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       * 2 *


「んぁ……。あれ?」

 目を覚ましてみると、自分の部屋にいることがわかった。

 しかし僕が寝ていたのは寝室兼書斎の奥の部屋じゃなく、リビングダイニング……というほど広くはないけど、そこのソファでだった。

 頭が重いことから考えると、どうやら昨日はお酒を飲んだらしい。お酒はそんなに強くない上、身体に回るのも早いなら、頭に回って記憶が曖昧になることも多いからできるだけ飲まないことにしてる。昨日も誰と飲んだのか憶えていなかった。

 そんな状態なのに服はパジャマに着替えてることを不思議に思いながら、僕はソファから立ち上がって寝室に向かった。

「――」

 飲んで記憶を失った日の翌日、というのは、よく冗談で交わされる話があるものだ。いわゆる、「起きてみたら隣に見知らぬ女性が寝ていた」というものだが、たいていそんな冗談が普通で、現実として起こることはそれほどない、はずだった。

 ――なんでこう、ありきたりの展開なんだ……。

 隣で寝ていたというところが違ったが、本来僕が寝ているはずの寝室のベッドには、下着姿の女性が眠っていた。

 夜は暑かったのか毛布もほとんど身体にかかっていず、寝相が悪いらしくまとめてもいない長い髪はベッドの上で乱れまくっていた。

 声すらかけられずに突っ立っている僕は、露わになった肌に目を吸い寄せられるよりも先に唖然としていた。

 ――なにがあったんだ? 昨日は。

 まだ重さを感じる頭を振りつつ昨日の夜のことを一生懸命考える。いくら酒に酔っていたからと言って、僕が女を引っかけて部屋に連れ込んだなんてこと、本当にしたんだろうか?

「ん? あ、あぁ。おっはよぉ~」

 ちょうどそのとき目を覚ました女性。身を起こした彼女は、サイドテーブルになぜか置かれている来客用の灰皿の方に手を伸ばし、その隣にある煙草の箱とライターを取った。起きあがったことで胸の谷間が僕から丸見えなのを気にする様子もない。けだるそうなゆっくりとした動作で箱から煙草を一本取り出してくわえ、火を点けた後ひと息ふかす。

「どうかしたの? 幸伸。これでも私、女だよ? そんな風にじっと見つめられると恥ずかしいんだぞ?」

 言葉とは裏腹に恥ずかしがる風もなく、彼女は乱れた髪を片手で整える。

「なぁに見てんのよ。もしかして酒が入ると記憶が飛ぶクセ、治ってないの? 私だよ、私。し、の、ぶ」

 ――しのぶ。

 その名前が頭の中に染みわたった瞬間、僕は彼女のことを思い出した。

「あぁーーっ」

「ってぇ、ビックリするじゃない。昨日とおんなじ反応するんじゃないわよ。煙草の灰、ベッドに落とすところだったでしょ」

 言いながら微笑みを浮かべる彼女は、松原しのぶ。僕の二歳年上で、父親の転勤で引っ越すことになった中学一年のときまでよく一緒にいることが多かった幼なじみだ。

 引っ越し以来ずっと会ってなかったはずだから、彼女と最後に会ったのはもう十四年前ということになる。幼なじみで友達以上の関係にあったわりに手紙のやりとりすらなかった彼女のことを、よくそんな久しぶりでわかったものだ。思い出してみれば昨日の夜もそれを感じつつ、いまもまた同じことを感じていた。

「――えぇっと、久しぶり」

「やっぱり記憶が飛んでたんだねぇ。まっ、とにかく、久しぶりっ。私もよくわかったと思うけど、幸伸も憶えててくれたんだね」

 煙草を吸い終えた彼女は、昔と変わらずどんな格好でも恥ずかしがることなく思い切り伸びをする。顔を赤くして視線を逸らした僕のことをニヤニヤした笑みで見ながら、口を開いた。

「昨日のこと思い出したってことは、昨日頼んだことも憶えてる?」

 お酒で飛んでいた記憶はだんだんと思い出されていっていた。

 しのぶに再会した昨日、食事がまだだということを言うと、彼女はせっかくだからと言って僕を半分無理矢理呑み屋に連れ込んだ。頼みというのは、その酒を飲んでいるときに話していたこと。気まぐれに関東の方に出てきてみたはいいが、懐が寂しく泊まる場所を探していて、僕の部屋に少しの間泊まらせてくれないか、と言うことだった。

「うん、それは構わないよ」

「よかったぁ。そんなに長くいるつもりはないけど、よろしくぅ。泊めてもらってるくらいだから、炊事洗濯くらいはして上げるよ」

 僕の言葉に笑みで答えを返すしのぶ。

 僕は二十七で、しのぶは二十九。いくら小学校の二年くらいまでは裸を見せあった仲だと言っても、さすがに毛布で身体を隠して欲しいと思いつつ、僕は視線を逸らしたまま頷いた。

「あぁ~、幸伸」

「なに?」

「そろそろ、出勤の準備の時間じゃないの?」

 そう言われてふと壁掛けの時計に目を向けてみると、七時十五分を過ぎていた。

「まずいっ! 朝御飯を食べてる暇がないっ!」

 叫び声を上げつつパジャマを脱ごうとして気がつく。にやけた顔のしのぶが僕のことをじっと見ていた。

「とっ、とりあえず僕は外にでて他の準備をしてるから、しのぶ、まず服を着といて」

「ほいほい。――あ、じゃあとりあえず、今日は飯でもつくって帰りを待ってることにするよ」

「わかった」

 答えだけ返して顔を洗うために、僕は寝室の扉を閉めて洗面所へと向かっていった。



 慌ただしく準備を終えた僕は、鞄とネクタイをひっつかんでマンションの階段を駆け下り、自転車置き場へと飛び出した。低くなった日差しのまぶしさに目を細めつつ走りだそうとして、立ち止まる。

 ――気まぐれって言ってたけど、本当だろうか?

 昔から彼女は気まぐれに行動することが多かったから、本当に気まぐれで出てきた可能性も否定できない。その真意はしのぶの性格からして本人が話してくれない限り、訊いたところで答えてくれないだろう。それは話の流れを読みつつ、上手く聞き出すしかない。

「でも……」

 僕はいまさっき出てきた部屋の扉を振り返り、見上げる。

 十四年振りでよくしのぶのことをわかったものだと、本当に思う。近くに住んでた頃はよく見ていた顔だし、ちょっとつり上がった目は特徴的だったけど、実際今と昔じゃ印象が違っていたのは確かだった。

 心の中に生まれる不安。

 あのしのぶがしのぶ本人であることには、それを否定できないほどの確信があった。気まぐれな性格はあの通りだし、不安を感じる要素なんてあるはずがない。

 それなのに僕は、なにに対してでもない不安を胸に抱いている。それの正体を考えようとしてるのに、なにも見えてくるものはなかった。

「これから先考えればいいことか」

 そうひとりごちて、僕は駅に向かって歩き始めた。


         *


「はぁ……」

 コンビニのおにぎりを囓り、ある程度噛んだところでお茶を飲んで胃に落としていく。そんな一種の作業が終わるごとに、僕は溜め息を漏らしていた。

 昼休みが始まってすぐに昼飯を買いに行ったのだが、もう休みの時間も終わりというのに食べ終えられずにいた。

「はぁ……」

 また溜め息をついて、僕は残りのおにぎりを口の中に放り込む。

 すっかり夏の気配が消えた空は、気持ちまで澄み切ってきそうなほど晴れ渡っていた。日差しはあるけど緩い風が吹いてくる屋上はちょうどいい気温で、このまま昼寝でもしたいくらいだった。

 そんな場所にいるというのに、僕の気持ちは地の底まで沈み込んでいる。

 今日の午前中は、企画の進行状況なんかを打ち合わせるための会議が行われた。本会議はまた来週あるが、今日のそれが企画部内で進められている企画すべてを初めて部長の前で発表する時間となっていた。

 溜め息なんて漏らしてることからもわかる通り、それは僕にとって最悪の時間となった。

 僕が発表を始めて少し経つと、会議室に同席した同僚全員から向けられていたのは冷たい視線だった。発表そのものは終えることができたものの問題点などの討議が行われることはなく、部長だけが口を開いた。

「いい企画なのはわかった。しかしそれは、会社全体で進めるべきものだ。それから、君がいま、絶対にやらなければならない企画ではない」

 その言葉の意味は明らかだ。

 部内で僕と琴絵がつき合っていることを知らない人間はいない。そして今回の計画成功後、彼女との婚約が認められることもまた、噂に登っているはずだ。

 つまり部長は、「琴絵との婚約が控えたこの時期に冒険をする必要はないだろう」と言っているのだ。

 けっきょく部長のその言葉だけで、発表は次の企画へと移っていくこととなった。

「はぁ」

 もう一度溜め息を漏らし、どうにか昼食を食べ終えた僕は残っている飲み物を喉へと注いでいく。

「ちょっといい?」

 そんなときやってきたのは、ここ最近ぜんぜん話をしていない琴絵だった。

「いいけど……」

 あの海辺のレストラン以来仕事のこと以外でなにも話していなかったから、話しづらい。なにを言われるのかと、僕は思わず息を飲んでいた。

「あの企画、どうして出したの?」

「それは……」

 琴絵から向けられる視線。そこには不安の色が含まれている。

 ――琴絵もそうなのか。

 なにかフォローになる言葉を返そうと思った。でも、自分の夢をごまかすのは嫌だった。

「夢なんだ、僕の。あれだけは、絶対今回の計画で通したい。そう思ってるから――」

 そこまで言ったところで琴絵の顔を見ると、彼女は暗い表情をしていた。彼女の気持ちはわかるような気がしたけれど、はっきりとはわからなかった。

 琴絵がゆっくりと口を開く。なにを言われるのかと心で構える僕だったけど、すぐに口を閉じた彼女は鼻をひくつかせた。

「ゴメン、また今度」

 突然眉をしかめた琴絵は、そのままなにも言わずに行ってしまった。

 どうしたんだろうと思い、僕も琴絵がしたように周りの臭いを嗅いでみた。鼻に微かに残ったのは煙草の臭い。スーツの袖を鼻に近づけて見ると、しのぶの吸っていた煙草の臭いがしっかり染みついているのがわかった。



「くっくっくっくっくっ」

 それを見ていたのは偶然ではなかった。

 激しいものではないが、琴絵と幸伸の口論。ふたりの間に生まれている確実な亀裂。

 話している内容までは聞こえない。自分がいることをふたりに気づかれない程度には距離を取っていた。それでもなにを話しているのかくらい想像ができている。

 午前中に行われた会議は、ふたりの間にどれくらいの影を落としただろうか?

 伏し目がちに琴絵が幸伸の前から走り去る。

「くっくっくっ」

 周りの人間に気づかれないように笑みを抑え込むのは、意外に難しいことだった。


         *


 ――まずかったかな。

 篠崎プランニングという会社は廊下に設置された喫煙所以外で煙草を吸うことは禁止されていた。同時に、第一企画部には煙草を吸う人間の絶対数自体が少なかった。

 近くで煙草を吸っている人間がいれば服にその臭いがつくのは当たり前だけど、近くってだけならそれほど強く染みつくことはない。煙草嫌いな琴絵だから敏感に気づいたのはわかる。それにしても僕の服についていた臭いは、ヘビースモーカーと呼べるくらいの量を吸うしのぶを目の前にしていただけに、かなり強いものだった。

 もしかしたら琴絵に僕の周囲に起こった変化を気づかれたかも知れない。そう思いながらマンションのエレベータを下りて自分の部屋に向かう。

 ――さすがにしのぶが僕の部屋にいるなんてことまで気づくことはないだろう。

 なんて楽観しつつ、僕は「ただいま」という声とともに玄関に入った。

「あれ?」

 部屋には電気が点いていたが、開けっ放しの扉の向こうのリビングダイニングにはしのぶの姿が見えない。靴を脱いで寝室の方にも行ってみたけど、そこにも彼女の姿はなかった。

 ――どこに行ったんだ?

 胸騒ぎがした。

 洗面所から風呂場まで、部屋の中は全部探してみたけどしのぶの姿はない。電気が点いてるくらいだからいた形跡はある。だけど彼女は荷物ひとつなくやってきていた。彼女がいることを証明するような見える証拠はない。

 頭の中に渦巻くのは不安。それに押しつぶされるように、僕はソファに座り込む。

 なぜそんなことを感じるのかわからなかった。ただしのぶがいないという事実が、僕を不安にさせていることだけはわかった。

「探さないと」

 うわごとみたいに僕はつぶやきを漏らす。

 昨日再会したばかりで、十四年も会ってなかった彼女にどうしてこんなに不安を感じるのかわからない。けれど僕の中には彼女を捜さなければならないと思う気持ちが生まれている。とにかくソファから立ち上がって、スーツのまま着替えもせずに部屋を出た。

 ゆっくり降りていくエレベータに苛立ちつつ外に飛び出し、辺りを見回す。いつ出ていったのかもわからない上、街灯の少ない道路ではしのぶの姿を見つけることはできない。走りだそうと身構えるが、関東に出てきたしのぶが行きそうな場所なんて思いつきもしなかった。

「しのぶが行きそうな場所……」

 吹き出しそうになる不安を抑えつつ、僕の知ってる限りの彼女の性格から行きそうな場所を考える。

 思い出されていく記憶。

 しのぶは高いところが好きだった。山に囲まれていた僕たちの故郷は、いま住んでるこの辺りに比べると木がたくさんあって、しのぶはよく木登りをしていた。

 スカートを履いてようとなんだろうと高いところに登るのが好きだった彼女。木登りが下手だった僕は、彼女のところまで行けずによく泣いていたのを思い出す。

「高いところか」

 つぶやきながら僕は手近にある高いところ、マンションの屋上の方に目を向ける。

 すると低めにフェンスが張られた屋上に、小さな赤い光があるのが見えた。

 ――しのぶか?

 思ったときには駆けだしていた。

 屋上までは行っていないエレベータで最上階まで上がり、その後は階段で上に上がっていく。大きく扉を開け放って屋上に出ると、そこにしのぶがいた。

「なんだ幸伸、帰ってたのか」

 何事もなかったかのように言い、吸っていた煙草を携帯灰皿の中でもみ消すしのぶ。微笑みを浮かべて近寄ってくる彼女に、僕は無意識のうちに涙を流していた。

「部屋に煙草の臭いを染みつかしちゃ悪いと思ってさ――。って、おい! どうしたんだ? お前の泣き虫はいまも変わってないのか?」

 茶化すように言葉を優しげな声で言った彼女は、僕の頭を抱き寄せる。そうされてそれまでの不安が消えた僕の目からは、涙が止めどもなく流れていた。

 昔はよく、泣きやまない僕をしのぶは抱きしめてくれていた。あの頃は彼女の方が背が高かったけど、いまでは僕が屈む必要があった。それでも昔と変わらない温かい肌を感じて、僕の涙は止まらない。

「簡単だけど、食事できてるよ。食べるでしょ?」

 僕はその問いかけに、微かに頷いて応えることしかできなかった。


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