第十六話「先輩……大切なものを失った気がします」
「せ、先輩――でも、何処に逃げるんですか!?」
私の手を引き、灯りの無い夜道を駆抜ける先輩の背中を見ながら叫ぶ。
――今の私達は何故か町にすら戻れずに山の中を彷徨っている状態だ。
同じ場所をぐるぐる回っているのだとしたら、またさっきの場所に戻ってしまうのではないかと思われた。
「――正直、分からん! だが、あんな訳の分からんものを相手にあそこにとどまる訳にもいくまいっ! それに、下には向かえそうにないからな! ならば上に行くしかないだろうっ! それでも駄目なら……次は横だなっ!」
先輩も走りながら聞こえるような大きな声で叫び返してくる。
――そうだ。
そもそも、先輩の言う通り、明確な対処法なんて分かるはずがない。
ただ、先輩はその中で採れる方法を採っている訳だ。
「神宮さんっ! ――因みに、いつもの夢はどうなったら終わるんだっ!?」
「え、ええと……おばあちゃんが犬でも追い払うみたいに……」
先輩が破れかぶれという雰囲気で聞いてくるが、正直いつもおばあちゃんが現われて手を振るとあいつらが引き下がっていくだけだ。
これといって、何か対策らしきものがあるわけではない。
(でも……それって……)
――おばあちゃんが現われない限り、夢は終わらない。
でも、おばあちゃんはもうこの世に居ない。
――つまり、助けが現われる事は無い。
ぞっとする想像をしてしまい、下手なこと考えるんじゃなかったと後悔する。
「なるほど。『犬のように』か……まったく、猟犬に追われる獲物というはこういう気分なのやもしれんな――ッ! できればチワワか何かであれば愛らしいものを――ッ!」
先輩が走りながら悪態をついている。
(――冗談言ってる場合じゃないですよ先輩っ!?)
随分余裕そうな先輩の悪態にそう叫びたいのだけど、さっきから全力で走っているせいで、段々と息が苦しくなってきている。
ちらりと後ろを振り返ってみると、段々と無数の腕は私達との距離を詰めてきていた。
――それは、あたかも毎日の夢のように。
ほんの一昨日、夢の中で白けた手に掴まれたときの感触を思い出す。
肌の下を這いずってきた不快感。
どこまでも落下していくような、底抜けの不安感。
――そして、その時に感じた絶望。
思い出すうちに、カタカタという小さな音が聞こえてきた。
(――いや、違う……これは、私の歯が鳴っているんだ)
気がつくと、恐怖で微かに自分の体が震えていることに気がついた。
『走らないと』という思いだけが空回りして、でも、震えで上手く足に力がつたわってくれない。頭と体の歯車が上手くかみ合っていないように、足がもつれて転びそうになる。
握り締めていた先輩から借りた懐中電灯が、手からすり抜けて、カラカラと地面を転がっていった――。
「――ッ、大丈夫かっ!?」
私の様子に気がついた先輩が、走っていた足を一瞬だけ止めて、転びそうになる私の体を支えた。
(――ああ、駄目だ。この間にもあの手達はこっちに向かってきているのに……)
――このままだと、先輩もあの手達に襲われてしまう。
「――せんp、先輩だけでも、逃げっ、逃げてください……!」
止まってしまった事で、全身の震えは酷くなり、もう、私は動けそうにない。
(……せめて先輩だけでも、巻き込まないようにしないと)
そう思った私は、先輩に向かって置いていくよう懇願した。
「馬鹿者――ッ! 戯けた事を言うなっ!」
だが、先輩はそんな私を一喝すると、私を両手で抱え込むように抱き上げて走り出した。
「こんな、状況で、置いていけるわけがなかろう! ――どうやら、こちらの道で正解だったようだ。先にさっきの神社の灯りが見えるぞ!?」
先輩が、視線で私に希望を示すように前を向いた。
――確かに、私の目でも僅かに前方に光が見える。
文字通り目の前に現われた光明に、冷え切っていた心が微かに緩みかける。
(――だけど……)
しかし、すぐに緩みかけた心は、不安に押しつぶされた。
……無事に神社にたどり着いたって、あんな不気味に光る妖しげなオンボロ神社だ。
結局あいつらに追いつかれて終わりかも知れない。
(――でも……先輩はまだ諦めてないっ)
諦めずに、私の事を鼓舞しようとしてくれている。
――そう思い至ったとき――ハァ、ハァと荒い息が聞こえた。
見上げれば、それは私を抱き上げている先輩の物だった。
今まで気がついていなかったが、先輩の息も荒くなってきている。
――そりゃあ、そうだ。
だって、私と同じように今まで走って、さらに今は私の事を抱えて走っているのだ。
なおかつその上で、私を勇気づけるために大声を出して。
その表情も、よく見てみれば押し殺してはいるが、どこか苦しそうに見える。
(――このまま足を引っ張ってちゃ駄目だ)
――怖い。恐ろしい。
でも――
「先輩、大丈夫です。下ろしてください。――ちゃんと、自分で走りますから――!」
気づけば、そう先輩に叫んでいた。
先輩は、心配そうに私の事を見つめてくるが、暗闇の中、どうせ見えない傷跡を隠すように
私は下を向き、先輩の腕から逃れるように地面に足をつけた。
「――ッ、行きましょう!」
恐怖は相変わらず全身から力を奪おうとしてくるけど、それでも今度はちゃんと足に力が入った。
「――いいだろう……。――遅れるなよ――ッ!」
そういって、先輩は獰猛な笑みを浮かべると、神社に向かって再び走り出す。
私も、先輩に負けないように全力でその隣に並ぶように走って行く。
(あと、十メートルくらい)
いよいよ神社の姿が大きくなり、あと僅かでたどり着ける。
その時。
――突然横手から白い手が飛び出してきた。
「しまっ……!」
前を行っていた先輩に向かって、白い手が襲いかかる。
とっさの事に反応できなかった先輩が、驚愕に顔を染めながら身をひねり躱そうとする。
――しかし、不運なことに白い手から逃れるには僅かに足りなかったようだ。
薄気味悪い手が、先輩の制服の左胸の辺りかかった――
「先輩ッ!」
私が、先輩に向かって叫んだ瞬間、白い手はなにかに弾かれたようにその手を跳ね上げた。
(――な、なに!?)
突然の奇妙な反応について行けず、頭が混乱する中、先輩は白い手を見つめ――呟いた。
「――なるほど。そういうことか」
なぜか、先輩は納得のいった様子でにやりと笑みを浮かべると、制服のブレザーの内側に手を突っ込み、暗がりの中、なにか棒状のものを引き抜いた。
そして、それをそのまま白い手に向かって突き出す――ッ!
――すると、その棒状の物体は、白い手に突刺さり、手は血のように薄く光る白い液体をまき散らした。
怪我を負わされたらしき腕は、力を失ってその場に落ち、二、三度痙攣するように蠢動すると、その場で絞められたイカのように色を失い消えていった。
「――行くぞっ!」
先輩が立ち止まってしまっていた私の背中を軽くたたき、走り出す。
その姿は、先ほどまでより幾分か余裕が出ているように見えた。
――だが、そうする間にも後ろには間近まで白い腕が迫ってきている。
なぜ、こんなに余裕が――? それに、いまのは何!?
色々な疑問が頭をよぎるが、何はともあれ逃げるために私は走り出す。
(後、っ、一メートル……!)
先に神社の本殿までたどり着き、扉を開け放った先輩がこちらに手を伸してくる。その手を掴むように私は手を伸して――
――先輩の右手が、私の右手をがっちりと掴んだ。
――そのまま、ぐいっと力強く引っ張られ、抱き留められるように神社の本殿へと引きずり込まれる。
宙に浮いたまま、背後を振り返れば、もう後、わずか数十センチの距離まで腕が迫ってきていた。
先輩が私を抱き留めた勢いそのままに、片手で掴んでいた格子戸をピシャンと音を立てて、閉める。
――遅れて届いた無数の手が、目の前で閉められた扉に激突した!
――ピシッ!
竹を割ったような鋭い音が鳴り響き、手は扉に触れることなく、寸前で壁にぶつかったかのように撥ねのけられた。
「ッハァ……ハァ……ふぅ……やはりか……ここに来たのは正解だったな……いや、先人の知恵に感謝だ……」
先輩が、詰めていた息を安堵したように息をはきながら、呼吸を整えて額の汗を拭った。
今も、無数の手……そして腕達は私達を追うように、何度もぶつかってきては、激しい音を立てて跳ね返されている。
九死に一生を得たことを実感するように、ドッドッという心臓の音が嫌になるくらい耳の奥に響いていた。
――でも、なぜ、助かったのか理解出来ない。
「……せ、はぁ、んッ、ぱぁい……、だい、大丈夫っ……なん、です……か……」
「……とりあえず、ひとまずは大丈夫そうだ。とりあえず、呼吸を整えるといい」
まだ呼吸が落ち着かないままに、途切れ途切れに問い掛けると、先輩は私を柱にもたれかからせるように座らせてくれた。
……どうやら、本当に大丈夫らしい。先輩にはもう焦っている様子はなかった。
(う……ちょっと気持ち悪いかも……)
――全力疾走したせいか、軽い吐き気がした。
だが、それを自覚できるくらいには、私も少しずつ落ち着きを取り戻してきたみたいだ。
「――だい、丈夫です。ありがとうございました」
「ああ、まだお礼を言われるには早いようだが、ひとまずは小休止だな」
そういって先輩は、片手に持っていた制定鞄から、麓で買ったペットボトルを取り出して、私に差し出してきた。
(……うわ、ちゃんと制定鞄持って走ってたんだ。先輩)
私は、片手に引っかけていた巾着袋以外、途中でどこかに投げ出してきてしまったらしい。
気がつけば手に持っていた鞄も懐中電灯も、いつの間にか無くなっていた。
「……すみません。頂きます」
改めて意識すると、無性に喉が渇いていたことに気がついた私は、ありがたく先輩の言葉に甘えてペットボトルを受け取り、口をつけた。
口の中にお茶の微かな苦みと香ばしい香りが広がり――
「んぅッ……!?」
――飲み込めなかった。
(あ、あれ……?)
お茶を飲みこもうとどれだけ努力しても、喉の辺りでつっかえる感じがして全然お茶が飲み込めない。
「……ああ。なるほど」
格子戸の辺りから炸裂音の響く外をうかがっていた先輩が、目を白黒させている私に気がついたらしく、微かに苦笑を浮かべながら近づいてきた。
――なんだか、凄く恥ずかしいところに気づかれた。
(こんなところに気がつかなくていいのに……)
「水が飲み込めないか?」
なんとか口に含んだお茶に気づかれないように、誤魔化そうとしたけど、先輩は状況を十分すぎるほど把握しているらしい。
……観念して無言でコクコクと頷く。
「――仕方あるまい……ちょっと、一旦口に含んだお茶を吐き出すんだ。私は――向こうに行っておこう。……終わったら声かけるように」
そっと、ハンカチのような厚手の布を手渡されて、先輩はすたすたと私に背中を向け、離れていく。
(……吐き出す?)
先輩の言葉を反芻しながら、一体自分は何を言われたのか、そして渡された布の意味を考えた。
(――『吐き出す』って、なにを? ……お茶を?)
じわじわと言葉の意味を理解していく。まずは、その行為の対象を。
(一旦、口に入れたのにっ!?)
次に、その行為の意味を。
(――しかも、ひょっとしてこの布に?)
「――んんっ!?」
そして、その状況を理解するに至った私は、混乱のただ中驚愕の声を上げ、躍起になって口の中のお茶を飲み込もうとするけど、全然喉が私の意思通り動いてくれない。
(ど、どうやって喉って動かすんだっけ?)
(――どうやって、飲み物飲んでたっけ?)
そんな、普段であれば意識せずに行っていた動作を、改めて思い出そうとするが、混乱している頭では一向に思い出せない。
意識すればするほど、どんどんと口の中のお茶の量が増えているような気持ちになる。
……やがて、四苦八苦しているうちに、段々と息苦しい感覚に襲われてきた。
(――こ、これ、このままだとどんどん苦しくなっていくんじゃ……)
このままだと私『お茶で溺れ死んだ奴』になるんじゃないだろうか?
そんな空恐ろしい想像に駆られた私は――
――葛藤の末、布を口に当て……
――じわりと手元に生暖かい水気が広がっていく。
……なにか、人として大切なものを失った気がした。





