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飛べない鳥の唄  作者: ぴーくおっど
3/30

廃墟と美少女とカゲと。

 妖しげサングラスに連れてこられた「喫茶ぺんぎん堂」は「喫茶」と名前についていなければ、現代のアヘン窟か、動く城か、裏賭博の雀荘にしか、見えなかった。

 控え目に表現して……廃墟だ。なんとなく、モダンアートと言えなくもない。

 商店街の表通りから裏道に入り、幾筋も道を曲がった先の、更に抜け道のような道を進んだ先に隠された、都会の秘境だよ、こりゃ。今どき木造モルタルて。木彫りの看板に、墨で「ぺんぎん堂」て。

 建物そのものは、築何十年、という具合だけど、何度も建て増ししたのか、元々の家屋に、ペンキの禿げ具合や、トタンの錆具合が異なる小部屋が、いくつもいくつも付けられている。大きなキノコに、小さなキノコがたくさん生えているような。ハリネズミ、と言うかフルアーマー廃墟。

 二階のベランダには、何日干しっぱなしでいるんだ? というヨレヨレの洗濯ものがぶら下がっているし、入口の右横には、高さ百八十センチくらいの巨大な象の置物。

 ……象?

 オイ、「ぺんぎん」っつったろ。ていうか、どうやって持ってきたんだ、これ。さっきまでおれがいた、戦争資料集の如き白黒の世界も、見ていてクラクラしたが、この総天然色の「ぺんぎん堂」もまた、クラッとくる。

 ある意味、ロックだ。

 曇りガラスがはめ込まれた、重たく分厚い木製の扉を開けて中に入ると、うお、おばあちゃん家の押入れの奥で嗅いだ臭い! プルースト効果で、幼少時の記憶が頭に浮かぶ……。という感じの臭いが、鼻をつく。

 内装は仮にも喫茶店らしく、ティーセットやコーヒーミルが並んだ棚がカウンター奥にあり、カウンターには設置式の椅子が七脚並び、その手前には長方形のテーブルが四つ設置され、椅子が四組、八席。しかし、うち二席だけ、何故かロココ調の椅子で全体を見ると、とても珍妙だ。

 壁には、バタ臭い顔のおねぇちゃんが水着で浜辺に立ち、グラスを持っている古いビールの広告ポスターがたくさん貼られて、件のロココ調と合わせ技一本! で、店内を魔空間にしている。ここ、怪人とかが入ると、強くなる空間じゃないのか。宇宙のメタリックな刑事が、いるんじゃないのか。


 ……ん? ちょっと待て。あの人「休業中」とかの札をかけずに、店を空っぽにして、おれたちのところに来たのか? 何を考えて商売をしているのか、わからん。とか思っているうちに、カナシーがおれにカウンターに座るように勧めたので、すと、と腰を下ろす。以外にも、椅子の座り心地は良い。なんか悔しい。

 エプロン男がカウンター奥の扉を開け、中に入ろうとすると、小学生くらいの女の子が、逆に扉の向こうから飛び出てきて、男の腰に飛びついた。


「おかえりヨシヤぁ! おそいよ! キノ、もうすっごくすっごくさびしかった!」

 男にロリコン疑惑浮上。

「おぅ、ただいま、キノ。悪かったなぁ。でもちゃあんと待ってて、偉かったぞぉ」

 ありゃ、善人の顔して、頭撫でてるんですけど。

「えへへ! ほんと? キノえらい?」


 な、なんと、女の子は金髪碧眼の美少女だ。

 一瞬、二次元の世界から飛び出て来たかと見紛うた。ロリータ、ていうか本物の子どもだ。声の幼さと、俺の腰くらいまでしかない身長は、どう見ても小学校低学年。

 日本語を話しているが、どこからどう見ても外国の方。グアムとか、南の海の青さを思わせるつぶらな瞳が、くりくりと動く。腰まであるふわりとした金髪は、彼女が元気よくぶんぶん動くたびに、ふるふると揺れる。首回りと手首がフリルになったワイシャツを、第一ボタンまで留め、水色のワンピースを重ね着している。あ、スカートの裾もフリルだ。


「あぁ、偉い偉い。キノは偉いぞぉ、すンごくなぁ。でなぁ、キノ、今日はお客さんが来たんだぁ」

「えっ! ほんとだ! カナシーのおともだち? はじめまして! キノだよ! わたし、エスト・キノ!」そう叫んでぺこん、と頭を下げた。「えっへん! レディのごあいさつだよ!」

「あ、うん、はじめまして。キノちゃん。おれ、シンゲツマヒロっていうんだ」

「シンゲツ・マヒロ? あはは、マヒロ? あはははは!」


 え、今、笑う要素ありました? 愉快そうに笑ったキノはカウンターを出て、おれの方に駆けてきた。え、そんなテンション上がるの?


「ねぇマヒロ!」青いつぶらな瞳が、歓喜の色に満ちている。「はじめましてのおゆうぎ、なににする?」

「はい?」

「ぶぶぅー。こたえはね、かくれんぼ! マヒロがおにだよ!」

 なにそれぇ?! 凄いぞ。行動と言動がいちいち分からないぞ。

 ……あ、デジャヴ。シュートは初めて会った時、こんな感じだったな。

 いきなり「おれピッチャー! きみ、キャッチャーとバッター、どっちがいい?」そんなこと、言ってたっけ。


「あのね…キノ…彼、怪我をしているの…ヨシヤに治してもらわないと…」

「えぇ? そうなのぉ? ヨシヤ、そうなの?」


 お、おむずかりですか。頬っぺた、ぷくぅって。あの、おれ、手から血が出てるんですけど。いや、おれ自身、もう忘れちゃうほど平気なんだけど、見た目はアウトですよねコレ。服もかなり、赤黒く染まってきちゃってるし。


「悪いなぁ、そうなんだよ。でもな、キノは偉い子だろ? 今日はカナシーでがまんできる、よなぁ?」

「…え、ヨシヤ、それは…」

「んー、いいよ! キノがまんする! えらいこだもん!」 

「…しょうがないわね…キノ…お外に行きましょう…邪魔になるといけないから…マヒロくん、きっと…きっと大丈夫だから、あとでね…」


 そういうと、カナシーは立ちあがり、キノちゃんの手を取って、おれに心配そうな視線を送りつつ、外へ出て行った。


「またねマヒロ! おにごっこはこんど、してあげるね!」

 ばいばい、と手を振るおれ。いや、両腕とも血で真っ赤なんですけどね。


「はは、あのコンビってぇ、なかなかレアだなぁ。今日は、珍しくジュンもゴウジもカイも、いねぇからなぁ。さて、ぼぉず」エプロンが、おれに向き直る。

「あの、おれ、新月真大って言います。もう坊主って年じゃないし」

「ん? おぅ、そうだったなぼぉず。おれは、桐島義哉。マスターでも、ヨシヤ殿でも、ミスターでも、ハンサムさんでも、好きに呼んでくれちゃってかまわねぇぞ?」

「じゃあヨシヤさんで。あとおれは、マヒロって呼んでもらえますか? ぼうず、って、なんかあれなんで」

「なんだよぉ、つれないねぇ。まぁいいやぁ、ほれ、ぼぉず、両腕、カウンターに出した、出した」


 言ったそばから、ぼうずと来たよ。この人、人の話を聞いてないのか、聞く気がないのか。間違いなく後者だ。反論は、時間の無駄になるな。とりあえず、言われたとおりにこげ茶色の木製カウンターの上に、手を置く。腕の血は止まっているが、よく見ると、傷口に黒い何かが、ふよふよと動いている。


「こりゃ、単なる影縫いだからなぁ。安心安心。お前さんならすぐに取れるからなぁ」


 ヨシヤさんは、カウンターの下から何やら、和紙で彩られたトイレットペーパーの芯を長くしたような筒を、取りだした。


「あの、それ、なんですか?」

「こりゃ、蓮華万華鏡ってなぁ。よわっちょいカゲなら、こいつで写し取ってな、消しちまえるのよ」

 ウソくせー。ていうか、何言ってんの? ところが、両手で持った筒をおれの腕の上にかざして、くるくると回すと、

「あ、あ、あ?」と、おれが間抜けな声を上げている間に。

 傷口で蠢いていた黒い影が、するすると筒の中に吸い込まれ、なんと、こびりついていた血も、見る間に吸い込まれていく。

「ま、マジですか、これ」

 服の汚れまでもなくなり、両腕とも綺麗さっぱり、傷なんて、もともと無かったみたいになってしまった。どんなマジックだ。引田ナニ功だ。


「はは、ちちんぷいぷい、ってなぁ。どうよ。見直したかぁ? おれを尊敬したかぁ?」

「それはないですけど。ありがとうございます。傷どころか、汚れも消えるなんて思ってもなかったから」

「はは、はぁっきり言うなぁ。若いぞぉぼぉず。ま、傷じゃなくてカゲ縫い、血じゃなかった、って話だからなぁ」

「影縫い、って、なんですか? いや、て言うかそもそもおれを襲ったやつとか、おれがいた場所、それに、カナシーのアレは……あ、いや、すみません」

  聞きすぎてるな、おれ。でも、それだけ分からないことだらけだ。今日一日は、色々とおかしなことが起こりすぎだ。


「ふぅむ……」

 ヨシヤさんは黙ると、サングラスを外した。あ、存外、イケメン。

「なぁ、知りたいか? ぼうず」

 初めて見た素顔、陽に照らされたその顔は、意外に若く見える。いや若い。無精ヒゲのせいで、おっさんに見えていたけど、たぶん二十代後半だ。

「世の中ってなぁ、信じらんねぇこと、ばっかだぜぇ」口元が、どこか寂しげに見えた。


「それ、でも、教えて欲しい、です。はっきり言って、おれが今日みたモノ、体験したこと、もう全然信じらんないです。たぶん誰に言っても頭がおかしいって思われます。おれだってそう思う。誰に言われても」


 いや、シュートに言われたら、わからないけど。

 ヨシヤさんは、おれをじっと見ている。何かを計るように。なんだろう。ヨシヤさんには、さっき会ったばかりなのに、なんでも見透かされてるような。胡散臭さを感じるのに、なんでも言えてしまうような、そんな安心感がある。どこか、シュートに近いものを感じる。


「そうだなぁ。信じられんよなぁ。どうする? おれの言うことが同じくらい、信じらんなかったら」 

「そう、ですね。でも、ヨシヤさんって、あまりウソはつかないように見えます」

「ん? そうかぁ、はは、さんきゅ」

「それに、ついさっき、目の前で変なバケモノが変なカーニバルとかやっちゃってるんで、今さら信じる信じないとか、ないです、おれ」

 おまけに、黒い影を操る女の子と、わけのわからん傷と、それを消しちゃうオッサンと。

「ぬはは、そりゃそうだわなぁ。うん。お前さんには、もう知る権利と、義務があるしな。よし。すこぉし長い話になる。コーヒー、飲むか?」

「あ、ありがとうございます。すいません、いただきます」


 サイフォンに入っていたコーヒーに、ミルクを入れて出してもらった。温かい。出されたカップは、磨きぬかれた白で、表面に、手をつないだ二羽のペンギンが、彫って刻まれている。アヘン窟の魔空間だけど、カップの趣味は、悪くない。コーヒーをすする。

 ……ぶふぉっ。吹きこぼした。なんだこれ!


「おう、どした? ほれ、ナプキン。大丈夫か? ははぁ、美味すぎて驚いたかぁ。しかたねぇなぁ。おれが淹れた特別こだわりキリシマンジャロスペシャルだからなぁ」 


 ……にがじょっぱいんですけど。

 え、なんだこれ。どうしたら、コーヒーがこんな味になるんだ? 不味いを通り越して……滑稽だ。

 しかし、目の前のヨシヤさんは、何とも自慢げなアルカイックスマイルだ。なにをフンフン頷いてんすか。ダメだ、この空気で、泥みたいな味だとはとても……言えない。


 ミルクと砂糖を、嫌というほど入れても新聞紙を煮しめたような味のコーヒーを何とかやりすごすと、ヨシヤさんはおれをカウンターの奥へと、案内した。黙って行こうとしたので、その前に「休業中」の札を下ろさせた。商売っ気、無さ過ぎでしょ。どこまでゆるふわで行く、浮き草稼業なんだ。人生は、波間に消えるウインドサーフィンじゃないんだ。


 ていうか、おれも大切なことを忘れてた。シュートに、連絡だ。おれのスマートフォンは壊れてしまったので、お店の電話を借りる。使え、と言われたのはカウンターに備え付きの、ダイヤル式黒電話。今どきこんなのって。ここって喫茶店より、博物館にするべき……じゃないのか。

 ジコーッジコーッジコーッ。ツルルルル。ツルルルル。出ない。

 仕方なしに留守電を残す。おれは大丈夫だ、ちゃんと戻ってきたよ。安心してくれ。ただちょっと携帯が壊れた、あとでまた連絡する、カナシーも無事だ、心配するな。がちゃん。

 涙ぐみながら、おれ達を探して町を走りまわるシュートが、目に浮かんだ。おれは大丈夫だ。だからお前は、おれなんかに構いすぎ、なんだ。


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 案内されたカウンターの奥は、長い廊下が幾重にも折れ曲がって続いており、そのうちの一つを曲がると、階段があり、そこを上った突き当りの洋室に通された。

 部屋は、窓に面した一面を除いて、壁という壁が、天井までの高さの本棚で埋め尽くされており、窓際には地球儀の置かれた、オーク材っぽいデスクがあった。恐らく書斎だろう。本棚の一角には、埃まみれのトロフィや、額縁に入った賞状が乱雑に押し込められている。デスクの対面に置かれたアンティークな椅子を勧められたので、腰を下ろす。窓が南向きで、陽が入って結構眩しい。


「さて。どうすべぇかなぁ。こんなんでいいかなっと……」

 ぶつぶつと言いながらヨシヤさんは、本棚から一冊の、大きな図鑑のようなものを取り出し、ページを開いておれに見せた。

「これ、何だかわかるかぁ、ぼぉず?」

 そこには、大小さまざまな、太陽を背にした人の写真が、載っていた。

「写真。じゃないですよね。逆光?」

「んー、おしいなぁ。じゃぁ、これは?」

 今度は、机の引き出しから取り出した、一枚の写真を見せられた。これも逆光の人影。あれ?


「この人たち……背後に、影が、ない?」

「お、ジーニアス。さっきお前さんを襲ったやつは、何に見えたぁ?」

「影、に、見えました……」

 陳腐だけど、それ以外に表現しようが、ない。おれは、思わず足元に映ったおれ自身の影を見る。

「それ、コラ画像の写真ですか?」

「おぉう、現代っ子の発想だなぁ。ま、だいたいのヤツはそう思うわなぁ。で、実際こんな写真はだいたいトリックだわな。昔はなぁ、心霊写真なぁンて言われてよぉ、結構流行ったりもしたんだけどな。写メが主流になって、すっかり消えちまったなぁ。あぁ、心霊写真って。懐かしいわぁ」

「あの、すみません、おれには話、見えてこないんですけど」

「おぅっと、わりわり。あのな、この写真に写ってんの、人じゃねえって話だ」

「?! ど、う、いう、こと、ですか?」

 人、じゃ、ない? 影のない人? 幽霊?

「世の中には信じらんねぇことが多いっつったろ? そいつは人じゃねぇ。カゲだ。あ、カゲってカタカナな」

「カ、ゲ……?」口にすると短い。ていうかマンマの名前だ。

「んだ。それの一部が猫に憑いたカゲを操ってお前さんを襲った、ってわけだ。さっきのケガは、カゲ特有のもんだ。お、カゲのケガ……? こ、これは」

 「いや、あの」

 わけのわからん話の合間に、つまらんダジャレなぞ聞けるか。

「えと、危なくないですか、さっきみたいなやつなんて」

「いや、まぁ、なんつうかなぁ。例えば『影を落とす』とか『人生に陰りが見える』なぁんて言葉、あんだろぉ? あれ、なんでだと思う? 世の中は光と影でできてるじゃねぇか。なぁんで影は悪い、光は良い、みたいになってんだって思ったこたぁ、ねぇか?」


 光と影。太陽と月。

 シュートとおれ。

 リンクが重なり、少し息が浅くなる。


「……影が悪い、ってわけじゃ、無い、と思いますけど」 

「おぅよ、その通りだわ。悪くねぇ。片っぽが無いのが、まじぃ。片っぽがつぇえのとか、な。普通はな、カゲができても人なんか襲わねぇよ」

「え、じゃあさっきのは」

 おれ、ザックリ斬られましたけど。

「ん、人に操られてたなぁ、ありゃ」

「操るって、あんなのを、ですか?」

「そ。そいつらを影法師、って、おれたちは呼んでる」

「影、法、師ぃ?」

 なんとなく、不吉な響き方をした。ていうか、そのダサいネーミングは誰が。


「カゲってのは、生き物の感情を丸裸にしたよぉなもんだ。執着だとか欲望だとかが強すぎると、生き物の持つ影が独自に命をもって、動き出す。そんでやがてはカゲになっちまうんだ」

「え、えと、それじゃ、ええと、さっきのあいつみたいな、あんな危険なのが、世界中にいるってことになるんですか?」

 欲望が強い人間なんて、この世に数えきれないぞ、きっと。

「いやいやぁ。心配すんな。もともと、生き物のカゲは誰にでもある。ほれ、お前さんの足元にも、な。でも悪さなんかしやしないし、んな力もない。ま、中にはな、ほっといても力を持つカゲもあるがなぁ、それだってな、自分から悪さなんかしやしねぇ。できねぇんだ。そこまでの力がなくてなぁ。そんな力を持った、天然のカゲはごく稀だ。ドッペルゲンガー、って言われたりするヤツだな」 


 表で遊んでいるらしい、キノちゃんの笑い声が、おれの耳に入って来る。そんな楽しげな声が聞こえても尚、不吉な予感が消せず、背筋がざわめいてくる。


「いいか、ぼうず。お前さんがさっきいた、色のない白黒の世界、あれが影の世界だ。本来、触れないし入れない、そもそも触っちゃいけない世界だ。普通のヤツは当然、見えないし入れない」


 ヨシヤさんは、ページがボロボロになった書物を開いた。タヌキが巨大な影を見せて、人を化かす絵が描いてある。江戸時代みたいな絵だ。


「こんな具合にな、おそらくカゲは昔からいた。妖怪の一種はカゲだったんじゃねェかって俺は思ってる。でもなぁ、最近になってだがな、影法師みたいな、カゲの存在を知って、新しい世界だー、なんつってはしゃいで、そこを支配したりな、利用したりしようとしている、悪ぅい人間が現れた、ってことよ。世の中はなぁ、広いからなぁ。そんな風によぉ、世界を欲しがるヤツらからみたら、他人の命なんざぁ、どおでもいいのさぁ」


 にがじょっぱいけれど、平凡だったおれの人生は、俄かにグラグラと揺れ始めた。

 しかし、とにかく言われたことを、何とか受け入れようとした。理解しろ、おれ。ヒゲのおっさんが赤いキノコを食べて大きくなったり、緑のキノコを食べて増えたりする世界も、どっかにはあるんだ。

「……ええと、さっきのみたいなカゲは、昔からいた。それ自体に害はない。でも最近になって、その悪い影法師たちが、人為的にカゲの世界を支配しようと、それこそ影で、暗躍しだした。で、おれはそれに、襲われた……そんなとこで、いいですか?」

「おうよ。ご名答だ。賞品を出したいくらいのぉ、答えだ。お前さんは、要とのデート中、影法師が操る猫のカゲに襲われた、って寸法だ。ドゥーユー、アンダスタン?」

「でも、なんで、おれを? 操ったっていうなら、おれを襲う理由が、あったんですか? なんで、おれを?」

 

 ヨシヤさんは、そこで一瞬口を閉じ、窓辺に目をやった。


「お前さんの持ってるカゲが、物凄ぉく強い、からだよ」

「おれ、の?」

 思わず、息が止まった。

「カ、ゲ?」

 頭には、さっき襲われた時、頭に聞こえた声が響いた。


― オレヲ、解放、シロ ―

 地の底から響く様な声……あれが、カゲ……?


「そうだ。カナシーを見たろ? カゲってぇのは、力にもなるからなぁ、正しく使うことだってよ、できんだわ。もしな、お前さんのカゲを正しく引き出してやりゃあな、とんでもねぇぇ力が、得られる」


 さっきのカナシーが、頭に浮かんでくる。不思議な力を使って、颯爽と敵を倒した、あれはなんていうか。

 ちょっと、カッコいいんじゃないか……?


「さっきも言ったが、カゲってのは感情の産物だ。お前さんの抱え込んだ感情、カゲはとっくべつに濃く、深く、暗い。物凄く不安定で、強い。だからこそ、使いこなせるようになりゃ、そんじょそこらの影法師なんざ、ちょちょいっと倒せるわなぁ」

「おれに、そんなことが? あれを、おれが倒せる?」

 そう口走った時、俄かにヨシヤさんの顔が曇った。

「ん? あ、しまったね、こりゃ。口が過ぎてら。違う、違う違う違う、待て待て、カゲってのは不安定なんだわ。そんな簡単に、ホイホイできることじゃねえのよ。そういうのは、要たち『ぺんぎんず』に任しとけぇ」

「『ぺんぎんず』? あの、そうだ、カナシーは」


 ガチャ。洋室のドアが、いきなり開いた。見ると、カナシーが蒼白な顔でこっちを睨んでいる。


「ヨシヤ…余計なことを…どうして…」

「カナシー? どうしたの、そんな顔して。余計?」

 ヨシヤさんに詰め寄るカナシーの目は、真剣そのものだ。

「わりい。どぉもくだらねぇこと言っちまった、か?」

「そうよ…マヒロくんのカゲは、強い、だから…だからこそ、来ちゃ、ダメ…」

「まぁ、そりゃそう、だわなぁ」

「来ちゃ、ダメ? カナシー、ダメって、なんで?」

「ごめんなさい…言えない…あなたのカゲは…不安定、だから忘れて…今は、お願い…」そう話すカナシーの瞳は悲しげで、寂しそうで。

「そりゃ、きみが言えない、って言うんなら、おれは……」おれは。

「ごめんなさい…マヒロくん、帰りましょう…シュートくんたち…待ってる」

「あ、ああ。でもカナシー、おれも戦えるかもっていうんなら、さ?」

「ダメ…お願い、マヒロくん…お願い、今は、ね…?」

 カナシーの顔には、悲壮ともとれる表情が浮かんでいた。

「……分かった、よ。今は、聞かない。すみません、ヨシヤさん、今日はその、色々と、ありがとうございました」

「おぅよ、って、ちょいと待ちな。土産だ」と言うとヨシヤさんは、机の引き出しからスマートフォンを取り出し、おれに手渡した。

「それな、通話料タダのスマホ。お前さん、さっき携帯壊しちまったろ。やるよ」

「え、なんですかそれ、犯罪の臭い、しますけど」

「ははっ、正直だな、好感度高いぞぉ。でもなそれ、おれの自作。いいから使っとけ、それ、カゲの探査能力ついてっから。要、この間っから言ってたヤツ、完成したんだわ。お前さんのスマホにも、あとでデータ送っからよぉ」

「探査、能力? それに自作って、なんか凄くないですか、ヨシヤさんって?」

「お、もっと褒めてくれていいぞ、なんならあれだ、崇めてお賽銭をくれてもなぁ。なんてな。それな、カゲが近くにいたらな、着信とおんなじようにな、アラームで反応すっから。自衛の意味もある。通話はな、気になるならするな。でもよぉ、それは持っとけ」

 そんなのを無償でくれるって。さっきの説明の口ぶりと言い、この人、根はたぶん、凄くいい人、なんじゃないだろうか。おれはそう思った。

「わかりました。本当に、色々とありがとうございます。お世話になりました」

「いやいやぁ、ぜんっぜん、気にすんなぁ。また、うまぁいコーヒー、淹れて待ってっからなぁ?」

 それは断固、辞退しますけど。


  会った時と同じ、駅前の彫像で、カナシーと別れた。彼女は何度も「あなたは、私が守る…だから、『カゲ使い』になろうだなんて…思わないで…お願い…」そんなことを言っていた。


 おれは、カナシーにも危険な目にあって欲しくなかったけれど、彼女の真剣な目と口調に気後れして、何も言えなかった。信じられない話と出来事の連続で、おれは、だいぶ参っていた。できれば、あんなポンポコリンなカゲの世界とは、もう関わり合いたくない。このままじゃ脳味噌の許容範囲を超えて、頭の中がパラダイスだ。

 よく、物語の主人公が、唐突なサイエンスフィクションを目の当たりにして、そんなのは信じられるか、と一笑に付す場面があったが、おれも信じられないと言って、眼も耳も塞ぎたかった。おれのまったりとした生活と、まったりとした人間関係が今、大きく揺さぶられている。やめてくれ。おれの世界を、これ以上壊さないでくれ。

 でも今日、目の前で起きたヘンテコな事実と、ヘンテコな人からされた、ヘンテコな説明。どうすればいいのか、おれには、分からなかった。

 それにも増して、おれが強い力を持てる、と言う考えは、おれの頭から離れなかった。ひょっとしたら、シュートよりも強く……

 あれ? いや、カゲとシュートは、関係ないだろ。

 ……疲れてるんだ。わけのわからないことが起きすぎて、混乱しているんだ。そうだ、今日は色々と、ありすぎ、た。おれは頭を振り、胸に染み付いた考えを振りきるように、家路を急いだ。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

「マヒロぉぉぉぉっ!」

 家の手前。ずっと待っていたらしいシュートは、おれを見つけるなり、一直線に駆けてきた。

「よかった、ほんと良かったぁ……」そう言っておれの肩を抱くシュートはもう、涙目だ。

「ごめんな。でも心配すんなって言ったろ?」

「でもさ、でもさ、でもおれ、おれずっとずっと心配で。探してる時とか泣きそうで」

「お前、主人を待つハチ公じゃないんだからさ」

「なんだよ、おれ、今日だけで二十キロは走りまわったよ? 知り合い全部に連絡してさ、もう」

 え、知り合い全部って。恥ずい。

「やりすぎだよお前。でも、ありがとな」

「ううん、いんだ。ちゃんと帰ってきてくれたから。ねぇ、ほんとにほんとに、何にもないんだね? ウソは嫌だよ、マヒロ」

「何もないって」お前には、心配させたくない。「何もないよ。おれのこと、信じてくれるだろ? シュート」

 ……これ以上、お前の世話に、なりたくないんだ。

「うん、分かった。おれもマヒロも、ウソはつかない。ね。信じるよ。でも、何かあったら頼ってね。約束だよ」

「あぁ。サンキューな。約束だ。じゃあ、また明日な。シュート」

 ……ごめんな。おれは今、ずるい言い方をしたよ。

「うん、また明日。って、誤魔化されないぞ?」

 う。シュートの目に輝きが。

「カナシーさ。こんなことになっちゃったけど、どうだった?」

「うぉい、直球だな、お前。まぁ……楽しかったよ」

「へぇぇ! やぁったあ! ほんとに? 楽しかった?!」

「あぁ、ちょっと変わってるけど……良い人だよ。うん、楽しかった」

「そっかぁ。でもね、マヒロ」そこで何か考えるような、遠い目をした。え、急にどした?

「本気で好きにならないと、本気で好きになってはもらえないよ?」

「な」んだよ、それ。ハムラビ法典?

 急にマジ顔。シュートの美しい瞳に、これまた美しい夕焼けが映える。

「なぁんて、ね。冗談」ニ、といつもの笑顔になった。

「おま」はぁぁ。体重が増えたような脱力感。

「ね、また会いたい? よね?」

「あぁ。また、会いたいな……って、言わせんなよ。恥ずいだろ」

「はは! いーじゃんか、素直なマヒロ! うん、ヨシカにも伝えとく。今日はごめんね、騙しうち」

「おま、今さら。もう勘弁な。次やったらグーだぞ」

「わ、あはは! うん、もうやめまぁす! じゃ、またね! マヒロ!」

「またな。シュート」


 夕陽を背中に浴びて、満面の笑みで手を振るシュート。ごめんな。今日のウソは、貸しにしといてくれ。そう思って、おれは家に入る。

 『本気で好きにならないと本気で好きになってくれない』か……。

 その言葉が、おれの心にトゲのように刺さったまま。


 どこからか、豆腐屋の鳴らすラッパの高い音が、聞こえた。


 □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□

 

  文化祭の準備が始まり、手伝いとはいえ、生徒会に半ば関わっていたおれは、結構忙しくなった。シュートは、仕事となると物凄い有能なので、おれは事務作業を手伝うくらい……なのだが、学校が地元ではそれなりに有名なので、文化祭の規模自体が非常に大きく、おまけに文化祭は校風か、教師が口出しせず生徒の完全主導で進めるので、作業量がやたらと多かった。

 というか、シュートの失敗したら全て自分が責任を取るつもりだから、企画を前に進めようとする決断力と、近隣の法人を駆けずり回って、スポンサーをいくつも獲得してきた、高校生とは思えない行動力、足りない分の予算を、学校とスポンサー両方から潤沢に引き出す交渉力があってしても、それでもなお仕事量が多いってのは、ウチの学校の運営ミス、ではないのか?

 途方もない会計の処理をしながら、おれは両手を見つめる。働けど働けど我が暮らし楽にならざり。ぢっと手を見る。いや、石川啄木の詩を浮かべてる暇があったら、働けおれ。シュートは、生徒会室の奥の椅子に構えて、指示を仰ぎに来る生徒たちに的確な指示を下しつつ、生徒会主催企画の骨子を考えている。時折、女子との談笑が聞こえる。余裕ですね。くそう。格差社会だ。社会の縮図が今、ここに。


「そんなこと無いよぉ、おれ、いつも暇してるよ?」

「ウソウソウソ、だったら今度ぉ、カラオケ行きましょー?」

「もちろんいいよ、行こう?」

「あの、それって、新月先輩も一緒?」

「ん、何かまずい?」

「……だってぇ、日向先輩って、いつも新月先輩と一緒だから」

「あはは、うん、おれたち、愛し合ってるからね」

「きゃー! もうエッチー!」


 そんな会話が生徒会室にこだまする。あぁあ。説明が面倒な時は笑わせて逃げる特技が、羨ましい。おれにはないよ。一から十まで説明しようとして、結局途中で詰まって口ごもってしまう、おれとあいつの、明確な差。明治政府の外交官特権か。ふぅ。


 カゲのことは、あの日だけのことで、行ったらまた、あの泥味コーヒーを飲まされると思うと、自然と足が遠のいてぺんぎん堂には行かなかったので、あれきりカゲに関わることもなく、もう無かったことのように思える時もあった。

 でも、ヨシヤさんがくれたスマートフォンが、手元にはあった。調べたら、普通に電話会社と契約したものだった。なぁんだ。自作って。見栄かよ。まぁヨシヤさんのモノなら、いいや。新しい携帯を買うまで有難く、借りてよう。そう思って、使わせてもらっていた。

 カナシーとは、ヨシカちゃんに勧められるままに、メールのやり取りをするようになった。

 他校の女子とメールをするなんて、ちょっとアンタすごいんじゃないの、と思ったが、現実はバニラアイスのように甘くない。塩コンブみたいな味がするのだ。面と向かっても少ない会話が、メールだと輪をかけて少なく、カナシーのメールは

「昨日何食べました?」の一行だけ、だったりする。


 ……どーしろと。


 かといっておれも、もともと女子と会話なんか、ほとんどしたことが無かったし、お汁粉の思い出を聞いた時の事を思い出すと、何だか息が苦しくなったし、たかだか九文字の文章に、散々心を悩ませたあと、書いた返事が


「昨日はチャーハンです、好物です」以上。みたいな。

 おれからだって一応、メールをしたが、もう何を聞いてよいのやらで、

「カナシー今何してます?」送信。


 返信。「寝てました」以上。

 みたいな。にがじょっぱさすらない。無味乾燥。


 文化祭準備に入ってからは、放課後は忙しくて、直接会うこともできなかったし、これってどうなんだと思っていたが、ヨシカちゃんが言うところによると、カナシーは物凄く嬉しそうだ、と聞いたので、まぁ、良いか、と思っていた。あの二人の間には、どんな会話があるんだろう。それはすごく、気になっていたけど。

 シュートとヨシカちゃんにせっつかれるようにして、カナシーを文化祭に誘ったら「絶対行きます」という内容のメールが、おれが返信する間もなく十通くらい来た。

 ううむ。はて、おれは楽しみなのか、面倒なのか。半々か。人生とはそんなものか。ん? 今思ったんだけど、文章の最後に「人生とはそんなものだ」って付けると、なんとなく格言のように聞こえるね。『悪いことをしたわけでもないのに、レンタルビデオのアダルトコーナーには、こっそり入る。人生とはそんなものさ』

 おお、なんということでしょう!


「あの、新月先輩」はっ。

 バカな想像をしてるところに、急に話しかけられると、蛇に睨まれたガマガエルみたいにビビる。

「あ、なに、ええと」

 目の前には、小鳥の髪留めをしたショートヘアの女の子が、書類を抱えて立っている。

「あ、忘れちゃってます? ひっどいなー。こんっな、可愛い子を忘れるとかー。加賀美ですよー。麻奈ちゃんって呼んでください! って、いったじゃないですかー?」

「あ、ああ。ごめん、今ちょっと、考え事してたから。忘れてないよ」忘れてましたけど。

 でも大丈夫です、新月印の脳みそは、あなたを覚えています。リメンバーフォーユー。

 加賀美さんは、一つ下の生徒会書記で、シュートとも仲がいい。性格は明るくて人懐っこく、感情が表情に出やすくて、笑顔がコロコロしている、可愛い女の子だ。確かバレー部だったか。生徒会と部活を掛け持ちしている、ウチじゃ珍しい子。ヨシカちゃんが真面目だとしたら、加賀美さんは元気印だ。


「ほんとですかー? まぁいいや。麻奈ちゃんは気にしませんよっと。あの、この間、お願いしちゃった計算、終わってたりします?」

「あ、あれか。終わってる。税金の計算が少しだけ、大変だったやつ」

 こんなのぉ、あたし……もぉぉ、できませーん、って、泣きついて来られたやつだ。

「ほんとですか? もー先輩、素敵過ぎますー!」

 はしゃぐように、おれの腕を掴んで、小さく揺する。

「いや、いいからさ。ほら。これでしょ。ここの計算にこの金額を、こう……ね、こうして足していけば、よかったんだ」

「へぇぇ。すっごい! さすが新月先輩! 日向会長の右腕、懐刀!」

「それ全然違うよ」

 あいつの右腕どころか、指にだってなれてない。おれは。

「そうですかー? 第三者視点から見たら、そう見えますよー?」

「加賀美さんから見たら?」

「はい。あたしの心眼で見たら、です!」

「次からは両目で見てもらえるかな。じゃあはい、これ。確かに終わったから」

「はい! ありがとうございますぅ!」

 そうは言ったが、加賀美さんはおれの横の席に、ちょこんと腰掛けたままだ。

「あれ、どうかした?」

「え、いや、えーと、なんていうか」

 髪の毛の耳のあたりを、しきりに弄っている。

「あ。ここじゃ話せない? 外、出る?」

「良いです良いです、全然そんなの。あたしなんかのために、全然。そうじゃなくて」

「ん?」

 は。ま、まさか、ゲイ疑惑パート2、なんてことは。

「やー、先輩、恋してるなぁ……って!」

「はぁぁ?!」

 叫び声が出、しかも声が裏返ってしまった。シュートがおれを見た。なんでもない。そう言っておく。

「ちょっとちょっと、なんでそんな、急すぎない? てゆうかなんで?」

 声をひそめて、聞いてみる。

「いっやー、先輩、前は『ふんだ、女の子なんかに興味はないよ』って、あたしとか話しかけてもそんなオーラ? みたいの、出てたんですけどー」

 加賀美さんも声をひそめて、でも楽しそうに、答える。女の子に興味がないって。話せないだけ、なんですけど。おれ、そんな風に見えてたのか。ヨシカちゃんが、おれをゲイじゃないかと恐れるわけだ。にがじょっぱいなぁ。

「でもですね! 今日は違くて。ていうか最近違くてですね!」

「そうなの?」

「なんか心、ここにあらず! っていうか。でもそれは、興味ないっていうんじゃなくって。ズバリ! 今、誰かのこと、考えてませんでしたか?!」

 びしい、と何処かの少年探偵の様な手つきでおれを指差した。

「いや、そんなんじゃ」ない、とは言い切れないんだけど。

「ていうかなんで、そんなこと、思ったの?」

「ふふふーん。乙女のカン、ってやつですよ! いいですねー先輩! 恋ですね! 芳しいですよっ! 麻奈ちゃんにも、嗅がせて下さい恋の香りをっ!」

 そう言うと顔を近づけてきて、おれの耳元で鼻をフンフンと鳴らしだした。

 顔、近い。

「待って待って」

 慌てて彼女を押し戻す。スキル・童貞紳士、発動。

「違うよ。だいたい、なんでそんな楽しそうなのさ……蒲焼の匂いでご飯を食べる、なんて話じゃないんだからさ」

「え、なんですか、それ?」

「え、え、と、なんか、落語だったか、で、そんな話があって」

 結局、加賀美さんはそのまま、ずっとおれの横で作業をしていた。加賀美さんは話の中で「え?」とか「そうなんですかぁ?!」とか、相槌をたくさん打って話を聞いてくれるし、自分からもかなり話してくれるし、会話はそれなりに尽きなかった。なのに、なんでカナシーとはあんなに話せないんだ。おれは。ともあれ、後一週間で文化祭だった。


 帰り道、銀杏の濃密な匂いが、むっと鼻をかすめた。



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