蒼い海
天上にも響くような艶やかな歌声が、福屋の店の中に響く。その歌声は、蒼の心の中にも響いていた。
「……この声、ムラサキの声?」
蒼は口から声を出している。
ムラサキの歌声とともに、波の音も聞こえてくる。ゆっくりと目を開けると、そこは白い砂浜とどこまでも続く蒼い海、そして蒼い空が広がっていた。
「ここ、前にも……」
蒼は、いつもの蒼い着物を纏って裸足姿で浜辺に立っていた。見渡す限り、浜辺と海。その場に立っていると、足に海の水が当たる。
「冷たい……」
着物が濡れないように屈みこみ、水で少し遊ぶ。
――澄み渡る色は、いつまでも褪せることのなく、続いていく
いつまでも、どこまでも、永遠に思えるくらい
澄み渡る色は、あなたを思い、広がっていく――
すると、歌が聞こえてきた。聞いたことのない歌が。けれど、どこか懐かしく温かい歌声だった。
「この歌、聞いたことある」
ゆっくりと歌が聞こえてくる方へと歩き出す。
――枯れる前に、咲かせる
永遠はないのだから、今こそ咲き誇れ
アオイ空はどこまでも続く 空の下で見守っているよ
いつまでも だから咲き誇れ――
砂浜を歩いていくと、一人の女性が海に向かって歌っていた。少し年のいった女性。藍色の着物を身に纏い、短い髪の毛を結いあげて、かんざしを挿している。両耳に掛かるように髪が垂れている。
「あの人……」
蒼よりも高い歌声。そしてどこか蒼に似ている顔立ち。
「あ、の……」
蒼が声を掛けると女性が蒼の方を見る。
「こんにちは」
「……あ、こんにちは」
「気持ちいい風だね」
「はい」
「一緒にどう?」
「……」
女性は、海から離れ砂浜に座る。そして手招きをする。蒼は少し距離を取るが、女性の近くに座る。
「あの……さっきの歌、綺麗でしたね」
「ありがとう」
とても嬉しそうに笑う女性。蒼はその笑顔を見て、一緒に笑う。
「この歌はね、遠くに置いてきた子どものための歌なの……」
「子ども?」
「うん。十六年前に置いてきたの」
「……そうなんだ」
「捨てたわけじゃないの。連れて行けなくて、どうしても置いていくしかなかった……その子のためにいつも歌うの」
「きっと届くよ」
「そうだといいんだけど」
少し浮かない表情を浮かべている。空を見上げ再び口を開く。
「今日みたいな蒼い空の日だったの」
「???」
「その子が生まれた日」
「そうなんだ」
「海の近くの町だったから、いつも海は見てた」
「僕は、海は知らないな」
「そう」
女性は、蒼の顔を見つめる。この人はどうしてこんなにも優しい顔で見てくれるのだろうか。そんなことを考えていると、女性が呟く。
「蒼い空の日は、いつも思うの。無理してでも置いていかなければ良かったって」
蒼も空を見上げる。雲一つない澄み渡っている空を。自然と笑顔が零れてくる。暗い顔なんて、こんな空の下では出来ない。
「確かに。お母さんのこと知らないって、寂しいから……捨てられたって思ってたから」
「そうだよね」
「でも」
「え?」
「僕は、今とても幸せ」
「どうして?」
「だって、家族がいるから」
「家族?」
「うん。いっぱいいるよ。だから、その人も大丈夫だよ」
「そうだね」
女性は蒼のことを見て、嬉しそうに笑っている。その表情はまるで母親のよう。
「あの」
「なに?」
「さっきの歌、もう一度聞きたいです」
「分かった」
女性は立ち上がり海の方へと歩いていく。
「大きくなってて、嬉しいな」
「???」
蒼には聞こえない小さ声で呟く女性。そして、大きく息を吸い空に向かって歌いだす。
――澄み渡る色は、いつまでも褪せることのなく、続いていく
いつまでも、どこまでも、永遠に思えるくらい
澄み渡る色は、あなたを思い、広がっていく
枯れる前に、咲かせる
永遠はないのだから、今こそ咲き誇れ
アオイ空はどこまでも続く 空の下で見守っているよ
いつまでも だから咲き誇れ――
静かに流れる波が女性の足に当たる。蒼はゆっくりと女性の方へ歩き出す。
「いつも、気にしてたの。あの子はどうしてるかなって」
蒼の方を振り返り、笑みを見せる。
「十六年、一緒に居られなくてごめんね」
「……え?」
「でも、幸せそうでよかった」
「あなたは」
「蒼」
強い風が着物をなびかせる。
「ごめんね、苦しい思いさせて……無責任でごめんね……」
「大丈夫、僕は大丈夫だよ」
「ごめんね」
「大丈夫だから……お母さん」
「ありがとう。蒼」
強い風は砂を巻き上げる。蒼の母、藍は嬉しそうに笑う。蒼は目を開けていられなくなり、目を瞑る。
真っ暗な空間に、歌が響く。ムラサキの歌声が……。
「お母さん……ありがとう、聞いてて。僕の歌を」
ゆっくりと目を覚ます。
続く
第十九話
蒼く澄み渡る海。嫌なことすべてを一瞬でも忘れられる特別な場所




