氷と神社と敗北と。
何だか分からないけど、おれの人生に、ヘンチクなブースターが点けられている気がする。
三か月前までは、にがじょっぱいけど平凡な人生をエンジョイ、いや全然ジョイじゃなかったけど、緩やかな展開で進んでいた。
のに、最近のありさまときたらセスナで遊覧飛行を楽しんでいたら、突如ロケットエンジンに点火、マッハ15でスカイハイ、どころか空飛ぶ火の玉ガメラ。強いぞガメラ。
このままだと、人生がテーマソング付きでジ・エンドを迎えてしまいそうで怖い。
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ざわめく誕生パーティの中で、太陽の如く、けれども爽やか笑顔を振りまくシュート。
そしてその横で、おいおい夫婦かよって具合に落ち着いた淑女のムードを醸し出しているヨシカちゃんは、ある意味ではむさ苦しい会場内で浮いている。
なんというか、石材所に紛れた金剛石と白玉のような。
そしてもう一人、場違いなほど『美しい』男子生徒がいる。
……そうだ。美しいけど、残念ながら「男子」生徒だ。
黒羽時雨は氷、ナイフだ。
中二病っぽい名前がストンと腑に落ちる、恵まれた身体能力と学習能力、更には美少女かと見紛うばかりの美しい容姿。
すらりと伸びた美しい黒髪、真珠の様に透き通った白い肌、細く長い手足。スネ毛が無けりゃ女装でお金が取れる。がっぽがっぽ。
おかげで、野球部のロッカールームで時雨が着替えてるのを見かけると変な気分になった。それはおれだけじゃないと思うぞ。全人類の共通認識。たぶん。
シュートがいなければ間違いなく学年トップの成績、全身がバネのような運動神経の持ち主、自分を磨きあげる為の努力を全く厭わない精神の持ち主。しかし、人格には大いに問題あり。
……時雨は、自分にしか興味が、ない。
誰にも心を開かないし、誰の力を借りようともしない。もっとはっきり言えば、世界に対しても興味がないんじゃないか、とすら思える。
……実際、無かったのかも、しれない。
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一年前。野球部に入部したての頃、ウォーミングアップのキャッチボールで何度かペアになったことがある。帽子の下に覗く、美しい切れ長の瞳が印象的だった。
ばし。 …ぱし。 …ばしぃ。 …ぱし。
周囲のペアは芸能人の噂や、エロ小噺などの高校生らしい雑談で和やかなムードの中、おれと時雨のペアだけは、倦怠期の夫婦よろしく、会話が皆無で、お互いの捕球音だけが空しく響いて、おれはそれに耐えかねて口を開いてみた。夫婦喧嘩は犬も食わん、と言うじゃないか。
「黒羽君は、さ」ぱし。
「その、中学の頃から、エースだったんだよね?」ばしぃ。
「おれも最初はピッチャーやりたかったんだ、でも監督が」ぱし。
「あのさ」
時雨の声を、その時初めて聞いた。時雨は、受け取った硬球を返球せず、刺すような眼で俺を見ていた。が、おれはようやく話せると思うと嬉しくて、思わず駆けだしていた。
「な、なに?」
すぐ近くまで寄ろうとしかけていた俺を制し、時雨は言った。
「いいよ、君に興味、ないから」
ナイフで、一突き。
腐った桃の様なおれのメンタルは、一瞬で崩壊したのである。
その後の沈黙は、今思い出しても……痛い。
その関係は、おれが退部するまでずっと続いた。
とは言え、時雨は部内の誰に対しても万事がそんな感じで、孤高のエースの名を欲しいままにしていた。欲しいかどうかは別として。
団体競技においてすら、他人とのコミュニケーションを必要とせず、ただ一人、実力で他人を従える。そんな人間だった。
ひょっとしたら、一人で九人と闘える事を証明するためにピッチャーをやっていたんじゃないか。そんな風にすら思えた。
黒羽時雨は、そんなヤツだった。
凍てつく冬のチョモランマのように美しく、険しく、人を寄せ付けなかった。
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「それは、不味いね」
通話の向こうのカイさんの声が曇る。パーティをそっと抜け出し、影法師の反応があったことを報告した電話口。
「あの、誤報とかじゃ、ないんですか」
縋るようにおれは訊ねてみる。だってそうだ、ヨシヤさんが作ったアプリなんだ、バグとかあって当然じゃないか。
「いや。残念だけどそれは無いよ。こと、カゲの事に関しては、ヨシヤさんは間違えない。君も知ってのとおり、ヨシヤさんはタフで、知的で、変人だろ?」
激しく同意。禿同。
「その、君の友達は、影法師側についた人間、なんだよ。君には、言いにくいことだけど」
「友だち、ていうか、チームメイトですけど。野球部の時の」
「野球部……?」
「え、あ、はい」
あれ? カイさんが電話口の向こうでしばし、絶句している。雪が降る、どころか竜巻でも起きるんじゃないか?
「カイさん?」
「……あ、あぁ、ごめん。その、とりあえず、話せないかな、その友達と」
「話、ですか。かなり厳しいですけど、ほっとけないってんなら」
「ほっとけないな。うん。ぼくもそっちに行くよ。場所を教えて?」
カイさんの口調は、今回に限って変態っぷりが全く無かった。それが、事の大きさを十二分におれに伝えていた。
そして最後に一言、とても言いにくそうに言った。
「もしかしたら、戦う事になるかも、知れない。その時は、ぼくがやるからね」と、絞り出すような声で、そう言った。
……どうやらおれの人生は、半端にマニアな寒村が舞台の牧歌的な印篭を持った老人が主人公の時代劇ドラマから一転、硝煙と爆風でむせる、サングラスの刑事ドラマの様相を呈してきた。
平和でシュールで人が死なない日常系よ、さらば。
無駄に爆発するビル、パトカー、渋いぜユウジロー。
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日向秀人生誕パーティは大盛り上がりの末、楽器を持ちこんでいた軽音部による流行りのJ-POPの演奏とみんなの合唱、その輪の中心にいて、どこにあったんだかマイクを握ったシュートの、お金が取れるレベルの歌唱力披露で終わった。
「みんな、ありがとー!」そう言って手を振るシュート。
どこのアイドルだ、お前は。テニスのコスプレしてミュージカルか? 四十八人並んだ中のセンターか?
なんてことは誰も言わないのでおれは心の中で井戸を掘って叫んだ。
「ねぇ、マヒロ。今日、泊って行くでしょ?」
パーティが終わり、みんなが三々五々、解散し、ようやくサンタ服から着替えた、アイドル改めシュートは、どこか心配そうに聞いてくる。
「え、いや、あのさお前、ヨシカちゃんといろよ。おれとかじゃなくてさ」
「まーたそんなこと言ってさ。最近冷たくない? なんて」
「や、ごめん、ダメなんだ、母さんが心配してさ」
「え? お母さん? 心配って……毎年の事なのに?」
キョトンとした顔のシュート。ごめんな。おれ、平気な顔でお前に、嘘を。
「あ、ああ、そう。ちょっとさ、ごめん、お前、今日引っ張りだこで、つい言いそびれちまったんだけど、今年は家族で過ごすクリスマスって言うか。だから、ごめん」
「……そっか」シュートの表情が一瞬、翳る。
「ううん、いいよ、そんなの気に、しないで。お母さんに、よろしく」
「わりぃ。またな」
「…うん。また」
が、シュートはそこで、おれの手を摑んだ。
「マヒロ……初詣はさ、行けるよね? ね?」
『行かないで』って涙ながらに縋るヒロインみたいな眼、するなよ。
「あ、ああ。たぶん、な」
それまでに、何事もなければ。きっと。
「だから、うん、またな」そう言ってシュートの家を飛び出す。
後ろから聞こえたシュートの「またね」って声はとても悲しげで。
でも、シュートの後ろにいたヨシカちゃんは祈るように両手を重ね、心配そうだけど、でもどこか嬉しそうな顔をしていた。していたよ。
だって、こうすれば二人で過ごせる聖夜だもの。だからおれ、間違っちゃいない、だろ? そう言ってくれ。シュート。
そう思い込んで、おれは寒波の夜空の下、足取りを速めた。
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犬の吠え声だけが時々響く、夜の帳に包まれた住宅街を歩く時雨の姿は、夜空に浮かんだ半月の光を浴び、反則的に美しかった。
ツートンピースのカッチリした上下に身を包み、ポイントにチェーンのアクセサリーをぶら下げる姿はB系っぽいのだが、時雨が着るとシックに映える。何を着てもポンチ絵にしか見えないおれとの……厳然たる差。
― 世界には目に見えない格差が存在しているのです ―
そんなキャッチコピーをつけたい。無性に。
野球部御用達の量産型ボーズヘッドじゃなくて、サラサラとロングヘアをなびかせている美しすぎる少年、こいつが女性じゃないってのは、世界の理が間違っている。
なんて言ってるとおれがイケない道に進んでしまいそうだ。虹の彼方へ。
何とか先回りに成功して、こちら側にゆったり歩いてくる時雨を、道路の真正面から捉えたが、時雨の視線は宙空、全くおれに向けられていない。そのままの速度でゆっくりと歩いてくる。
えええ? かつてのチームメイト、いやおれ補欠だったけど、それが目の前数メートルにいるのに完全無視って、あの、おれ、見えてますよね? まさかおれ……忘れられてる? ジーザス。仕方なく話しかけてみる。
「久しぶり、時雨」
無反応。時雨が歩く度にチェーンが擦れて鳴る音だけが奇妙に響く。
「あれ? はは、おれだよ。暗くて見えないか? ほら、野球部にいた、新月。真大だよ。なぁ」そう、ぎこちなく、声をかけた瞬間。
……真横を、通り過ぎた。
見事なスルースキルに、乾杯。
ひゅるる、北風が冷たい。
「ちょ」
早足で回り込み、再度正面から顔を合わせる。
「待ってよ。少し、話って言うか、あるんだ」
「僕は無いけど」
うわぁ。相変わらずの巨峰ぶり。バナナで釘が打てるんです、って温度の声ですね。時雨はそのままの速度と表情で、黙々と歩き続ける。
「や、その、ええと」
慌てて、並んで付いていく。
あれ? 何を話せばいいんだっけ?
って、カゲのことだろうが。時雨のあまりにも何事もなさに、思わず忘れかけてしまう。でもなんて切り出せばいいんだ?
「その、今日、良く来たよな。時雨がこういうの顔出すとか、ちょっとした奇跡っていうか」
「来たくて、来たわけじゃない」
温度も、感情も無い、聞いてるだけで心が凍りそうな、声。
「あ、そう、なのか。じゃあ、なんで?」
そこで時雨の歩みが止まった。
「新月」ゆらり、と話す時雨の表情は、シュッとした目鼻立ちと薄い唇、つるりとした顎。時雨の佇まいは月明かりを浴びてゾッとするくらい美しい。男に美しいとか言わせないでほしい。おれの進む道が曲がってしまいそうなので。
「君に、警告するためだよ」
「け、っけけけい、警告?」
ノリノリなDJのスクラッチみたいな声をあげてしまった。
意味不明の言葉と、時雨から感じられる、何か鋭い重圧に、圧倒された。
「新月。君はカゲ使い、だろう」
「魔法使いじゃあないけどね」
「しかもカゲになり切ったわけでもなく」
わーお、少しは面白いこと言ったつもりだったんだけど。あっさりシカト。ていうか、なんで知ってるんだ、おれがカゲを使うって事を?
「中途半端に、人間の側に付こうとしてる。相変わらず愚かなピエロ。そう、全くをもって愚かだ」
ぴ、ぴえろ? おれ、ジャン・リュック・ゴダールの映画に出れます?
「チームメイトだったよしみで、言っておいてあげるよ。新月。僕の邪魔をするな。僕が何をしようと、無関心、無干渉でいろ」
おれには、時雨の言っている言葉がまるで呑み込めない。
木偶の坊の様に、ただ立ち尽くし、ようやく小学生並の疑問を口にした。
「邪魔って、お前、何するんだ?」
時雨は肩をすくめた。何を言っているんだ、という代わりのように。
「やれやれ。聞かれれば僕が答えるとでも思っているのか? まぁ良いさ。ふふふ、そうだね。例えば……」眼を細めて、僅かに考えた後、口だけを歪めた、奇妙な笑顔を作った。「ふふ、心に絶望を与えて、カゲの世界に引きずりこんでみようか。今日、ぼくを熱っぽい目で見ていた女の子とかを?」
親指を立て、す、と首筋を切る動作をした。極々、当たり前のように。
それで、確信した。時雨はそういう事を、何度もやった事のあるのだと。コイツの頭脳と、カゲの力、どんなのか分からないけど、たぶんそれは、時雨にとって赤子の手を捻るように容易かったのだろう。そして。
時雨は、冷静だ。
冷静に、狂っている。コイツにとって、これが正常なのだと。そう感じた瞬間、身の毛がよだったのを感じた。
時雨は、止まらない。自分を正常だと思っている人間が、止まる理由が無い。躊躇いも遠慮もなく、今、口にした言葉を実行するだろう。自分が思いついたという理由だけで。
「結構楽しいんだ、可愛い子がカゲに落ちて行く様って」時雨は再び歩き出した。「邪魔、するなら」呟きながら、 おれの横を通り過ぎる。耳元で囁いた。
「殺すよ?」
……時雨の肩を摑んだ。
振りほどこうとした手も摑み、強引にこちらを向かせる。
ったく。どうしてこう。指に力が入る。
お前らは、すぐに生死の問題にすんだよ。
「それ、人を殺すことがフツーに聞こえるんだけど」
「そう聞こえたんなら、そう言うことだよ」
「なら、ほっとく理由がない」
ポケットからカゲを取り出す。こいつは、ここで止めなきゃ。
「やれやれ。自分と相手の実力差も理解できない? 相変わらず無能だね。日向の腰巾着」
時雨の身体から、黒い瘴気が上がる。背後の暗黒の渦から、早くもパイプオルガンの音色が聞こえる。
……まずい。この重圧……コイツ、強い。
「警告は、したよ?」
カゲの世界に呑みこまれる。だが。
「変身」そう呟いて、カゲを解放する。
……かーっ、一回言ってみたかった。これ。
BGMにはアップテンポのオープニングテーマがかかるような場面で。
そして、白黒の渦の中で自分の身体が変わって行くのを感じていた。
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静かな住宅街のカゲの世界には、ほとんど灯りの無い、一面墨を流した漆黒の世界だった。
ところどころの街灯が現実離れしたフワフワとした不可思議な光を放ち、かまぼこ型の月がぼんやりと怪しく光っている。
― シュフー。
カゲを纏ったおれの身体からは不気味な音が上がっている。
― シュフー。
ツンドラに棲む狼が吐く、吐息のような。
― シュフルルル。
……身体が重苦しい。そういや、修行を終えないうちはカゲを使うな、って言われてたっけ。俺のカゲは、まだ慣れてない、『黄昏』だからって。
それでも。あいつは、止めなきゃ。
― どこだ、時雨。
「ふぅん。ヒト型のカゲか。褥の言ったとおりだ」
背後、か! 声の方を振り返る。
― てってー。てれれれれ、てってー。
パイプオルガンの音が厳かに鳴り響く。カゲの、楽団だ。
腕組みをした時雨が、電信柱の上にすっ、と立っていた。
闇夜に浮かぶ細身のシルエットの背後に、強大なカゲが広がって行く。
「その力、感情の力を、自分以外の為に使いたいとか。まったくさ、呆れるほどに愚かだね」愉快そうに話しながら、腕を振るう。カゲが放つカーニバル調の音楽と合わさって、まるで指揮者のようだ。そう感じた瞬間。
― ザウッ!
なんだ? 何かが膝に刺さった。引き抜く。黒い、羽根?
「まぁ良いよ。誰かの為に戦って死ぬのが美徳だとか思い込んでるうちに、死ね」そう言うと、おれの方にまっすぐ長い腕を伸ばした。
― ザ!
ぐっ。まただ。ダーツの矢の様に、黒い羽根を飛ばしてくる。
しかし。構うな。致命傷じゃない。距離を詰める。一気に跳躍。電柱に。時雨が上空に飛ぶ。
え……飛ぶ?
宙を、飛んでいる。時雨。背中に翅。堕天使?
じゃなくて!
四方から、そして死角から一斉に攻撃が来る。ザザザザ!
「がぁぁっ!」呻きながら、己の身を庇うように、宙に蹴りを放つ。風圧で羽根を掃う。しかし数本が払い切れず刺さる。くそ。
“マヒロくん、今の君に影法師と一人で闘う力はない。君はまだ蛹と同じだ。君のカゲは強い半面扱いが難しいから、まだカゲの特殊能力を使える段階じゃない。身体能力を強化するので手いっぱいだ。だから勝ち目はない。もし一人の時に襲撃されたら”
カイさんの言葉が、頭に反響する。
“逃げるんだ。それか防御に徹して。ぼくが行くまで。君のカゲを強いから、纏えば、そうそう致命傷は喰らわないから”
うん、 たぶん、それが賢明。
……でも、カイさんすみません、おれ、馬鹿なんです。おれは、自分の周りで誰かが歪んで行くのに、耐えられない。
……加賀美さんを、守りたい。
足りない頭を、ここで使わにゃいつ使う、と必死に働かせる。
あいつには飛翔能力と、遠距離から羽根を飛ばす攻撃。
恐らくは鳥類のカゲ。憑依させて空を飛び、四方から針の様な羽根を飛ばして、相手を射抜く。
……が、こっちには近接格闘しか選択肢はない。
― なら、さ!
ジャ! 駆ける。ジャジャジャジャ! 夜の帳を切り裂くように。
時雨の笑い声が聞こえる。
ザ、ザザ! 背中に羽根が刺さる。鋭い痛み。だが構うな。
強化された身体で、恐ろしい速度で路地を駆け抜け、社を目指す。
町内の神社を目指す。小高い丘の上の八幡神社を。
クリスマスに神社って、たぶん誰もいないよな。いたとしたら相当なスカベンジャー。あ、おれっぽいね。はは。
そして、見えてくる。朱を失った、白い鳥居。駆け抜け、くぐる。石畳の小路に出る。長く、丘の頂上まで続く階段を駆けあがる。境内に辿り着く。左右に狛犬。お社の元で止まる。軒に吊るされた鈴。灯篭の灯りが、ぼうっと闇夜に霞んでいる。周囲の森は深い。賽銭箱の前に立つ。後ろは拝殿。
さぁ、来いよ。ここなら羽根を使った四方からの攻撃は、不可能だろ。
バサ、バサバサバサ! 上空で羽ばたく音が聞こえる。
境内は高台で、立った位置からは社の先、木立の向こうにちらちらと街の灯りが見える。幾十、幾百の。墨を流した常闇に白い斑が映えている。
しかし、神社に羽ばたく人って。さながら天狗だな。バサ、バサ……。
静寂が、カゲの世界を包む。
意識を研ぎ澄ませる。一本の刀の様に。
無音。
― 来る! が、力加減など慣れないカゲの身体、おれの反応が遅れる。
― ド!
がっ。上空から蹴撃。転ぶ。倒れる。急いで起き上がる。
― ズギャ!
今度は蹴り上げられ、吹き飛ぶ。宙に浮く。身体が。見逃されない。追撃される。
だけど。
予想、通り。
― ガギィ!
蹴って来た脚をガードして、摑む。はは。羽根が使えないなら接近せざるを得ない。
しかし森の中なら翼は邪魔になる。ならやってくるのは、速さを活かしたヒットアンドアウェイ。でも、そこは。
おれの、距離だ!
『ォオオオオ!』
咆哮する、おれでないおれ。
摑んだまま降下。叩きつける。轟音。左右の連打。連打。連打。地面が抉れる。ぱりん。割れる手応え。
……割れ、る?
時雨の形をしていた影が、粉々に砕け散った。
罠? しまっ……
― ゴッ。
……た。視界がぶれ、弾け飛ぶ身体。着地。できない。倒れる。
空から笑い声。勝利を確信した、甲高い。
「ははははは! 影分身、知らないのか?」
身体に力が入らない。止まない、時雨の高笑い。
「知るわけないよな。生まれたばかりの雑魚カゲ使いが。ははは。今の、後頭部を直撃したからね。しばらく立てないよ。はははは!」
今までに聞いたことのない、愉快そうで、楽しくて仕方ないという感じの、時雨の笑い声。
「真正面から殴り合うことしか知らないなんて。テンテンやメロと同じだよ。脳味噌筋肉バカが」
身体を起こそうと四つん這いでやっきになる。ゆっくりと時雨が近付いてくる。
……がっ。頭を踏みつけられた。
強かに地面に打ち付けられる。鼻が熱い。折れたか、こりゃ。境内の石畳に、血が滲む。
「低能で野蛮。救いがないな」
お腹を蹴り上げられる。そのまま背中に肘打ち。鈍い痛み。
「そうか。日向が何で君なんかと一緒にいるのか、分かったよ」
フラついたところに、今度は顎を蹴り上げられる。眼の前に閃光が走る。
「君ってさ、惨めで能なしで短気で。一緒にいると自分が引き立てられる気分に浸れるから、さ」
「ぢがごぼっ……!」
言葉を出そうとしたが痛みで言葉にならず、咳き込んでしまう。
違う。シュートはそんなんじゃない。くそ。
それを見た時雨は、おれの髪を摑むと、満面の笑みで、頬を殴り始めた。ぱん。
「そう言えば、日向も情けないな」
ぱん。
「あてにもならない自分以外の人間にすがって生きているようなもんだから」
ぱん。ぱん。
「君程度に頼るってことは、ま、勉強ができるだけの馬鹿でしかない、か」
今度は鳩尾を殴られる。首が倒れる。
時雨。お前は間違っている。そう言いたい。叫びたい。でも声が出せない。だけど、身体は限界で。くそ。限、界?
……気合ぃ!
「そんな、風に、決めつけて、悲しくないのかよ」
なけなしの気合を振り絞り、声を出す。むせる。
「一人だからできること、あれば、一人じゃできないこと、あるだろ」
だが、時雨はせせら笑う。
「おいおい。一人でできないことを望むなよ。低能なんだから、さ」
時雨は、距離を測る様にゆっくり後ずさると、おれの頭に強烈な回し蹴りを入れた。
……トドメ、だった。
おれは崩れ落ちる。
もう、立てない。どころか、動けない。
「まったく。自分すら守れないくせに、他人の心配とか。愚かを超えて異常だよ」
時雨の声には、微かな同情すら、混じっているように聞こえた。
……ここまで、かよ…?!
「おかしいかい? でもマヒロくんは間違ってない」
「誰、かな……?」
この声は。
「人は一人で生きていけないって、知ってるんだよ。普通はね」
朦朧とした意識の中、境内をゆっくりと歩いてくるカイさんの姿が、ぼんやり見える。
「……新月の仲間、か。ああ、前にも戦った?」
憎しみに彩られた、時雨の声が聞こえる。
「たぶんね。白虎」声と共に、カイさんの身体が一回り、大きくなる。
脚が獣のように曲線を描き、両腕が図太くなり、巨大な手甲とそこから伸びる五本の爪。
白虎の、憑依。二本足で立つ、虎。
「マヒロくんは、返してもらうよ」
……虎が、牙を剥いた。
跳躍があった。
潰される間合いがあった。
弾かれる両者。
翼と爪が混じり合って火花を上げた。
風圧を感じた。
刹那。
カイさんはおれを拾い上げ駆けだした。
「逃げるよ、マヒロくん」
白い虎は、ほとんど飛ぶように地面を駆ける。木立をくぐり夜の街へとあっという間に駈け下りる。速い。
ああ、助かった、と安心したが最後、おれの意識は、暗黒の井戸の中に落ちて行った。