夜更けと夜明け
どっと疲れた一日も家に帰ればすぐに癒される。寂しさだけが滞留するワンルームだが、今日は少し毛色がちがった。
「生活感ないわね」
唇を尖らせて、呟く少女。
「あまり物をもつタイプじゃないんだ」
「ホテルみたいだわ。つまんないの」
どういう意味だろうか。
靴を脱いで、居間に移動する。
「それよりリンネ、君は本当に成人してるのか?」
「しつこいわね。実年齢はあなたと同い年よ。冷凍睡眠してた時期が長いから見掛け年齢はたぶんまだ十八くらいだけど」
「それって、飲酒していいのかな……」
「法律的にはセーフでしょ。お酒飲むの初めてなんだもん。いいでしょ?」
買い物袋をどんど床に置き、ガサガサとビールの缶を取り出した。
「さあ、宴をしましょう」
「宴? なんの?」
「夜明けを祝ってよ」
現在時刻十一時。夜更けである。
飲んでもいないのにホロ酔いみたいなやつだ。リンネは嬉しそうに缶のプルタブを引き上げた。ぶしゅ、と炭酸の弾ける良い音がした。
「乾杯」
僕が持つ発泡酒と缶をぶつけ合い、少女はどことなく緊張した面持ちで口をつけた。
「……!?」
「どう」
「苦ぁ」
「だろうね」
「……」
「どうしたの?」
「オレンジジュースをちょうだい」
「はいよ」
「ありがとう」
結局僕は二缶、お酒を飲むはめになった。アルコールは得意じゃないので、くらくらした。
「あたりめちょうだい」
「はい」
「うん。なんだか大人って感じね」
頬を仄かに紅潮させて、彼女は満足そうに頷いた。
それにしても、お腹が減った。
「はい」
「ふふ、牛丼なんてはじめてだわ。都会に来たら食べたかったの」
袋からチェーン店の牛丼を取りだし、割り箸と一緒に渡す。
「都会って……どこにでもあるだろ」
「私の地元は木と土と川しかないわ」
「またまた……奥の方はそうかもしれないけど、駅前とかは栄えてるでしょ」
「無人駅。星はきれいだけどね」
割り箸を半分にし、彼女はそっと手を合わす。
「いただきます」
ふたを開け、紅しょうがのパックをちぎり、牛丼に赤色を加える。
良い匂いが立ち込めた。
さて、僕も食べよう。
自分の分の牛丼の蓋を開けたときだった。
「んーーーー!!」
感嘆の唸り声。
「んまい!」
ごくん、と一口飲んでから少女は華やかな笑顔を咲かせた。
「なんてっ、なんて美味しいのかしら。料理人に感謝の言葉を伝えてたいくらいだわ」
「たぶんアルバイトだと思うよ」
「なんでもいいわ。バイトでも腕前に自信を持つべきね」
ずいぶんと平和な発言だ。
ご飯を食べ終わったのでシャワーを浴びようと思ったが、リンネがいることを思い出した。
どう言おうか考えあぐねく僕の気を知ってか知らずか彼女は平然とした顔で口を開いてきた。
「汗を流したい」
切実な願いのようだった。
「シャワーでいい?」
「お風呂がいいわ」
「……」
「バスタブ洗ってきます」
リンネがお風呂に入ってる間、僕は着替えを用意した。着の身着のまま出てきたらしく、服をもってないのだそうだ。
女子の服?
わかんないから、シャツでいいや。
厚手のシャツとスボンを準備して、脱衣場に持っていく。
磨りガラスの向こうで水音が響く。扉一枚隔てた先で、女の子がお風呂に入っていると思うと、ドキドキしてしまう。
「ガキじゃないんだから……」
自分を諌めて、ため息をつく。
さすがに下着までは準備できないが……どうすんだろう。
「ノーパンね」
「生々しい話はやめてくれないか」
「そもそも履いてなかったし」
幼い容姿にそぐわない物憂げなため息をついた。
「……明日、洋服屋行ってから出掛けようか」
お風呂上がりのリンネは石鹸の良い匂いがした。しっとりとした前髪がおでこに貼り付いている。
「いいアイデアね。あと家を出るなら十時前をオススメするわ。十時過ぎに怖い人たちが来る予定になってるみたいだからね」
平然とした発言に面食らってしまった。
「質問なんだけど、君はどのくらい先の未来を視れるんだ」
「私が生きてる範囲までよ。経験するであろう事柄を未来の私の目を通して視ることができる。もっとも時間は流動的だから行動一つで大きく変わるのだけど」
風呂上がりにコーヒーをすすって彼女は幸せそうに息をついた。コーヒーにはたっぷりミルクと砂糖がいれてある。カフェオレ、というよりコーヒー牛乳だ。
「すごいわね。この人たち」
テレビでオリンピックのニュースがやっていた。
僕との会話に飽きたらしく、リンネは目を細めて画面を見いっていた。
「一つのことを極めて、技を競って、一番になって。……羨ましいわ」
その日床についたのは日付が変わってからだった。
来客用の布団なんて用意してないので、冬用の毛布を押し入れから取りだし、ソファに寝っ転がって、朝を待つことにした。
明日からどうしようか。
ひとまず、雪女に会って車を借りよう。長距離ドライブは緊張するけど、背に腹は変えられないだろう。
新幹線を使ったって、飛行機を使ったって、結局向こうについたら足に困るのだ。それなら最初から車で移動するほうがいい。
「ねぇ。寝た?」
「起きてる」
「あなたには本当に感謝してるの。それだけ」
「あぁ。どういたしまして」
「……ありがとう。おやすみなさい」
「おやすみ」
僕のベッドで寝息をたて始めるリンネ。
こんなことになるなら、毛布くらい干しておけばよかった。実家なら布団乾燥機があるのに、独り暮らしじゃそんな便利な物、用意してるわけがない。
僕は息をついてから、枕元に転がる携帯電話の目覚まし時計を確認した。
明日はやることが多い。
予定の確認を脳内で行いはじめたが、数秒で睡魔に襲われた。
朝。六時半。
リンネに留守番を任せ、僕は家を出た。
本当は起こさないようにしたかったのだけど、そううまくはいかないみたいだ。
理由は聞かず、彼女は見送ってくれた。
駅前のコーヒーショップに着いた。
スーツ姿のサラリーマンが多く、そこそこ混んでいた。タバコの臭いとコーヒーの香りが混じり合い、高校の時の職員室を思い出した。
ココアをトレイに乗せ、店内を見渡す。
奥の席でヒサメは待っていた。昨日はろくに顔も見れなかったが、落ち着いて観察してみると、眼鏡が似合う知的な女性だった。
「遅かったですね」
マグカップを指で摘まみ、コーヒーに一口つけてから彼女は続けた。
「待ちくたびれました」
「待ち合わせには間に合っている」
「まあ、いいです。早速本題に移りましょう」
コースターにカップを下ろし、ヒサメは正面を向いた。
「あなたにリンネを裏切って欲しいのです」
「断る」
「まあ、聞いてください」
大層な話かと思えば、くだらない。
席を立とうとした僕を右手で制した。
「リンネにとっての故郷はもうないのです。親は今は海外です」
「呼び寄せろよ。娘の一大事じゃないか」
「そう簡単なものでもないのです。お金を得れば、人は変わるもの。あの子は愛されてなどいません」
新聞紙を捲る音が響く。
店内に流れるジャズがいまの気分にはミスマッチだった。
「勝手なこと抜かすなよ」
「事実です。あの子に帰る場所など始めからないのです。分かりやすく言葉を選ばずストレートに言うなれば、売られた娘、というわけです。研究所は連絡先を把握しないという条件でリンネを引き取っています。まあ、どこまでが真実かはわかりませんが」
「ふざけた、ことを」
「私に憤っても仕方ありません。彼女が住んでいた家は、今は空き家です。そんなところに帰ってどうするのですか?」
ヒサメはポケットから一枚のメモを取り出すと僕に差し出した。
電話番号が書かれていた。
「クダンの未来視は彼女が意識している時のみ起こります。高次元的存在であるリンネはそのうち意識をも霧散させるでしょう。そうなる前に連絡がほしいのです」
「どういう意味だ?」
「リンネは消えかけている。死すら異形には烏滸がましい。もとから居なかったことになるのです」
コーヒーを飲み干し、青い瞳でヒサメは僕を睨み付けた。
「体が薄くなり始めたら黄色信号です。即刻電話してください」
「……」
ヒサメは立ち上がり、微笑んだ。
「それまでは逃げてください」
「騙せっていうのか……僕に……」
「大人の責任です」
トレイを持って、ヒサメは僕の横に立った。
「人間、死ななければ歳を取ります。子供の駄々を諌めるのは、大人の仕事なのですよ」
「……」
「モラトリアムの狭間でエゴを押し通すのはむずかしい、それだけのことです」
ヒサメは去っていった。
香りとともに立ち上るココアの湯気に僕はため息を一つついた。