第十五話「先輩、ソレです」
――ハァ……ハァ……ハァ……
大した運動をしていないはずなのに、マラソンした後みたいに呼吸が荒い。
両手を膝の辺りに置いて、ぜぇぜぇと喘ぐように呼吸をすると、全身に籠もった熱が吐き出されているのか、妙に口の中の空気が熱っぽい。
……しかし、目下そんな私は今、恨めしげな視線を目の前の人物に向けていた。
「――せん、ぱい……『走れ』って……言った、じゃ、ないですか……っ!」
「……いや、まさか建物の外まで走って行くとは思わなかったからな」
慌てて崩れゆく建物から飛び出した私は、後ろを振り返り――そこに、先輩の姿がなかった事に絶望した。
(――先輩……まさか……逃げ遅れて……)
――そう思ったときの恐怖は、どれほどのものだったか!!
呼吸するのも忘れるほどの絶望にうちひしがれていた私の前に、先輩は何食わぬ顔でのんびり何かをポケットに仕舞い込みながら、歩いて出てきた。
「――なるほど。確かに今の走りは『貧弱』ではないな。足場の悪い中見事な走りだった」
いけしゃあしゃあとそんな事を言って、また意地の悪い笑みを見たときの気持ちたるや!
――先輩の無事な姿が見えたことへの安堵で、一気に襲ってきた疲労感がなければ、拳の一つでもたたきつけてやりたい気分だ。
「……まあ、あの部屋以外も崩れる可能性があったからな。速やかな退避は良いことだ」
「……それでも、一声くらい掛けてくれたって良かったんじゃないですか?」
「君が声を掛ける間もなく走り抜けていったのだろう……」
(……そういうことか)
恨みがましい私の言葉に、先輩が仕方なしといった様子で反論してくる。
確かに振り返りもせずに全力で走ったのだから、先輩が声を掛けることが出来なかったのももっともだ。
(ってことは……今の……申し訳ない言い方をした訳だよね……?)
「……すみませんでした」
「いや、私の言い方も悪かったからな……」
先輩も申し訳なさそうに謝ってくれる。
そして、先輩は困ったように頭を掻くと、気持ちを切り替えるようにこちらを向いた。
「――さて、ひとまず手がかりらしいものは見つかったわけだが……このあとどうするかが問題だな。……探索を続けて、他の手がかりを見つけるか、あるいは、一度引き上げてこの本を確認するか……時に、神宮さんは、今の時間は分かるか?」
「え? 時間ですか?」
「ああ、少々バスの時間が気になってな?」
そういえば、どれくらい私達はここにいたんだろう?
それほど長い時間じゃ無かった気はするが、それでもこんなところで帰りのバスがなくなってしまったら洒落にならない。
「ああっ! そうですね。時刻表、見とけば良かったです」
「私も時刻表までは見ていなかったな」
(……バスの時刻表って、携帯で見れるのかな?)
どっちにしろ、時間を確認するため、制服のポケットに入れた携帯電話を取りだした。
今の時刻を確認するため携帯の側面にあるボタンを押した。
(――あれ?)
ボタンを押しても、携帯電話のサブディスプレイは消えたままで、時間も何も表示されない。
(バスに乗るとき、電源切ってたかな?)
そう思いながら、携帯の主電源を押してみるけど、それでも表示は真っ黒なままだ。
「すみません。どうも充電が切れてるみたいです」
「――そうか。やはりな」
「なにが『やはり』なんですか?」
深刻な表情で顎に手を当てながら考え込む先輩に聞くと、先輩も制服から最近流行りのタッチパネル式の携帯電話を取りだした。
(ああ、さっき出てくるときにしまってたのって携帯だったんだ)
先輩の携帯電話からは充電ケーブルらしきコードが制服のポケットに向かって伸びている。
「なんだ……先輩も携帯電話持ってるんじゃないですか……あれ?」
先輩が携帯電話を私の方を向けるが、やはりそこは真っ黒な液晶画面だった。
「……私の携帯も、充電は十分にあったはずなのだが、さっきからどうにもこうにも電源が入らんでな。一応、見ての通り充電もしてみたのだが、いっこうに立ち上がる様子がない。――しかし、なるほど。神宮さんもか……」
「それって……」
「まあ、十中八九この場所の仕業だろうな」
(映画とかで見たことがある、アレってホントだったんだ……)
よく、映画なんかで心霊系のものを見ていると携帯電話とか電子機器の調子が悪くなると言う描写がでてくるが、まさか自分たちが身をもってその描写が正しかったことを知ることになるとは思わなかった。
「他にも、気になることがあってな……」
「なんですか?」
「いや、建物を見たときから疑問ではあったのだが……崩れてくるまでは、それほど気にしていなかった事があってな……なぜ、この場所を良く知っているはずの住人達は、皆この荒れ果てた神社に行くように言ったのかとね?」
(――そうだっ!)
――さっき、先輩が建物をノックするときに覚えた違和感の正体が、今更ながらにして分かった。
それは、なぜこんな明らかに誰も居ない神社に、みんなそろいもそろって行くように言ったのかということだ。
(普通、入っただけで崩れてくるような無人の神社に行くようになんて言ったりしないよね……?)
言われてみれば、いい大人達がそろいもそろってこんな場所に案内するだなんて、とても不気味な話だ。
「――どうにも嫌な予感がする。悪夢の問題が解決していない中、不安だろうと思うが、一度町に戻ってみても構わないか? その後、また戻ってきてもさほど時間はかからないはずだ。どちらにせよ、人が居ないのであれば、聞き取りも何もあったものではないだろう」
「――はい。大丈夫です!」
ひとまず私達は、じりじりとした得体の知れない不安感を解消するために、来たときの道を逆向きに戻り始めたのだった。
***
「妙だな……」
先輩が、ぽつりと呟いて立ち止まった。
辺りは、木々の間から漏れてくる月明かりと懐中電灯の明かりだけが頼りの、暗闇に閉ざされた山道である。
知らない間に耳に神経を集中していたらしい私の耳には、先輩の声がとても大きく聞こえた。
――私も先輩が言いたいことはよく分かっている。
「……もう、三十分くらい歩いてますよね?」
「ああ。時計がないもので、気のせいかと思っていたが――やはり、それぐらいは歩いているはずだな」
ずっと私も疑問に思っていたが、気のせいかと思って口にしないでいたのだ。
どうやら先輩も私と同じで、口にしないだけでずっと気がついていたらしい。
(それに……こっちも……)
その場でしゃがみ込み、道ばたに隠れているお地蔵様を懐中電灯で照らしてみながら、疑問に思っていたことを口にする。
「……先輩、もっと不安になっていることを聞いてみてもいいですか?」
自分の顔が泣きそうに強張っているのを自覚しながら、勘違いであって欲しいと思いながら先輩の顔を見上げる。
先輩は、『言いたいことは分かっている』とでも言いたげな表情を浮かべると、一つ頷き私に先を促した。
「……なにかね?」
「――さ、さっきから、このお地蔵様、三回くらい見た気がするんですけど?」
「――奇遇だな。私も、ちょうど三回ほど見た覚えがあるよ。聞こうと思っていたところだ」
――迷った。
――二人そろって見事に。
「――で、でも――迷うような場所なんて無かったですよねっ!?」
悠長な様子の先輩に、慌てて詰め寄りながら確認する。
神社から麓まで一本道だ。迷おうと思っても、なかなか迷えるものとは思えなかった。
「ああ。確かに夜の山道では、途中で道を見落としてという事はあるのだが……それにしても、延々下り坂が続いて同じ場所に出るというのはおかしいな」
「……これって、やっぱり」
「――まあ、不可思議な現象が起こっていると言わざる終えんだろう」
(――やっぱり……そうだったかぁ……)
……正直、もう不思議な事はお腹いっぱい。
今日一日で、一生分の不思議な事は経験した気がする。
『わんこそば』みたいにぽんぽん襲ってくる心霊現象に、そろそろお代わりを止める蓋が欲しいところだ。
このままだと、お腹が一杯すぎて破裂してしまう。
(でも、まあ――一緒に食べてくれる人が居て良かったかな)
今も、木の間から見える星空を眺めたりしながら何事か考えている先輩を見ながら、こんな状況なのに少し元気が出てきた気がして、口元が緩んだ。
――すぐに、その口元は恐怖の形に歪むことになったが。
星空を見上げる先輩のその後ろ。先輩の足下辺りの茂みから……
――何度も何度も夢に見た、うっすらと光を放つ、真っ白な腕がゆっくりと伸びてきていた。
「――っ先輩! あ、足下っ、後ろっ!」
「――ん? ――ぅおおぉお!?」
どこか超然とした余裕のある態度だった先輩が、気がつかない間に自分に迫っていた手に、珍しく慌てた素っ頓狂な声をだして飛び退いた。
幸い、手は本当にゆっくりと伸びてきていて、先輩は大きく手から離れて私の近くに来ると、私を守るように手と私の間に立ちはだかった。
「……なんだ!? この……腕ッ!?」
「先輩、それ、それです! その手です! 夢の中でずっと追いかけてくるのは!」
「――なにぃ!?」
流石に混乱している様子の先輩に向かって、その手が悪夢の元凶だと伝えると、やはり驚いたように一瞬こちらに向かって視線をよこした。
――そして、私の方を振り返ったまま、さらに驚愕したように両目を大きく見開いている。
「夢の中では、一本だけじゃなくて、その手が一杯現われて、私を追いかけてくるんです」
夢で見ていた存在が、本当に現実に現われてしまった事が信じられなくて、少し興奮したまま私は勢いこんで先輩に説明する。
――すると、先輩はなぜか、『なにか』に納得したような表情を浮べた。
「ああ……なるほど。――そういうことか……神宮さん……嫌になる情報をありがとう……。――失礼するぞッ!」
――そう言うと、先輩は突然私を抱きしめた。
「――へぇあ!?」
突然の事に、ちょっと女の子としてどうかという変な声が口から飛び出した。
(な、なに? 先輩!? ど、ど、どういうつもりですか!?)
今まで、誰かに触れられることすらほとんど無かった私には、あまりにも刺激の強い事態に、一瞬気色の悪い手のことすら忘れて動揺してしまう。
私が動揺している間に、先輩は私を抱きしめたままその場を横方向に飛び退いた。
――先輩の凜々しいといっていい顔立ちが、目の前にある。
でも、その視線は私でも、出てきた手でもなく、私の後ろに向けられていた。
(――どこ、見てるんですか?)
視線の先を追って先輩の腕の中で上半身ごと首をひねって……
――激しく後悔した。
先輩の視線の先に居たのは、藪の中、うぞうぞと触手のように蠢き、あちこちからひしめきあって現われる無数の腕だった。
見ていると、それらは、まるで『目が合った』ように、一瞬動きを止める。
……そして――獲物を見つけたかのように突然速度を上げると、こちらに向かって伸びて……ッ!
「……これ、夢じゃないですよね?」
「――っ呆けるな! 今度こそ全力で走れ!」
先輩が抱きしめた手を離すと同時、思わず腰を抜かしそうになりながら呟いた私に、先輩は珍しく焦った声で叫ぶと、私の手を引き山頂に向かう道を走り出した――。





