虚ろな月と氷原の夏 3
薄れかけた意識が、ぼやけた視界とリンクした。幻のように投影する風景は青く寂しい瞳に似ていた。
僕にはわからない。
なにが正しいのかなんて。
「?」
体温が上昇する。透過した街灯の灯りがキラキラと宝石のように輝いて見えた。
「なんてことですか……」
体が悲鳴を挙げていた。
「やめたほうがいいです。割れてしまいます」
忠告なんて無視だ。
体を無理矢理前へ進ませる。
バキバキと全身に纏まりつく氷が割れる音が、エウスタキオ菅をバウンドする。
「そいつから、離れろっ……!」
僕はなにをしているんだろう?
疑問は毛穴から吹き出る電気の熱に溶かされた。いや、電気抵抗なんてないから、単純に僕が力みすぎて発熱しているだけかもしれない。
「バイオ・エレクトロニシティですか? 強力な電気です。噂には聞いていましたが、実際にいるんですね」
バチ、バチバチ、と火花が弾ける。
街灯が明滅を繰り返す、その度に、フィルムのコマ送りのように世界が切り取られていく。
「こ、のっ!」
「自分は痺れないなんて便利ですね。貴方の先祖はなんですか? 雷獣? いや、人型になれる怪異としたら……まさか」
氷が弾けた。力押しだ。溶けて水になった量より、無理矢理弾き飛ばした分の方が多い。氷は絶縁体というわけではないらしい。
「うぉおおおおおおおおおおお!!」
僕は雄叫びをあげながら涼しい顔のヒサメの右頬に手を伸ばした。
「雷神、ですか?」
僕の手の先に、橙色の水風船が掲げられていた。
「恐ろしい力です」
便利なコートだ。ポケットが多くて収納性が抜群だ。
いま、ここで、拳を降り下ろしたりしたら、風船の中身がリンネにもかかるだろう。
「自分が死んでもよかったんですか?」
「……」
「自分が死んでもリンネを守りたかったんですか?」
「……」
「不毛です。無駄です。間抜けです。ひどく滑稽で陳腐です。ですが、嫌いじゃありません」
女は水風船をポケットにしまった。
同時に僕の全身を覆っていた氷の膜が、ビシャリと音をたてて水に戻った。バケツをひっくり返したみたいに地面で大量の水が弾ける。
氷結され、凍傷寸前だった体を、熱帯夜の生暖かい風が優しく包み込んでくれた。
「あなたが本当にリンネを守るつもりと言うのなら、ワタクシは止めません」
雪女はコートの襟をただすと、リンネの頭にぽんと手をのせた。
「質問なのですが、どうして昨日は知りもしなかった女の子を助けようと思うんですか?」
訝しむように、眉間にしわ寄せて雪女は尋ねてきた。
「言ったってわからないだろ?」
「聞いてみなくちゃわかりません」
「僕らの力はそれこそ眉唾ものだ。実際にはありえないことを化学を蔑ろにして発生させている」
「おっしゃる意味がわかりません」
「理論がない無秩序な力を持つ仲間に会えたんだ。助けたいと思うのは当然のことだろ?」
「あなたの言葉は無理矢理理由をつけているようにしか聞こえません」
おっしゃる通りなので反論なんて浮かばなかった。
「……助けたいから助ける、それじゃあダメなのかな」
「このままあなたについていけばこの子は死にます」
リンネの青い瞳と目があった。
やっぱり『死ぬ』ということが僕にはよくわからなかった。
当たり前だと思う。僕らはまだ、若いのだから。
「それでもあなたはリンネを手助けするというのですか?」
雪女の指が、リンネの白い髪を優しくすくった。
「私はただ、まっとうに生きて死にたいだけなんだから!」
「うるせぇ! 人が会話してる時は黙ってろ!」
「っ、うぅ」
すがるような目線が俺に投げ掛けられる。
雪女の鋭い目線を中和するような弱々しい瞳だった。
「助けるよ。僕を頼ってくれたのならば、それに応えるべきだろ」
「軽率なあなたの行いで、リンネが死んでもですか?」
「誰にも死んでほしくないさ」
「なら、その選択は間違いでは?」
「正解か不正解かを決めるのは僕じゃない。彼女の方だ」
僕はリンネをちらりと見た。
「故郷に帰れるのなら、私、死んでもいい」
「だったら決まりだろ。邪魔すんなよ」
僕の言葉を不機嫌そうに女は受け止めた。
「やってはダメなときは大人は止めるべきです」
「大人か……」
今年、21歳になる。
お酒もタバコも風俗も競馬もパチンコも全部が全部ができてしまう年齢だ。
だけど。僕の精神年齢は十年ぐらい前からずっと止まっていて、いま就活をしているけど、どんな社会人になるかなんて想像もつかなかった。
「大人ならそうかもしれないね」
「わかったのなら、回れ右して帰ってください」
「でも、僕は大人のふりした子供なんだ」
「アダルトチルドレンですか?」
「そうかもしれない。だからやりたいようにやって、リンネの願いを叶えることにしたんだ」
「めんどくせぇな」
雪女は苦笑した。
「いいです。もう。あきれ果てたワタクシは、身勝手な貴方たちを見逃すことにします」
少しだけ嬉しそうに女は続けた。
「その代わり、あなたがこの子を見捨てたとき、ワタクシはあなたを殺します。問答無用で」
雪女はにっこりと微笑んだ。
「これを貸してあげましょう」
白い指がなにかをつまんで、僕に差し出してきた。
鍵だった。
「駅前の有料駐車場の三番に止まっている青い軽四の鍵です」
「は?」
「あなた方の移動手段なんてハナから自動車くらいしかないのですよ」
ピカチュウのキーホルダーがついている。
去年の夏、合宿で取ったので免許は持っていたが、運転に関して自信はなかった。地元に帰ったとき親の車を借りて近所のスーパーに買い物に行くぐらいなので、高知までとなると距離がある。そもそもが就活の時の資格欄を埋めるだけに取っただけだ。AT限定だし。
「電車を使えば……」
「手配書が出回っていますし、駅には監視の目が蔓延っています。まあ、そこら辺はリンネに聞けばわかるでしょう」
雪女は僕のポケットに無理矢理鍵を押しこんだ。
「あと一つ。明日の7時、駅前のコーヒーショップに一人で来てください。お話があります」
「僕にはない」
「ワタクシにはあるのです」
リンネに聞こえないよう耳元てそう端的に囁くと、雪女は後ろを向いた。
「リンネ。あなたと会えなくなるのは寂しいです」
長身の女性だったはずなのに、その背中は酷く小さく見えた。
「えぇ。私もよ。ヒサメ」
「なんで、こんなことになってしまったんでしょうね……。ワタクシたちはただ幸せになりたいだけなのに」
「大丈夫。ヒサメなら幸せになれるわ」
「それは未来予知ですか?」
「勘よ」
「ふふっ、あてになりませんね。さようならリンネ。大好きでした」
「私もよ」
別れの言葉を告げたあと、一度も振り返らず、雪女は去っていった。