雨
晴れ渡る空の下。
歌癒屋―福屋―の庭にムラサキが裸足で出てきた。
「八重、八重の弾きたいように弾いて。ムラサキは合わせるから」
「分かった」
八重の三味線が、奏で始めた。ムラサキは、空を見上げ大きく息を吸う。
――思いが、無くなる。
それは悲しく美しく、なにものにも変わらない
空よ、水よ、炎よ、風よ、大地よ
お願い、この思いを乗せて、届けて――
その美しい声は、どこまでも届くようなものだった。歌が奏でられている。すると、空に雲が立ち込めてきた。
「あ、め……」
国中に雨が降り始めた。ムラサキの歌により、雨が降る。
「凄い、綺麗……」
蒼は、縁側から、空を見上げる。そして、ムラサキを見つめる。
「蒼、この声……」
「結」
結がお茶の入った急須と湯呑をお盆に乗せてやってきた。その後ろには創がいる。
「こっち」
手招きをする蒼。創は結からお盆を奪うと、蒼の方へ押し出す。結は蒼の方へ歩いていき、蒼の隣に腰を掛ける。空からは光り輝く、雨が降り続く。
「綺麗……」
シキはその言葉を聞き、嬉しそうに笑う。視線を楽しそうに歌うムラサキに戻す。
八重の三味線だけでなく、他の部屋から様々な楽器の音が聞こえてくる。八重の他にも楽器を弾くものはいるが、この音は福屋だけのものではない。他の店からも微かだが、聞こえてくる。
「水精は共鳴するみたいだな」
八重の演奏を見ていると、とても心地よさそうに三味線を弾いている。ムラサキはというと、空から降る雨に向かって手を伸ばしている。
「相変わらず、いい歌を歌うやつだな……」と小さく呟くと、創がシキに視線をやる。
その視線に気づいたシキが、創のそばに来る。創は老人にお茶を出し、横に座っていた。
「お前も、やろうと思えばできるだろ?」
「分からない」
「この方も純粋な方ですか?」
「あぁ」
「私は純粋と言っても、生まれた時から雨を降らせるために歌ってきたムラサキとは違う」
創は、ムラサキの方へ目をやる。
「私は、生まれも育ちも水蓮の国だから」
「そうですか……まさか純粋の方がこの国で生まれていたとは」
お茶を啜りながら、老人が笑う。
「純粋で生まれても……」と、老人には聞き取れないくらい小さな声で、創が呟く。しかし、シキの耳には聞こえてきている。
「……ムラサキ様にまたお願いするとは、思いませんでした」
「俺も、またアンタに会うとは思わなかった」
ムラサキがゆっくりと小さい息を吐く。
雨がゆっくりと止み始める。
「拭くものを持ってくる」
「悪いな」
「いや」
創が、部屋を出ていく。
「シキ様」
「なんだ」
「またお頼みすることがあるかと思いますので、その時はよろしくお願いします」
「俺に言わないでくれ。決めるのはムラサキだから」
頭を深々と下げる老人を見ずに、答える。ムラサキが笑いながら、庭から帰ってくる。
「ムラサキちゃん、お風呂行こう! 今から沸かしてくるから、ちょっと待ってて」
「ありがとう」
結が縁側から、去っていく。
「ムラサキ様」
「嶺くんも喜ぶかな?」
「もちろんでございます。では、私はこれで失礼します」
もう一度、頭を下げると部屋から出ていった。シキは見送るために、老人のあとをついていく。
「ムラサキ、凄いね」
「ん?」
創の持ってきた手拭いを頭に乗せたまま、首を傾げる。
「なんで雨、降らせるの?」
「別に降らせてるわけじゃないよ」
「???」
「ムラサキは雨を降らせてるんじゃなくて、水を呼んでるんだよ」
「水を呼んでる?」
「うん。雨を降らせるために、雲を呼ぶんじゃなくて、この近くにある水がいっぱいあるところから、水を呼んで水を撒いてるだけだよ」
「???」
「???」
蒼が首を傾げているのを見て、ムラサキも首を傾げる。
「バカ二人が話してる……」
八重がいつの間にか、部屋の端の方で寝転び大きな欠伸をしている。
「雨と水って違うの?」
「違うと思ってるけど、何が違うかは分からない」
「ふ~ん」
「池の水も溜まったね」
「本当だ。鯉も楽しそうに泳いでる」
先ほどまで雨が降っていた空は、晴れ渡っている。雲一つない青々とした空が広がる。
それから、十六歳になる年の三月。僕の声は出なくなった。
続く
第十話
雨は憂鬱になることが多いですが、生きることに必要だと思えば、そんな憂鬱も吹っ飛ぶことでしょう




