3
* 3 *
「へぇー。そんなことがあったんだ」
サラダを口に運びながらしのぶが言う。
朝になり、夕食の残りなんかで朝食を摂りつつ、ちょっと早めに起きた今日、しのぶに昨日の会議でのことなんかを話した。
「そうなんだ。それで……まぁ、ちょっと悩んでたんだけどね」
食事の手を止め、僕はうつむく。
同僚の反応と部長の言葉によって、これ以上企画を詰めるかどうか悩んでいた。
確かに部長の言う通り今回の計画でやらなければならない企画じゃないのはわかってる。だけどこの先こんな機会がいつあるのかわからない。――それに、琴絵と婚約した後、もう一度こんな企画が提出できるかどうか、自信がなかった。
「普通そんなもんだろ? 琴絵ってぇ娘が社長令嬢なんだから、その相手って思えば誰だってそんな企画出されたら嫌な顔するさ」
しのぶは僕と違って相変わらず現実主義者だ。確かにしのぶの言う通りだと思う。
でもやっぱり、僕はいまあの企画を通したいと思っている。
「社長さんが娘の結婚相手を決めつけないだけマシじゃないか。篠崎プランニングって言ったらそれなりの大きさの会社なんだろ? それなりにやってりゃ社長の椅子が待ってるってぇのは、降って湧いた幸運みたいなものだぞ? 普通だったらどんなに能力があっても得られないくらいの、な」
「……そうだね」
琴絵とのことも、やっぱり考えている。夢と琴絵とどっちを取るのか、と問われると、答えを返すことができない僕がいた。
「ごちそうさま」
昔からそうだったし、期待はしてなかったけど、やっぱりしのぶはしのぶだ。けっきょく彼女の口から励ましの声が出てくることはなかった。
食欲がないままリビングテーブルから立ち、残っていた出勤の準備を終えて玄関で靴を履く。
「ほれ」
背後から伸ばされた包み。結び目の隙間から見える箱の様子から、それは弁当だった。
「え?」
「今日は幸伸よりちょっと早くに起きてたからね、つくっておいたよ」
振り向いたところで押しつけられた包みを受け取る。包んでる布を通しても、それは暖かさが感じられた。
「それでもお前は会社に行くんだろ?」
しのぶはそう言って目を細める。
なにを言われたのかよくわからなかった。でも彼女の視線に、言葉以上のものを感じ取った僕は、その意味を考える。
――しのぶはたぶん……。
「うん。やっぱり行くよ」
少しの間目を瞑って考えた後、僕は答える。しのぶに対する答えとしては、たぶんそれが一番だと思ったから。
「そうだろ?」
言ってしのぶはにやりと笑う。僕もそれに笑みを返した。
「それじゃ行ってくる」
「ほいっ。じゃあまた夕食でもつくりながら待ってるよ」
「わかった」
さっきまでの暗い気持ちも吹き飛んで、僕は気分一新させて玄関を出た。
*
部長は腕を組み、うなり声を上げた。
「わかるでしょう? 部長も。世界はそのうち深刻なエネルギー不足に見舞われます。たとえ天然ガス資源利用を増やしていったとしても、これ以上環境を破壊するわけにはいかないでしょう。だから、宇宙にエネルギーを求めるべきなんです」
言葉に熱を込めて僕は部長を説得する。
「月はエネルギーのもとになる資源があるという観測は出ているんです。ただ、本格的な開発は行われていません。チャンスなんです。これまで取り引きしてきた会社の観測機器を使えばほぼかなり精密な観測も行えます。今回の計画を機に会社全体で進めていけば危険度も低くなるはずでしょう。どこかに先を越されてしまうより、いま、この会社でやるべきだとは思いませんか!?」
デスクに乗りだした僕の身体に押されて、部長はわずかに身を引いた。
しのぶの言葉によって元気づけられた僕は、昨日言われたことも気にせず部長を説得する手段に入っていた。いまだ渋い顔をしている部長だが、まずここから切り崩して行かなければ僕の企画が採用されることはほとんどない。
「しかしだな、やはりこれほど大きくなる可能性のある企画の場合、社長の了承がなければ採用するわけにはいかんのだよ」
「わかっています。だからそれを社長に訊いてほしいんです!」
いつもと違い「社長」という言葉でも引かない僕に、部長は目を見張る。おそらく同僚たちも昨日とは違う僕の様子を見てるだろう。――そして、琴絵も。
「社長は君の有能さを認めているんだよ。だから今回の計画はまぁ、そういうことになると決まっているんだし。そんな君がこんな企画を出した告げたら、社長はなんて言うだろうね」
「そのことはいまはいいんです。いまやるべきだと思ったから検討を進めている企画なんですから、社長の了承が必要と言うならばそれを問うてきて下さい」
再びうなり声を上げ、部長は考え込み始める。僕は彼の答えをじっと待つことにした。
「――君の熱意は買おう。だが君は自分の想いに流されているんじゃないか? やはり危険が大きすぎる企画であることには変わりないしな」
「だから会社全体で――」
「わかっているっ、わかっているよ。しかしだな、どうせ企画会議で採用された企画は社長も目を通すことになるんだ。もう少し検討を進めてからにしないか? な?」
「……わかりました」
どうやら部長はここで折れるつもりはないらしい。この人のことだ、これ以上なにを言っても無駄だろう。この場は引き下がって、もっと説得に必要な材料を集めることを決めて自分の席に戻っていった。
――確かに、流されてる部分はあるよな。
企画書を見返しつつ、僕は部長の指摘について考えていた。
幼い頃から僕は空や宇宙が好きだった。空を飛んで幸せを振りまきたいと思ったのも、たぶんそれへの憧れがあったからだと思う。そしていまの企画も、それの延長線上にあるものだろう。
けれど僕は、いま、絶対にやりたい企画でないことはわかっていても、自分の手で、いま実現したいと思ってる。
部長がこの企画を通すつもりがないのだとしたら、その考えを変えなくちゃいけない。
――どうにかできないかな。
方策を練ろうとしていたとき、昼休みの始まりを告げるチャイムが鳴り響いた。
「幸伸、話があるんだけど、いい?」
それと同時にやってきた琴絵が、自分用の小さな弁当箱を示した。
「いいよ。屋上に行く?」
「そうだね。あ、昨日はゴメンね」
「こっちこそゴメン」
言って僕はスーツの袖を自分の鼻に寄せて匂いを嗅ぐ。
昨日とは違うスーツを着てきていたし、匂い消しも使ってたから、煙草の匂いがすることはなかった。
「今日は匂い、大丈夫だから」
僕が笑みを浮かべると、いつもの屈託のないものじゃなかったけど、琴絵も微笑んでくれた。
「ちょっと待って。書類だけ整理して行くから」
部長を説得するために色々と材料を出していた机の上を整理した僕は、一番下の引き出しからしのぶにつくってもらった弁当を取り出す。
――しまった!
思ったときにはもう遅い。
明らかに手作りとわかる弁当の包みを見て、琴絵は驚いたような顔をした。適当な説明の言葉を思いつく暇もあらばこそ、「今日は他の人と食べる約束してたんだ」と言って彼女は僕の前から行ってしまった。
「くそっ」
莫迦みたいなミスに僕は小さく舌打ちする。
琴絵にあわせて外で何か買ってくることでも、親しい隣の部屋の人につくってもらったとでもなんとでも言い訳はつくはずだった。騙すことにはなるけど、いまの僕と琴絵の関係のことを考えれば、しのぶのことは隠しておいた方がいい。しのぶのことは後で折を見て説明すればいいことなんだから、それくらいの方便は使うべきだった。
――琴絵とはちゃんと話をしておかないとな。
立ち上がろうとしていた僕は席に戻り、琴絵のつくってくれた弁当の包みをほどき始めた。
*
「どっからこんなに人が出て来るんだろうねぇ」
なんとなくのんびりとしたような口調でしのぶが言う。
「まぁ、休日だしね」
その声に僕は苦笑いで答えるしかなかった。
琴絵と出掛ける用事もなかった日曜の今日、朝突然しのぶが服を買いに行こうと言い出した。まぁ、足りないときは少しお金を貸してくれという話ではあったが、会社や琴絵とのことがあって胸が詰まっていたから、ちょうどいい気晴らしになると思ってデパート街に繰り出した。
――しのぶなりのやり方だよな。
しのぶは昔から口数は多い方じゃない。口を開くとクールだとか、ひどいときには冷酷なんて言われるくらい現実的な言葉が出てくる。けれどそれが彼女のすべてじゃない。今日のように突然僕を連れだしたのは、しのぶなりに僕のことを見ていてくれるからだ。
休日のデパート街というと、さすがに人の数が多い。僕やしのぶが住んでいた田舎と違って、人と人の隙間を縫って歩かないといけないくらいだ。その中をしのぶは微笑みを浮かべつつ、踊るような軽やかな足取りで歩いていく。
思ってみれば、こうしてしのぶとふたりで歩くのも十四年振りだ。昔は畦道とまでは言わなくても、関東の住宅街ほど開けてない道をふたりでよく歩いてた。そしていまは、こうして人通りの多い街を歩いている。
ショウウィンドウに並んだ服を眺め、下げられた値札に軽く唇を噛み、秋物のバーゲンではいっぱい服を抱えて試着室に入っては、いろんな格好を見せてくれるしのぶ。着替えようの服とかを買い終えてひと休みのために入った喫茶店では、微笑みを浮かべ合いながら昔の話で盛り上がった。
十数年振りなのに、今も昔も変わらない僕としのぶの関係。大雑把と見えるほど気さくな彼女だけど、自分の周りのことをよく見てるのも変わってない。
けれどやっぱり、僕は二十七で、しのぶは二十九だ。
僕の目の前の席で、頬杖をつきながらストローでジュースをすする彼女。
面影は昔のままでも、僕もしのぶもずいぶん変わった。しのぶはずいぶん――女らしくなった。物心ついた頃から彼女と一緒にいる僕がそれを感じるくらいに。
――思えば僕は、いつもしのぶに憧れてたんだよな。
男を相手にしても、たとえそれが年上であっても、昔から一歩も引くことがなかったしのぶ。泣き虫だった僕は、そんな彼女にずっと憧れ続けていた。
「ん? どうしたの? 私の顔になにかついてる?」
いつの間にかしのぶの顔を見つめ続けていた。そのことで言ってくる彼女だけど、その顔は微笑んでいる。
昔もしのぶといて楽しかったけど、いまも彼女と一緒の時間を楽しんでいた。
……少しだけ、その意味は昔と違っていたけど。
手招きに寄せられて、わたしはそっちの方に寄っていく。
「ねぇねぇ琴絵、こんなのいいよね」
「あ、うん。そうだね」
ショウウィンドウに並んでいるのはまだ秋口だというのに冬の服。感じのいいコートに一瞬目を引かれるけど、でもすぐにまたわたしの胸は暗いものに支配されていった。
今日は同僚と前々から約束していた買い物でデパート街に来ていた。ちょっと高いものが多いけど、素敵な冬物の服があるのにわたしがそれに目を引かれるのは一瞬だけだ。
わたしの頭の中は、ずっと幸伸のことでいっぱいだったから。
――あのお弁当はやっぱり、誰かにつくってもらったものなのかな。
この前見た手作りのお弁当。幸伸はそんなに料理がうまくないし、起きるのはたいていぎりぎりの時間で朝御飯もちゃんと食べてこないことが多いくらいだから、お弁当をつくってくることなんてないと思う。だとしたら誰かに、――女の人にでもつくってもらったんだろう。
その前に彼の服から漂ってきた煙草の匂いも気になる。わたしの知り合いにも幸伸の知り合いにも煙草を吸う人は少ないはずだし、女の人で吸う人も、彼氏がいたり幸伸とは近くない人ばっかりだ。
それでも彼の側にわたしが感じるのは女の人の影。幸伸に、他に好きな女の人ができたんだろうか。
幸伸のことは、信じていた。つき合い始めてからずっと、彼はわたしを裏切らないでいてくれたから、彼のことはなにがあってもけっきょくは信じることにしていた。
いまでもそれは変わらない。変わらないけど、不安は感じていた。
「どうしたの? 琴絵。今日はずいぶん暗いね」
「最近ずっとそうじゃない? 幸伸君となにかあったの?」
沈み込んでるわたしに、一緒に買い物に来てる同僚の娘たちが心配そうに、でもどこか楽しそうに、声をかけてくる。
「うぅん、なんでもないって。ここ何日かですっかり寒くなったなぁとか思ってただけだよ」
ごまかしの言葉を口にして、わたしは微笑む。「そうだよねー」と同意してる彼女たちの言葉を耳にしながらも、またすぐ幸伸のことが頭に浮かんできてしまう。
――あの言葉は、やっぱりやめておいた方が良かったのかな。
この前のデートでかけた言葉。それは早くプロポーズをしてほしくてかけた言葉だった。
幸伸は、わたしが見る限り第一企画部の中では一番仕事ができる人だ。今回の計画が成功したら、お父さんも彼との婚約を認めてくれると言ってた。だから心配するべきことはそんなにあるわけじゃない。
けどわたしとしては、そんなお仕着せのことで婚約が認められるよりも、計画の成功なんかどうでもいいから、彼自身から早くその言葉を聞きたかった。
それはたぶん幸伸も気づいてるんだと思う。けれど彼は答えを返してくれなかった。それにいまも返してきてくれてない。もしかしたらわたしは彼に負担をかけてしまったのではないかと、不安が胸を見てしてくる。
人混みの中でひとり溜め息をついた。
「しのぶーっ」
そんなわたしの耳に聞こえてきたのは、知ってる声だった。
すぐに下を向いていた顔を上げて、辺りを見回す。
いろんな声や音がしてるいまの場所だけど、よく知ってる声だから気づくことができた。あの声は、絶対に幸伸だ。
――いた。
わたしがいる場所から少し遠い場所。歩いてる人の間に見え隠れしてるけど、幸伸が誰かに手を振ってるのが見える。
彼の近くに誰がいるのかまではわからない。でもわたしが見てる幸伸は、あのレストランでのこと以来見たことがないくらい明るい笑顔だった。
――女の人がいるんだ。
見えはしなかったけど、「しのぶ」という名前はたぶん女性のものだ。わたしに向けていてくれたような笑顔を、いまの彼はその女に向けている。
身体が、震え始めた。
「どうしたの本当に。身体の調子でも悪いの?」
「そんなことないよ」
本当に心配した声をかけてきてくれる声にどうにか答えを返すけど、身体の震えを止めることだけはできなかった。