虚ろな月と氷原の夏 1
僕がバイトしている宮脇書店は、私鉄である遊泳線沿線のチェーン店であり、定期代も出してくれるなかなかホワイトな職場だった。
問題はといえば、出版業界が斜陽産業になりつつあることだが、バイトにそんなことは関係なく、きちんと給料さえ出してくれれば、暇であることは万歳三唱だ。
電車移動に時間がかかることと、就活での自己アピールが大して思い浮かばないことくらいが不満点だ。
「助けるって具体的にどうすればいいんだ? 僕に期待はしないでくれ」
電車が目的地に到着した。僕らがホームに降りると同時に乗り込んできた人が倒れ伏せるスーツの男を見てギョッと体を強張らせていた。
「別に……難しいお願いはしてないわ。出来れば、でいいの。巻き込みたくない、ってのは本心だけど……」
夏の熱気に汗が一気に噴き出した。
「ただ、私だけじゃ難しそう。だから、家に帰るのを手伝ってほしいの。いまの状況で選べる最良の選択肢が、たぶん、これだから」
白い髪を夏の風がとかす。いい匂いがした。
「ねぇ、おねが……」
「いいよ」
自分でも条件反射のように飛び出た承諾の言葉に、密かに驚いていた。
「え?」
「やってもいい」
「……」
「どうしたの?」
幽霊でも見たみたいに少女の瞳は見開かれている。立ち止まって驚きにポカンと口を開けていた。
「い、いえ。こんなに早く納得するなんて、意外だなって、思って」
「君には未来が視えるんだろ?」
「そうだけど……」
「君が視た未来で僕はなんて答えた?」
「……私が視る未来はいくつもある可能性の一つを掬いとるだけよ。ピンポイントには、わからない」
「君の未来に僕はいないのか?」
「……隣にいるわ」
駅の回りの雑木林から、アブラゼミの鳴き声がやかましく響いている。
僕らが出会った電車が終点を目指して走り出した。
「どう転んでも、どうせ僕は君に協力するんだ。いちいち断るのもめんどくさい」
僕はそんなに深く考え込むタイプじゃない。
「話が早くていいだろ? 時間は節約しないとね」
いままでは誰かに助けられて生きてきたから、たまには誰かを助けたいと思っただけだ。
「ふふ」
少女は愉快そうに微笑んだ。
「素敵ね」
可愛い女の子の頼みを断れる男はそういない。
ああ、それにしても暑い。
今日の最高気温は三十度を越える、地球温暖化に待ったをかけたいところだ。アイドリングしまくってる客待ちのタクシーのフロントガラスを叩き割って回りたい。
改札を通る。
クダンの少女、リンネも一緒だ。
「ところでさっきの男の人はなんなんだ?」
「追っ手」
お盆の時期だからか、いつもより人がまばらだ。にも関わらず、すれ違う人たちはみな早足で、なにをそんなに生き急いでいるのか疑問だった。
「追っ手? なんの?」
「あなたがさっき頼るべきといった研究室のね」
「…… 」
「未来の情報は貴重よ。だから私に予言を強制するの。死という代償を誤魔化すために冷凍睡眠させてね」
「エスエフ映画の話かなにか?」
「事実よ」
涼しい顔で彼女は応える。
「国のターニングポイントが来る度に私は起こされ、予言をさせて、またすぐに眠らせる。酷い話だと思わない?」
「えげつないな」
「大災害、外交、経済……私にはわからなくても私の言葉は貴重らしいの」
本屋に入る。冷房が汗ばんだ肌を冷やす。
印刷物独特のインクと紙の匂いが鼻孔をくすぐった。
中番のおばさんのいらっしゃいませーの声をおつかれさまですーで返して僕はバックヤードの扉を引いた。
「これから十時までバイトだよ」
「いいの。お店の中で待ってる。だから、側にいさせて」
「……」
さっきまでのつんけんな態度はどこにいった?
それにしても妙なことになった。
事務所のロッカーで制服であるエプロンをつけながら、僕はぼんやりと考え事をした。
溝呂木鈴音を助ける。
あれほどまでに自分のことを無視をしてと言っていたのに、巻き込んでしまったら最期、一番ベストな選択が助けを求めることらしい。
当然断るべきなのだろうが、不思議と悪い気はしなかった。
僕はジュブナイルが好きなのだ。
それに、追っ手の撃退が使命ではない。
故郷に送り届けるのが、彼女の願いだ。
全力で逃げれば勝ち。アドバンテージは僕にある。
返品用の書籍や、雑誌の在庫の森の中、僕は中番との交代のため、カウンターを目指して歩き始めた。
時給九百九十円。地方じゃまだしも都心じゃ最低賃金に近い。
奨学金と仕送りはあるものの、家賃やら諸経費で、貯金なんてないに等しい。
手段もわからない。ここは神奈川県よりの東京都で、彼女の故郷は高知県だ。
全くもって遠すぎる。
どうすればいいのだろう。
「いま店内にめっちゃ可愛い人がいますよ」
八月十四日は休刊日といって、出版社がお盆休みに入るので、書籍がなにも発売されない。
なので店内はめちゃくちゃ空いている。社員も定時で帰ったので、バイトにとっては天国だ。
カバーを折るのも飽き、ポップを作る気もしないので、僕と後輩の棚上はいつものようにレジに立ちながら小声で雑談に興じていた。
「かわいい人?」
「うっす。めちゃまぶっす。やばいっす」
「どこにいんの?」
「小説の棚っす。めっちゃ立ち読みしてます。髪の毛が白い。原宿系っすかね」
「あー」
アイツだ。
「オレ、まじ話しかけようかな」
「やめとけやめとけろくなことないぞ」
「? なんで先輩、そんなこと言い切れるっすか?」
「えーと、知り合い、だからかな」
「まじっすか! 紹介してください! イッショーのお願いっす」
こいつの一生は何回あるのだろう。
「いや、僕もよく知らないんだよ。顔見知り程度」
「なんっすか。使えないっすねー」
「仮にも僕、先輩なんだけど……」
平日なら翌日出る雑誌の確認をしたり、返品書籍を登録して段ボールに詰めたりするのだが、翌日も休刊だと、やることも少なく、暇で暇で仕方なかった。
結局、彼女は五時間も立ち読みを続けたらしい。
十時前になって、店閉めの作業中、リンネの華奢な背中に声をかけた。
「もうお店閉めるよ」
外のラックを店内に仕舞い、BGMを蛍の光に切り替える。楽な仕事だ。
「そう。残念ね。いいところだったのに」
「買えばいいじゃん」
「お金がないわ」
「電車には乗れるのに?」
「無賃乗車よ。背中にぴったりくっついて乗るの。気づかなかった?」
「とんだクズヤロウだな」
「しかたないじゃない。逃げ出すことしか考えてなくてお金をどうするかなんて頭に無かったんだもの」
「いいよ。買ってあげる。どれ?」
「ほんとっ!?」
喜色満面とは、このことを言うのだろう。
リンネの笑顔は文字通り花が咲いたようだった。
あるいはこの未来も彼女は視ていたのかも知れないが、そんなことはどうでもよかった。
蛍の光が流れる店内で最後の品物をレジに通す。彼女が選んだ本は谷崎潤一郎の春琴抄だった。