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* 1 *
いつも夢を見ていた。
ずっとずっと、その夢を抱き続けていた。
他愛のない夢。
でも僕にとってそれは、かけがえのない夢だった。
今日みたいな日に空を見上げると、「抜けるような青空」っていうのを本当に実感できる。
鮮やかな青は遥か遠くて、でも海よりも深い感じがした。たまに浮かんでる雲の白と、吹き抜けていく冷たい風。秋の気配が感じられるようになった今日は、穏やかな日だった。
「僕の背中にはね、いつか翼が生えてくるんだよ」
校舎の屋上に寝っ転がってる僕は、そんな言葉を口にする。
「その翼で空を飛びながら、僕は真っ白い羽と一緒にみんなに幸せを振りまくんだ」
夢だった。
中学生が持ってるには現実味のないものかも知れない。でもそれは僕がずっとずっと抱き続けてきた夢だった。
「ふぅーん。いいわね」
僕の隣で座っている女。二歳年上の彼女は、素っ気なく応えながらも微笑みを浮かべ続けていてくれた。
他愛のない夢。
かけがえのない夢。
それを捨てることなんて、僕にはできなかった。
*
――夢ってなんだろうな。
僕の中でそんな思いが揺れていた。
揺れているのは心ばかりでなく、身体の方も揺れている。
吊革をつかんでいるのがやっとの満員の電車の中。木枯らしも吹き始めているというのに、電車の中は汗がにじむほどの熱気が満ちている。
昨日は残業してた上に、家に仕事を持ち帰って徹夜に近い状態で、疲れた身体をむち打っての出社だ。さらに作業にひと段落つき仮眠のつもりでベッドに横になったのが運の尽き。いま乗ってる電車は定時ギリギリの電車だった。
いつもの駅に到着したと同時に人も迷惑もかき分けて電車を降りる。人の波をうまく避けつつ階段を上がり改札口を抜け、会社に向けて走り始めた。
ここから会社まで走って五分。時計を見ると一応遅刻がつかない時間もまた、残り五分になっていた。
最近忙しくて疲れていたなんて言い訳で遅刻が許されるわけがない。とくにうちの会社じゃ遅刻した人間には部長が直々に説教を垂れてくれる。厳格というよりねちっこいタイプの部長の説教が、僕には恐怖の的となっていた。
あっという間に社屋が見えてきて、入り口の自動ドアが開くのももどかしく中に駆け込む。ちょうどやってきていたエレベータに乗り込んだところで、僕はひと息ついた。
どうにか始業には間に合いそうだった。それでも始業十分前にタイムカードを押していることが原則だから、どうせ部長からひとこと言われるんだろう。
「よぉ、幸伸。今日は遅いんだな」
「寝過ごしちゃってね」
五階にある企画部に飛び込み、同僚からかけられた声に応えつつタイムカードを押してもうひと息。タイムカードに印刷された時間は、始業時間一分前だった。
「寝坊か? 珍しいな。根詰めすぎるなよ」
「俺じゃないんだからお前が遅刻してどうするよ?」
椅子を避けながらかけられる声に返事をしつつ自分の席に向かう。どうにか遅刻を免れた安心感でドサリと鞄をデスクに置いて、椅子に座り込んだ。
「……」
ふと目を上げる。すると書類などが立ててある棚の隙間から、同期で入社した琴絵が視線を投げかけてきているのに気がついた。
「――おはよう」
「おはよう、幸伸」
ぎこちない挨拶を交わした後、琴絵は席を立ってどこかに行ってしまった。
「どうしたんだ牧島? 琴絵ちゃんと喧嘩でもしたのか?」
唐突に背後から声をかけてきたのは利哉だった。振り返ると彼は嫌らしい笑みを浮かべている。
「とくになんでもないよ」
「ほぉ、そうだったのか? お前らまだ婚約前だったよなぁ。もしかしてオレにもまだチャンスはあるってか?」
「……朝礼前にやっておきたいことがあるんだ。つまらない用事ならどっか行ってくれ」
そう言ってやると利哉は「へいへい」なんていいながら自分の席の方に戻っていった。
篠崎琴絵。利哉の言葉から想像つくように、僕と彼女は婚約前、つまりつき合っていた。彼女とのつき合いは学生時代からだからずいぶんと長い。喧嘩や関係がぎこちなくなることくらいたまにあることだった。……ただ、今回は少し事情が違っていたが。
――琴絵になんて答えを返せばいいかな。
つい数日前に彼女に言われた言葉。僕はそれに対する答えをまだ見つけだせずにいた。
「ふぅ」
溜め息をついて気分を切り替えた僕は鞄を開けた。今日ギリギリの出勤をする原因となった書類を取り出し、内容を確認していく。
その書類はこの篠崎プランニングの第一企画部が受け持つことになった、今期の新しい計画の企画草案だった。
計画とは、我が社が確保したスペースシャトルの貨物区画をどう使うか、ということに関するもの。篠崎プランニングの第一企画部では、昔に比べてずいぶん一般にも手が出せるようになったそういったスペースシャトルやロケットの開放区画を確保し、自社で企画を立てたり協力協賛会社、研究機関から提出された企画の進行したりといった仕事をしていた。
今回は打ち上げがずいぶん先のスペースシャトルの開放区画をとりあえず確保することができた。そのため企画部で企画を出し、その企画に沿ってスポンサーや協力組織を集めることになっている。
その計画の企画会議はもうまもなくに迫っていた。企画部の各人はそれぞれに企画の調整作業に追われているし、僕が昨日自宅で徹夜作業をしなければならなかったのもそのためだ。
しかし僕は、いま手元にある企画を提出するかどうか考えあぐねいていた。
見せなければならない資料や必要になる発表素材の目処はほぼついていた。それでも提出をためらっている。
顔を上げて見た正面の机には、まだ琴絵が帰ってきている様子はなかった。
ガラス張りの大きな窓の向こうからは、微かに波の音が聞こえてきていた。
手元を照らすように点けられたスポットライト。波の音にあわせるかのように流れている微かな音楽の下で、ナイフとフォークが踊っている。
今日は琴絵と一緒に海辺のレストランに来ていた。月数回の彼女とのデート。いまではずいぶん高級な店に入るようになったものだけど、目が合えば微笑みあうような僕らは、昔からあまり変わっていないように思えた。
彼女と知り合ってのは僕が引っ越した直後だったから、中学二年のときだ。つきあい始めたのは高校一年のとき。それからずっとだから、僕と彼女の関係はもう十年以上になっている。
琴絵の親――つまり、篠崎プランニングの社長にも認められるようになってからも、ずいぶん経っていた。
「ねぇ、幸伸」
ほぼ食事を食べ終わり、ワインを飲んでいるところで琴絵が声をかけてくる。
「ん?」
「わたしたち、いつになったら毎日一緒に食事できるようになるんだろうね」
「……」
僕はその言葉に答えることができなかった。
その言葉が意味しているもの、それは結婚――。
僕は琴絵のことが好きだった。愛していた。その気持ちに偽りなど一片もなかった。それなのに、僕は言葉を失ったまま呆然としていた。
琴絵との結婚。それによって僕は彼女と一緒の幸せな生活と、そう遠くないうちの昇進を得ることになるだろう。同時に社長令嬢との結婚は、僕に社長への道を開くことになるだろう。
もちろん僕にとってそれは望むべくもないものだった。普通なら望んでも得られないものを、最愛の女性とともに得ることができるのだから。
言葉もないまま琴絵と見つめ合う。しかし僕たちの間に、会話が発生することはなかった。
得るものへの期待とともに僕は別のことを感じている。
――夢は、どうなってしまうだろう。
他愛のない夢であるのはわかっていた。
それでもかけがえのない夢だった。
結婚で得られる安定がそれを崩してしまうのではないかと感じている僕が、その日琴絵に答えを返すことはなかった。
*
企画をまとめ上げる作業に終われ、その日の仕事は終わった。
琴絵と話し合うこともできず――せず、皮肉にも利哉の言う通り、僕たちの間に生まれた亀裂はいまだ埋まることはなかった。
結婚のことは、本気で考えている。もし僕が結婚するとしても、その相手は琴絵しかいないとすら思っている。けれどやはり、昔思っていた通りでないにしろ、夢の実現を願っている。その夢も結婚によって得られる社長への道にとっては邪魔なものだ。これから先安定を求めていかなければならない僕は、それを捨てる必要が出てくるだろう。
いまはひとりで住んでいるマンションの最寄り駅で電車を降り、自分の部屋への向かっていた。
時間は十一時を過ぎ、職場からずいぶん離れたこの辺りは、食べ物を出す店と言ったらもう呑み屋くらいしかない。今日みたいな日は家で食事をつくる気も起こらず、僕はちょっと寄り道してコンビニに入った。
街灯すら薄暗く感じる道路とは打って変わって明るい店内で、僕はまず雑誌が置かれているコーナーに行って今日発売の週刊誌なんかを眺めている。
そうしてることにはほとんど意味はない。本屋に頼んで定期購読してる経済雑誌を除けば、僕が雑誌を読むことはほとんどなかった。ただ、家に帰って寝ると、また明日という時間を過ごすことになる。それに少しばかり、重さを感じているだけだ。
僕が考えているスペースシャトルの利用方法は、月を観測するための衛星の積み込みだった。その衛星を使った観測の目的は、月の鉱物資源の観測。この企画を足がかりに、ゆくゆくはそれを利用して新しいエネルギーを得るという壮大なものへと発展していくことになるだろうものだ。誰が考えついた計画でもなく、僕自身で考え出し、進めている企画だった。
しかしその企画は今回一回で終わるようなものじゃない。今回の観測で充分な資源が発見されたとしたら、その後は会社全体で開発に着手する必要が出てくる。それは莫大な利益をもたらす可能性のあるものであったが、逆に考えれば、観測によって資源が発見されなければ今回の企画による出費はすべて無駄になり、また発見されたとしても、大規模な計画の失敗は会社そのものを危うくする。
今回の計画は、たとえ誰が提出した企画であったとしても、僕が主任として進めることが部長から内々に言い渡されていた。その先のことは言われていないが、どんなものであってもそれなりの成功を収めた場合、社長から琴絵との婚約が認められることになると僕は気がついていた。
そんな立場の僕がいまみたいな企画を提出したらどうなるだろうか。さらに計画が失敗したとしたら……。
適当に手にとって開いていた雑誌を戻し、弁当が置かれている棚に向かう。
その僕を足止めするかのように、目の前に女性が立っていた。
「よっ。久しぶり」
たぶん、僕より年上だと思える落ち着いた雰囲気の彼女。髪が長く引き締まった感じの顔をしている彼女は親しげに話しかけてくるけど、僕は彼女が誰なのかまったくわからなかった。
「なんか考え事してたみたいだからさ、ちょっと声かけづらかったんだよね」
僕の沈黙をよそに、女性は話を続けていく。たまらず僕は彼女に声をかけた。
「えぇっと、どなたでしたっけ?」
「ん? わかんないの? 私だよ、私。最近会ってなかったけど、昔はよく話してたじゃないの。ほら、この顔をよく見て――」
鼻と鼻がくっつくほど近づけられた顔。覗き込まれた瞳を見つめ返しているうち、僕は気がついた。
「あぁーーっ」