小さな命
『水精―スイショウ―』
まだ言葉を知らなかった頃、彼らは唄を歌っていた。誰にも邪魔されることのない唄。言葉のない心を伝える歌を。
それから時が流れ、人との共存を始めてから、人と同じ言葉を話し始めた。けれど唄は歌い続ける。大切な者のために、言葉を歌に乗せて……。
歌を歌い、人の心を癒す。そして人の涙を心に溜め、結晶に変える……。
――「愛」という言葉はまだ知らない。人々と水精、そして守りし者、鬼たちとの物語。
――枯れる前に、咲かせる。
永遠はないのだから、今こそ咲き誇れ――
十六年前の冬。
雲が立ち込め、雪が降り始めていた。
一人の女性が、赤ん坊を抱いて町中を歩いている。昼間だというのに、外には人の姿がない。先ほどまで歩いてきた町中とは打って変わった雰囲気になっていた。
「どこにあるのかな……」
女性は、白い息を吐きながら、歩みを進めていく。そして、ひとつの大きな屋敷のような立派な店を見つける。
「ここだ……」
店の戸の前へ着くと、一度小さく息を吐く。
「すいません、どなたかいらっしゃいませんか?」
店の中から返事は帰ってこない。女性はもう一度息を吸い、「すいません、どなたか……」と、声を掛ける。
女性は、赤ん坊が起きないように、大きな声を出せ出さないように声を掛けた。しかし店の者は誰も出てこない。このままでは腕の中の赤ん坊が凍えて死んでしまうかもしれない。そう思い、一度戸を大きく叩いてみる。
「どうしよう……」
けれど、店からは誰も出てこない。
女性は赤ん坊の寝顔を見つめ、顔に手を当てる。大丈夫、まだ温かい。赤ん坊はスヤスヤと安心した表情で寝ている。女性は一安心して、溜息を吐いた。
すると、店の戸が開いた。
「どちら様ですか~?」
「あ、あの……」
一人の水精の男が、寝間着姿で欠伸をしながら出てきた。目の前の女性の顔を見ると、なぜか笑みを見せる。
「水精だね、どうしたの?」
女性の顔にある蒼い水晶を見つけると、水精だとすぐに判断したらしい。
「あ、あの、店主さんはいらっしゃいませんか?」
「店主は、まだ寝てるんですよね~。俺でよければ聞きますよ」
「……見知らぬ私からのお願いでなんですが、」
「ん?」
女性は、赤ん坊をギュッと抱き寄せると、小さく呟く。
水精の男は、女に近づき耳を澄ませる。
女性は、唇をギュッと噛む。しかし、ゆっくりと口を開いた。
「……この子を、どうか」
「この子?」
男は、女性が抱きしめている赤ん坊に目をやる。赤ん坊は安らかに寝息を立てて寝ている。
「……この子を、預かってください」
「預かるって、アンタ……」
「城に入らないといけないんです。でも、この子は一緒に行けないので……」
「そっか……」
男は、ぐっすりと寝ている赤ん坊の顔を覗き込む。
「可愛いね」
女性は、うつむいたまま、赤ん坊を強く抱きしめる。
「どうか、この子を、お願い、できないでしょか…」
「……分かった」
男の答えを聞いて、安心したようにも思えたが、手放したくないというようにも思えた。
男は、手を伸ばす。赤ん坊を受け取る姿勢になっている、だが奪おうとはしない。
「気持ちに決心がつくまで、待つよ」
「……」
男の優しい言葉に、女は初めて笑顔を見せた。赤ん坊の顔を見て、再び笑顔を見せる。一度、強くギュッと抱きしめると、
「……お願いします」と、どこかスッキリしたような顔をして、手を伸ばす。
男は、赤ん坊を受け取り、落ちないようにしっかりと抱きしめる。
「この子の名前は?」
「え、」
「もしかして、ないの?」
「……あお」
「あお?」
女性は母のような温かい笑みをしている。
雪が降る空を見上げ、「蒼……。澄み切った蒼い空の日に生まれたから。だから、蒼」と答える。
「蒼か、分かった」
男は腕の中で寝ている赤ん坊に笑みを向ける。
女性は、赤ん坊を見て寂しげな笑みを浮かべる。手を握りしめ、一歩後ろへ下がる。
「待って、君の名前は?」
「私?」
「そう、君の名前」
何も告げずに去っていこうとしている女性を引き留める。
「藍、藍です」
「藍さんだね。この子が大きくなった時、しっかりと伝えるから」
「……捨てた母親のことなんて、聞きたくないですよ」
「いや、親のことは知りたいでしょ。あ、ちなみに俺はアズマ」
「アズマさん……どうか、蒼のことをお願いします」
藍は、頭を下げ、着物の裾をギュッと握りしめる。
アズマは屈みこみ、藍の顔を覗き込む。
「藍さん」
「はい」
顔を上げ、アズマを見る。
アズマはゆっくりと立ち上がると、空を見上げる。
「どうか」
「???」
「どうか、蒼のために歌ってあげて」
「歌……」
「……水精の思いの伝え方は、歌だから」
「……そうですね」
藍は蒼に手を伸し、頭を撫でる。
「蒼、いつまでもあなたのことを思っているよ」
大きく息を吸い、歌を奏ではじめる。
――澄み渡る色は、いつまでも褪せることのなく、続いていく
いつまでも、どこまでも、永遠に思えるくらい
澄み渡る色は、あなたを思い、広がっていく――
続く
第零話。
ここからゆっくり更新していきます。