怪我と悔しさと野球と。
……どこか遠くで、音楽が鳴っている。
ボブ・ディランのようにしゃがれ声の歌が。その後ろでサックスがむせび鳴く。
ちゃらららら~♪
らんららららんらんらん……♪
……あ、思い出した。この歌は『夢は夜開く』だ。しかも、三上寛が歌う方の。
赤ん坊を背負ったおばちゃんが、生活に苦しんだあげく涙ながらにキャベツ泥棒をしたり、自慰行為の後の切なさを歌った、ある意味の名曲だ。
だが。
逆接の接続詞だ。
……おれの様な童貞には、聞いていて、辛すぎる。
なんだ、この逆ベクトルにセンス溢れる選曲は。
あぁ、サックスがむせび泣く。ついでにおれも心で泣く。
辺りにはおばあちゃん家の匂いが漂っている。
おばあちゃんと言えば知恵袋か、しわ袋。しわ袋は勘弁してほしい……てことは。
そこまで来て、ようやく眼を開けると、そこはぺんぎん堂……だと思うけど、見たことのない部屋にいた。少なくともおれの家じゃない。おばあちゃん家の匂いと、分けの分からないセンスの音楽と言えば……ぺんぎん堂のはずだけど。
だとしたら、寝ている間に流れていた曲は、店内BGMだったのか?
センスなさすぎだろ。来客に嫌がらせでもしたいのか。
水色のレースのカーテンがついた窓から、まだ硬い光、眼に痛い光、朝日が差し込んでいる。
朝、か。おれは寝かされていたベッドから身を起こす。
窓の外には、帯状の雲が浮かんだ、灰色をすこし溶かしたような青空。眼を凝らして空模様を見つめると、少し頭が痛んだ。触ってみると、随分厚く、おれの頭に包帯が巻かれていた。他にも、右手とお腹に包帯が巻かれている。そして、服は白いパジャマに着替えさせられていた。
そうか。俺は……時雨に負けた、んだったなぁ。
大きく、ため息をついた。
結局、おれには何もできなかった。
カイさんの言ったとおりだった。
気力だけでは、何もならなかった。
……歯ぎしり、した。
それから、ようやく、もう一度部屋の様子を見渡した。
見知らぬ部屋には、ベッドと壁際にガラス棚が一つ、ビニール椅子が二つ並べられていてるだけ。そのせいで部屋が変に広く感じる。
椅子の上にはおれが着ていた服が、丁寧に折りたたまれて置かれている。病院の入院棟みたいな部屋だ。時計もない。
あ、そうだ、今は何時だろう。ていうか母さんに連絡を。
そう思って立ち上がろうとした時、ドアが開き、いつものメイド服姿のジュンさんが入ってきた。手にはタオルと洗面器。
「あら、気がついた? よかった、何事もなさそうで」
心配そうに目を寄せ、枕元へしずしずと歩いてくる。
……ゴクリ。
って、おれのアホ。
「あ、あの、おはようございます……でいいのかな」
「ふふ、あってるわ。おはよう。まだ七時半だもの」優しく笑って答えながら、慣れた手つきで俺の額のタオルを取り替える。
「えっと、25日の?」
「そう。ほら、無理して起きないで、寝てなさい。影縫いだらけのあなたがカイに背負われてここに運び込まれたのが、昨日の深夜十一時。あ、大丈夫よ、お母さんには連絡してあるから」
「あ、そう、ですか。よかった」
「全然良くないわよ! もう」ジュンさんは唇を尖らせた。「カイがいなかったら危ないとこだったのよ」そう言って、おれを軽く睨んだ。「あなた、カゲを使うたびに死んじゃうつもりなの?」
こつん、とおでこをつつかれた。
「す、すみません」
死んでも所持金が半分になるだけのゲームじゃないから、そんなつもりはないんだけど。助けてもらって、おまけに心配までかけて、なんだか物凄くバツが悪い。
「あ、あの、カイさんは?」
「大学に行く前に、あなたの様子を見に来るって言ってたから、じきに来るわ。ちゃんと御礼、言わなきゃだめよ?」
あ、はい。なんだ、この悪い事見つかったお子様な気分は。
「い、言いますよ、もちろん……あ、ていうか手当してくれたのって、ジュンさん? ですか? ありがとうございます」
「そうよ。ふふ。どういたしまして。でも、ごめんなさいね、ヨシヤがいれば、その影縫い、すぐに治せたんだけど、私じゃ応急処置で、手いっぱい」
「いえ、そんな。助かりました。文句だなんて。お礼しかないです」
「そお? あ、それからね、あなたのお洋服、取り替えて包帯を巻いたの、わ・た・し・よぉ。うふふ。下着は地味ね、マヒロ君♡」
……頭の中で審判が叫んだ。『アウトぉ!』
「マヒロくんって、思ってたより逞しいのねぇ」と、指をくわえながら言った。
……あああ。超死にたい。いや命拾いした後に言うセリフじゃないけど。なんだ、この死にたさは。
「あら、ひょっとして、期待してた? んふ、おねぇさん、応えちゃおうかな」
「断固辞退します」
カナシーに殺される。三枚に下ろされる。命は大切に。
「冗談よ。耳まで真っ赤にしちゃって。可愛いんだから、もう。うっふふ、ますますストライク!」
嫌な予感しかしない。
「そもそも、マヒロくんって、わたしに興味ない感じよねぇ。こんなに大きなおっぱいを目の当たりにしてるのに。高校生男子としては、安全牌すぎるわぁ」
……あのですね。
そんなわけ、あるかっつうの!
精神力で抑えてるんだっつの。メイド服姿の美人さんに介抱されてるこの状況、今メチャメチャ気合入れて無表情保ってるんですけど。現代の『意志の勝利』なんですけど。
草食系であろうと仙人じゃあるまいし、霞を食って生きてるはずがなかろうて。
おれがカナシーと手を繋ぐたびに、おれが内なる獣といかに格闘しているか!
あぁ、手を繋ぐだけでもおれには結構なハードルだね!
おっぱいが嫌いな男子高校生なんて矛盾だよ、ホコタテ!
理性を喪失しない為に、どれほどの忍耐力が必要とされるか、おっぱいの持ち主である女性たち、あなた方はご存じない!
おれの頭の中では、議員が大演説、聴衆が歓喜している。おれにだけ聞こえる心の声で。
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運んできてもらった朝ごはん(オムレツとトーストとプチトマト)を食べ終えると、ジュンさんは「影縫い、今日中にヨシヤがちゃあんと取ってくれるから、大人しくしてなさい」そういっておれの頭を軽く撫で、出て行った。
あの。今回は背中ガン見してないって! って誰に弁明してんだ、おれ。
お腹も膨れて、一人きりになり、段々と思考が整理されて冷静になってくると、今度は時雨の変化に慣れない自分に気づき、落ち着かなくなってきた。
もともとが冷たいやつではあったけど、誰かを殺そうとするヤツじゃなかったはず……いや、分からない。
今まで、そういう力が無いだけだったとか、きっかけが無かっただけだったのかも知れない。
そもそも、アイツはいつから影法師だったんだろうか。
カイさんと時雨の会話から察すると、以前から暗躍していた感じが窺える。
くそ。時雨。お前、なんでそんな平気な顔できるんだよ。なんでだよ。なんで。
そうだよ、こんなことしてる間に加賀美さんが危ないんじゃないのか。くそ。動かせない身体が、たまらなく煩わしい。時雨と闘った時、ほとんど何もできなかった自分への憎悪が、今さらのように心にのしかかってくる。
……悔しい。
誰かに勝てないことが、こんなにも悔しいことだと思ったのは久々だ。
おれは諦めていた。シュートっていう、絶対に敵わない相手をいつも眼の前にして、おれは真っ向から相手に挑んだことなんて、ほとんどなかった。なかったよ。畜生。
沸き上がったマイナスの考えに押しつぶされそうになった、その時、カイさんが部屋に入ってきた。
「マヒロくん! 今しがた、手を絡ませて歩くJKがいたよ! あれは間違いなく百合ん百合んしてるよ! コミック百合姫の世界だよ!」
あぁ昨日、颯爽とおれを助けたイケメンっぷりはどこ吹く風、今朝から平常運転ですね、本当にお疲れ様です。負の感情から救われたけど、なんだ、素直には感謝できないじゃないか。
「カイさん、昨日はその、ありがとうございました」
「いやいや。全然。謝るような事じゃないよ」
「すみません、言いつけを守れずに、先走ってしまって……」
「それはね、うん。先走りはアレだけで十分だよね」
「すみません」
先に謝ったもん勝ちだ。突っ込みなぞ、しない。
「や、ぼくには良いんだけど、自分を大切にしてよ。自分を大切にすることが、君の事を好きな人たちへのお返しだよ」
あ、イケメンな方のカイさん出てきた。ありがたい。
「でも、君が危険な目に会ったのは、パートナーであるぼくの責任だ。すまない。君が『夜半』まで進んでいれば、影法師に後れをとるなんてことは、なかったろうから」
「あ、その、よわ? って、前から思っていたけど、なんですか?」
「え、あ、うわ、そこも説明してなかった?!」
「い、いえ、特訓の時に、おれはまだ『黄昏』でしかない、っては聞いてましたけど」
「あー……完全な、説明不足だ、ごめん、ぼく、色々とダメダメだぁ……」カイさんはそう言うと、両手でスッポリと頭を抱えてしまった。
いや、あなたのダメなところは、真性の変態発言以外、何もないんですけど。
「ごめんね、ええと、『黄昏』とか『夜半』っていうのは、カゲをどこまで使えるかを示す言葉だよ」
カイさんは鞄からバインダーノートを取り出し、図示しながら説明をしてくれる。
「最初、カゲを引き出した段階を『黄昏』っていう。今の君だ。普通の生物が、カゲを持つことで、初めてカゲの世界に入れ、カゲの力に耐えられるようになる。それが『黄昏』だ」
『黄昏』と書いたバインダーに、様々な生き物の黒塗りの絵を書いていく。トンボ、鹿、魚。絵が無駄に上手い。
「そして次の段階。完全にカゲを操れるようになり、憑依させるか、操作できるようになった段階が『夜半』。『夜半』まで進めば、カゲの持ってる特殊な力も使えるようになる」
カイさんはしゅるしゅると、最初の『黄昏』におれの名前、『夜半』にはカナシーら、『ぺんぎんず』の名前を書いていく。流れる様だが美しい文字が、描かれていく。絵も、文字も丁寧で、奇麗だった。ザ・才能の無駄遣い。
「ただ、影法師はその先の状態、『禍時』、カゲの力を完全に解き放った状態にいる。この状態では、憑依や遠隔操作はもちろん、カゲが持つ特有の特殊な力も引き出せ、物理的な力も強くなる」
きゅっきゅ、とマジックで『夜半』の先に矢印を書き、『禍時』と書いた。
「前にも言ったかもだけど、ぼくらカゲ使いは『夜半』で限界だ。それ以上やったら影法師になっちゃうからね」
「……だから、『禍時』まで行ける影法師は、より強い、ってことだったんですか」
「そう。飲み込みが早いね。ネコなのかな、マヒロくんは」
なんか余計なこと言ってんな。どうせエロワードだから無視。
「だから、力を合わせて立ち向かう、んですよね」おれは聞いた言葉を理解しようと努めた。もう、おれにはやらなきゃいけない、事がある。
「あの、おれ、もっと本格的に特訓したいって言うか」
「焦らなくていい。言われなくてもそのつもりだよ。それに、さっきも言ったけと、マヒロくんがきちんと『夜半』まで行っていれば、なぁに、そこいらの影法師にくらい、勝てるさ」だが、カイさんはそこで言葉を区切った。「でも……ねぇ、いいのかい?」
「何がです?」
「昨日の彼は……君の、チームメイト、なんだろ? その、辛いんじゃ、ないかって。辛かったらぼくがやる。下手をしたら、負の感情が暴走して『禍時』になってしまうし」
「それは……平気です」
おれは言った。自分自身に言い聞かせるように。
時雨は、何が何でも止めなきゃ、ダメだ。
それははっきりしている。シュートが厚化粧に狙われたと思ったら、今度は加賀美さんが。しかも、原因にはおれが絡んで。
やらなきゃならないことが、次から次へ、だ。人生ロケットブースター。
「……平気、か」カイさんは俯いた。「それも、悲しい、かな」
「それは、おれだって、本当は、戦いたく、なんかない、です、けど」
それは、嘘偽りない、本当の言葉だ。
でも、あの時、人を殺すことを、何ともないように語った時雨を、おれは許せない。どんな形であれ、かつて仲間だったあいつを、おれは、止めたい。
あいつがおれをどう思っていようと、そう、おれたちは、確かに一度は、チームメイトだったんだから。
「でも、やらなきゃならないんです。あいつは、止めなきゃ」
カイさんは視線を落したまま、何かを思い出すように、口をつぐんでいる。
おれ自身がしたくなかったから、コンビを組んでいても、今まであまり触れなかったけど、野球関連の話をすると、カイさんはとても悲しげな顔をする。
悲しげな顔をしてると、痩せ形なのにがっちりした体形と、落ち着いた服装がよく似合う、イケメン。
……ん?
最初会った時から思ったけど、ニシノジンカイ……って、どこかで聞いたことがあるような? この顔を、何処かで一度、見た様な。
あ。ああああ。……思い出した! エウレカ!
「カイさんって、燦然学園のエース、あの『ニシノジン・カイ』ですか?!」
おれが喚声を上げると、カイさんはやっぱり、どこか寂しそうな顔で、笑った。
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三年前、燦然学園のエース西陣海は、この地区の野球小僧全員にとって、まさしく伝説的存在だった。
地区大会一勝が目標だった弱小高校を、夏の県予選大会ベスト4まで押し上げた怪物。
長身から繰り出される140キロ台後半の速球と、縦に鋭く落ちるスプリットが武器。
プロ入りも確実なんて噂もあったけど、高校卒業と同時に行方を聞かなくなった。美形の顔立ちで女子からの人気も絶大だった。
……なのに目の前のカイさん、本性は変態仮面。どうしてこうなった。
黙ってればモテるだろうに。
ジュンさんが紅茶の入ったティーポットを持ってきてくれて、二人分、注いでくれた。それを合図のように、
「ぼくの話、して良いかな。少し長いんだけど、ね」
カイさんは躊躇いがちにそう言って、遂に、自分の過去を語り始めた。
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「なにから、話せばいいかな。そうだな。ぼくは当時、主将をやっててね。エースで四番だった。チームの柱でね。マンガみたいだろ? はは」
エースで主将で四番。確かに、何かの青春野球漫画みたいだ。
「でも、それだけじゃない。当時は、ぼくの噂だけが独り歩きしていたけど、チーム自体が、本当に良いチームだったよ。なんて言うのかな、勝ちたいって言うのはもちろんなんだけど、全員、根っこのところで謙虚なんだ」
「謙虚? 我が強いヤツの方が、強いイメージですけど」
「うん。そうかもしれない。でも、ぼくらは、野球が好きでたまらないんだけど、なんで野球をするのか? みたいなことを、各人がそれぞれ考えて行動するっていうか、筋が一本入っていてね。高校生にしてはちょっと大人って言うか……はは、ごめん、身内の自慢話になっちゃうや」と、照れくさそうに笑って話すカイさんは、今まで見た事が無いくらい、本当に嬉しそうに笑っている。目じりが下がり、温和な表情だった。
「三年間、ぼくらは過酷な練習に耐えた。冬の寒さに痺れながら素振りをし、夏の暑さに噴水みたいな吐瀉をしたりしつつも、みんながみんな、互いに励まし合い、時にぶつかりあい、それでも最期まで練習をやりきって、自分達はここまでやったんだ、と言う自信を身につけ、そしてチームがチームとして、確固たる団結を結んだ」
燦然学園は、それまで全くの無名校だった。
初戦敗退が当たり前の、野球好きには一瞥もされない様な。そんな中で、勝ちたいと思い続け、練習し続けるには、相当の気力が必要だ。傍から見たら、格好の笑い物にされる中で、それでも真剣に自分と向き合わなくてはならないはずだから。そんなカイさん達の努力と気力を、おれは思った。
「そうして迎えた、最後の夏の大会だった。ぼくらは一つ一つ、今までにグラウンドで費やした全ての時間を力に変えて、死に物狂いで勝ち進んで、あと一つ勝てば決勝進出と言うところまで来た。もちろんこの時点で学校創立以来の出来事だし、ひょっとしたら甲子園出場! なんて言って、学校中が注目してたよ。三回戦からは学校も夏休みに入っていたし、みんな、どこの部活も競うみたいに応援に来てくれた。ま、もちろんチア部の応援に勝るものはないけどね、はは」
カイさんは、老人がかつての思い出を語るような遠い眼で、でも嬉しそうに、満足げに、話した。
「とは言っても、準決勝だ。相手は強い。準決勝ってことは、すなわち、七回戦まで勝ち上がってきた高校だからね。そりゃそうなんだけど。ぼくらに出来ることは今に精一杯で取り組むことだけだ」
窓の光が、カイさんの端正な顔立ちを、橙色に染め上げていた。
「そうして試合は互いに譲らず、八回まで2‐2の同点だった。その裏の守りだった。ヒットとバントでワンナウトランナー二塁。そしてぼくの投げた球はキャッチャーの要求と逆の外角に甘く行ってしまった。振り切られたけど、上手い事詰まった。サード真正面のゴロ」
キノの無邪気な笑い声がどこかで聞こえた。きっと表でゴウジあたりと遊んでいるんだろう。
「サードは、当時の副主将が守っていた。これがまたね、練習の鬼みたいなやつでね、寝ても覚めてもグラブをはめているような奴だった。朝から晩まで野球にのめり込んで、パカって頭の中を開けたら、ボールがコロコロ転がっているんじゃないか? って感じで、努力で才能を補うタイプのさ。もう、一緒にいるだけで、こっちまで負けらんない! って、努力しちゃうんだ。副主将には最適だね。そう、真面目で、ちょっと頑固で、不器用な、ぼくの……小学校からの、親友だった」
そこで、ここまで流暢に喋り続けていたカイさんが、言葉を区切った。彼が手にした紅茶が、僅かに波立っていた。
「ぼくは、本当のぼくは、彼とただ、野球がしたかっただけだったんだ。周囲がどんなに騒ぎ立てたって、ぼくにとっては、一つでも勝てれば、少しでも長く、彼と野球ができる。本当に、それだけだった」
ふと眼をやった窓の外は、風が強くなってきたのか、雲がどんどんと流され、形を変えていく。
「そして、起きちゃいけないことが起きた。何でも無いゴロを、彼は弾いてしまう。彼の、公式戦初のエラーだ。ライトの方向にボールが転がる。それを見たコーチャーはランナーを走らせる。でも、ライトが懸命にカバーして、ランナーがホームを陥れるところまでは、どうにか避けた。ワンナウト、ランナー一、三塁。いわゆる大ピンチ。でも、ピッチャーに逃げ場はない。ぼくは冷静に配球を組み立てなおした。次は七番打者、バントが得意な左バッターだったから、内野陣はスクイズ警戒、万が一ヒッティングでも内角を突いて内野フライに仕留めるつもりだった」
普通は、それができない。味方のエラーで迎えたピンチ、それも様々な重圧がかかった場面で。
西陣海は、やはり伝説のエースにふさわしい人だった、とおれは思った。
「そして初球、いきなりスクイズが来た。サードが突っ込む。当然、ぼくも突っ込んだ。サードランナーはホームへ一直線。ボールはサードに転がった。絶妙なスクイズで、彼はグラブで捕球したら間に合わないと判断、素手で取ってキャッチャーに送った」
ごくり、と唾を飲む音が聞こえた。
「……送ったボールは、キャッチャーの遥か右手をかすめて行った。二度目のエラー。勝ち越しの三点目が、相手チームに入った。でも仕方ない。経過がどうであれ、いくら悔んだって時間は戻らないからね。それに、彼の守備が幾度、ぼくを助けてくれたことか。ぼくは気力を振り絞って、続くバッターを二人、三振に切って落とした。そして、最終回の攻撃に望みをつないだ。でも」
カイさんの表情は、冴えない。曇っている、とも違う。色が無い、という色だった。
「副主将の彼は、フラフラとベンチに戻る途中、まわりから『ドンマイ!』と幾ら声をかけられても、青ざめていた。でも、最終回の攻撃に備えなくてはならなかった。ぼくらはベンチ前で円陣を組んで、最後かもしれない打順に備えた。そうしてヒット、外野フライ、内野フライでぼくの打席だった。ぼくは一、二塁間を破るヒットで出塁。ツーアウトランナー一、二塁。そして、彼の打席になった」
カイさんは、自分を落ち着かせるように、ゆっくりと紅茶をすすった。
「その時の彼の顔は良く覚えている。期待と興奮と後悔と焦燥が入り混じった顔色だ。どういう色か分かるかい?」
わからない、とおれは言った。
「……真っ白、だったよ。色が、なかった。ううん、無かったのは色だけじゃない。表情が、なかった。今ならよく分かる。二つの自分のミス、その直後に打てば帳消し、打てなきゃ試合終了の打席に立たなきゃならなかった彼の心が、少しは」
……おれだったら、と思う。
おれが怪我をせず、そのまま野球を続けていて、一生記憶に残る、残らざるを得ないだろう場面に、立ちあわなくてはならない瞬間を。
「……三球、三振、だったよ。三球とも、かすりもしなかった。最後は外角のボール球を、無理やり振りにいった。いつもの彼なら、絶対にありえないフォームだった」カイさんは、首を振った。「試合、終了。ぼくらの夏は、高校野球は終わった。はずだった。でもみんなが泣いてうずくまっていたベンチで、彼はただ立っていた。立ってグラウンドを見ていた。見つめていたのとも違う。ただ、ぼうっと、見ていた」
窓から差し込んできた西日に、カイさんは眼を細めた。
「ぼくは声を掛けられなかった。彼との時間が終わる事の悔しさ、悲しさ、みんなへの申し訳なさ、自分への悔恨が大き過ぎた。ぼくの打席で決められれば、スクイズをぼくが処理できれば、そもそもそれまでの失点が無ければ、もっともっと練習して試合に臨めれば。数えきれないほどのたらればが頭の中を駆け巡ってはボロボロと涙が溢れてきた。そう、ぼくは、まだ泣けたんだ。でも彼は泣くこともできなかった」
『泣くことも、できなかった』
その言葉は、おれの心の井戸に落ち、トプンという音と共に、沈んで行った。
「そしてぼくらは引退した。その日から、彼は学校に姿を見せなくなった。そして、彼を見ることはもうなかった。彼は」
カイさんは、カイさんは、今までにおれが、一度も見たことがない様な、悲しげな顔をしていた。
「……死んで、しまった。自殺だった」
どこかで鳩の鳴き声が聞こえた。ぐるるっぽー。それは奇妙なくらい非現実な音に聞こえた。
「自宅で首を吊ったんだ。遺書が残っていた。両親と、そしてぼくに向けた言葉を遺していた。ぼくに向けては一言、『ごめん』、って」
カイさんはゆっくり、紅茶のおかわりを淹れた。自分の心を、必死で整理しているように、見えた。
「ぼくは、ぼくが、許せなかった。主将でエースで四番。稀にみる才能。学校の誇り。天才投手。みんなそう褒め立ててくれた。一度や二度の敗戦があっても、みんなはぼくを擁護してくれた。お前の右腕は素晴らしいものなんだって」
カイさんは、そこで顔を歪ませた。自分を責める、後悔の表情だった。
「……だから、なんだ? ぼくは、ぼくには、大切な友達一人、守ることができなかった」心から声を絞り出しつつ、吐き出すように、言葉を外に出した。
「ぼくは、本当に守りたいものには何もできずに、苦しめただけだ。でも、ぼくを許せなかったのは、ぼくだけじゃなかった。彼の両親だった。一人息子だったからね……そう、毎日のようにウチに来たよ。ぼくを責めに。彼が死んだのはぼくのせいだって。絶叫しながらそう訴えて、いつも最後には、泣き崩れた」
「そんな、ばかな」
どうして、散々自分を責めて、今もなお、苦しんでいるカイさんが、これ以上責められなくてはならないんだ。
「わからない。そうかも知れない、とぼくは思った。彼がいなくなってしまったことを、彼の両親も、ぼくも、受け入れられなかったんだと思う」
人の死を、受け入れる……。
「今でもよく夢に見る。彼がグラウンドを見つめる後ろ姿と、首をくくる彼の幻影と、泣き叫ぶ両親と。彼は自分の全てを賭けてきたものに裏切られ、ぼくは親友をなくした。なんでこんなことになってしまったんだろう。誰かが悪いのか? そんなことはない。みんな、精一杯やっているだけだ。でもどこかから憎しみや悲しみが入ってきた。どうしたらいい? 分からなかった。ぶつける先のない感情が心にまとわりついて、色々なことが分からなくなってしまった」
自分を落ち着かせるように、カイさんは今度は淹れた紅茶をすすった。
「そして、彷徨ううちに、ヨシヤさんと出会った。その時、いつの間にか宿っていたカゲを、引き出してもらった。ヨシヤさんは言ってたよ、『もう少しでおめぇさん、影法師になるとこだったぜぇ?って。そして、ぼくのような負の感情を持った人々を少しでも救う術と力が欲しくて、『ぺんぎんず』に入った。ぼくのような悲しみも苦しみも、ぼくだけで十分だと思ったから。それ以来、野球はやっていない。スカウトに来てくれた人達には断わった。今はごく普通の大学生だよ。カゲを持ってるだけの」
そこで紅茶を飲み干すと、カチャリ、とティーカップを置いて、言った。
「ぼくの話はこれでおしまい。長くなって、ごめんね」
「そんなこと、全然です。その、聞かせていただいて、ありがとうございます」
頭を下げる。心から。
「そう、かい? はは、そう言ってもらえると助かるよ。面倒な話、しちゃってごめんね。でも、ぼくは思う」と言って、腕をゆっくりと伸ばし、胸のあたりでこぶしを握りしめた。噛みしめるように続けた。
「一度きりの失敗なんかでは、人間、何にもダメになりはしないんだって。ぼくらは、勝ちたいから野球をしたんじゃなくって、今を一生懸命生きたかったから、野球をしてたんだって。終わったとしても、それは高校球児としてだけで、人生はなんにも終わっちゃいないんだって。たとえその時は、それが自分の全てであっても……」
そこまで言って、ゆっくり、握りしめていた拳を開いた。
「なんてことを、本当はあの時、彼に言うべきだったんだ。ただ、当時のぼくは言えなかった。未熟で、幼くて。そう、だからさ、マヒロくんへの忠告、かな。ぼくが間違っておいたからさ、君は間違ってくれるなよ、っていう。身勝手な、ね」
忠、告。
「そんな、身勝手とかじゃ」
「あはは。まぁ、いいさ……時雨くん……止められると、良いね」
「おれも、そう思います」
強く、心の、底の底から。
「うん。じゃあ、午後、また来るね」
立ち上がって出て行こうとしたカイさんは、思い出したように振り返って、「ところで、カナシーに連絡、したよね?」と聞いてきた。
え?
「いいえ。ていうか、なんで?」
「あ、昨日、君が気を失ってる間に携帯が鳴ってね。ジュンが出て、影法師と闘って怪我をした、って伝えたらすごく、心配してたから」
……そういうこと、どうして先に言わないんですか……
大慌てで椅子にかけてあったおれのズボンのポケットを漁る。
色々な事に気を取られ過ぎて、連絡の事は完全に忘れてしまっていた。
そうだ、母さんにだって目覚めてから連絡していない、って、あちゃー。
携帯電話の受信ボックスと通話履歴は真っ赤に『99+』と表示していた。
「あ、あの、その、ヨシヤさんが午前中のうちに傷を治してくれると思うけど……やれるかい、特訓?」
「……はい、やれます。なんとか。はい。やります」
窓の外では、ヒヨドリがギィーギィーと鳴いていた。
今、願い事がかなうならば、翼が欲しいね。
昆虫類っぽいのは、似合いすぎちゃうからお断りだけど。