第十話「先輩、朝早くからごめんなさい」
「なんだ……これ……嘘、だよね……どんな冗談……?」
さぁっと血の気が引いていく中、早朝の青みの強い薄明かりの中、足下に気をつけながら窓際に近づいていく。
カーテンのレールに引っかかるようにしてぶら下がっていた木片を手に取ると、所々引きちぎられたような糸が絡みついている。
その糸は、間違いなく昨日は蜘蛛の巣のように編み上げられていたはずで。
――まるで、網にかかった何者かが、とんでもない力で網を引きちぎったようだった。
(――イタチとかじゃ……ないよね?)
とっさに、窓からなにか入ってきたのかもと思って、窓の戸締まりを確認するが、おばあちゃんとの二人暮らしだった頃から戸締まりはしっかりしている。
間違いなく、窓はぴったりと閉じられてカギがかかっていた。
(でも、そうなると……)
今まで見ていた夢の中、どこか遠くで聞こえた息づかいが、カラカラと音を立てていたのを思い出す。
(今まで、夢だと思って呑気に身悶えしてたけど……もしかして――本当に、なにかあるの?)
俄に不安が鎌首をもたげ、首筋の辺りがぞわりとあわ立ったような恐怖を覚えた。
それに……もし――もしも、これが、本当に超常的な何かが原因だったとしたら……御守りが壊れた今夜……私は一体どうなるのだろうか?
自分の手の中で、引きちぎられ、ぼろぼろになったドリームキャッチャーを見ながら、そんな恐ろしい想像がよぎった。
――怖い。
昨日まで見ていた、『おかしな夢』では片付けられない、現実的な恐ろしさが身に迫っているように感じた。
「そうだ、先輩っ……穂積、先輩」
だれも、頼れる人が居ない中、動転する思考を鎮めるように口をついて出たのは、おばあちゃんが頼るように言った、近所に住む先輩。その、名前だった。
「って――違う。そうじゃない。……とりあえず、宝珠を探さないと」
……怖いけど、まだ少し変な事が起こっただけだ。
とりあえず、夢でおばあちゃんが言っていた宝珠を探してみよう。
夢が、本当なのか。確かめるのはそれからだって遅くない。
今のままじゃ、怖い夢を見て現実と混同しちゃった痛い後輩にしか思われないだろうし。
納屋を探してみて、本当にその宝珠があったら――
……その時は、ダメ元で先輩に相談してみよう。
部屋を飛び出すと、納屋のカギをひっつかみ、部屋着のまま少しほこりっぽい納屋へと飛び込んだ。
おばあちゃんが、仕舞い込みそうな所を片っ端から開いていき、納屋の中をバタバタと慌ただしく探し回ると、細かな砂のような埃が室内に充満していく。
(――今日は、帰ったら絶対洗濯しよう。あと、今度の休みには納屋も掃除しないと……)
――ろくに手入れをしていなかった納屋の中、荷物の表面を覆っている埃が、動かす度に吹き上げられたように舞い上がって、窓からの光の道筋を映し出している。
吸い込んだ埃が喉を刺激し、ヒリヒリとするような痛みに咳き込みながら、徹底的な掃除を決意した。
――そのまま十分ほど探し回った頃だろうか。
いくつかの同じような大きさの木箱の中に――『それ』はあった。
見覚えのある大きさの、立方体の木箱だ。
ちょうど、風呂敷に包めば、昔見たほどの大きさになるだろう。
――ドキ、ドキ……と痛いほどに心臓が脈打っているのを感じる。
そっと手を伸して、木箱の上から三分の一ほどの高さにうっすらと入った切れ目に力を入れ、押しあげていく。
高い精度で組み合わされた木材が、すっと心地よい手応えと共に、持ち上げられ蓋が開いた。
そして、そこには――琥珀色をした、直径十センチほどの大きさの球体がぴったりと納められていた。
(……本当に、あった)
夢で見た物が現実に存在した事に、高揚する気持ちと、なにか得体の知れない力が働いているかもしれないという不安が強さを増していって、心の中がざわざわとあわ立っていく。
(――先輩に……相談しないと)
一度大きく息を吐き出した私は、短く決意をして、出かける支度をするために、木箱を両手で抱えて家の中へと戻っていく。
(……そ、それに、ドリームキャッチャーを壊しちゃった件を謝らないといけないしね)
――でも、やっぱり、自分自身が半信半疑の超常現象を先輩に相談するのは、とても勇気がいる。
だからだろう。気がつけば、内心ついつい言い訳を考える私も居たのだった。
***
「――よし。授業の準備は持ったし――宝珠も大丈夫……あと、ドリームキャッチャーも持った」
トントンと真新しいローファーのつま先をタイルに打ち付けながら、振り返り、上がりがまちに置かれた鞄と木箱やドリームキャッチャーの残骸を入れた巾着袋を確認する。
まったくもって、学校に持って行く物とは思えない内容である。
(――これから、これを持って先輩のお家に寄ってから学校に行くのか……)
バラバラになってしまっている頂き物のことや、相談内容の荒唐無稽さを考えて、少し憂鬱になった。
だが、今の状況を考えてみれば、先輩に相談してみる以外に方法は思いつかない。
――ふと、目の端に玄関先に置いてある大きな姿見が目に入った。
(――うわ、寝癖がある……)
見てみると、ぴょこんと大きく髪の毛が一房跳ね上がっている。
普段はあんまり見た目に気を遣っていなかったが……今はとても気になった。
(どうしよう。直さないと……っそうだ、お湯……! お湯つけよう)
寝癖直しを何処に仕舞い込んだのかもとっさに思い出せない自分に情けなくなりながら、一旦履いたローファーを脱ぎ、洗面所に向かって大急ぎで駆け戻るのだった。
(――まだ、普通の人の登校時間まで一時間くらいあるから――きっと大丈夫!)
***
スーハーと、大きく深呼吸しながら、立派な門構えの前で立っていた。
少し肌寒い朝の空気が肺の中に取り込まれていく感覚がして、少しだけ落ち着きを取り戻した。
朝早くから、異性の家を訪問するという初めての経験だったが、ドキドキよりも不安感の方が強い。
(絶対これ、変な奴だと思われるよね?)
――背に腹は代えられない。
何度か前髪を引っ張って、傷口がちゃんと隠れているか、おかしなところが無いか確認すると、意を決してチャイムを押した。
ピン……ポーン……
間の抜けた電子音が響き、遅れて『はーい』という女性の声が聞こえた。
「あ、その……浅間高校の神宮と申します。穂積――穂積優結先輩、お願いできますか?」
チャイムのカメラに向かってぴしっと姿勢を正し、先輩を呼び出して貰おうとして、この家に居るのが全員『穂積さん』だったことに気がついた。
慌てて、下の名前をつけて呼び直すと、インターホンから『ちょっと待ってくださいね』と声が聞こえた。
しばらく待っていると、ガチャリと閂が抜かれる音がして、通用口が開いて女性が顔を覗かせる。
「あら……やっぱり、昨日の子ね。いらっしゃい。どうしたの?」
顔を覗かせた女性は、昨日廊下でお会いした、先輩のお母さんだった。
あまり化粧っ気がないにもかかわらず、肌の色もとても綺麗で、やはり先輩のような息子さんがいるような年頃には見えない。
「あ、お世話になってます。――その、先輩にちょっとお話……ご相談がありまして」
「そうなの……ごめんなさいね。優結はもう学校に出ちゃってるのよ」
「――そうなんですか!?」
かなり早い時間に来たはずだが、もう先輩は家を出た後だったらしい。
(こんな時間に家を出てたら、始業まで一時間以上有ると思うんだけど……)
「あの子の携帯に掛けてみましょうか? 今なら戻ってこれると思うわ?」
「だ、大丈夫です! 学校で、お聞きするようにしますから」
携帯電話をごそごそと取り出しながら、そんな事を聞いてくる先輩のお母さんに、申し訳なさから一歩引きながら、慌てて両手を振った。
「――そう? ごめんなさいね。あの子ったら、女の子を置いていくなんて、本当に気が利かないんだから……帰ってきたら叱っておくわ」
「いえ、本当に、私が勝手にこんな時間に来ちゃっただけですから! 約束してた訳でもないですし」
先輩のお母さんは、おっとりとした様子で、少し残念そうに携帯電話を仕舞い込んだ。
「それじゃあ、すみません。朝早くから突然お伺いしてしまって。ありがとうございました」
「いいのよー。うちは昔からみんな朝は早いから」
朝からあんまり長く手を取らせたら申し訳ないから、退散しようと挨拶すると、ふんわりと目元を和らげながらお母さんが手を振っている。
「あら……?」
ジャリっとアスファルトの擦れる音を聞きながら、先輩を追いかけて学校に行こうと振り返ると、後ろから何かに気がついたような声が聞こえた。
「え?」
何事かと思って左向きに振り返ろうとすると――パシンとした軽い衝撃が、振り返ろうとしたのとは逆の肩を襲った。
慌てて首を逆方向に曲げて振り返る。
見てみると、すぐ後ろに近づいていた先輩のお母さんが、ニコニコとした笑顔を浮かべたまま、パンパンと何かを振り払うように両手をはたいていた。
「――蜘蛛の巣、ついてたわ」
「え? 本当ですか? すみません……」
恥ずかしい。どうやら、蜘蛛の巣をひっつけたまま歩いていたらしい。
ひょっとすると、納屋を探索したときに着いたのかも知れない。
「ありがとうございました!」
「……気をつけて行くのよ」
そういって、今度こそ先輩のお母さんにお別れを言って私は歩き出した。
――こっそり、ブレザーの端を引っ張って整えながら。
……今度は、ちゃんと身だしなみに気をつけないと。





