に答えた。
――たしか、読んだのは小学生の頃だっただろう。学校の図書室に文庫版が置いていた読んだ覚えがある。
「そうか……良かった。……助かった。その中で、姜子牙が武吉という弟子を取るときに、薬丹を飲ませる場面があるんだが……知ってるか?」
問われて、昔読んだ内容を思い出す。
(たしか、武吉は殺人の罪を犯して、占いを誤魔化すために藁人形をつくって……弱り切るんだったかな?)
それで、それで……
「ああ……なんだか、思い出してきました。喉仏を撫でるシーンがあったような……」
「……思い出して貰えて良かったよ。まあ、そういうことだ」
(『まあ、そういうことだ』じゃないよ――ッ!? 恥ずかしさで死ぬかと思った……)
心の中で、先輩に向かって猛抗議をした。
そうは見えないかも知れないけど、これでも一応恥じらいはある女子のつもりなのだ。
確かに、おかげさまで水は飲み込めたけど、このままだと、しばらく何か飲み込む度に思い出して顔が赤くなりそうだ。
(ああ、でも、先輩、顔を背けていたし、先輩もひょっとして、『気持ち悪いなぁ』とか思いながら触ってたんじゃないか……?)
小学校の頃ダンスを組む予定だった子に顔を合わせた瞬間言われた、『ばっちぃ』という言葉を思い出し、その当時のショックを思い出してしまっていた。
(ていうか……そりゃあ、普通に後輩がお茶吐き出してたら、引くよね……)
沈み込んだ感情と共に納得をしていた私に、追い打ちを掛けるように先輩はさらに無茶を言い出した。
「さっきの布は、このビニール袋にでも詰めておくといい。洗濯は気を遣わなくても大丈夫だ。こっちで洗おう」
「――そんなの出来ませんっ! ちゃんと洗いますから! ……あのっ――ビニール袋は貸して貰っていいですか?」
(『こんな状態』の、人に渡して洗って貰うなんて、出来るわけ無いじゃないか!)
――せめて。……せめて、その一線だけは越えるわけには行かなかった。
慌てて先輩から手の届かない位置に布を退避させて、片手を先輩の方に恐る恐る伸ばす。
「ん……? ――ああ、そうか。分かった。いいだろう。まあ――まずは、洗濯が出来る日常に戻らないとな」
――荒れ狂う私の心情を理解しているのか、していないのか。
呑気な様子でそう言いながら先輩は、ビニール袋を私に手渡し、未だに何度もアタックを仕掛け続けてくる腕を見つめている。
――神社の外壁と、白い手が放つ光が、言葉とは裏腹な先輩の真剣な表情をうっすら照らし出していた。
先輩から受け取ったジップ付きのビニール袋に布を押し込み、まだ多少余裕のあった巾着袋に突っ込む。そうしているうちに、ようやく頭の中が落ち着きを取り戻してきた。
(――そうだ、しばらく籠もるって、どうするつもりなんだろう?)
……というより、まずさっきから腕が襲ってこないのはどういうことなのだろうか?
(あと、先輩がさっき突き刺した棒状の物体は何だったんだ……?)
ようやく現実に追いついてきた頭の中に、色々と疑問が浮かんでくる。
「あの……その、先輩、色々お聞きしたい事があるんですけど……」
「ああ。だろうな。――といっても、私も説明できるほど情報を持っていないだろうが」
私が切り出すと、先輩は分かっているという風に片眉を上げて頷いた。
「あの、まずあの手はなんでここに入って来ないんでしょうか? あと、先輩がさっき白い手を倒したように見えたんですけど、あれは一体……」
改めて近くで見る先輩の姿に、傷跡が見られないように前髪をぺたぺたと撫でて具合を確かめながら質問する。
「――それについては、もうほぼほぼ、『賭け』だったのだが、上手くいったようで助かったよ」
先輩は、苦笑を浮かべながら答えていく。
「この手の妖魔に追われる類いの伝承にはよくあるんだ。妖怪や悪霊の類いに追われた者が、偶然見つけた廃棄された神社仏閣に逃げ込んで一晩逃げ切るといった類いの伝承だな。今回は、それにあやかってみたわけだ。――もっとも、こんないかにも古びた、その上こんな謎の発光までしている神社で大丈夫なのか不安だったのだが……賭けは勝ちのようだ」
どうやら――自信ありげに見えた先輩も、確信があってここに逃げ込んだわけではなかったらしい。
それでも、こうして無事に私達が過ごすことが出来ているのだから、先輩の勘は当たっていたと言うことだ。
(私だったら、ただ逃げるだけなんだろうな……)
自分だったらどうしていたかを何となく考えてみる。
――多分、建物の中に入って追いつかれる方が怖くて逃げ続けて、そのままどこかで力尽きている気がする。
「――良く、そんな賭け、賭けてみようと思いましたね……」
「まあ、それに関しては、これで腕を一本倒せたからというのも多分にあるがな……」
そういって、先輩は何か棒状の物体を差し出した。
おそらく、さっき襲いかかってきた手に突き刺していたものだろう。
窓から差し込んでくる月明かりと、白い腕が放つ薄い発光しかない暗闇に目を凝らし、先輩の手の中でうっすらと金属質な光を反射するその物体を観察する。
それは両方に突起が飛び出た形をしていて……
(……あ、これ、確か見たことがある)
「――独鈷杵……?」
「ああ。あの手が、私のポケットに入れていたこれに弾かれたように見えたからな。――無論、罰当たりだとは思ったのだが、一か八かで突き刺してみたのだよ。おそらく、金剛杵の元になったのが武具だということに由来するのだとは思うのだが……いや、本当に効果があるのだな」
(――あの一瞬でそんな判断して、実行に移したんだ……凄いな)
襲いかかってきた手が弾かれたように見えたのは一瞬だ。あの一瞬の間に、その原因に思い至って、武器として使おうと判断できるのは、やっぱり頭の回転が速いのだと思う。
(――でも、確かに凄いんだけど……)
「……なんで、先輩そんなの持ってるんですか?」
今日は朝学校で相談してから、今までこんなのを取りに帰ってる時間なんて無かったはずだ。もし、こんな物を持ってきているとすれば、それは朝から持っていたとしか考えられない。
独鈷杵を見ながら感心したように一人頷いている先輩に、私はちょっと不審な視線を向けた。
(――本当に、この先輩は何者なんだろう? こんなことになるなんて、知ってたわけないよね?)
少なくとも、私の事を陥れようだとか、そんな事を考えての事では無いと思うが、あまりの準備の良さに、どこか納得のいかない得体の知れなさを感じる。
「……その事か」
先輩は、ジトっとした目で見つめる私をみて『ああ』と得心がいったように、とても――とても爽やかに笑った。
「――いや、なに、金剛杵は元々智恵の象徴でな。煩悩退散の御利益があるそうなのだよ」
そういって、一息継いだ先輩は、少し照れたような表情をつくってみせると、私をからかうときに度々浮かべるニヤニヤとした笑みを浮かべた。
「ここ数日、どうも、とても可愛らしい後輩と妙に縁があってな。今日はたまたま持ち合わせて居たのだよ――いや、実際役に立っただろう?」
くっくっく――と喉の奥を鳴らしながら、皮肉気に笑う先輩の言葉の意味を考える。
(ここの所、縁があった後輩って……私の事……?)
だが、なぜそれが、独鈷杵を持ち歩く理由になるのだろうか?
(――ッ! ――って、え? ちょっと待て!?)
いま、なにか変な言葉がついてなかっただろうか?
(確か、『可愛らしい』って……聞き……間違いだよね?)
ドキドキと単純にも高鳴り始めた心臓と相談しながら、先輩の言葉を思い返す。
――いや、待て。しかし、今まで自分につけられるのは、どちらかというと『醜い』とか、『可哀想な』とかの形容だった。
だとすれば、今先輩が言った言葉も、そういう類いの言葉だったに違いない。
(ああ……そうか、『可哀想な後輩』って言ったのか)
納得すると同時、きゅっと胸の奥が締め付けられた気がした。
(……私、先輩にはそんな風に思われたくないなって思って、ずっと傷口も隠してきたのに、傷口なんて関係なくって、すでに哀れまれてたなんて……)
――気づけば、どんよりと視界が暗くなっていくのが分かった。
(――やばい……なんでだろう?)
先輩からの視線には、今まで他人からよく感じてきた、こちらのことを見下した嫌なものを感じていなかったからか。
――だから、いままで、上手くいっていると思っていたからか。
それとも、今までここまで誰かと一緒に居たことがなかったからなのだろうか。
(ちょっと……今までに無いくらい……。――ショックだ)
やっぱり、私なんかが『普通に』見て貰おうなんて、烏滸がましいのかも知れない。
――じんわりと、目の奥が熱くなってくるのを感じる。
(でも、それにしたってなんで、独鈷杵なんだ……いや……まあ、そんなのどうでもいいか……『煩悩退散』の効果目当てって言ってたけど……)
……ん?
考えていて、到底無視できない単語が含まれていたことに気がついた。
――『煩悩』!?
(え……? ――ええええええ? ぼ、煩悩って、つまりは、『そういう』ことっ!? いや、でも、そんなはずない。絶対。――多分。そ、そうか。落ち着け、私。煩悩にも、金銭欲とかもあるよね……!? でも、でも――)
――刹那で駆け巡る思考を受けて、傷跡を隠すように手で覆い、大きく先輩から身を引いた私は――
「――スケコマシ――ッ! っ先輩! お金にセクハラして哀れむなんて最低だよッ!?」
――動転しながらなんだか色々一緒くたに煮込まれた答えを叫んだのだった。
「……何を……言っているんだ……?」
先輩は、さっきまで笑っていたのを止めると、真剣にこちらのことを心配した様子で、困惑しながらも聞いてきた。
(――何を言ってるんでしょうねっ!?)
『我に返る』というのは、まさしくこの状態のことなのだろう。
先輩の反応に、すっと自分が冷静さを取り戻していくのが分かった。
「……なんでも……ない、です……先輩が、変な事を言った気がしたので……」
そのまま、恨めしそうに睨むと、先輩は意外な事を言われたように目を見開き――。
――爆笑した。
「ふ、クッ……はははははっ……」
「――ちょっと!? 先輩っ!?」
暗闇の中、さも『抑えきれない』というように先輩は自分の顔を片手で押さえ込み必死に笑いを堪えようと肩を震わせている。
……流石に、ちょっとむっとしながら先輩を責めるように呼ぶと、先輩はまだ顔を歪めながらもこちらを向いた。
「いや、失礼……ちょっとからかってやろうとは思ったが、まさか、そこまで動揺するとは思わなかったのだ……すまない」
「別に……いいですけど、そんなに笑わなくたっていいじゃないですか……」
(――やっぱりこの先輩は……意地悪だ!)
第一、『ちょっとからかうつもり』というには、冗談が重すぎるのだ。
そういう冗談は、もっとそういうのに慣れている相手に言って欲しい。
こっちは、十年以上もまともに友人も居なかったのだ。
ちょっと、そのエッジの鋭さは経験値が足りない私には良く刺さりすぎる。
「いや、しかし――どうにも、この状況を思うと、おかしくてなっ……!」
そういって、先輩は格子戸の方を親指で示した。
――確かに、すぐ目の前で得体の知れない『何か』が、誘蛾灯に群がる虫のようにバシンバシンと音を立てて続けているとは思えないお気楽さだ。
ついさっき、一度、死ぬ覚悟をしていたとは思えない。
(でも、その雰囲気を作った先輩が、先に正論を言うのは卑怯だと思うんだ……)
「……それで? 先輩。どうするつもりなんですか?」
……なんで私が笑われるような事をしたって空気になってるんだろう。
どうにも納得のいかない気持ちを抱えながら、話の軌道修正を試みる。
――声が、ちょっと低くなったのはご愛嬌として欲しい。
「――ふふ、そうだな。とりあえず、伝承に倣って、ここで一晩夜明けを待ってみようかと思うのだが?」
「夜明けですか……後、十時間くらいでしょうか?」
大体今の時期は朝の六時くらいに日が昇る。さっき山を登っていたときが、十八時過ぎくらい。今で二時間くらい経っていたとすれば、多分あと十時間くらいかなっという適当な計算で先輩に話す。
「そうだな。時計が使えないのが痛いが、――朝まで待てばバスも動いているはずだ。それに、少なくとも視界の悪さは少しはマシになるだろう? ここに奴らが入ってこないのであれば、動くのは夜明けの方がいいだろう――夜明けに奴らがいなくなればめっけもの。そうでなければ……なんとかして脱出しなければな。……出来れば、独鈷杵一本で正面突破というのは遠慮させて頂きたいところだが」
独鈷杵一本であの無数の腕の中に突入するのは確かに遠慮したい。
というか、どう考えてもアレを突破するのなんて不可能だ。
「……そうですね。幽霊とか妖怪とか、夜行性っぽいですからね」
「はは……それは確かにそうだな。昼行性の妖怪というのは、些か趣に欠けるだろう。活動するのは、『たそがれ時』を超えてからにして欲しいものだ」
先輩が冗談めかして言う言葉を聞いて、私の記憶の中からふわりと浮かび上がってくる物があった。
「――誰そ彼時……ですねっ!」
「――まさしくその通り。だれが誰か分からない位でないと、神秘も何もあったものではない」
『妖き語り』で読んだことのあるフレーズに、ちょっと得意になりながら言うと、先輩もネタが通じたらしく、にやりと笑って首をすくめた。
「――とにかく、長丁場になる。覚悟しておいてくれ」
「分かりました」
そうして、私達は今日一日、ここで夜を明かすことになったのだった。





