空は高く、雲は遠く
自分の分のココアを飲み干してから気がついた。
軽四の青い車を手に入れなければならないんだった。
僕は返却トレイにマグカップを返すと足早に店を出た。
肩がぶつかった男の舌打ちが、すぐにすんだ青空にかきけされる。
旅立ちにはもってこいの陽気だった。
本屋でドライビングマップを買ってから、駐車場を探す。
暑すぎて、目眩がしそうだ。
有料駐車場はすぐに見つかった。掲げられた看板には上限が千二百円と書かれている。オレンジ色の枠内にキッチリと納められた青い軽四を見つけるのに時間はかからなかった。
鍵をポケットから取りだし解錠ボタンを押す。ピッ、というわざとらしい機械音とともに車の鍵が開いた。
車に乗り込む前に精算機に番号を入力し、お金を投入する。最低料金だった。
「……」
一度清算してたのか、はたまた駐車したばかりなのか、僕にはわからないが、ありがたい限りだ。
ドキドキしながら、ハンドルを握り、自宅アパートに向けてアクセルを踏む。
ペーパードライバーの運転ほど恐ろしいものはないだろう。
自宅アパートの前で停車し、自分の家に帰る。人通りもほとんど無いし、駐禁をとられることもないだろう。
ドアを開けるといい匂いが鼻孔をくすぐった。
「おかえりなさい。ご飯作っといたわ。冷蔵庫勝手に開けたけど、許してね」
リンネは味噌汁を茶碗によそいながら微笑んだ。穏やかで幸福な午前だった。
さて、
いただきますと手を合わせてから今後の相談をする。
「まず買い物にいこう」
「最高ね。パンツを買いにいきましょう」
「問題はその次だ。どうやって高知まで行くか」
「ヒサメから車を借りたんでしょ? なら問題ないじゃない」
無言でお茶で喉を潤す。
「借りられなかったの?」
「いや、心置きなく貸してくれたよ」
「じゃあ、お金がないとか」
「ETCカード使いたい放題さ」
「行き方がわからないの?」
「カーナビがあるからそこは大丈夫」
「じゃあ、なによ」
「ペーパードライバーなんだ」
「呆れた」
言うてもこれが一番のネックだ。
短距離なら問題ない。だけど長距離となると不安しかない。
「運転してるうちになれるわよ」
「君は免許を持っているのか?」
「無いけど、道路を見ればたくさんの人がハンドル握ってるじゃない」
「免許を持てばわかる。彼らはスゴい。よく毎日車を運転できるもんだ。へたすりゃ死ぬし殺すかもしれないんだ。平然とし過ぎだろ」
「人間なんて遅かれ早かれ死ぬもんよ。いいから買い物に行きましょ。十時には厄介な人たちがこのアパートを取り囲むんだからね」
予知は行動を急かすのに便利な能力だ。出不精の僕も脅されたら外出せざるを得ない。
朝食を終え、ヒサメから預かった車に乗って、郊外にあるショッピングモールを目指すことにした。
午前中の太陽はまだ本気を出していないが、燦々と降り注ぐ日差しに容赦は無かった。
運転席に座りハンドルを握る。息をつく。
「なに。その顔。初めて銃を握った少年兵みたいな顔してるわよ」
「シートベルトは絶対つけてね。死んでも文句言うなよ。遺書の準備は大丈夫か」
「ラジオつけてもいい?」
僕の不安をよそにリンネは上機嫌だ。エフエムから流れてきた一昔前の邦楽にハミングし始めた。
「この曲好き」
しばらく車を走らせると平野にデーンと構えるショッピングモールが見えてきた。
辺りに背の高い建物はないので、それはもう不気味である。
「さすが地方都市ね。どでかいわ」
「映画館まで入ってるんだ。高校生のデートスポットなんだよ」
我々の目的はパンツを買うことだけど。
「昔、教科書で読んだわ。地方にショッピングモールができると地元商店の客が奪われ地方衰退に繋がるって。で、最終的にモールの集客力も落ちて撤退ののち景気どん底の焼け野原になっちゃうんだって」
「さあ。詳しくないけど週末の賑わいははんぱないからそんなことにはならないんじゃないかな」
いまの僕の問題は、無駄に広い駐車場に、この青い軽四をどう駐車するかである。
路上に停めるのとはわけが違う。
バックで入庫しないといけないのだ。
ここには教習所と違ってポールもない。
非常に難しい問題だ。
結局リンネに手伝ってもらってなんとか駐車に成功した。
あとはモール内にある銀行でお金を下ろし、パンツと、旅に必要な物資(栄養ドリンク)を買うだけである。
ああ、あとでガソリンスタンドでタイヤの空気圧もあげないと。高速道路走るときは、そうしないといけないんだよね。詳しくないけどさ。
ショッピングモール内は混んでいた。どこにこれだけの人口があったのだろうというくらいの混み具合だ。
「吐きそうだ」
「同感」
人混みはお互い苦手らしい。夏休みど真ん中だもんな、くそったれ、と悪態をついたところで、人が減るわけでもなしに、僕とリンネははぐれないようお互いに気を使いながら歩いた。
エスカレーターでランジェリーショップがある二階にあがる。ここから先は男子禁制だ。
「ちょっとまっててね。下着買ってくるから。あと、ね。あとで、服見てもいい?」
「お気の召すまま」
「っ! ありがとう!」
そんな眩しい笑顔を向けられたら文句なんて言えなくなってしまう。
やりたくもないレジ打ちを頑張ってきた甲斐があったと言うものだ。奨学金の返済は悩ましいことだけど、いま目の前にある笑顔には変えられない。
僕は近くのベンチに座ってリンネが出てくるのを携帯を弄りながら待つことにした。
長距離ドライブで必要なものは他になんだろう。
起動した電子メモにいくつか必要なものを記入していく。
とりあえずガムと梅干しだな。
あとは携帯充電器と……、なんだろう。
てか、昨日まで知らなかった女の子とそんなに長時間密室って状況がまず怖い。話すネタもないし、落語のCDも用意しとこう。
「よっす」
いきなり、ほんとうにいきなりだ。
隣の空席に見知らぬ男がドカッと乱暴に腰を下ろし、肩に手を回してきた。
誰だ誰だ誰だ、こいつ。
「買い物かい?」
「そ、そんなところ」
同級生だろうか。
大学の交友は広く浅くなので、親しげに肩を組むような友人はいなかったと思うんだけど。
ティーシャツにジーンズと随分とラフな格好だが、金髪で鼻にピアスを開けている。こんな派手な容姿をしてるのに見覚えがない。
「へぇ、デート?」
「そ、そうなるのかな」
「ははっ、いいねぇ、幸せそうだ」
男の右手が僕の右肩から首に伸びてくる。
「ぶち壊したくなる」
「……!」
やっぱりこの人知らないぞ。
「あんたは?」
「リンネの知り合い、って言えばわかるか? いまはあんたらの敵だよ」
「見逃してくれないか?」
「そいつは聞けない相談だな。俺にも立場がある」
こいつはなんでリンネの未来予知に引っ掛からなかったんだ。
勝ちが確定した鬼ごっこのはずなのに。
「へへっ、クダンは中途半端な能力さ」
「どういう」
「なに折角目論み通りに事が進んだんだ。上機嫌ついでに疑問に答えてやろうと思ってね」
男は嬉しそうに息をついた。なんにも質問なんてしてないのに。
「大体にして未来予知なんて中途半端なんだよ。予知で未来を変えたら予知は外れることになるだろ」
「まあ、そうだけど」
「変わった未来に対応できない時点で俺に言わせりゃ価値なんてないね。都度能力を発動して寿命を縮めるのもナンセンスだ」
男はクックックと愉快そうに笑った。子供連れの親子と同じくらい楽しそうなのに、こっちの笑顔は歪んでいた。
「未来は変わっていく。組織の連中はリンネの動向ばかり気にするが、本当に気を配るべきは未来を変える力を持つやつだ」
「おまえ、まさか」
「リンネの世話がかりだったヒサメが単独行動を取るなんて滅多にないからな。あとはやつを追跡をすればいいだけよ」
厄介なことになった。
「ヒサメは?」
「さあてね。裏切りはよくないとしか俺には言えないな」
首に回された男の指が皮膚に食い込む。
「他人の身より自分の心配をしたほうがいいぜ。あんたには人質になってもらう」
「どういう意味だ」
「うちのお姫様には自殺願望があるらしくてな。死なれると困るんだよ。だから死なないように言い聞かせてくれないか? 死にたくなければ」
「複雑だな」
「脅しじゃないぜ。本気だぜ。あんまりばらすの好きじゃないんだけど、俺も先祖帰りでね。指先だけで人を殺せるんだ」
「恐ろしい力だね」
そんなこと言ったら3歳児だってナイフを装備すれば大統領を殺すことができる。
往々にして特別な力を持っていると勘違いした連中は気が大きくなりすぎた。滑稽としか言いようがない。
「僕も死にたくないからね。出来るだけ協力はするよ。それで、あんた以外に追手はいるのか?」
「そいつは答えられないな。教えてあげたいところなんだけど、ベラベラ手の内明かすのもダセェしよぉ。リンネちゃんが出てくるのを待とうぜ。お前はあいつがどんな下着を選ぶと思う?」
「うーん、難しい質問だね」
「かかっ」
男は笑うと僕の首筋にあてた指に力を込めた。
「リンネが出てきたら、俺を紹介して隣に座るように指示しろ」
「いえっさー」
「ふっ、理解が早くて助かるぜ」
さて、彼女がランジェリーショップに入ってもうすぐ十分くらいだろうか。女の子の買い物は長いとよく言うが、そろそろ出てきてくれないかな、っと考えていた時だった。
「おまたせ」
お店から出てきたらリンネが満面の笑みで僕に駆け寄ってくる。駆ける度に手にもった白い袋が左右に揺れる。
男の指が緊張で強張ったのを感じた。
なんだかんだで答えにたどり着いた僕は彼女に向かって軽く手を挙げると同時に全身の毛穴を開くイメージで放電した。
「ぐきゃっ」
男は小さな悲鳴を挙げて気絶する。だらんと僕の胸にタップする感じで右手が落ちる。
なんで彼がリンネの未来予知に引っ掛からなかったのか。
答えは単純だ。
「? 隣の人は知り合い?」
「いや、いま会った人」
こんなものとるに足りない日常茶飯時だからだ。
「さ、買い物を続けようか」