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       * 5 *


 ――幸伸にはやっぱり……。

 そこまでで考えが止まる。それ以上考えることができなくなる。

 始業の時間の三十分前。まだあんまり同僚の人たちが来ていないこの時間、さすがに幸伸はまだ来てない。

 誰かの足音が近づいてくるごとに自分が座ってる席から顔を上げてその人が誰なのか見て、幸伸でないことを確認しては溜め息を漏らしてばかりいた。

 彼が企画のことで悩んでるのは知ってる。でも最近の彼に見える行動なんかを含めた変化の裏に見えてくるのは……。

 やっぱりそれ以上考えられなくて、わたしは自分の唇を軽く噛んだ。

 幸伸とじっくりと話したいと思う。悩みを聞いて上げたいと思うし、それにわたしから話したいと思うこともあった。

 けど、ひとりで悩んでる彼に話しかける勇気がわたしにはない。

「ふぅ」

 漏れていくのは溜め息。机に頬杖をついて、わたしはただ溜め息を漏らしていることしかできない。

 彼に話しかけることも、彼の助けになって上げることもできない。

「琴絵ちゃんらしくないなぁ」

 わたしらしくなく机に突っ伏していると、いつの間にやってきていたのか、利哉に声をかけられた。

 机に手をついて、両腕の中から少しだけ上げたわたしの顔を覗き込んでくる利哉。むっと煙草の匂いが漂ってきて、わたしは顔をしかめた。

「最近暗いね、琴絵ちゃん」

「そんなことないですよ。ちょっと疲れているかも知れませんけど」

「そうかな? 悩み事でもあるんじゃないの?」

 利哉の言葉にわたしは眉もしかめる。最近のわたしたちの様子を見ていればそれはわかることだと思うけど、いったい彼はなにが言いたいんだろうか?

「たとえば幸伸のことで、とか」

「……」

 嫌らしい笑みを浮かべてる利哉に、わたしはなにも言い返さず、彼のことを睨んだ。

「そんな顔しないでくれよ。これでもいい情報を持ってきてやったんだぜ。幸伸のことだよ。聞きたくないか?」

 いったい利哉が幸伸のなにを知ってるって言うのか。利哉の持ってくる情報なんて、いつもたいていデマだから、知りたいと思ったことなんてなかった。

 ……でも、幸伸のこととなると知りたいと思ってしまう。

「ここで言うのはちょっとなんだからね。あっちで話そう」

 ――またどうせどうでもいい噂を吹き込むつもりでしょ。

 そう考えてるのに、笑みを浮かべてそう言う利哉の誘いを断り切れず、わたしは席を立っていた。


         *


 タイムカードを押して軽い足取りで自分の席に向かう。鞄を開けながら正面の机を見てみると、始業十分前近いのに琴絵の姿はなかった。

 ――でも、もうそれはいい。

 僕はしのぶと一緒に行くことに決めた。琴絵のことは……なにかしら決着をつけないといけないけど、それだけだ。

 僕は故郷に帰る。琴絵とは別れて、しのぶと一緒の生活を始める。

 そんなことを考えているうち、鞄から書類を出す手が止まってしまっていた。

 割り切ったつもりでも、琴絵のことはまだ頭の中に残っている。しのぶとの生活は期待しているけども、琴絵のことを割り切れないでいた。

 ――どう話をしよう。

 そんなことを考えながら、僕は必要な書類を出して鞄を机の上から下ろした。

 今日からやるべき仕事は、残務処理だけだ。しのぶと一緒の生活を始めるために、僕はこの会社を辞める。そのための準備をしておかなければならない。

 そんなことを考えているとき、僕の方に向かって歩いてくる甲高い足音が聞こえてきた。

「幸伸、ちょっと」

「え?」

 僕が振り向く前に、琴絵が僕の腕を取って引っ張ってきた。意外に強く込められた彼女の力に、僕は身体ごと振り向かされた。

「話があるの。来て」

「でも、もうすぐ始業時間だよ」

「わかってるわよっ。部長はどうせあと十分は来ないでしょ。来て!」

 彼女らしくなく荒っぽい口調に僕は驚く。なにがあったんだろうと思うけど、でも僕の方からもしのぶとのことで話があったから、彼女に腕を引かれるまま、廊下へと出ていった。



 連れてこられたのは第一企画部の部屋からそう遠くない袋小路になってる廊下の隅だった。

 部長みたいに空いてる会議室を自由に使えない僕たちみたいな社員は、ちょっとした秘密の話なんかがあるとよくここを利用している。そんなような、あんまり人が来ない場所だった。

「幸伸、『しのぶ』って誰?」

「え!?」

 なんで琴絵がしのぶのことを知っているんだろうか。しのぶが僕の部屋にいるようになってからその名前を彼女の前で言ったことはないはずだったし、もし言うことがあったとしても中学時代かそれくらいだ。いきなり彼女がその名前を、いまになって出してくるなんて思えなかった。

「えっと、それは……」

「ごまかさないで! わたし、聞いちゃったの。幸伸に、わたしの他に女の人がいるってことを」

「……誰から?」

「誰からなんてどうでもいい! それにわたし、知ってるのよ。この前の日曜、デパートの前で幸伸、その女と会ってたんでしょ? あなたがその女の名前を呼ぶのを、わたしは聞いたのよ!!」

 まさかあの日、あそこに琴絵がいるなんて思わなかった。ごまかし切れない。そう感じて、僕は肝を据えた。

 少しの間目を瞑って気持ちを整える。軽く深呼吸をした後、僕は琴絵に向かって言った。

「しのぶっていうのは、僕の幼なじみだ。こっちに出てきて泊まる場所に困ってるって言うんで、いま僕の部屋に泊まってる」

「それだったら言ってくれればいいのにっ。そういうことだったらわたしだってヘンな気を回さなくて済んだのに!」

「違うんだ。それだけじゃないんだ」

 感情を露わにして言う琴絵の両肩をつかみ落ち着かせる。

 ――もう決めたことだ。いまがいい機会なんだから、言ってしまわないといけない。

 疑問の顔を浮かべている琴絵に僕ははっきりと告げる。

「僕は、彼女と暮らそうと思ってる」

 一瞬呆然する琴絵。そしてすぐにうつむき、身体を震わせる。

 そんな彼女に僕は言葉を続けた。

「昔から憧れてた人だったんだ。もちろん会社も辞める。故郷に帰って、しのぶとふたりで暮らそうと思ってる。だから琴絵、僕は――」

 そこまで言ったところでキッと顔を上げた琴絵は、僕のことを睨んできた。

 初めて見るほど激しい彼女の感情の表れだけど、僕はその視線をしっかり正面から受け止める。覚悟はしていたことだから。

 しばらく見つめ合って、先に琴絵が堪えられなくなった。僕を睨みつける目から涙が溢れ出し、止まっていた身体の震えがぶり返して、表情が崩れていった。

「琴絵……」

 声をかけようとしたけれど、彼女にかけるべき言葉は思いつかない。口ごもる僕がなにかを言う前に、琴絵は僕の手を振り払って袋小路を出ていってしまう。

「……」

 遠ざかっていくヒールの高い足音。でも僕は、その後を追っていくことはしない。

 ――これで良かったんだ。

 そう思っている。しのぶとの生活が僕の幸せになるんだから。

 ――これで、良かったんだよな……。

 それなのに僕の胸に残るしこり。もう聞こえなくなった足音に、僕はなぜか泣きたい気がしていた。



 始業の時間は過ぎ、まもなく朝の部長会議を終えたうちの部長もやってくるだろう時間、俺は幸伸と琴絵との修羅場が展開されているだろう袋小路の方に向かっていた。

 幸伸がなにかボロを出さないかとあいつのことを監視してたりしたが、けっきょくなにも見つけることはできなかった。

 だから、でっち上げてやった。

 本当か嘘かなんて問題じゃない。要は幸伸と琴絵を引き離すための原因があればいい。

 それで今日の朝、そのことを琴絵に吹き込んでやったわけだ。そしたら思った通り、幸伸と琴絵は朝礼目前だというのにふたりで行ってしまった。

 後はその結果を見て動き方を考えればいいだけだ。

 袋小路がある場所まであと角をふたつ。大きな声で言い合ってるとしたらそろそろなにか聞こえそうな場所まで来たところで、俺は突然角を曲がってやってきた人間とぶつかりそうになった。

「ごめんなさい!」

 顔も上げずに言われたその声に、俺はそれが琴絵であることを知った。ぶつかるのを防ぐために出したはずの両手を、いいタイミングだとばかりに震えるその肩に掛ける。

「どうしたの? 琴絵ちゃん。なにかあったの?」

「利哉くん?」

 優しさを込めた声で声をかけると、彼女は顔を上げた。その目から流れているのは、涙。

 ――やったぜ!

 思わず声に出そうになった叫びを心の中に収める。ここでボロを出すわけにはいかない。

「なにかあったの? 琴絵ちゃんを泣かすなんてひどい奴だ。俺で良ければ相談に乗るよ」

 俺がそうまで言ってやったというのに、琴絵は「ゴメン」と言って走り去っていってしまった。

 ――まぁ、焦る必要はないさ。

 遠ざかっていく後ろ姿を見ながら思っている。

 これまで何年もかけてチャンスを探し続けていたことだ。この後少しくらい待たされたとしてもさほど問題にはならない。

 それにまだ、仕上げが残っている。

「くっくっくっくっくっ」

 俺の口から漏れてくる笑い。

 それを止めることは、もうできなかった。


         *


 そうして僕はその日、しのぶが待ってくれているマンションの部屋に帰ってきた。

 ――そう、しのぶは僕のことを待っていてくれるんだ。

 心の中で自分の中に向かって言ってみるけど、エレベータに乗ってる間もずっと、僕の中から琴絵のことが離れることはなかった。

「ただいま」

 元気も出ずに玄関の扉を開けて中に入る。

 ――しのぶが来てから、家を出るときは元気で、帰るときは元気がない日が多いな。

 そんな風に自分のことを皮肉りながら、僕は靴を脱いで玄関兼キッチンになっているところ入っていった。

「お帰り。早かったね」

 いつもの通り素っ気ない口調で、キッチンで食事をつくっていたらしいしのぶが声をかけてきてくれる。

「今日はちょっと遅れちゃったかな。でもすぐに夕食だよ。スーツ脱いで向こうで待ってて」

 これまでと同じなのに、どこか優しさが感じられるようになった気がするしのぶの言葉。笑みを浮かべようとして、浮かべきれず、「うん」とだけ言って僕は寝室に向かった。

 着替えや洗面を済ませている間に準備が終わって、夕食になる。メニューはクリームシチュー。じっくりと煮込んだらしいそれは、いままで食べたことがあるどんなレストランのものより美味しいと感じられた。

 これからずっと一緒に暮らすことになるしのぶが、僕の目の前で微笑んでいる。僕が夢を抱いていたあの頃と変わらない笑み。けれど僕は、彼女に笑みを返す元気はなかった。

「残った分は冷凍しておくよ。また今度暖め直して食べよう」

 無言の食事を終えた後、しのぶがテキパキと片づけをしている。プラスチック容器に残りのシチューを入れて冷凍庫にしまい、洗い物をさっさと済ませる。僕も手伝おうとしたのに身体がどうしても動かず、彼女に一任することになってしまう。

 その間、僕はダイニングテーブルに着いてなにもできずにいた。考えなくちゃいけないことはいっぱいあるはずなのに、頭の中の整理ができなくて、なにも思いつかなかった。

「どうする? 幸伸。今日はもう寝る? だったら布団の準備して上げるけど。それともお風呂にでも入る?」

 しのぶはいま、来客用にしまっておいた布団をベッドの横に敷いて寝ている。適当なパジャマも見繕ったから、最初の日のような自体はあれ以降起こっていない。

 でもそんなことはいまの僕にとってはどうでもいい。いま僕の心にあるのは――。

「どうしたの? いきなりだね。けっこう驚いたよ」

 寝室に入っていこうとしたしのぶを背中から抱きしめた。言葉のわりに驚いてる様子はなく、拒絶することもなく、しのぶは首に回した僕の腕に、そっと手を添えてくれる。

「どうしたの? 幸伸。悩み事? 私で良ければ、相談に乗るよ」

 言葉はいつもの通りでも、これまでと違う優しさが込められた声。僕は彼女に、琴絵のことを話すことに決めた。

「今日、琴絵と別れてきたよ」

「そっか。だから今日は元気がなかったんだね。……でも良かったの? 幸伸が望むなら、私は幸伸と暮らすつもりだけど、でも、彼女の方は本当に良かったの?」

「良かったんだ。あのときしのぶに言った言葉は酒の勢いなんかじゃないよ。本気だった。だから琴絵とのことは良かったんだ。だけど、僕はそんなに強い人間じゃない。だから――」

 しのぶの手の合図に、僕はいったん腕に込めた力を抜いた。振り向いたしのぶは一瞬僕の顔を見つめ、そして僕の身体に両腕を回してきた。それに応えて僕もしのぶの身体を、今度は正面から抱きしめる。

「僕は弱い人間だよ。弱いから、堪えられるどうかわからないんだ。割り切ったつもりでいても、琴絵のことが頭を離れないんだ」

「そうだね。幸伸は昔からそう言う奴だったよね。うん」

 首筋にかかるしのぶの優しい息。間近で聞こえるしのぶの暖かな声。

 それが僕を無性に安心させてくれる。だからその後も言葉を続けることができた。

「すぐに一緒に暮らそう。琴絵のことで、僕が押しつぶされちゃう前に。いますぐに、できるなら明日からでも、あの町に帰って一緒に暮らそう」

「――うん、いいよ」

 たったひと言のしのぶの答え。それが僕の心から、しこりを取り去ってくれた。

「実はね、幸伸」

「ん?」

「私はここに、誰でもなく、幸伸を迎えに来たんだよ」

 涙が出てきそうになった。

 嬉しさと安堵の気持ちで、僕の目から涙が溢れそうになっていた。

「ただ幸伸を迎えるために、私は来たんだよ」

 それでも涙は流さない。その代わりに、僕は腕の中にあるぬくもりを、いままで以上に力を込めて抱きしめた。


         *


 ――もう、幸伸とはダメなんだな……。

 彼とつき合い始めたのは高校一年の春。中学二年のときに彼を知って、想ってて、エスカレータだった高校に上がってすぐに告白された。……正確には、それまでもつき合ってるみたいな状態だったから、正式につき合うことにしただけだったけど。

 それから十年以上、彼とつき合ってきた。

 喧嘩は何度もしてたし、いざこざはけっこうあったものだけど、でもずっとわたしと幸伸はつき合い続けていた。

 その彼と、別れることになった。

 今日はなにも考えられず、ルーチンワークすらまともにこなせたのかわからない。仕事をしてたときの記憶さえ曖昧なまま、わたしは家に帰ってきた。食事も摂らずに自分の部屋に入って、普段の通りに機械的に仕事着から部屋着に着替える。鞄の整理や明日の仕事の準備を終えた時点でやることがなくなって、椅子に座り込んだわたしは溜め息を漏らした。

「ふぅ」

 漏れてくるのは溜め息ばかり。

 幸伸のことばかり頭の中に浮かんで来て、なにもすることができない。

 ふと思いついたわたしは、机の引き出しのひとつを開けた。そこから出てきたのは色褪せたなんの変哲もないノート。でもそれは、わたしの思い出のつまったノートだ。

 引き出しの中にあったノートを全部机の上に取りだして、表紙に書かれた日付が一番古いものから開いていく。

 そのノートは、交換日記だった。

 中学二年のとき、授業の一環で行われた交換日記。みんな嫌々やっていたもんだけど、わたしは違った。交換の相手が、幸伸だったから。

 本当は一週間だけだったものなのに、わたしと幸伸の間では、みんなに隠れてその後もずっと続いていた。

 一ページ一ページ、何度も読み返してぼろぼろになったのを丁寧にめくって書かれた内容を読んでいく。

 あのとき思っていたことが、悩みが、夢が書かれている日記。わたしはこの交換日記の中で幸伸と知り合い、彼に惹かれていった。

 思い出されていく過去にわたしは苦笑いを浮かべる。笑いながら、涙が溢れてくる。

「幸伸……」

 好きになった彼。好きになってくれた彼。ページをめくるごとに彼の姿が思い浮かんで、気がつかぬうちに彼の名前を何度も呼んでいる。

「――あれ?」

 一冊目を読み終わったところで、わたしはあることに気がついた。

 交換日記を始めたのは授業がきっかけだった。でもそれが終わったのは、中学卒業とかそういうきっちりした時期じゃなくて、中学三年になって少し経った頃だった。

 ――なんで突然終わったんだろう。

 思いだそうとしたけれど、終わったきっかけなんて思いつかなかった。突然終わったのには理由があるはず。その理由がなんだったか気になって、涙を拭ったわたしは一番最後の日記を開いた。

 時期ばかりじゃなくてノートの途中で終わってるという奇妙な最後の日記。

「しのぶ……」

 幸伸の書いた日記の中に見つける「しのぶ」という人物の名前。

「まさか、そんなっ!」

 その名前とともに書かれていた内容にわたしは思わず声を上げていた。

 そしてそれが、交換日記を終える理由になったことをいまはっきりと思い出した。


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