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煙草をくわえたまま、にやりと笑みが漏れてくる。
『うん、そうなんだよー。今日の琴絵、なんかヘンでさぁ』
受話器の向こうから聞こえてくる女の声。煙草の灰を灰皿に落としながらも、重要なことだけは聞き逃さない。
「どうヘンだった?」
『やっぱり最近、幸伸君と上手くいってないのかなぁ。久しぶりのショッピングだったのに、あの娘ぜんぜん暗かったんだよねー。いつもだったら莫迦みたいにはしゃいでるのにさ』
「へぇー」
思っていた通り、幸伸と琴絵の関係はギクシャクし始めていた。これまでずっと遠目に見てきたふたりの関係だったが、予想通りいざというときになって幸伸の弱さが露呈した形だ。これを好機と言わずしてなにを言うのだろうか?
しかし本格的に行動を起こすには、まだ少し早い。
『でもさ、どうして琴絵のことばっかり聞くの?』
どうやら彼女の会話の矛先が変わってきたらしい。これ以上話をしている意味が失われたのを感じた。
「ちょっと急用を思い出したよ。またかける」
『あっ、ちょっと――』
答えも待たずに電話を切った。
いつの間にか短くなっていた煙草をもみ消し、顎に手を当てて考える。
――ふたりを、完璧に引き剥がす方法を考えないとね。
*
「で、ここにお前を呼んだ理由はわかっているな」
「いえ、わかりません」
部長の言葉に真っ向から対抗してやった。
今日、例の企画を本会議にかけられるよう準備を進めているとき、突然部長から声がかかった。そうして連れてこられたこの時間は使っていない会議室。部長の第一声はさっきの通りだったわけだ。
ピクリと眉を跳ね上げ、それでも部長は自分を抑え込む。彼が座っているように、しれっとした顔で僕もまたなにも言わずに四角く組まれた机に並んでいる椅子のひとつに座った。
もちろん、こんな風に呼びされた理由はだいたいわかっている。けれどなんと言われようと引き下がるつもりはなかった。
「わかっているのかね? 君は。いまが一番大事な時期なんだぞ」
「それはわかっています。もうまもなく本会議ですから、そのための作業に終われて夜もあまり寝ていない状態です」
「それとは違うっ!」
ついに青筋まで立てて、部長は声を荒げ始めた。
「君にとって今回の計画はどんなものであてもいいはずだ。それより重要なのは、琴絵君との婚約のことだろう!」
「しかし部長――」
「口答えをするなっ! 幸伸君、君はどれほど恵まれた男であるかわかっているのか? 琴絵君と婚約すると言うことはつまり、ゆくゆくはこの篠崎プランニングを背負って立つ人間になるということなんだぞ。これだけの幸運を受けながら君はこれ以上なにを望む? それとも他に女でもできて、琴絵君との仲を反故したいとでも思っているのかね?」
「僕は別に――」
「先に俺の話を聞け!」
会議机を拳で殴りつけ、荒れ狂う部長は僕のことを睨みつけてくる。
怒りっぽいことは前から知っていたけど、初めて見るほどの部長の剣幕に、僕は思わず沈黙した。
「俺も気がつけば五十の半ばだ。もう一度気がついたときには、そこに定年が待ってるよ。この会社に勤めるようになって十五年、いまの第一企画部が発足すると同時に部長に昇進して、大抜擢なんて言われたもんだが、ここ止まりだ。俺には子供がたくさんいてな、一番下の息子なんて今年で高校入学だよ。他の息子や娘たちもなにかと金がかかる年頃だから、もっと上の役職について高い給料が欲しいっていつも思ってるんだ。でも俺は部長止まりだ。なぜだかわかるか? 俺には部長になるくらいまでの運しかなかったんだよ。お前のように社長令嬢と知り合いになれるような運がな」
言葉を挟む隙も与えず、部長は言葉を続ける。
「わかってるのか? 君は。それだけの運を受けながら君はそれを捨てようとしているんだぞ? 確かにその運を受けるかどうかは受けられる奴が選ぶことだよ。でもな、その運がない俺みたいな奴から見れば、君みたいな人間は贅沢者だ。社長の地位以上に君はなにを望んでいるというのだ!?
……これは君のためを思ってのことだが、明後日の本会議のときには君の企画発表の時間は与えない」
「なんだって!」
「うるさいっ。座って静かに聞いていろ」
叫んで立ち上がった僕の肩をつかんで無理矢理椅子に座らせ、赤く充血した目を近づけてきた部長はさらに言う。
「言ってるだろう、これは君のためだ。いつか必ずわかるときが来る。社長になれば必ずわかる。だから今回は収めろ。それにな、もし今回収めないんだとしたら、俺はそんな奴に社長になってもらいたくないんだよ」
言いたいことだけ言って、部長は踵を返して会議室を出ていこうとする。
「待って下さい、部長!」
「うるさい、話はこれだけだ。君から聞くことはなにもない。今回の計画は君を主任とする。しかし、君の企画だけは通すことはない。以上だ」
追いすがろうとした僕の目の前で、乱暴に扉が閉められた。会議室の中にひとり取り残された僕は、ただ呆然と立ち尽くす。
――今回がダメだとしたら、次はいつあるって言うんだ?
琴絵と婚約したとしたら、それから先はこれまで以上にあんな企画を出せないようになってくるはずだ。場合によっては、配置換えが行われて、僕は企画部にはいられなくなるかも知れない。
機会があるとしたら、それはもう今回しかないはずだった。
――しょせん、夢は夢だったのか……。
さっきまで座っていた椅子に力無く腰を下して机に突っ伏す。一度伏せてしまった顔は、どうやっても上げられそうになかった。
部長の言葉によって、その後僕はまったく仕事ができずにその日の勤務時間を終えた。
同僚たちが残業しているのを横目に、これ以上進める意味のなくなった企画を放り出して、僕は社屋を出る。六時を少し過ぎたところだというのにもう外はすっかり暗く、そろそろコートがほしいと思うくらい肌寒くなっていた。
明日辺りしのぶにでも頼んで秋冬物のコートを陰干ししてもらおう、なんて考えつつ駅に向かっていると、僕を待つかのように立っていたのは、琴絵だった。
「駅まで歩こ」
そう言いながら、琴絵は歩みを止めない僕の横に並ぶ。彼女のために僕は少しだけ歩調を落とした。
そのまま、僕たちはしばらく無言のまま歩いていった。
「まだあの企画に関わってるの?」
唐突に琴絵がそんなことを訊いてきた。溜め息を漏らしたいのを抑え込み、その言葉に答える。
「もうあれはいいんだ。部長に却下された。採用は絶対してくれないってさ」
「そう」
それを聞いてうつむく琴絵。そしてまた、僕たちの間には沈黙が訪れる。
一週間前はまだ夏の跡が残っていたような気がするのに、街はもう秋の色しか感じなかった。僕たちを追い越していくサラリーマンやOLの足音にすら寂しさを感じるのは、果たして気のせいなんだろうか。
遠目に駅が見えてくる。琴絵とは電車が違うから、もうすぐ今日のところはお別れだ。
「ねぇ、もうひとつ訊いていい?」
「ん?」
駅の目の前まで来たところで、琴絵が僕の道をふさぐように立った。
「あの企画に、どうしてそこまで入れ込んでいたの?」
悲痛な表情の琴絵が、僕の瞳を覗き込んでくる。
――琴絵も、部長と同じか。
「前にも言っただろ、夢だからだよ」
僕はそう言い捨てて、琴絵を押し退け駅の構内へ足早に入っていった。
琴絵を押し退けて幸伸が改札口に消える。取り残された琴絵が、寂しそうにうつむいていた。
遠目に見ていて笑みが漏れるのを止められない。
幸伸と琴絵の亀裂はどんどん広がっていっている。婚約の寸前まで行っておきながら、別れの兆候すら見え始めていた。
しかし、まだ関係の修復がないとも限らない。ふたりを引き離すために、ここは決定的な方法が必要だろう。
「おっと」
幸伸に遅れるわけには行かない。いまだ琴絵は立ち尽くしていたが、先回りするためにタクシーを止めた。
*
「ふぅ」
一回の乗り換えを交えつつ一時間と少し、電車に揺られ続けて到着した駅の改札を出たところで溜め息が出た。
住宅街とあって小さな駅のわりにそれなりの人たちが駅の出口に向かう中、僕もわずかにうつむきながら歩いていく。
「よっ、幸伸。元気ないねぇ」
声とともに肩に置かれた手。顔を上げてみると、駅の構内を出たところにいたのはしのぶだった。
「ほれほれ、戦利品だ。半端で取ってきたもんばっかりだけどね」
しのぶが片手で抱えてる大きな紙袋には、インスタントを中心とした食料品なんかがいっぱいにつまっていた。
「パチンコ?」
「そそっ。まぁ、家でじっとばかりしてらんんないからちょこっとそこのとこでやってたんだけどさ、思ったより回ってね。懐の方もちょっと潤ったよ」
そう言って満面の笑みを浮かべるしのぶ。さらに彼女は、
「せっかくだから飲みに行こうぜ」と僕の腕を取った。
「いいよ、僕は。お酒はあんまり――」
「大丈夫だ、って。今日は私のおごり。思いっきり飲んでもいいよ」
会社や琴絵のことで元気がなかった僕は、しのぶの誘いをそれ以上断ることができず、彼女に引っ張られていくことになった。
そうしてやってきた串焼き屋。まだ夕食時間を少し過ぎたくらいで人は少なく、誰にも邪魔されずにしのぶとふたり、酒を酌み交わすことになった。
「いろいろ悩みがあるもんだね」
「そうなんだっ、そうなんだよ……」
もう僕はどれくらい飲んだだろうか。はっきりとは憶えていなかった。頭に酒が回って気分が浮き上がってるのを感じつつ、どこか冷静な自分が会社でのことや琴絵のこと、そして夢なんかのことについて話したのを憶えていた。
「あそこじゃ僕は、もうダメかな」
「なぁに、幸伸。昔は夢の話ばっかりしてたって言うのに、ずいぶん弱気ねぇ」
「でももう、僕にはどうにもできないよ」
コップに半分ほど残っていた日本酒を一気に飲み干し、深く息を吐く。
会社のことも琴絵のことも夢のことも、僕にはもう全部が手詰まりとしか思えなかった。なにをやっても上手く行きそうになくて、これ以上どうにもできない気がしていた。
「昔に戻りたいよ。しのぶと一緒にいて、夢を話してた、あの頃に戻りたいよ、僕は」
「戻れるわけがないでしょ」
泣き言になってしまった僕の言葉に、琴絵は鋭く突っ込んでくる。
「時間はどうやっても戻せないわよ。たとえ戻せたとしても、また同じように進むんだったら、同じことを繰り返すんじゃないの? だったら意味ないでしょ。いまは今しかないの。つまづいてようと泣いてようと、昔に戻れないんだったら、いまこれからやられることをやるしかないでしょ」
「……そうだね」
やっぱり、僕の目の前にいるのはしのぶだ。
なんだか妙にそのことを感じてしまう。
彼女は人を励ましたりしない。元気づけたりしない。口から出てくるのは「現実」だけ。
でもそれで良かった。慰められるよりも、元気づけられるよりも、現実を見据えてまた歩いていけるなら、そのときだけの優しい言葉よりも力がある。
「なにもできないなんてことはないもんだよ。いまを良くしていく方法が、必ずね。もしそれが見つからないんだったら、いまを捨てて新しいことを始めるのも、なにもしないでいるよりいいことでしょ? ――で、幸伸はいまなにができるのか、なにがしたいのか、しっかり考えなさいよ。別に私は泣き言を聞きに酒に誘ったわけじゃないわよ」
しのぶに言われて考える。自分にできること、自分がやりたいことを。
酒が回って動きの鈍った頭の中から出てきた言葉は、自分でも意外な言葉のように思えた。
「しのぶ、僕と一緒に暮らしてくれないか?」
「……」
自分自身で驚いていた。まったく予想外の言葉が自分の口から出ていた。
けれど言った後で後悔はない。むしろ、手詰まり状態のいまよりも、言葉の通りしのぶと一緒に暮らせるなら、いまの自分よりいい自分が見つけられそうな気がしていた。
「僕たちの故郷に帰って、ふたりで暮らさないか? 別にそこでなにかしたいわけじゃないし、家業が残ってるわけでもないけど、でも、僕はもう疲れたよ。都会の生活は僕にはあわなかったみたいだ。だからしのぶ、僕と一緒に暮らしてくれ」
一度目よりもはっきりと、僕はしのぶに向かって自分の意志を告げた。
顔を上げ、しっかりとしのぶの顔を見る。僕の目を見つつ口をつぐんでいた彼女だけど、しばらくして答えを返してきてくれた。
「そんなことしたところで、昔に戻れるわけじゃないよ」
「わかってる」
「また夢を追いたいなんて思うかも知れないんだよ」
「……そのときは、また新しく始めることにする。もちろんそう思ったときはしのぶに相談するよ」
「酒の勢いなんかじゃ、ないよね?」
「絶対に違う」
そこで言葉を止め、目を瞑ったしのぶ。一瞬だけ間をおき、ゆっくりと目を開けた彼女は言った。
「だったら、私はそれでいいよ」