水精
この世には、目に見える者だけが存在しているというわけではない。目に見えないものこそ、怖いものがある。だから、その目に見えないものから全力で守る。
「あなた、どうか……あの子を見つけて」
「あぁ、分かった。きっと見つけるよ……」
そう言って、大切な者を置いて国を出た。そして『喰』と呼ばれる妖を斬り続けてきた。この国には、喰の中でも水喰が多く寄り付く。
俺は、大切な者からこの水喰を守るだけ。
「ふわ~……眠い……」
春先の太陽はすでに昇っている。
飴屋の二階。小さな部屋に一人の男が未だに寝転んでいる。しばらく布団の上でゴロゴロしていると、微かだが声が聞こえてきた。
「歌い……」
高い男の声。しかし、風にかき消されてしまった。
「今の……蒼か……」
うっすら目を開けていると、外が騒がしくなってきた。ドタドタと聞こえる足音が、近づいてくる。
「おらぁぁぁあ!! いつまで寝てやがる、半妖野郎が!」
一人の男が、壊れるかと思えるくらいの勢いで障子を開けた。
シキ。布団の中で眠そうにしている男の名。実年齢は隠しているのか、誰も知らない。しかし、20代後半くらいの見た目である。
そして今、障子を壊しかけたのが、この店の現在の家主である飛燕。 まだ、20歳そこそこの年齢で、飴屋を切り盛りしている。
「飛燕……眩しい」
「うるせー! ムラサキなんか当の昔に飯食って出ていったぞ!!」
「相変わらず、早いな……」
「お前も起きろ!」
布団をはぎ取ると、シキのことを蹴り飛ばす。
シキはのっそりと気だるそうに起きると、髪を結い、着替えを始める。
「飯は?」
「ない!」
「ないのか……」
「もっと早く起きればいいんだよ」
「……寝るのが遅いから、起きるのも遅いんだよ」
「ムラサキも同じだろ」
布団を押し入れにしまう。
シキ、深い青い着物を着ると、飛燕が深い紫色の羽織を投げてきた。
「夕餉は?」
「いらない」
「分かった。気を付けろよ」
「あぁ……」
シキは、小太刀を手にすると、部屋から出ていく。
水蓮の国、城下町。
今日も賑わいを見せる町中。
そんな中で、シキは気だるそうにゆっくりと歩いている。小さな橋に差し掛かると、橋の下から歌声が響いてきた。
詩ない歌が町中に響き、町で働く者たちの動きが少し止まり、歌に聞き入っている。
「相変わらずの声量だな」
橋の下を覗くと、紫色の着物を着た女が楽しそうに歌っていた。手すりから身を預け、女の歌を聴いているとシキに気が付いて手を振る。
「シキ~、どこか行くの?」
「あぁ、歌癒屋に」
「どっち?」
「西。蒼のところだよ」
「ムラサキも行く」
「えぇ~ムラサキ行っちゃうの?」
「ごめんね」
「また歌ってね!」
「うん」
ムラサキは、一緒にいる子どもと別れを告げると、シキのところへ駆け寄る。 彼女は水精。
「蒼、元気かな……」
「ムラサキの歌で元気にすればいい」
「うん」
見た目より、少し幼い話し方をする彼女は無邪気に笑う。深い紫色の長い髪を揺らし、深い紫色の瞳を輝かせる。
水精は、今でこそ、言葉を使い話しているが、昔は言葉を使えずに心で通じ合っていた。そして声は出るが、言葉は話さない水精は『歌』を歌い、気持ちを伝えていた。
「ふん、ふふ~ん」
「機嫌がいいな」
「うん! シキがいるから」
「そうか」
ゆっくりと歩く、ムラサキのペースに合わせながら、町の西の方へ向かっていく。
家々が軒を連ね、店もたくさん並ぶ。店先の店主や町人が、ムラサキを見つけるたび、声を掛けてくれる。
「おう、ムラサキ。今日も別嬪さんだね」
「ありがとう」
「ムラサキちゃん、さっきの歌聞いてたよ。相変わらずいい声だね」
「また歌うから聞いてね」
ムラサキも笑って、挨拶を返していく。
中心街から少し離れたところに着くと、一気に静かになった。人の姿はあまりなく活気が感じられない。
一つの店の前に着くと、シキは一度戸を叩く。しかし、誰も出てこない。
「さて、どうするか」
歌癒屋-福-
店先で、引き戸を開けようと何度もガタガタと揺らす。しかし、カギが掛かっているのか一向に開く気配はない。
ムラサキは近くにいた子猫と戯れている。
「裏だな」
シキの言葉を聞き、ムラサキは子猫を抱きかかえ店の裏側へと向かう。
高い木の塀に囲まれた店の全貌はあまり見えないが、二階建てということだけは分かった。
「よし、面倒だからここからでいいか」
シキは、大きく飛び跳ね、塀をよじ登りだした。塀の向こうに一人の男が縁側に座っていた。
「よう、蒼」
続く
第一話。
本編始まりました。
ここから長い話が始めります。