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* 6 *
辞表――。
それがいま僕の手の中にある。
まだ表立って残務整理を行えないから、もう少し会社に残る必要はある。でもそれが終わり次第会社を辞めるつもりで、終業が迫った今日、こうして部長に提出つもりで辞表を手にしていた。
今日もやはり部長は残業する社員を放って終業とともに帰宅するつもりらしい。あと十分は時間があるというのに、帰宅準備を始めていた。
部長が手透きになった瞬間を見て渡そう。
そう考えて自分の机に着きながら横目で部長のことを見ていた。
――よし、いまだ。
帰宅準備を終えたのを見て、僕は席を立った。けれど何歩も行かないうちに、僕の前に立ちはだかる人物が現れた。
「琴絵……」
僕の目の前に立ったのは琴絵。悲しみとも怨みともつかない感情を込めて睨んでくる彼女は言う。
「話があるの。大事な話。幸伸はもう今日の仕事は終わったんでしょ? どこか落ち着いたところで……隣のビルの喫茶店で話そ」
言って僕の腕をつかんで無理矢理引っ張っていこうとする琴絵。
「ちょっと待ってよ。僕はこれから部長に話があるんだ。その後に――」
「……ダメなの。いまじゃないと。いますぐじゃないと」
僕が手に持つ辞表と書かれた封筒を見て、彼女は言う。
――そこまでして、琴絵は僕になにを話したいんだろう。
そういうしている間に部長はいなくなっていた。出口の扉の方にも、もう彼の姿はない。
「わかった。行こう」
辞表は明日の朝にでも出すことに決めて、僕は琴絵とともに会社を出る準備を始めた。
*
――いったいなんの話だろう。
それを思いながら僕は運ばれてきたブレンドを一口すする。琴絵の方も気がはやってるのか、頼んだ紅茶をゆっくりと飲んで気持ちを落ち着かせているようだった。
僕は彼女と決別した。しのぶと一緒に暮らすと、彼女の前にはっきりと言った。それなのに大事な話があると言う琴絵。話の内容が、僕には想像できなかった。
「しのぶって、誰なの?」
喫茶店に入ってひと息ついた後、初めて琴絵が発したのはそんな言葉だった。
「え?」
「しのぶさんって、いったい誰なの?」
質問の意味がわからなかった。しのぶのことに関しては昨日しっかりと言ったはずだ。それとも琴絵は昨日僕が言った言葉を覚えていないんだろうか?
「……昨日言った通り、僕の幼なじみだよ。二歳年上なんだけどね。僕がこっちの方に引っ越す前は、ずっと一緒にいた女だよ」
「本当に本当?」
「そうだよ」
「それじゃあ――」
なにか思わせぶりで言い、琴絵が鞄から取り出してきたのは、一冊のノートだった。それもずいぶん古い、僕と琴絵が中学時代、交換日記のために使っていたノートだった。
「こんなもの、どうしたの?」
「いいからここを読んで」
ページを開いて突きつけられたノートを手に取り、そこに書かれた内容を読んでいく。日付からすると、交換日記を止めた最後の頃だった。
「まさか、そんな――」
「幸伸……」
「そんな莫迦なこと、あるはずがっ!」
自分で書いたそのページの内容。それを読んだ僕は思わず立ち上がり叫んでいた。
――しのぶは、もう死んでるだって?
琴絵に示されたページには、僕自身の手で、しのぶの死を悲しむ内容が書かれていた。
それを書いたのは十二年前だ。ということは、しのぶは十二年前に死んでいる人間と言うことになる。
「そんなはずは、まさか……。って」
しのぶと再会して初めの頃、僕は彼女に不安を感じていた。溢れ出すほどに強く感じていた不安の原因は、だからだったんだと思いつく。僕は彼女の死を知っていて、でも忘れていたから、彼女が部屋にいなかったことにあんなに不安を感じたんだ。
――じゃああのしのぶは誰なんだ?
気がつけば立ち上がっていた。
「幸伸、行くの?」
「うん」
問われて即答する。
見下ろした琴絵の顔には暗い表情はなく、僕のことを信じてくれる真摯な瞳だけがあった。
「確かめに行ってくる!」
宣言とともに、僕は走り出した。
幸伸は行ってしまった。
喫茶店にひとり残されたわたしは、テーブルの上に広げられたまま置かれた交換日記を手に取り、抱きしめる。
――この後は、どうなるんだろう。
一度は別れることになったわたしと幸伸。もししのぶさんという人がすでに死んでいる人なんだとしたら、私たちの関係はどうなってしまうんだろうか?
それよりも不思議なのは死んでいるはずのしのぶさんが幸伸の前に現れたこと。いったいどんな姿で、どうして現れたんだろうか。
しのぶさんの姿を一度も見ていないわたしには、わからないことだった。
そして、彼女が現れた理由も……。
もしかしたら企画のことで悩んでいた幸伸が生み出した幻だったのかも知れない。
そんなことを思いながら、冷めてしまった紅茶を飲み干し、抱きしめていた交換日記をテーブルの上に置いた。
「そっか」
唐突に駆けられた声。それと同時に交換日記の上に手が置かれた。
「あなたが琴絵さんね」
紅茶のカップから上げて見たその人の顔を、わたしは知らなかった。
*
「しのぶ!」
玄関の扉を開けると同時にしのぶの名前を呼んだ。しかし、電気の点いてない部屋の中からは返事はない。
靴を脱ぎ捨て三和土から上がり、灯りという灯りを点けてしのぶの姿を探し求めたけど、彼女の姿はどこにもなかった。
「嘘、だよな……」
今朝会社に行くのに部屋を出るまで、確かにこの部屋にしのぶの姿はあった。彼女は確かに、僕とこの部屋で生活していた。
しのぶが死んだ人間だなんて、信じられるわけがない。
――この前みたいにどこかちょっと外に行ってるだけだよな。
そう思って僕はまた部屋の中にしのぶがいないかを探し求める。一度探していなかったのなら、こんな狭い中に彼女がいるわけはない。
「少し待てば帰ってくるさ。待っていれば、またあの素っ気ない口調で僕に声をかけてくれるさ」
わざわざ口に出して言う。
けれど不安は拭われない。しのぶが部屋にいない事実は、変わることはなかった。
なぜ突然しのぶはいなくなってしまったんだろう。ここ何日も、僕を夕食のいい匂いと一緒に迎えていてくれたしのぶ。それなのにいまは彼女の姿はない。まるで琴絵にあの日記を見せられたのがきっかけであるかのように、しのぶは姿を消していた。
「そんなことない。いたんだ。しのぶは確かに生きていたんだっ」
部屋の中を探って、しのぶがいた痕跡を探し始めた。
しのぶの服を入れるために貸していたタンスの引き出しの中は、空っぽになっていた。しのぶが眠っていた布団は、圧縮用のビニール袋に入れられてクローゼットの中にあった。再会した翌日だけ使っていた来客用の灰皿はテレビ棚の奥に仕舞われ、しのぶのために用意してあった歯ブラシなども消え失せていた。
ただ、キッチンが僕ひとりで暮らしていたときよりもきれいに片づいていたけれど、それは彼女が生きて僕の部屋で暮らしていたという決定的な痕跡にはなり得なかった。
「まさか……、まさかそんなこと、ありえるわけがないじゃないかっ!」
部屋の中にいられなくなった僕は、玄関を飛び出して屋上に向かった。もしかしたらまたあのときのようにそこで煙草を吸っているかも知れないという、わずかな希望に頼って。
「しのぶ! しのぶ!! いないのか? いるんだったら返事をしてくれーーっ!」
屋上に飛び出して叫び声を上げながら隅から隅まで探したけれど、そこに人の姿は発見できなかった。
「夢、だったのか?」
そんなはずはない。僕の腕には、しのぶを抱きしめたときの柔らかい身体の感触が残っている。そのときに彼女が漂わせていた煙草の匂いを憶えている。
「どこに行ったんだ。どこに……。帰ってきてくれよ、しのぶ。僕は、僕は――」
「部屋にいないと思ったら、ここだったのか。探しちまったぞ」
フェンスにすがりついて泣いていた僕にかけられた声は、しのぶのものじゃなく、男のものだった。
「なんだ幸伸。お前、泣いてるのか? なにやってんだかなぁ。まぁ、なんだろうと別にいいけどな。俺としては屋上にいてくれて手間が省けたくらいだ」
「利哉?」
月もなく暗い中を近づいてきたのは、利哉だった。なぜこいつが僕のマンションにいるんだろうか。その理由が思いつかなかった。
「どうして利哉がここに? ――もしかして、しのぶのことを知ってるのか?」
「しのぶ? 誰だよ、それ。まさかお前、本当に琴絵ちゃんの他に女つくってたのか?」
なにがおかしいのか、利哉は喉に詰まったような笑い声を立てる。その様子から見て、利哉はしのぶのことを知らないらしい。
「まっ、いいんだ、どうでも。俺はお前に死んでもらえばよ」
そのとき僕は気がついた。利哉が、両手に黒い手袋をはめていることに。
「冥土の土産に教えてやるよ」
嫌らしい笑みを浮かべながら、彼はポケットから取り出した煙草にライターで火を点ける。煙草をふかしつつ、言葉を続けた。
「嫌なもんだよな、世の中って言うのは。お前は運が良かった。ただそれだけなのによ、お前はあの可愛い琴絵ちゃんと一緒に社長の椅子まで手に入れちまうんだからな」
話しながら一歩一歩と近づいてくる利哉。もし彼とやり合うことになったとしたら非力な僕じゃ、ジムとかに通って見た目ばかりじゃない筋肉をつけてるという話の彼にあっさりねじ伏せられてしまうだろう。
「妬むよな、幸運って奴を。先に出会ってりゃぁぜってぇ琴絵ちゃんは俺のものだった。あの娘と一緒に社長の椅子も俺のものだったのになぁ。でもてめぇがいちゃぁ琴絵ちゃんは俺のものにならない。てめぇと琴絵ちゃんを一度別れさせたとしても、また仲がもどっちまう可能性もある。ってぇわけだよな」
――このままだと殺される。
それを悟った僕は思いきって利哉に殴りかかった。けれどやっぱり利哉には敵わない。パンチを見舞うどころかその腕を取られて、背中の方でキメられてしまう。
「暴れるなよ。お前はこれから自殺するんだからさ。暴れて傷でもつくられたら、警察が怪しむだろ? 最近お前は琴絵ちゃんといろいろあるみたいだよなぁ。みぃーんな知ってるぜ。結婚と、社長への道ってぇのがお前みたいな弱い奴には重荷だったのかもしれないよなぁ」
腕を取られたまま、僕はフェンスに押しつけられた。それほど高くないフェンスから、僕の肩から先が利哉の力に寄って押し出されていく。
「死ねよ、幸伸。後のことは任されてやるからさ。琴絵ちゃんのことも、社長の椅子のこともな」
足をバタつかせて抵抗しようとするけど、無駄だった。だんだんと押し出されて、僕の目には遥か遠く、街灯によって照らされた地面が見えていた。
――死ぬのか、このまま。
僕と一緒にいたしのぶが誰だったのか、けっきょくわからなかった。喫茶店で別れた琴絵とも、ちゃんと話をしておきたかった。
頭の中を駆け抜けていく思いが、しこりとして残っていく。
……それが聞こえてきたのは、そんなときだった。
『死ぬつもり? このまま』
その声は果たして気のせいだったのか。
『羽とともにみんなに幸せを振りまくなんてのは、やっぱり儚い夢でしかなかったのね』
うわごとのようにまだなにか喋っている利哉には、その声は聞こえていないらしい。だけど僕にの耳には確かにその声が、しのぶの声が聞こえていた。
――ただの夢なんかじゃない。実現するって誓ったんだ。儚い夢なんかじゃなくて、僕がやりたいことなんだ!
『でも死んだら終わり。夢は夢で終わる。そうでしょ?』
素っ気ない声が僕に問う。
はっきりと言葉にはしない。でも僕には、彼女が僕になにを問うているのかわかっていた。
――まだ僕は死ねない。しのぶ、君の前で誓ったんだ。夢の実現を。だから僕は、こんなところで死ねないんだ!!
『そっ。仕方ないなぁ、幸伸は。まったく昔から弱いんだから。最後にちょっとだけ、私が手伝って上げるよ』
その声が聞こえた途端、僕の目の前に白いものが舞い始めた。
次々と落ちてくるそれが羽だと気づいたとき、利哉の力がなくなり僕はマンションから落ちることはなく屋上に倒れ込んだ。
「なんだ? これはっ。なんなんだ、いったい!」
どこからともなく雪のように舞い散る白い羽の中で、利哉が空を見上げながら危なげない足取りで遠ざかっていく。
「止めてくれっ。止めてくれぇーーっ!」
叫び声とともに利哉は屋上から走り去っていった。
彼の背中が屋上の入り口の向こうに消えたとき、もう白い羽は見えなくなっていた。
「なんだったんだ……」
わからなかった。
僕に、そして利哉に、いったいなにが起こったんだろうか。舞い落ちてきていた白い羽はどこにもどこにも見えず、僕が生き残ったという事実がかろうじてわかるだけだった。
「そんなこと、ないのか」
たった一枚見える白い羽。へたり込んでいた僕は立ち上がり、その羽を手に取った。
純白という言葉がまさに似合うようなその羽がなんの鳥の羽なのか、まったくわからなかった。普通の鳥のものとは思えないほど大きく、輝いているかと思えるほどの白さを誇っている羽だった。
「幸伸? ここにいるの?」
「琴絵?」
見つめていた羽から顔を上げる。するとそこには、琴絵の姿があった。