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飛べない鳥の唄  作者: ぴーくおっど
27/30

平凡と兄弟と復讐と。

  おれの人生、にがじょっぱかった。

 陽のあたる道を歩いているように見える秀人の人生が、羨ましくて、眩しくて、横にいても、いつだって眼を逸らしたかった。

 つまらなくて、平凡で、幸運も、特別も、何もない退屈な人生が、毎日が、嫌で、嫌で、しょうがなかった。

 ……でも、当たり前の平凡がどれほど尊いのか、おれは知らなかった。

 くだらない話や、箸にも棒にも引っかからない冗談で、たとえ一時でも心の安らぎを得られる事が、どれほど幸運だったか。

 ありきたりな事だが、実際にのっぴきならない状況に追い込まれるまで、そんなことは、考えもしなかった。


 おれがバカなのは、失った事でしか、学ぶ事が出来ないところだ。


 ……え?

 そんなの、一般論? 

 ……ワァオ!


  □□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□□


 ヨシヤさんが、ゆったりとした動作で階段の上から降りてくる。

 俺は、その間、身動きすら取れなかった。

 驚きと、怒りと、悲しみに、身体が支配されていた。顎が震え、手が戦慄(わなな)き、脚が揺れた。


「なんで、なんでなんですか、あなたが……?!」

 戦慄きながら、喉の奥から絞った言葉、それ以上が、出せない。


「そんなに、似てるかなぁ、兄さんに?」

 尖った水晶のような、固く冷たく、鋭い声が聞こえた。

 ヨシヤさんの柔らかく優しい声とは、正反対の声。

 え? 別、人……?


「兄、さ、ん?」

 思わず、問い返してしまう。


 階段の上、暗がりにいた時は分からなかったが、ホールに降り、薄明かりの間接照明に照らされたその顔立ちはヨシヤさんとよく似てはいるが、確かに別人だった。なにしろヒゲモジャじゃない。怪しげなエプロンもしてない。残念。(何がだ)

 男の顎はひげの痕跡すらなく、つるりとした卵肌で、小気味良く尖っており、永久脱毛の疑いすらおれは抱いた。

 そして、全身に黒いシックなスーツを身に纏った、長身痩せ形のイケメンだった。

 背格好と雰囲気はヨシヤさんによく似ているが、服装もスタイルも対照的な男は、おれ達の十メートルほど手前で歩みを止め、サングラスを外した。

 途端、鋭い眼光が、射抜くように、こちらを見据えた。


「はじめまして、新月マヒロ君。僕は、ヨシュア。そう、君が良く知っている、ヨシヤ兄さんの、弟。本名は霧島桐人(きりしまきりひと)。キリヒト、もじってキリスト。知ってるかな。イエス・キリストのヘブライ語読みはヨシュアっていうんだ。だから僕もそうした。そうしたら、兄さんに名前が似るって思ったから」そう言った途端、男の顔が歪んだ。「近づこうとすればするほど、憎しみも苦しみも……増したけど、ね」

 

 ヨシヤさんの弟、ヨシュアと名乗った目の前の男の声は、奇妙に耳ざわりだった。そして、声をあげた瞬間から、纏っていた雰囲気も変わった。

 この奇怪なモダンアート的空間に、とてもよく響き渡る、声。聞くだけで他者を威圧する、人を従わせる、そんな声だった。


「……で、日向秀人。君はさっき、完全に始末したつもり、だったんだけどな。なんで死人が、ここにいるんだい?」ヨシュアは、捨てられた玩具を一瞥する様な眼で、シュートを見下ろす。

 が、今のシュートは、その、眼前にいるだけでも身震いする様なヨシュアの威圧にも、全く屈しない。


「彼に、おれの親友に、助けてもらいました。ヨシュアさん、もう一度言います、何度でも言います。闇の扉を開くのは、もう止めて下さい」


 シュートは、反論しつつも、何かを弁護する様な口ぶりだった。

 ……ヤミノ、トビラ?

 ロールプレイングゲームには、幾つも出てきそうな固有名詞、だな。いや、残念ながら今は、思いっきり現実だけどさ。

 どうやら、おれ一人だけ蚊帳の外の会話の内容から、懸命に察するに、それを開く事が、この辺り一帯の異常な現象、カゲの暴走の原因らしい。


「やれやれだな。君だって一度は賛成してくれていたのに? 良くないな、男が一度決めた事を、そぉう簡単に、覆らせるような事を……しちゃあ、さ?」


 ヨシュアは奇妙に間延びした喋り方でそう言うと、指揮者がタクトを振るうように、腕をしならせた。

 途端にシュートの身体が、見えない何かに弾き飛ばされ、あっという間に遥か後方まで飛ばされたかと思うと、その背後に現れた暗黒の渦の中に飲みこまれ、消えてしまった。


「な……っシュートっ!」


 慌てて駆けだそうとした俺の頭に、どこからか、声が聞こえた。


『マ、ヒロ! おれに構わず、先に、行って!』

「シュート?!」

 紛れもなく、アイツの声だ。だが、どこだ? 思わずあたりを見渡す。視界の先には、相変わらずおれを見下ろしている、ヨシュアのせせら笑いが目につくだけだ。


『今、影法師の力で、声だけを君に、届けてる! おれ、闇の狭間に飛ばされた! えっと、どう言えば……ごめん、周りを、物凄い力を持ったカゲたちに囲まれてて。うん、実は、結構、ピンチだ』


 ……マジ、かよ。

 だが、おれにはシュートが、この一瞬一秒に、頭脳をフル回転させているのが分かった。

 ……そうだ、あいつはいつだって、諦めない。

 そして、答えを弾きだした天才の声が、頭に聞こえてくる。


『でも、逆にチャンスだ、これは』

「どういう、ことだ?」

『聞いてくれ、マヒロ。彼はこの先、カゲの世界の最深部にある闇の扉を開こうとしてる。もし開いたら、現実世界にカゲが溢れてしまう。君がここに来るまでに目にした、異常なカゲが溢れた世界、あれが現実の世界にまで溢れ出る。そして、闇の力で、何もしていない、無関係な人たちのカゲまでもが、強制的に解き放たれちゃう……! まさに地獄、だよ。だから、それを、防ぐには』

「そりゃ、マズイ」非常に。シャレにならん。シャレコウベになる。何も笑えないが。「で、防ぐには?」

『マヒロ』シュートの声質が、硬くなった。

『ヨシュアさんを足止め、してもらえるかい? どんな方法でも、良いから』その声は重く、芯の通った、決意のこもった声だった。

「……だとして、お前は、どうする?」

『うん。チャンスってのは、ここなら逆に、ヨシュアさんもおれに手を直接出せないってこと。彼にノーマークで闇の扉に辿りつける可能性が、ある。彼はおれを始末しようと、凶悪なカゲが蠢く、この狭間の世界に弾き飛ばした』

「それが、ピンチであり、チャンスである、って言いたいのか?」


 そうだ、おれも、シュートも、命懸けだ。

 親友の決意が、言葉と思考の必死さから、痛いほど伝わる。


『でも、もしおれがカゲの群れを突破して、彼より先に、ここの最奥に辿りついて、先に扉を破壊してしまえば、彼の目論見は崩れる。闇の扉を開くには、相応の集中と力が必要だ。だから、ここからは……』シュートが生唾を飲む音まで、聞こえた。『競争だ』


「お前、さっき、真っ先にピンチ、って言ったじゃんか……できるのか、シュート?」

『おれは君に、嘘はつかない。だろ? マヒロ』


 ……ったく。この天才野郎。ここでそんな殺し文句、使うなよ。

 まいっちんぐ、頭を振る。


「……わかった」


 目の前のド悪魔と闘うか、分け分からん世界でカゲの群れと闘うか。

 はっは、どっちも修羅の道だね。こりゃ。健康サンダルで猛ダッシュ、ってレベルじゃねぇ痛みだな。地獄の針の山を登るって、こんな感じ? 分からんが。


「信じるよ、おれの、親友、日向秀人」大きく息を吸い、軽く両手首を振った。「やれるかわからんけど、やってみる……!」


 声にならない会話を終えたおれの背に、ヨシュアの絶対零度の声が突き刺さる。


「日向秀人が何を言ったか知らないけどさ。放っておきなよ。紛い物は、さ」 

「紛い、物……?」


 意味不明な単語を連呼しつつ、余裕に満ちた態度をとり続けるヨシュアの真意は分からないが、親友を一度殺しかけ、今また、容易くアイツを傷つけた、目の前の男に、おれは殺意に近い感情を抱いていた。

 シュートの言葉が無ければ、速攻でぶちのめしにかかっていたところだった。


 落ち着け、おれ。

 素数は、数えんで良いから。


 どうにかして、時間を、稼げ。

 おれの全思考が、目的遂行に向けて廻り始めた時、ヨシュアは滑らかに語り出した。


「日向秀人。彼にカゲを与えたのは僕だからね。君と同じ力が欲しい。君に対抗するために。愛情と憎悪を秘めた心で、彼はそう望み、確かに尋常ならざるカゲを得た。が、それは『心の底に自ずと宿らせたもの』ではない。強制的に引き延ばした、身体と精神を代償にして引き出した力だ」

 ヨシュアは、拾いはしない捨て犬を哀れむような口調で、そう言った。

「だから日向は、常人が抱えていたら、とっくにおかしくなっても不思議ではない程の暗く、深く、強い心のカゲを内に秘め、解放、覚醒させた君に、及ぶべきもないのさ」

「嘘、言うなよ」

 人を完全に見下し、軽蔑した喋り方にもおれは苛立った。

「影法師に、カゲを引き出すなんて、そんな力は無い。ヨシヤさんはそう言ってた。分けわかんねぇ理屈で、人の親友のこと、バカにしてんじゃねぇ」


 おれの強い語気を目の当たりにして、ヨシュアは下弦の月の様な鋭い笑みを浮かべた。


「そう。兄さんが。そんなことを」くっく、とおかしげに笑った。「相変わらずだな。自分に才能がありすぎるが故に、無能な人間の努力を過小評価している。僕はもう、兄さんの定義していた影法師の枠を超えているよ?」

 心底愉快そうに、ヨシュアは笑みを浮かべた。

 これが、コイツの自信の、源?

「もう一度、言ってあげるよ。彼のカゲを生み出したのは、カゲを超越したカゲを持つ、この僕だ」話しながら、階段をゆっくりと降りて来る。「本当は、もう君にも分かってるんだろう?」

「随分と、他人を見下してる言い方だな。あんたこそ、今までになかった力を持って、はしゃいでるだけなんじゃないのか?」

「はっは。その辺りもね、君と同じさ。自分が嫌いで、周りを見るのが苦しくて、こんなことならばいっそ、心なんていらない、そう思ってしまうような、ね」

「な、に、ぃ?」


 ヨシュアの言葉、その一つ一つを聞いていく度、喉がカラカラに乾いていく。

 見えないトゲを、全身に突き立てられるような。

 だが、そこでヨシュアは俯いた。


「ぼくは、ずっと、そう言う生き方をさせられてきた。消えてしまいたくなるような、自分を嫌う生き方を。生きているだけで苦痛な、生き方を」


 そう言って、カラカラと笑った。

 聞いていて、胸が痛くなる、そんな自虐的な、笑い方だった。

 だが、その笑いは、じわじわと満足げなものに、変わって行った。

 

「でも、今は、ようやく気分が良いんだ。自分がずっと追いかけてきた背中が、いつだって輝いていて、眼を逸らしたくなるほど眩しかった相手が、もはや自分の遥か後方にまで下がったのだから。僕は今、初めて自分の存在意義を見いだせている。曙光がじわじわと、だが確実に、夜を押しのけていくのを眺めているかの如き、清々しい気分だ。天才である日向秀人を、凡人の身でありながら超えた君も、そうだろう? 新月マヒロ」と言って、マジマジとおれを見て来る。


 アホか。とおれは言いたかったけど、違う言葉が喉から出ていた。

「懸命に語ってるとこ悪いけど、おれはそんな風に思った事は、無いね」

 ヨシュアは意外そうな顔をした。 

「へぇぇ。それは驚いた。でも、本当に、そう、かな?」

「申し訳ないけど、おれはそこまで卑屈じゃない」

「くく、はははは。でも、言ったろ? 僕と君と同じだって」


 語りながら階段を下り、今や完全におれと同じ高さのところまで降り立ったヨシュアは、おれと自分を交互に指差しながら、おれに言の葉(ことのは)を、突き立てた。

 心を蝕む、ささくれだったトゲのような言の葉を。


「君も、否が応でも輝かしい存在が自分の常に側にいる事で、自分がいかに努力しようが、その輝きに、拭い難い劣等感と屈辱を植え付けられて来た。そうだろう?」


 ……耳の後ろ、血液が流れる音が聞こえる。ゴオゴオと、滝が流れるような。


「だからって、なんだよ。アンタは、それが悔しくて、そんなチンケな理由で、その相手を見返す為だけに、何の関係もない人や生き物を、巻き添えにしようってのか、アンタは……?」

「はっはは。こちらが何か、悪に属する様な事をしようとすると、途端にそうやって性善説を唱える。『それでお前の心は痛まないのか』って、相手の良心に訴えかける。くく、かははは。本当に君は、昔の僕によく似ている」

 ヨシュアはおれを、憐れむような視線で見降ろした。

「だがね、新月マヒロ。理想論者の末路は哀れだよ? 良いかい、僕は僕のやりたい事をやる。状況を作り出し、それを利用し、流れに乗る。その最中に、他人がどうしたって構わないだろう?」

「な、に、を、言ってるんだ、アンタは……?」

「たとえば、君の横にいる人間が、何かの事故か事件で、銃弾で撃たれて致命傷を負ったとしよう。だが、横にいる人間が血を流していても、君自身には何の痛みもない。そうだろう? 自分以外に構わずに、自分の権利、自分の利益、自分の幸福。それを追い求める。人ってその為に生きてるんじゃないのかい?」

 耳の後ろの音は、いよいよ大きくなった。

「ふざ、けるな……!」


 ヒラヒラと、まるっきりからかうような口調で、理路整然と自分の都合だけを並べる相手を前にして、思わず握り込んだ拳が硬くなっていた。


「アンタの都合になぁ、他人の生死を巻き添えにして良い理由なんざ、たとえアンタが何べん生まれ変わっても、一度だってどこにだって、ねえんだよ!」

「……僕の、生死。はは」


 と、桐人は首を捻じ曲げ、奇妙なポーズで笑った。

 おれがまさに、戦闘態勢に入る為にカゲを纏おうとした、その時だった。


「そうだねえ。でも、僕はもう何度も何度も自分を殺してきたよ。霧島桐人は生まれてこの方、自分の生き方たいように生きられたことなんて無い」ヨシュアの、それなりに整った表情が憎悪で醜く歪んだ。

「全てにおいて他者を圧倒する、優れすぎた才能を発揮した兄、義哉と常に比較され、僕が僕なりに必死になっても、周りは常に僕を欠陥品扱いした。『お兄さんは凄いのにね』、『お前の兄ちゃんってスゲえな』etc.etc.」と語るヨシュアは、誇らしさと妬ましさで揺れ、ピエロの様な奇妙な顔になっていた。


「そう、わかるかい。僕は、僕のままで生きる事すらただの一度も許されなかった。兄さんを通して見られると、人からは僕の短所が浮き彫りに見えて、僕の良いところなんて、ただの一度も、何処の誰にも、認められる事は無かった。僕の人生は、好む好まざるに関わらず、兄さんを引き立てる為だけにあった。あるいは、誰かの人生に華を添える為に。僕は誰からも尊敬も愛情も受けることなく生き続け、いつしか、家でも外でも社会でも、見下されるのが僕の役割になっていた」


 ヨシュアはピエロの表情で、まるで歯噛みするように、一気に言葉を捲し立てると、最初の時の、ツルリとした無表情へと戻った。万華鏡の様な表情だな、と不意に思った。

 こいつは、仮面の自分を幾つも持つ事で、自分の本性を隠して、辛うじて自我を守ってきたんだろう。そう思った。


「そうして、僕は僕から興味を奪う為に、僕自身に期待をしない様に、何度も何度も僕を殺してきた。僕自身で、或いは他人の手で。もう数えるのを諦めたくなるほどの回数を、殺されて、殺されて、僕の中には、もう、何も残っていない。あるのはただ、今もこの身を焦がしてやまない、僕を否定し続けた、この世界に対する復讐心、それだけだ」


「復、讐」ヨシュアは無表情のまま、自分の指の関節をコキコキと鳴らしながら繰り返した。「リベンジ、って流行語大賞にもなったかな? 木曾物語だって、赤穂義士だってそうだ。昔っから好きだろ? 日本人って、そう言うの。はは」そこで一つ、軽い咳払いをした。


「新月マヒロ君。君には、ここに至るまでの本質がまるで見えていない。世間の造り物が叫ぶ『人の可能性』とやらにでも賭けているつもりかも知れないが、君が思うほど、人は他人を見ない。人は世界を分かりやすくするために、自分にとっての味方と、自分の敵とで世界を分け、敵と見做したら嘲笑い、見下し、物笑いや噂話の種にしかしない。だが、それは悪い事ですらない」


 ヨシュアは、自分自身に言い聞かせるように、続けた。

「良いかい。それは当たり前の事なんだ。人は、自分と無関係の人を救うだけの余裕を持った生き方が、もうできないんだ。社会というシステムが複雑に、生きにくくさせすぎてしまっている。だが、それなのに、人は表の顔ではさも、それが出来るように振舞う。僕が一番許せない連中だ。思いやりや労わり、絆と言った、目に見えない物を振りかざし、自分を正しいと言い張る。そうした空虚を武器にする連中が、いつの世にもゴマンといるだろう? そして、連中は困った事に、人の上に立とうとする。もう、この世界は一度、すっきりさせなくてはならないんだ。誰かが、業を背負ってでも」


 おれは、黙っていた。

 自分の中に、煮えたぎる何かが沸き上がるのを感じつつも、自分と正反対の意見を持つ相手の言葉を、少しでも、聞こうとしていた。


 そして、ようやっと、口を開いた。

「語るに落ちるって、アンタみたいなやつの事、言うんだろうな」

 時間稼ぎとか、そんなことは、頭からとうに消えていた。

「そんな、自分を否定した世界がムカつくから、滅ぼすってか? まるで子どもだな、アンタ」

「そうだね、いつになく僕は喋っている。高揚感に浸っているのかな。はは。うん。言ったろ? 世界を滅ぼせなんかしない。カゲを解放して、それに耐えられる、真に美しい人たちが生きる世界を作るだけさ。『世界は、そう、少しでも美しくなくては』。そんなことを言っていた小説があったね。ふふふ、ははは! その通りだ!」

「……簡単な道を進むんだな、アンタは」おれは、ため息をついた。

「ほぉ……? どう、いうこと、かな?」

 おれの言葉に、桐人のカミソリみたいな眉毛が片方、僅かに上がった。

「アンタの部下。テンシとか言ったか。そいつが言ってたよ。自分の理想に従わない人間を排除して行ったら、自分に都合の良い人間しか残らない世界になる、って。おれは、それを聞いて、ぞっとしたよ。そして、おれも、気を付けないとそれをやりかねないっていう風にも、思った。でも、そんなの、さぞかし不気味な世界だろうって。まるで自分で作り上げた巨大なサークルか、同好会だ」


 ヨシュアは、おれの言葉を聞きつつも、反撃の一言をいつ振りかざしてやろうかと待ち構えているかのように眉一つ動かさず、耳を傾けている。


「アンタは、おれに本質が分かって無いと言った。それはそうかも知れない。おれには、何が正しくて、何が間違ってるなんて、断定する事は、到底出来ないから」

 そうして、おれは思っていた事を、京都に来て、ゴウジと話していた時から考えていた事を、今、ようやく口にする。

「きっと、目に見える正しさは、一時の幻でしかないから」と。

「でも、物事の本質なんて言っちゃったら、それはアンタも同じだ。世界を、まるで一人の力で動かせるものみたいに思ってる。世界って、ううん、自然って、そんなんじゃない。世界についてって言うけど、アンタは人間についてしか、話していない」


 キノと一緒に読んだ、ぺんぎんの図鑑を思い出す。ヨシュアさんの持ち物だった、その分厚い図鑑に載っていた、おれが見た事も聞いた事もなかった生き物の数々。子どもが白くて可愛いロスアザラシ、鼻のコブが見事なミナミゾウアザラシ、まだら模様のヒョウアザラシ。

 たった一つの図鑑にすら、ただ一つのアザラシという生物の種類だけでも、ほんの一部の地域にだけでも、これだけ、たくさんの生物がいる、この世界には。


「アンタは、この世界で人間よりずっとずっとたくさん生きている、草や、花や、魚や動物や菌、そうした、精一杯生きている、数限りない命を思った事はあるか? 闇の世界で、青空を見る事を忘れたんじゃないか? 目を向ければ、世界はきっと、おれ達の想像や作り話を遥かに超えた、偶然や奇跡がひしめいてるよ」


 シュートといつも一緒に見上げた、高く青く深い空。

 初めてカゲを纏った、要に好きだって言われた日に見た、白黒の空。

 その下でおれが生きてる、要が生きてる、シュートが生きてる。

 見た事もあった事もない人が、生き物が、生きている。

 それを、簡単に潰させるような事は……許しちゃいけない。


「世界は、おれやアンタの頭の中より遥かに、大きい。少なくともおれには、その大きさを想像できない、アンタが正しいとは、思えない」


― 思えない。

 その言葉だけが、モノクロームの空間に響いて消えた。


 そして、黙っていたヨシュアが顔を上げると、すっと、冷たい視線でおれを射抜いた。


「なるほどね。君の主張、確かに、面白かったよ。若さと老獪さが奇妙に入り混じっている。ふふ……。しかし、そうだね……」

 ヨシュアの眼光が、一層鋭くなった。

「君の本心は、こうかな。『今ので、少しは時間稼ぎにはなったか』」


 ……全身の毛が、泡立ったのを感じた。


「君は、日向秀人を過大評価している。残念だよ、新月マヒロ。他人と言う、自分では一切決められない要素に、あまりに重大な事を任せてしまった、君の負けだ」


 ヨシュアがふぅ、と諦めたようにそう言った瞬間、命懸けの覚悟をしてきたはずのおれが、その場から遁走したいとすら、思ってしまった。


 ヨシュアの全身から、圧倒的な悪意が溢れ出ていた。


 ……なんだ、コレは。

 なんなんだ、コレは。

 まるで圧倒された。目に見えない、その重圧に。

 信じられない。そう、全く、信じられなかった。

 ここまでの底の無い悪意を、ありとあらゆる凶兆を孕んだ憎悪、嫌悪、侮蔑、邪悪な感情を、本当にただ一人の人間が、持ち得る物なのか?


 おれは、ヨシュアという人間が、憎悪を超え、狂気を超え、その向こうに身を置いてきた、闇の住人だと言う事を、改めて、本当に思い知った。

 何千、何万、何億と言った人の群れの、呪詛や嫉妬などの負の感情を、この身一つで浴びた様な気分だった。

 おれの抱いた怒りよりも、遥かに強い感情が蠢いている……!

 そして、僅かに、怯んだ。竦んだ。

 

 ……だが、それが間違いだった。


 おれが怯んだ、その一瞬の隙を見抜かず、ヨシュアはカゲを解放した。あ、おれ、ヒーローが変身する瞬間、どんな悪役でも手を出さないお約束、丁寧に守っちまった。


 ……黒い、光。

 矛盾した言葉だが、そうとしか形容できない、カゲを超えたナニカに包まれたヨシュアが、カゲの繭を破ると、おれとそっくりのカゲを纏っていた。


「……黒い、麒麟……?」


 ヨシュアは自分の両腕を、確かめるようにゆっくりと眺めた。 


「若さというのは、恐ろしいものだね。君は、自分より強大な相手に挑む事の恐ろしさを、よく分かっていない。はは。そうだ。予言しようか。君は、後悔する間もなく、死の淵に立つと」


 ……やばい。

 こいつ、何一つ、ハッタリなんか……かまして無かった。

 今までに対峙したどんな恐怖よりも、具現化し、顕在化した恐怖が眼前にある。

 覚悟で固めたはずの心、その隅から恐怖が止め処なく沸き出し、おれを支配しようとする。


 だが。

 そんなおれの心に、シュートの声が響いた。


『お願いね、マヒロ。ヨシュアさんを、止めて。確かに、ヨシュアさんは強い。強いって言葉じゃ足りない位に。凄まじい、人智を超えた力を持ってる。でも、どんな状況も諦めない姿を、おれにみせてくれた君になら、きっとできる』


 ……最高の善性は、恐怖を持たない事、だっけか? シュート。

 そうだ。今のおれの身体と心には、ぺんぎんず、全員の心が詰まってる。思い出せよ、絞り出せよ、おれが見せられて経験して習って学んだ全てを。

 ……これで、何を恐れる事がある?


「……ありがと、う」一人、思わず呟いた。

 いつも、みんなが口にしていた、感謝の言葉を。

「ありがとう。シュート。カイさん。ゴウジ。キノ。ジュンさん」

 こんなおれに、全てを託してくれて。


 何が善で、何が悪かなんて、後世の歴史家にしか分かりっこない。

 だから。おれは。おれの全力を持って、この世界を、この世界のまま、次の世代に受け渡したい。その為に、今、ここで、コイツを、止めたい。

 もし、もしも、おれの命一つで、それができるんだとしたら。

 命を託された意味、十二分にあったって、言えない?

 言える。胸を張って。

 むしろ、おれスゲー。おれツエー。な。


「捨て石で、上等!」


 ゲイ疑惑から始まった旅の終着点が、まさかこんなところとは。

 御釈迦様でも気がつくめぇ。メェメェ。


 ……じゃぁ。

 己の全てってヤツを、賭けて、さ。


「行くよ……麒麟」


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