CUERDA 弦
スペインの少年、エルナンドはギタリストとして成長し、世界有数のミュージシャンになる。
最近、自分の感覚と奏でる音の微妙なズレを感じ始めた。
老いなのか。
自問。あがき。指摘。そしてその結論。
音楽に詳しい方は直ぐに分かりますが、あの実在した天才的ギタリストの生涯をベースにオリジナルの逸話を織り込んでいます。
映画の雰囲気とはまるで違うオリジナリティをお楽しみ下さい。(^ ^)
[第1章 NEW MYTH 始まり]
大ホールの隅々まで響き渡る、万雷の拍手喝采。
スタンディングオベーション。
超満員のセビージャ国際ギターコンクール。
聴衆は、その若者の演奏に感動し、その余韻に酔いしれていた。
最大限の賞賛を込めて立ち上がって拍手を続けている。
歓声を上げ、酔いしれる聴衆とは反対に、エルナンドは震えていた。
その若者が奏でた音の強さ、キレ、情熱、優しさ、その全てのレベルの高さに驚嘆し、尊敬し、畏怖すらしていた。
気付けば、エルナンドは息をするのも忘れて、白くなる程拳を握りしめ、奥歯を噛み締めていた。
エルナンドを追い込んだその新星の名はオチ。
多くのスペイン人出場者を押さえて頂点に立ったのは、驚いたことに日本人の19歳の少年だった。
緊張した面持ちのオチのインタビューが始まるのを待たずに、エルナンドは会場を後にした。
稀有の天才がこの世に生まれ出たことに対する喜び。
その神の如き表現力への嫉妬。
迫りくる恐怖。
震えを止めることが出来ないエルナンドは、マセラッティのアクセルを踏み込む。
黄色のボーラが久しぶりの咆哮をあげた。
[第2章 REPUTATION 名声]
エルナンドの家はスペイン第四の都市、セビージャ郊外の丘の上にある。
セビージャは世界遺産もあり、観光都市として毎年数十万人が訪れる賑やかな街である。
街中に観光地が点在するため、どこに行っても人がいる。
地図や本を片手にした観光客に何度も道を聞かれる。そんな街だ。
静かな場所で子供たちと一緒に暮らしたいという妻の希望で、郊外のオリーブ畑の奥、街を見下ろす丘の上に家を建てた。
大きな家になった。
子供たちは既に独立したため、今は広い家に妻と二人。
仕事を減らしたので、一年のうち半年はこの家で過ごす様になった。
そもそも家には余り興味が無かった。
パンがあり、ワインがあり、夜には愛が交わせればそれで良かった。
その代わり車には凝った。
従順なトヨタやメルセデスに興味は無かった。
マセラティ。
ボーラは4.7L、V8、310馬力。ジウジアーロのデザインしたイエローのスポーツカーだ。
一方のビトゥルボはシルバーで、見た目は四角い型遅れのセダン。
しかし3.2L、V8、ツインターボ、325馬力が叩き出す圧倒的な性能は、まさしく羊の皮を被った狼だ。
若い頃は良く車に乗った。ギターの様に操る感覚が楽しかった。
今、二匹の狼たちはガレージで出番を待って静かに眠っている。
歳を重ねるとは、そんなものなのかも知れない。
これまで何年も休まずにワールドツアーを続けて来た。
毎年家にいるのは、ほんの2ヶ月ほどで家庭のことは何もして来なかった。
クリスマスに家に居たのは、この30年で二回しかない。
子供たちは小さい頃、エルナンドの顔をなかなか覚えなかった程だ。
30年間も駆けて来たのだ。
さすがにもう歩いてもいいのではないかと思った。
仕事を減らした。昔よりも時間は出来た。
いないと寂しい。しかしいつもいると鬱陶しい。
自由な時間という奴は、意外に付き合いにくい隣人だった。
今、エルナンドの目の前には、圧倒的なパノラマが広がっている。
街は遠く、街の喧騒は聞こえない。
ただ燃える空だけが目の前に広がっている。
静かな夕暮れを見つめながら、オチのダイナミックで若さに溢れた演奏を思い出していた。
十年ほど前、エルナンドはボランティアでギター教室を開いた。
クラスには日本人駐在員の子供が一人いた。
その子がオチだと誰かが教えてくれた。
思い出した。
自分の体よりも大きなギターにぶら下がる様にして、一音一音、弦をつまびいていた異国の小さな子どもがいた。
どこでどれだけの練習を積み重ねたのだろう。たった十年でオチは神になっていた。
静かな夕暮れに向かいながら、エルナンドはどこかがヒリヒリするのを感じていた。
[第3章 Algeciras アルヘシラス]
エルナンドの生まれた村、アルヘシラスはジブラルタル海峡に面した港町だ。
モロッコ行きのフェリーが出ていて、昔はアフリカへの玄関口だった。
港町の人々の気性は荒い。ましてやアフリカとの窓口だ。
街には色の黒い異国の人が沢山いた。
彼らは筋肉質で背も高く、威圧感があった。
チョコレートよりも黒い彼らは、夜になると闇に溶け込む。
いつも群れている彼らのたくさんの白い目は、不気味に闇に浮かぶのだ。
1950年代、アルヘシラスの街は荒んでいた。
朝、血だらけの男が港近くにうち捨てられ、虫の息 ということも珍しくなかった。
今の静かな街とは程遠い世界。
今の若者たちはその頃のアルヘシラスを知らない。
暴力とダンディズムが紙一重の時代。
エコも禁煙もハラスメントも関係無い時代。
力と金と酒と銃がものを言う時代。
そんな時代にエルナンドは育った。
エルナンドが初めてお下がりの古いギターを手にしたのは7歳。
ギタリスタを目指していた二人の兄とギターで遊んでいるうちに、いつしか上手くなっていた。
そして12歳の時、次男のホセと初めてのデュオアルバムをリリースした。
その後間も無く、幼なじみのトマティートとユニットを組んだ。
知り合いに頼み込み、店の掃除を条件に、町のタブラオで前座としてギターを弾かせてもらうことになった。
店ではギターだけでなく、色々なことを学んだ。
開店前の掃除の大事さ
開店前、ボウタイを締める男たちの緊張感
酔うほどに大きくなる客たちの喧騒
立ち込める紫煙
女たちの嬌声
9時を過ぎる頃から、店の明かりが落とされ、ステージに椅子が用意される。
15分間。
これがエルナンドとトマティートの最初のステージだった。
初めは散々だった。
弾き始めて一分で背中を向けられた二人の音は、吸い殻と一緒に床の上に落ち、ヒマワリの種のカラと混ざって客たちに踏みつけられた。
それでも二人は来る日も来る日も背中に向けて弾き続けた。
背を向けられても、下手なのだからしょうがない。そう思うしかなかった。
一カ月。タブラオと学校以外の時間はいつもギターを手にしていた。
やがて少しずつ顔を向けてもらえる様になってきた。
まばらな拍手と多少の投げ銭を手に入れる日もあった。二人は飛び上がって喜んだ。
時には通りに出た。
メインストリートの広い舗道。辺りに警察はいない。イスを2脚。
ギターケースの蓋を開けて弾き始める。
トマティートが先にリードを引っ張る。
エルナンドはリズムとベースだ。最初は穏やかなテンポ。
徐々に人が足を止める。
10人。
アイコンタクト。リードとベース。変える。
エルナンドが情熱的にペースを上げていく。
高音が激しく動き回る。低音が目まぐるしく上下する。
20人。
頷きながらリズムを合わせ、トマティートの眼を見て切る様に止める。
何人かが金を投げ入れる。
何度もお礼を言ってお辞儀で答える。
人数が30人を超えたら、少し時間を変え、場所を変える。
余り大人数になると警察も見逃せなくなるのだ。
タブラオとストリート。どちらも刺激的で二人は夢中になった。
[第4章 PRACTICE 修行]
タブラオのベテラン ギタリスタの一人がリカルドだった。
右手のリストの使い方と指が弦に当たる時の音の軟らかさが際立っていた。
ほんの僅かなリストの返しの溜めとその後のリストの返し。
柔らかく弦に当たる指のタッチが、始まりの一音目にキレをもたらし、曲を一つ高みに持ち上げる。
ほんのちょっとの差なのだが、曲の高揚感がまるで変わる。
エルナンドとトマティートは夢中になってリカルドのリストを真似した。
そして、ようやくリカルドがOKを出すのに半年かかった。
フェルナンド、ミゲル、ガルシア、アントニオ。
ベテラン ギタリスタたちは皆それぞれ得意技が違う。
最初はエルナンドたちを、仔犬をあしらうように笑ってからかうだけだった。
教えて欲しいと何度も訴え、付きまとい、目の前で弾いて見せた。
本気が伝わるのにニヶ月。少しずつ、実際に弾いて見せてくれたり、アドバイスをくれる様になった。
教えてもらった技は二人一緒に身体に染み付くまで、繰り返し練習した。
フラメンコギターは幾つかの基本的な技法を組み合わせないと曲にならない。
左手はフレットを押さえることでメロディを作り上げる。
左手の指がどれだけ正確かつ、スピーディーにフレットを押さえられるか。
それが流れる様なメロディの鍵になる。
右手はリズムを操る。
指を開いて速く弦をかき鳴らすラスゲアード。
一音ずつ爪弾いて主旋律を紡ぎ出すピカード。
打楽器の様にギターのボディーを叩くゴルぺ。
三連譜を爪弾いて一つの音にするトレモロ。
面倒見の良いフェルナンドが、エルナンドたちに知り合いのギタリスタを紹介してくれた。
その知り合いのツテで、何度かアマチュアのコンテストにも参加させてもらえた。
未熟だと分かってはいても、コンテストで演奏するのは、やはり嬉しかった。
エルナンドたちがそんなタブラオとストリート、練習とコンテストの日々を続けること2年。
ようやくベテランのギタリスタたちからも悪くないと認められるまでになった。
少しずつ、一つずつ、身に付けていったのだ。
エルナンドとトマティートは中学校を卒業した。そして別々の高校に進んだ。
[第5章 メイクラブ 口説き ]
タブラオのベテランたちのきまぐれで、エルナンドとトマティートは、一度だけメイク ラブ(口説き)に付き合わされたことがある。
店が終わってから、ベテランたちと全員でタクシーに分乗し、とあるバールへ出掛けた。
バールではこちらと同じ人数の女子グループが待っていた。
簡単に自己紹介してから、ワインのグラスを合わせる。軽くタパをつまむ。
そのうち、ベテランたちは1人ずつ娘の肩を抱き、エルナンドたちにウインクして消えていく。
面倒見のいいフェルナンドに聞いてみた。
娘と上の部屋に上がれば女の子が面倒を見てくれる。
今日はみんなのおごりだから、後はリラックスして思いきり楽しめ と笑った。
そしてフェルナンドも自分の番が来ると、娘の腰に手を回し、陽気にウインクして階段を上がっていった。
トマティートの番になった。
トマティートの相手はブラウンの髪のよく笑う娘だった。
トマティートは緊張した面持ちでエルナンドを見ると部屋に上がっていった。
エルナンドの番だ。
エルナンドの相手は切れ長の目をした長い黒髪の娘だ。
彼女は髪を揺らして立ち上がり、笑ってエルナンドを見上げながら腕を絡めて歩き出した。
エルナンドはリードされるまま部屋に入る。
「初めて?大丈夫よ」手を引きながら、笑ってベッドサイドまで進む。
「シャワー浴びてくるから、待っててね」
娘はいたずらっぽく笑うと消えた。
エルナンドはベッドに座った。
思いついた様に、シャツを脱ぎ始めるが、慌てて着直す。どうすれば良いのか解らない。
やがてドアが開いて彼女がバスタオル一枚で出てきた。
「お待たせしてゴメンね。来て」
手を取られて、導かれるままにベッドに乗った。
娘がエルナンドのシャツを脱がせる。
バスタオルが落ちて彼女の上向きの胸が揺れる。
エルナンドも裸にされた。
娘に手を伸ばされたところで声が出た。
「スゴイ元気。まだまだ、元気でしょ」
娘は笑った。
娘は慰めの言葉を掛けてくれたが、エルナンドはひたすら情け無く恥ずかしかった。
娘に腕をとられて階下に降りるとトマティートが下を向いて座っていた。
娘はエルナンドにお礼を言うとウインクして去っていった。
「どうだった?トマ」
「まあな。お前は?」
「ああ。なんていうか、、、」
「何だよ」
「、、、うまくいかないもんだな」
エルナンドはため息とともに右の眉を持ち上げた。
トマティートが勢いよく立ち上がる。
「お前も上手くいかなかったの?」
「え?もしかしてお前も?」
お互いの顔をまじまじと見つめあった後、エルナンドが先に吹き出した。
トマティートが釣られて吹き出した。
エルナンドが先にバルを飛び出した。
「あれならギターの方がよっぽど簡単だぜ。しっかし今考えると惜しかったな。クソ」
大げさに頭を抱えるトマティート。エルナンドがそれを指差して笑う。
「お前だってホントはそうだろ」
追うトマティート。逃げるエルナンド。
二人は笑いながら走った。
[第6章]トマティート TOMATITO
いつも時間に煩いトマティートがタブラオに姿を見せなかった。
時間だけが過ぎていく。おかしい。予感。
電話を借りてトマティートの家の番号をダイヤルする。繋がった。
巻込み。入院。
店を飛び出してタクシーを止める。
「Hospital Del Centro」まで。
悪い事ばかりが頭をよぎる。
「運転手さん、もっと飛ばして!友だちが事故ったんだ。」
病院に着くや否や、タクシーのドアを開けるのももどかしく勢いよく転げ出た。
夜間受付で部屋を訪ね、答えが終わるのを待たずに走り出す。
208号室。
深呼吸して部屋のドアに手をかける。目を瞑る。息を整える。
覚悟。
ドアをそっと開ける。
動くものの無い静かな部屋。
消毒液の匂い。
何本ものチューブに繋がれたトマティート。
血の滲んだ包帯の中から覗く顔。足。
完全にぐるぐる巻きの左手。
トマティートの両親が振り向いた。
手術が終わったばかりらしい。
一命は取り留めた。良かった。
たが、脊椎損傷。
左手は挟まれて潰れたため、複雑な骨折と裂傷。切断の可能性もあったという。
怪我が癒えても、良くて半身不随。
左手は元通りにはならないだろうと言われたそうだ。
エルナンドは天を仰ぎ、目を閉じた。
よろけて後ろの壁にぶつかる。壁に体重を預けたままズルズルと崩れ落ちる。
「神よ! トマが、トマが何をしたというんだ!!」
絞り出した低い呪詛の言葉。
食いしばる歯。
止まらぬ涙。
握った両拳を何度も床に叩きつけた。
その両拳が止められた。
トマティートの父さんだった。
「エルナンド。ありがとう。トマも君の様な友だちをもって幸せだ。
でもギター弾きは手を大事にしなきゃな。息子の分まで、、、、大事に、、、」
おじさんが泣き崩れた。
おばさんがおじさんに駆け寄り、抱き寄せ、共に泣きながら床にへたり込んだ。
誰も言葉が出なかった。
静かに身じろぎもしないトマティートの横で、3人は声を上げて泣いた。
そうしてエルナンドはソロになった。
[第7章 MAJOR メジャー ]
1964年、17歳。
エルナンドは長男のアルフォンソとデュオを組み、2枚目のアルバムをリリースした。
アルバムは評判になり、エルナンドは活動の幅を広げていった。
エルナンドはギターの腕だけでなく、そのルックスが観光客に受けた。
その結果、スペイン各地のメジャーなタブラオからも出演依頼が来るようになった。
エルナンドはタブラオだけではなく、様々な音楽イベントやコンテストにも積極的に参加した。
コルドバのパティオ祭り。
初の数百人の屋外ライブだった。
「今晩は」声の震えがマイクを通して聴衆に伝わった。
笑いと「頑張れ!」の掛け声があちこちからあがった。
つられて笑顔になった。
その結果、演奏は上手くいき、楽しいステージになった。
ギター祭りでは、フラメンコ育成部門に出場。
タブラオは距離が近いため、観客はエルナンドの演奏を目で楽しむことが出来る。
しかし大舞台ではプレイを見せることは出来ない。
選曲、構成、演奏だけで聴衆を魅せるのだ。
エルナンドは大舞台を意識した構成と演奏で聴衆を魅了してみせた。
大きな拍手に手応えを感じた。
この頃からエルナンドは若手フラメンコ ギタリスタとして、媒体でとりあげられる様になる。
目を瞑り首を振る独特の演奏スタイルからニックネームは哲学者となった。
そして1967年、20歳の時に初のソロアルバム「光の川」をリリース。
そのアルバムはフラメンコ界としては異例のグローバルヒットとなり、まだスペインでしか売れていなかったエルナンドの名をヨーロッパ中に知らしめる事となった。
更にブレークのきっかけになったのは1969年のコルドバ フラメンコ ナショナル コンペティション だった。
エルナンドはこの時初めて大きな大会のファイナルに残った。22歳だった。
『伸びやかで屈託のない、若さそのものの音』 と評され、新聞に載った。
そして1973年、運命のセビージャ国際ギターコンクール。
コンクール最終日。
他人との勝負ではない。どこまで自分の描いたイメージに正確に近づけるか。
そしてそれをどれだけ上回るか。それだけを考えた。
最後にエルナンドの名前がコールされた。
ギターを手に持ち、ゆっくりと光のステージに登る。
暖かい拍手の中、ステージの中央に進み出ると聴衆に向かって静かに一礼。
イスに腰掛けてポジションを調整する。目を閉じる。
深呼吸。
最初のフレーズが大事な曲だ。躊躇は許されない。
振り上げた右手が、大きく伸びやかにラスゲアードを掻き鳴らす。
何度も練習した手首の僅かな溜めとその後のリストの返し。
そして優しい弦へのタッチ。
上手くいった。
連続するラスゲアードのあと、曲は叙情的になり、ピカードで力強くメロディを爪弾く。
左手は抑制の効いたビブラート。
右手のゴルペがギターを軽やかなドラムに変える。
閉じた目に映る何か。光。流れ。煌めき。
その何かを捕まえて、それに音を重ねていく。
急速に変わるテンポ。ゆっくりと滑らかに動く左手と右手のトレモロが織りあげる郷愁。
エルナンドは自分が思い描いた空間にいた。狙った通りに聴衆の興奮を演出していた。
熱く乾いたアルへシラスの風を思い出すサビのフレーズを、少しずつ形を変えて繰り返す。そして静かにオクターブ上の単音が尾を引いて余韻を残した。
姿勢を正し、初めて目を開けて一度だけ聴衆を見渡すと、深くお辞儀をして舞台を降りた。
鳴り止まない大きな拍手がエルナンドを追いかけ、包み込む。
優勝。
審査員の満場一致だった。
「ウリエルの業火の様な熱。
グングニールの槍の様な強さ。
豪剣エクスカリバーの様な斬れ味。
神の才能を、我々は永らく待ち侘びていた」
新聞は彼をこう評価し賞賛した。
エルナンドは純粋に嬉しかった。
子どもの頃から目指してきた高みにようやく触れることが出来たのだ。
この喜びを誰よりもトマティートと分かち合いたかった。
しかし車椅子のトマティートには、どうしても会えなかった。
エルナンドに事故の責任はない事は解っている。
しかしトマティート一人を置き去りにしてきた罪悪感はどうしても消えなかった。
エルナンドはこの優勝の喜びを外に出すこと無く、一人苦しげな面持ちで会場を後にした。
これもまた哲学者ならではと噂された。
ま
この優勝の後にリリースしたソロアルバム「二つの山」はミリオンセラーとなった。
スペイン国内でもフラメンコとしては珍しく、ヒットチャートで1位を獲得。
フラメンコに興味の無い人にまでエルナンドの名前を知らしめた。
しかしこの成功が後に逆に彼を苦しめることになる。
[第8章 Summit 頂き]
それからのエルナンドは、国を背負うフラメンコ ギタリスタの第一人者として走り続けてきた。
特にバークレイ音楽大学卒の理論派、早弾きジャズギタリストの マクフライ。
既に一流アーティストのバックとしても活躍していた ジョン ファーガソン。
この二人と共に1976年に発表したアルバム「Mediterranean Bouquet (地中海の花束)」は、ヨーロッパ、北南米だけでなく、日本をはじめとするアジア各国でもリリースされ、大袈裟ではなく、地球上の多くの人々に感動を与え、グローバルなビリオンセラーとなった。
ジャズ ギタリストであるマクフライが、ステージ上でエレキギターのシールドを引き抜いて、フラメンコ界からやってきたエルナンドに勝負を挑んだのは、有名な伝説の逸話だ。
1977年にはマクフライのジャズアルバム「ダンシングジプシー」に参加し、フラメンコギターを交えたセッションでジャズ&フュージョン層のファンにも広く知られることになった。
さらに1979年。
ジョン ファーガソン、ラリー ブルーノとアコースティックギター3本だけで、バックは一切無しという冒険的なワールドツアーを行った。
暴挙とも言えるこの試みは、電子音に飽きていた愛好家の心を掴み、思いもよらぬ大成功を収めた。
イギリス、フランス、ドイツ、ノルウェー、ギリシャなどのヨーロッパ諸国は言うに及ばず、アメリカ、カナダのジャズファンや流行に敏感な若者たちにすぐに受け入れられた。
エルナンドは東洋の小国、日本も訪問した。
アジアのエキゾチックな文化の小国の人々も、エルナンドを大いに歓迎した。
[第9章 Departure 決別]
音楽史を塗り替えるほどの活躍をしてきたエルナンドだが、全てが順風満帆だった訳ではない。
1973年、スタジオ録音の際に即興で作り上げてしまった曲「双子の星」はルンバのリズムに乗って、ボンゴ、コンガ、エレキベースを入れて奏でたジャズフレーバーのフラメンコになった。
多くの人には好感を持って迎えられたこの革新的な試みは、ビンテージフラメンコ派から完全な異端としてみなされた。
150年もの昔から脈々と引き継がれてきた伝統的な技法を冒頭するものとされてしまったのである。
特にエルナンドを可愛がってきたフラメンコ界最大の巨星、フェリシアーノはエルナンドのライブを途中退席してまで不快感を露わにした。
後日「その腕をもってして、何故あんな音楽に手を染めるのか」とエルナンドを詰問したのは公然の秘密である。
フェリシアーノはフラメンコ界ではレジェンドである。
そのレジェンドから糾弾されたエルナンド。
古くから彼を慕い深く敬愛していたエルナンドは、ショックから一時活動を中止した。
引退すら考えた程だ。
しかしエルナンドは悩み抜いた末に活動を再開した。
フラメンコという閉じた世界へ投じた新しい音。
ボンゴやカホンの様な新しい楽器や新しいギターコードとのハーモニーや価値観の融合。
新しいものを作りたいというミュージシャンとしての欲求が、彼にビンテージフラメンコ界との訣別を決断させた。
[第10章 Spine トゲ]
自分の手を見つめることが多くなった。
具体的にどこかが衰えた訳ではない。
もちろん新聞は腕を伸ばさないと読めなくなったが、指が動かなくなった訳でもない。
なんとなくどこかが違うのだ。
寸分たがわずに、長さも強さも回数も同じように弾いているビブラートの何かが違う。
ほんのわずかなディテールで、自分が思っているところと違う。そんな感じだ。
相変わらず共演の話は絶えることがない。
仕事の量をコントロールして断っている程だ。
しかしプレイをしている最中も、小さなトゲの様な違和感がなくなる事はない。
このトゲはプロ中のプロの彼らにも気付けないほどの差なのかもしれない。
という事は、常人の耳には全くわかりはしないだろう。
自分自身の理想との戦いの様なものかもしれない。
しかし、その差は錆びとなって自身の中に沈んだ。
そんなある日、珍しく妻が旅に出ようと言った。
大恋愛とは言えないが、それなりの馴れ初めでそのまま一緒になった妻、ガブリエッラ。
妻にはとても感謝している。
彼女無しに私の成功はあり得なかっただろう。
何しろ1年のうち2ヶ月しか家にいないのだ。
家庭の全てのことが、妻に任せきりだった。
家の修理ことも、子供たちの教育も、すべて妻が仕切った。
子供たちも、人なりに蛇行しながらも、まあまあ上に向かって伸びてくれた。
これも全て妻のお陰だ。
結婚した当初よりも幾分ふくよかになったとはいえ、芯が強くて明るく可愛らしいのは昔のままだ。
そんな彼女が、珍しく一緒に旅をしたいと言ってきた。初めてのことだ。
二人でノンビリと国内を旅行したいという。
狼のマセラッティは目立つので、シルバーのレンタカーでスペイン国内を回る事にした。
一日目は遠乗りをし、妻が一番にリクエストした街、サンティリャーナ デル マルを目指す。
フランス国境近くの小さな田舎街だ。
人口4000人。
13世紀から続くロマネスク様式の貴族の屋敷跡が旅人を迎えてくれる静かな町。
スペイン人には密かに人気のある街だ。
イベリア半島縦断になるので、夕方にやっと町に着いた。
予約はしていなかったが、地元のペンションが取れた。
夕食は地元のタベルナ。ペンションに教えて貰った店だ。
セニョリータが笑顔でドアを開けてくれた。この店の女主人のようだ。
磨き込まれて黒光りする木の壁。
コントラストが鮮やかな白と黒のタイルの床。
とてもキレイに手入れされているのが判る。
地元の人に人気の店なのも納得だ。
まずは食前酒。シェリー酒のティオぺぺを二つ。
「乾杯!」ガブリエッラが笑いながらグラスをぶつけて来た。
メニューは店のお勧めも聞きながら決めた。
前菜は海が近いからアカザ海老と亀の手とマテ貝の塩茹でにした。
塩加減がちょうどいい。3種類の味と食感の違いが楽しい。
白ワインとの相性がとても良く、ボールに伸ばす手が止まらなくなる。
器はたちまち殻で一杯になった。
妻は殻の山を指さして笑い転げている。
メインはこんがりときつね色にローストされた子豚の丸焼き。
二人分として腿の部分を取り分けてもらった。ジューシーで脂っこくなくてうま味が濃い。
さすが看板料理とセニョリータが言うだけの事はある。
アロスにはシンプルな基本のパエリア。
サフランの黄色に、エビとトマトの赤、ムール貝の黒、アサリの殻のマーブル、レモンの黄色、パセリのグリーン。
色合いが鮮やかだ。炊き加減も申し分ない。
ワインを白から赤に変えた頃、グラスを片手に妻が笑いながら尋ねてきた。驚いた。
妻は私が悩んでいることに気付いていた。
解っては貰えないだろうと思いながら、妻に小さなトゲの痛みのことを話した。
話している間、妻は隣に座り直し、私の手を優しく握ってくれていた。
その夜は久しぶりに妻と愛し合った。
翌朝、鼻歌交じりの妻と共にチュロスとコーヒーの朝食。
朝から声を上げて笑う妻。
ペンションのコーヒーは美味しかった。
振り返れば、結婚してから旅行らしい旅行もしてこなかった。
申し訳ないと感じてしまう程に、妻は楽しそうだった。
お互いの優しさといたわりを再発見する様な笑顔の4日間が過ぎた。
5日目、妻の強い希望でアルヘシラスに立ち寄った。
トマティートの一件があり、アルヘシラスには一度も帰った事がなかった。
正直な所、この瞬間でも私だけが成功した負い目を感じている。
それほどトマティートには会わせる顔が無かった。
そんな私に、妻は小さな企みを隠していた。
妻にせがまれて、外から見るだけという約束であのタブラオを見に行った。
まだ開いていないはずの店が開いていた。
店の入り口には、すっかり生え際が後退し貫禄をダブルに着こなすオーナーが立っていた。
彼は私を見ると満面の笑顔で私の名前を呼び、両手を広げ抱きしめてくれた。
思いがけない再会。オーナーと改めて握手をかわし、肩を抱き合った。
オーナーは私の成功をとても喜んでくれていた。
話しながら店の中に招き入れられると、そこには何と、、、
車いすのトマティートがいた。
完全に不意打ちだった。
思わず両手で口を覆う。声すら出ない。
ただただトマティートが歪んで見えた。
トマティートは車椅子を操って私の前に来ると手を差し出した。
満面の笑みだった。
「エルナンド。うまくやってるじゃないか!うれしいぜ」
エルナンドは車いすの前に進み出た。自然とひざまずいて両手でトマティートの手を握る。
「トマ、、、。オレ、ほんとに、、、申し訳なくて。お前は自由に動くことも出来ないのに。
俺だけがこうして自由に生きてきて、、、ホントに、、、」
そこにいるのは高校生のエルナンドとトマティートだった。
エルナンドの顔は長年の苦しみと懺悔の涙でぐしゃぐしゃだった。
40年もの間、心の引出しの一番底に閉じ込めてきた悲しみは、まだその暗くドロドロとしたものを失っていなかった。
エルナンドはこの40年間を懺悔し、謝罪し続けた。
「オレだけが自由で、、、本当に申し訳なくて。会わせる顔も無くて。ごめん。だからここに帰ることも出来なくて。お前に会えなかった。ホントにごめん」
トマティートが笑いながらエルナンドの腕に手を置いた。
「エルナンド。お前、オレがお前の活躍を妬むと思うか?お前が活躍すれば嬉しいに決まっているさ。40年間、ずっとお前の活躍を嬉しく見てきたよ」
エルナンドはトマティートの車いすの膝に顔を埋めて号泣した。
安らかな時間だった。40年間背負ってきた重たい何かから解放されて子供のように泣きじゃくった。
トマティートは明るく笑いながらエルナンドの背中を撫でていた。
「エルナンド。お前泣きすぎだよ。もう40年だぞ。そんな昔話よりも、お前にプレゼントがある。受け取ってくれ」
エルナンドが泣きはらした目を上げると、トマティートは笑って古いギター差し出した。
「お前、これ覚えてるか。さんざん苦労して手に入れたお前の最初のギター」
ボディーは塗装がはげてボロボロだ。それでもネックは曲がってはいない。
「どうしたんだ、これ?」
「何時だったかマスターが持ってきたんだ。30年以上ずっと大事に持ってたんだぞ。
今、これをお前に返す。意味はわかるな、エルナンド。俺は信じてるぞ」
涙をふく。何だと。トマティートには見えていたのか。
「それにな、オレだって30年間練習してきたんだ。久しぶりに一緒にやろう。ほら、先輩たちも一緒に演りたいってさ」
リカルド、フェルナンド、ミゲル、ガルシア、アントニオ。
振り返ると懐かしい面々が笑顔で私を見降ろしていた。
若い頃一緒に腕を磨いた仲間たち。
もうすでに音楽の世界を離れ、職人や実業家、タクシーの運転手。それぞれに生きているという。
そんな彼らとの演奏。
ボロボロのギターでも、即興で音を合わせ、重ねていく事のなんと純粋で楽しいことか。
最後は皆のリクエストでMediterranean Bouquet (地中海の花束)を演奏した。
みんなの眼を見て、彼らが心から楽しんでいることが解った。
そして私の喜びが彼らの喜びである事も。
全員が楽しいと感じていることを確信できる喜び。
心が震えた。
クオリティでは無いのか。
相手と作り上げる喜び。
眼を見て、お互いのタイミングを持ち寄って、相手に気持ちを重ねて創り上げる音は、テクニックよりも重要なものに思えた。
いつの間にか置き忘れてきたもの。
みんなと一緒に演奏するエルナンドを見て、ガブリエッラが後ろで泣きながら笑っていた。
[第11章 Bouquet 花束]
「エルナンド以来の神の降臨」と絶賛されたオチとの共演の機会がやってきた。
10年ほど前、ギター教室で教えたことのあるオチ。
フェスティバルの楽屋でオチと顔を合わせた。
オチは私を覚えていた。そしてとても感謝していた。
「まだまだ、とてもとても先生には敵いません」 と屈託なく笑った。
若さと自信とエネルギーに満ち溢れた若者の笑顔だった、
最初はエルナンド。次にオチ。最後に二人の競演という順番になった。
既に十分に盛り上がっているフェスティバルの舞台に二人で登場する。
聴衆は始まる前から大興奮だ。黄色い声援と野太い声援がエルナンドとオチを交互にコールする。
一緒にステージに上がる。エルナンドがオチの手を取り、高々と差し上げた。
興奮に湧き上がる聴衆の大歓声。やがて拍手の波は大きなうねりとなり会場を満たす。
二人は椅子に座る。軽くチューニング。
エルナンドがオチの眼を見る。スタートだ。
オチは射貫くような眼でこちらを見ている。
エルナンドは笑いかけた。
最初はエルナンドのソロだ。
ゆっくり始めた。
徐々に走り出す旋律。
重なる和音がうねりとなって旋律をつつむ。
テンポが早まる。
眼を閉じて世界を遮断し、全ての意識を耳に集中する。
耳で捕まえる音のタイミング。
音と音のちょうど中心に寸分の狂いもなく自分のタイミングをぶつける。
自分の描いたイメージにどれだけ正確に演奏を重ねられるか。
そしてその正確さにどれだけの情熱と感情を乗せて聴衆に届けられるか。
今、この瞬間、エルナンドはステージで自分自身に向かい合っていた。
ネックの上を軽やかにタップする左手。
開いた指で弦を力強く搔き鳴らす右手。
手首の僅かな貯めとその後のリストの返し。
柔らかいタッチで弦に指を当てる。
浮かぶリカルドの笑顔。
ソロの後半だ。最後のリズムを捕まえる。
熱く伸び上がる左手の旋律。激しく繰り返す右手が正確にシンクロする。
狙い通りに狂い無くその中心を撃ち抜く。
ソロの最後。郷愁のメロディ。
フェリーの煙。
アラビア語の看板。
ケバブの匂い。
強い陽射しに浮かび上がる影。
エルナンドは音の中に熱く乾いた風を見ていた。
静かにテンポを落として行く。
眼を開ける。
オチに笑いかける。
オチの眼は興奮に潤んでいた。
ギターのネックを振ってバトンタッチする。
ゲートを飛び出した競走馬の様に、オチは若者らしく熱く激しく飛び出していく。
左手は激しく正確に、ネックを3段跳びで目まぐるしく行き来する。
右手は情熱的に胴を叩き、弦を弾き、掻き鳴らす。
旋律を繰り返しながら、和音を少しずつ変えて、聴衆を熱く高めていく。
急に転調した。
メランコリックな曲調。
トレモロが哀しげな旋律を奏で上げる。
編曲の自由さと思い切りの良さに聴衆は酔いしれる。
急にテンポが落ちた。音が止まる。
静まり返る会場。
全員がこれから起こるであろう予想できない展開に息を飲んだ。
物音一つしない。
オチがいたずらっ子の挑む様な眼で合図を送ってきた。
何か言った。
何だ?
オチは一音一音を力強く高らかに鳴らして、キレの良いイントロを弾き始めた。
Mediterranean Biuquet だ。
エルナンドの全身の毛が逆立った。
イントロだけでオチの実力が伝わる。マクフライよりも上かもしれない。
一音一音の明瞭度が際立っている。
今から始まる神の領域のバトルにエルナンドは口の端を持ち上げて笑った。
オチの眼を見て訴えかける。
『来い。オチ。お前の全てを見せてみろ!』
エルナンドの情熱が火を噴いた。
身体中から紅蓮の炎が立ち登る。
笑っていた。
オチの演奏がエルナンドを呼ぶ。
エルナンドが更にオチを引き上げる。
エルナンドの炎が白くなる。
エルナンドは笑いが止まらなかった。
オチが喜んでいることを確信した。
眼を見て、お互いのタイミングを持ち寄って、音と音を重ねて二人の音が出来上がる。
お互いにお互いが無上に楽しいと感じていることを確信する喜び。
何と楽しいのだ。もっとだ。もっと。
全身がビリビリと音を立て始めた。
まだまだ行ける。
エルナンドは沸き起こる笑いを抑えられなかった。
本作品は史実を取り入れた完全なフィクションであり、小説として脚色されています。
正確な事実を描いたものではありません。
皆様にその虚構をお楽しみ頂ければ幸いです。
Big, big respect to very famous super guitarist.
I heard your guiter when I was student. I was shocked at it.
I wish your peaceful sleep, joy & glory now under the lawn.
ご覧頂きまして誠にありがとうございました。
久しぶりに許可を聴いて活字に落としてみました。
同じ時期に映画になってビックリしましたが、その中味はかなり違いました。当然です。
こちらも楽しみ頂けましたら幸いです。
登場人物の名前、作品名など固有名詞は全て変えたつもりです。
著作権、肖像権などで揉めない事を祈りつつ、、、。