少女とグラサンとガチゲイと。
……この世の中にはいくつか、絶対に手にいれたくない物がある。そのうちの一つ、『一方的に切られた電話』を片手に、恐る恐る、首を捻って椎名さんを見る。通話を終えた彼女は、電話を握り締めたままうろたえ、今にも泣きだしそうだ。
ふぅぅ。大きく息を吐く。腹くくれ。おれ。
― シュートなら、きっとそうする。
椎名さんからは見えない角度を向き、何度か深呼吸して、彼女に向き直る。目の前の椎名さんは、頭から湯気が出そうな顔色をしている。体温と不整脈が心配だ。
「参っちゃいましたね」
「……は……はぃ……」
うわぁ。さっきのが消え入りそうな声だとしたら、今のはもう穴を掘って隠れた声だ。ふぅ。だがしかし。『恐怖を持たないこと』……か。行くぞ、おれ。
「でも、まぁ、せっかくだから。今日は、よろしくお願いします」
「…えっ…そんな……」
俯かれてしまう。しかし、宙をさまよいまくった目線がだんだん固定され、たっぷり時間をかけて、最後には顔を上げてくれた。
「は、はい…あの…ふつつか者ですが…よろしく…お願いします…」
飛ばし過ぎです。色々と。
「そうですね、あの、公園とか、行ってみます? 座って、ゆっくり話しませんか?」
「…えっ…あ…はい…や、優しく、してください…」
物凄い誤解を生むよ。その言葉は。
でもなぜか、そんなに嫌じゃない。今日、おれは、きみに名前を呼んでもらえるかな? シュート、お前ならサッと、やって見せるんだろうな。でもここには、おれしかいないから。頑張ってみる。
だからおれ、きみに笑って欲しい。
……の、かもしれない。
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十月半ばの土曜日の午後、市営公園はベビーカーを押した家族連れや、楽器の練習をしている人、それにカップルで賑わっていた。中にはキャンバスと絵具を持ち込んで、色づき始めた木々の風景画を描いているお年寄りもいる。
この市営公園は、ちょっとした高校の校庭くらいの広さがあって、歩道以外は茂みになっている。サクラの並木道や、大きなイチョウを中心にした休憩スペース、ちょっとした売店がある。
中央には芝生の広場があり、さらにその真ん中はレンガ敷きのスペースがあり、そこに一時間おきに噴水をあげるモニュメントがついた大きな池がある。
外周をぐるりと回れるコースがあるので、スポーツウェアを身に付けた人たちはそこを走って、爽やかな汗を流している。
その横に、申し訳程度に設置された喫煙スペースでは、所在なさげなスーツのおじさんや、子どもと遊ぶのに疲れたお父さんらしき人が、中空を見ながら煙草を燻らせている。時間も人も、まったりとしている。
ここは初めて、という椎名さんを案内する形でおれは歩いていたが、なんだろう。この違和感。いや、『なんだろう』じゃない。理由ははっきりしている。彼女が、おれと目を合わせない。どころではない。椎名さんは、おれの後ろにぴったり貼りつくようにして、歩いている。おれが振り返って何か言うと、聞こえるか聞こえないか、アウトセーフギリギリ判定の大きさで「…ええ…」って返事をする。秋風に吹かれ、彼女の長い髪が揺れている。
「あの、椎名さん。おれも、カナシー、って呼んでいいですか? シュートもそう呼んでるんですよね?」
立ち止まって振り向き、顔を見つめてみる。キュッと俯かれる。あぁあ。視線が角度45°で固定されちゃってるよ。ていうか帽子で顔がほとんど見えない。
「あ、ごめんなさい、嫌、でした?」
「…いえ、あの…ぜひ…」
なぜに顔を逸らすのですか。あ、でもまた、湯気が出そうになってる。てことは、良いんだな、たぶん。帽子に隠れてても顔色は分かりやすいな、この人。でも、おれの名前、呼んでくれないかな。
ドックン。
園内を一周したので、そろそろ一休みしようか、と提案したらまた俯かれた。あの、と言いかけたら一瞬だけおれを見てまた俯いた。あ、俯いたんじゃなくて、今のは……頷いた?
「ええと、あそこのベンチ、空いてるから、あそこでいいですか?」
「…は、はひ…」そう答えた帽子の下、ピンク色の顎が覗く。
ベンチに並んで座り、自販機で買った缶ジュースを飲む。おれはカフェオレ、カナシーは缶入り汁粉。え。お汁粉って。いやおれがどうこういうこっちゃないけど。聞いてみるか。
「お汁粉、好きなんですか?」
「はい…とても…」
「そうか、お汁粉ねぇ、お汁粉……」
「あ、あの、お、おかしい…ですか…?」
「や、すみません、そんなことは。なんて言うか、和風で、良いと思いますよ」
「う、嬉しい…です…そんなこと、言われたこと、なくて…」
ええ、そうでしょうとも。なんか、ダメな営業マンが無理やり相手を褒めてる、そんな感じですもん。とりあえず褒めとけ、みたいな。
あれ、でもお汁粉を飲む女の子って。いたなぁ。そうだ、高校受験の直前の冬休み、図書館で勉強していたら、いつの間にか雨が降っていたのに、おれは傘を持ってなくてロビーで途方にくれていたとき、同じく傘を忘れたらしく途方に暮れていた女の子と、お汁粉を飲んだっけ。
あ、カナシー見てると思い出すなぁ。そうだ、石畳のロビーはとにかく寒かったから、温かい飲み物を買って暖まろうと思ったら、なんとというかやはりというか、ほとんど売り切れてて、しかたなく残っていたお汁粉にしたんだった。しかも、そんな時に限って自販機のクジが当たって、二杯もお汁粉飲めないよって、しょうがなくその場に居合わせた、同い年くらいの女の子に貰ってもらったんだった。そうだ、お汁粉、おれからあげたんだった。うわぁ、ダサい。その女の子、嬉しそうだったけど、何も言わないで頬っぺた、赤く染めてたっけなぁ。
……ん? 長い回想に……なにか引っかかった。
― 何かが、エウレカ。
「中学の頃、図書館で、会いました、かな、おれたち?」
いや待て。んなわけは。何言ってんだおれ。
しかし、カナシーは、首を垂れながら、頬を赤く染めて答えた。
「あ、あの時から…わ、私…お、お汁粉…好きで…」
ビンゴです!
って待て待て待て。ビンゴすぎるだろ。なんだこの因縁めいた過去。しかし合点がいった。ヨシカちゃんがカナシーにおれの写メを見せたとき、カナシーはおれを覚えていたのか。いや、その、おれはカナシーを覚えていなかったけれど。
「あ、甘いもの…好きじゃ…なかった、ですけど、その…」たどたどしく言いながら、顔にかかった前髪を指でくるくると巻いている。
ドックン。
「あの時、私…寒くて、寒くて…ほ、本当に、お汁粉、暖かくて…」
え、おれがあげた、から、好き、な、のか? 『マヒロくんを素敵な人だねって言うの』ヨシカちゃんの言葉が頭に響く。
ドックン!
「あ、ははは、う、嬉しいな、そんなに気に入ってもらえてたとか、思っていなかったから」
どころか、完全に記憶からデリートされてたけど。やばい。虚を突かれてうろたえてるぞ、おれ。
「う、嬉し…あの、私、私…」そう言ったきりカナシーは黙ってしまった。
参った。
そんな意味のある、お汁粉チョイスだったとは。事実が、おれの想定を超えすぎている。ホールインワンどころか……ドラコンだ。ほんとに参った。ええと……あれ、カナシーの視線は、またしても彼方へ。あれ、おれ、なんかやらかした? ん? 彼方じゃないな。視線を追ってみると、どうやらカナシーの視線は芝生の上で毛づくろいをしている、三毛猫に注がれている。
「……あの、猫。気になります?」
「ふえっ? …や、ちが、違いま…」
いや、手が動いてるって。触りたいんじゃん。
「行ってみます? 触れる、かも」
「…あ…え…は、はい…」
夕焼けの様に染まったほっぺた、いくつ温度あるんですかソレ。
おれは先に立ちあがり、日向ぼっこの態勢に入った猫の方に、てくてく、歩いていく。お汁粉の真実、という衝撃が大きすぎて、猫のほうを向いてないと落ち着かない。猫よ、撫でさせて、おれを落ち着かせてくれ。頼むから。
などと思っていると、不意に三毛猫は身体を起こした。そしておれと眼を合わせた。急に寒気がした。
……え、寒気?
違和感を感じた僅かな瞬き、猫がヒュウウと唸った。あれ? 寒気が止まらない。猫の身体は、ピントのずれたレンズのようにぐにゃりと曲がり、足元の影がゴムのように伸びた。
― え?
「…あ…だめっ…!」
後ろから、短い叫び声が聞こえた。
おれの足元まで伸びた猫の影は、あっという間に巨大な暗黒の渦を宙に作り上げた。
……なんじゃ、こりゃ?
最新技術のプロジェクションマッピングも進歩したね、なんて呑気に思った矢先、おれは暗黒に引きずり込まれた。
「うわぁぁぁっ?!」
突如現れた暗黒の渦は全然、架空のものじゃなかった。現実は残酷である。
必死に、そして不様にもがく。ちらりと後ろに見えたジョギングマンは怪訝そうな顔をして通り過ぎた。
バカな。
この暗黒の渦が、飲みこまれかけてる俺が、見えていない、のか?
え、これ、どうなっちゃうの?
……間違いなく、言えることは……
まっずいって事だ!!
「マヒロ…くんっ…!」
「カ、カナシー!!」
カナシーは懸命に、空中で暴れる俺の手を取ろうと飛んだり跳ねたりしている。顔は蒼白で、泣きだしそうだ。大丈夫だよ、いや大丈夫じゃないけど、おれは。君に、そんな顔をして、欲しくない……!
空中で、手と、手が、触れ、
……たが、摑む事は出来ずに、俺はそのまま渦に呑まれていった。
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― ここは、どこだろう。
意識が戻って、最初にそう思った。
目を明けると、紺色のスニーカーが見える。おれの脚だ。大丈夫、眼を覚ましたって巨大な虫になったりしていない。『変身』なんかじゃない。寝転がっていた身体を起こして、辺りを見渡す。毛糸のチョッキにくっついた白い芝を、パシパシ叩いて掃う。ここはどこだ? なんて言ったって、さっきの公園で間違いはない。噴水も、芝生も、サクラの木も、イチョウの木も、ランニングコースも。でも違う。
違、う……?
全然違う。景色に、色がない。モノクロ映画の世界、白と黒のコントラストだけしかない。空や水は白く、樹は黒く、草は影が黒く、色合いはなく、陰影しか無い。おまけに静かすぎる。誰もいないし、何もいない。人のざわめきも、犬の鳴き声も、鳥の囀りも、何も聞こえない。あ、これは幻覚か?
試しに気合を入れるように頬をパチパチと叩く。その音だけがいやに大きく響いた。いてて。何にも分からん。結局、どこだここ。音の無い、白と黒だけの昼間の公園。モノクロ映画に一人、総天然色のおれ。
……なんだ、これ。
四次元空間ってこんなかな。まさか。幻覚だ。これは幻覚だ。覚めろ、覚めろ。何度も頬を叩いたり、瞬きをくり返してみた。しかし頬がひりひりしただけで、灰色の世界はビタ一文、何一つ、変わる気配はない。
ふぅぅ。おれは深呼吸して、落ち着こうとした。せめて、状況に自分を馴染ませないと。
落ち着け。おれは今、おれがどうなるのか分からない。落ち着け。
もしも、もしもだ、幻覚じゃないとするなら、ここは、どこだ? あの猫は、なんだったんだ? カナシーは? 何か、叫んでいた。そうだ、カナシーは? 電話。しまった。まだ番号を聞いてなかった。くそ。ん? シュート。そうだ、シュートなら分かるんじゃないか? 携帯は……? よし、アンテナは立ってる。発信。『日向 秀人』。頼む。ツルルルル。頼むよ。ツルルルル。
「もしもし、マヒロ?」繋がった!
「マヒロ、どこにいるの? ヨシカ、マヒロだ!」
「シュート? おれは公園にいたけど、あの、今も公園にいるけど、辺りがモノクロで、誰もいない。その、何言ってんだか分かんないだろうけど、マジなんだ、なぁおれ、おかしいか?」
上手く言葉に言葉に出来ない。こんな時にも。くそ。
「落ち着いて、マヒロ。誰もいない? ねぇ、カナシーは? カナシーもいないの?」
「ああ、いない。逸れた、のかな、だから、おれ、お前に彼女の番号、聞こうと思って」
「逸れた? そう、か……あのね、マヒロ、謝るけど、さっきまで、ヨシカと二人で、きみたちを付けてた」
「はぁ? そんなことしてたのか、お前」
初めてのお使いか。
「ごめん。きみたちが一緒に歩きだすのを見たら帰るつもりだった。でもヨシカがカナシー大丈夫かなって心配して。それで。謝るよ。ごめんね、マヒロ」
「もういいよ、やったことは」
「ありがとう。公園に入って行くのを見て、ちょっと面白い並び方だったけど、大丈夫そうに見えたんだ。ヨシカ、カナシーすっごく楽しそうって、喜んで涙ぐんでた。でも、そしたらきみが消えた」
シュートの声が急に歪んで聞こえた。き、え、た?
「消え、た? なぁ、おい、おれが?」
だとしたら、もしそうなんだとしたら、ここは、どこだ?
「そうだよ、ごめん、そうとしか言えないんだ。きみはベンチから立ちあがって、ちょっと歩いたら、途端にスッと消えたんだ。ねぇ、おれが今日、マヒロにすごく悪いことをしてるのは、謝る。でも、ふざけてないし、ウソも言ってない。おれはマヒロにウソをつかない。今までも、これからも」
「分かってる。信じてるよ、シュート」
信じたい。歴史の資料写真みたいな白黒の風景の中で必死に頭を整理する。
「消えた。おれが。けど、だとしたら、おれはどうなったんだ? そうだ、カナシーは…どこだ? そっちで連絡、着かないか?」
「いや……マヒロ、落ち着いて聞いてくれる? その、カナシーも、消えたんだ」
『カナシーも、消えた』。シュートの言葉が身体に入ると同時に、世界が足元から崩れていく。心のタガが外されて景色が歪んで見える。
なんで、彼女まで……!
「カナシーは、マヒロが消えたあと」
― ザウッ。
いきなり、何かに左手を切られて携帯が吹っ飛んだ。長袖に血が滲む。熱い。何かが後ろからおれを襲い、携帯を吹き飛ばした。痛みが、鮮烈に現実を意識させる。う、ぐ。
な、んだ、こいつ……?
……振り返った先には、黒い塊が蠢いていた。
黒い何かは、今、おれの目の前、三メートルほど前にいて、うめき声のような音を出している。声、ではない。身体は、日向にいて白い光を浴びているのに、墨のように真っ黒だ。
あれは、体色が黒い、んじゃ、ない。
― あれは、影だ。濃すぎて色がつかない、影だ。生き物、とはとても呼べない。
猫に近い四足の生き物の形をしているが、大きさが伸びたり縮んだりしてる。カメラのレンズの倍率を動かしているみたいに。身体の輪郭から、湯気のように黒い霧が湧き出ている。ドス黒いオーラを放っている。闇、影。猫であって猫じゃない。猫は、うっ、くそ。こんな深い傷跡を、残したりしないだろ。更に言うなら、変な空間に人を引きずりこんだりもしない。
そうだ。さっきのあの瞬間。コイツがあの暗黒の渦を作りだしたんだろう。畜生。なんなんだ、コイツは。
そう思った刹那。
― ポンッ! 影の足元に花が咲いた。手品師が手の上で咲かせるように。何もないところから花が。
― ポンッ! モノクロ世界の中で、鮮やかな赤や、青や、黄色が。なんだこれ。ステンドグラスのように透明感ある、鮮やかな七色の花。咲き乱れる影絵の花。なんだこれ。刹那。
― ぱんぱかぱーん! 影の方から華やかな音が響いた。影の後ろに色取り取りの鮮やかなテントが生える。モノクロ無音の世界に響き渡る音はやがて音楽になった。ラッパ、タンバリン、鈴の音。
たらりらりらたらり、たんたんたかたんたん。
カスタネット、トライアングル、ハーモニカ。
なんだこれ。昔、父さんに連れてきてもらった、小さなサーカスで聞いた音色。
たらりらりらりららら。 目と耳を疑っている間に、テントからたくさんの小人、小鳥、蝶々が飛び出してきた。それらがくるくると宙を舞い、踊りまわっている。小さなカーニバルが完成。小さな影絵が明るい音楽を奏で、パレードしている。
なんじゃこりゃ。走馬灯?
― オォホホホホッ! カーニバルに共鳴するように、影が笑い声のようなものを上げる。深手を負ってるおれは何にも楽しくない。斬られた左手が重たく感じ、上がらなくなってきた。
― オゥホホホッ、ウフアハハッ! 殺気を撒き散らしながら、心底愉快そうに笑っている。なんて悪気のない悪意だ。もう、走馬灯とか言ってる場合じゃない。愉快なカーニバルになんて、殺されてたまるか。テントから次々と飛び出してくる羽根の生えた鈴が、楽しげにシャンシャン鳴っている。まずい。左手の傷を顔や首に受けたら、致命傷になる。
りんりんりりんりんりりんりん。 くそ。猫なら猫らしくしてろっつの。
― んの、やろぉ。
セカンドゴロを捌く要領で道端に飛びのき、素早く小枝を拾い、飛びのきざまにヤツに向かって投げつける。すり抜けた。
は? すり抜けた?
その次の瞬間。
ひゅうっ。
鈴の音をBGMに、ヤツがもう一度襲ってきた。右腕で防ぐ。切りつけられたような熱さ。かまいたち。そんな言葉が頭に浮かんだ。
「うぁ、あ、ぁ」右腕も血に染まる。まずいな。まずいだろ、これ。
たんたかたん、たんたんたぁん。オホホ、ウファハハッ。
陽気な音楽、奏でてくれちゃって。くそ。当たったはずの枝がすり抜けた、か。どうする? 逃げるか。でも目線を逸らしたら途端に襲ってくる。逆光が眩しいけど目はそらせない。
― オォヒィアハハハハ!
それに全力疾走できないおれが、こいつらから逃げ切れるとは思えない。
タラリラリラタラリラリラ。
くそ。カーニバル集団はじりじりと近づいてきている。どうする。こんなところで、意味も分からないまま死にたくはない。
え? 死ぬ? おいおい、冗談だろ? 人生初のデート中に、意味不明な幻覚の中で死ぬって。振りかかる理不尽とかに腹を立てても仕方なかったけれど、おれはここまで神様ってやつに譲歩したつもりは、ない。
おれの人生はにがじょっぱいけど、おれにとっての全てだ。
シュートのウザったい構い方も、ヨシカちゃんの美人オーラも、苦手だけど嫌いじゃないんだ。奪われたくない。
くそ。どうする。次は防ぎきれそうにない。
シュート、お前ならどうする?
……あいつなら、諦めない。
たんたかたんっ、ぱんぱかぱーん!
音楽が大きくなる。どうする、おれ……?
ズクン! 唐突に胸の奥、深いところにざわめきを感じた。
……なんだ……? この、感覚? カナシーに感じたのとは、全く異質な、胸の鼓動。
誰かの声が、あ、頭に……
― オレヲ、解放、シロ ―
なん、なん、だ……?
……そして、あれ、音楽が止んだ。あれ?
「大丈夫…もう大丈夫…マヒロくん…」
その声。振り向くと。
「カナシー!」
「あぁ…傷…」
カナシーはおれに駆け寄ると、大切なものに触れるように腕をとった。
「ひどい怪我…ごめんなさい…私のせい…ごめんなさい…」
帽子を外した顔は、さっきまでの火照っていた血の気はまるでなく、真っ青だ。
「カナシー、よかった、無事だったんだ、おれ、心配で」
「そんな…私、私は…」
いまにも泣きだしてしまいそうな潤んだ瞳。あ、おれ、カナシーの目を初めてまっすぐ見た。振り乱れた前髪に隠れがちだけど、瞳が大きくて、睫毛が長い。
「無事、なんだね」
「…えぇ…ごめん、なさい…」
なんだろう、おれ、きみに泣いてほしくない。すごく。
「そうだ、あいつは」
しまった。忘れてた。振り返って影絵集団を見る。動かない。あれ? おれの後ろから伸びている影が、あいつらを包んでいる。パレードが止まってる。え? 逆光なのに、向こうに影が、伸び、て、る?
「大丈夫よ…影縛りにしたから…もう…動けない…」
そう言うとカナシーはおれの手を放し、右腕を、指揮者が指揮棒を振るうように振るった。
向こうに伸びている影は、カナシーの後ろから生えていた。巨大な樹のような影が。
「ひさかたの…光のどけき…春の日に…」
カナシーに操られるように、カーニバルの中心にいた猫の形の影が、宙に浮かんでいく。それと同時に、その周りにたくさんの小さな花びらみたいな影が浮かび上がる。花びら?
「しづ心なく…花の散るらむ…」
伸ばした手のひらをグッ、と握ると小さな花びらは浮かび上げられた猫の影に、次々と突き刺さっていく。
― ザク、ザク、ザザザザザ!
刺さるたびにヤツの形が削られ、最後にはサラサラと砂のように崩れ、消えてしまった。
「影法師は…いない…もう…」 そう呟くと、カナシーの背後の影が縮んでいく。カナシー、きみは…?
「マヒロくん…怪我…見せて…?」
振り返ったカナシーの顔は、まだ青ざめている。
「あ、うん。浅くはないけど、大丈夫。洗ってすぐ病院に行くよ」
何故だか分からないが、さっきまでの痛みは、ほとんどひいていた。動かせるようにもなっている。見た目は血みどろだけど、あれ?
「ごめんなさい…私が油断…カゲなんかに…本当に…」
ああ。こういう目を潤んだ瞳っていうんだろな。
ドックン。
「は、ははははは」声に出てしまった。
「…え…どう…したの…まさか…頭…」
「違う。違うよ。カナシー、おれの目を見てくれたなって。おれの名前、『マヒロくん』って、呼んでくれたなって」
「っぁ…………」
はは。人って、こんなに素早く赤くなれるんだ。絶対、お湯が沸かせる。泣きそうな顔だけど真っ赤。ヨシカちゃんと電話してた時の顔だ。
ドックン!
はは、なんだろう、おれ、わけのわからない状況なのに、なんかすごく、楽しいんですけど。
「ちぃっす。要、おつかれっ」
「へぁっ?!」
妙なおっさんの声がし、おれから思わず裏声が出た。まさかここ、この変な空間に、他に誰か、いたのか?!
振り返ると、両目を隠しきれてないほど小さなサングラスをかけた、髪の毛ボサボサのヒゲ男がいた。
「よおっす、ボウズ。お楽しみのとこ悪いなぁー」
なんだ、なんか馴れ馴れしい。スーツみたいな黒ズボンに白ワイシャツ、よれよれのベージュ色エプロンという怪しい男だ。この人、エプロン姿で街を歩いているのか。
「や、別に、お楽しみとかじゃ」と言いつつ、本当は、少し楽しかったけど。
「ヨシヤ…ちょうどよかった…あの、マヒロくん…彼、カゲにやられたの…治せる…?」
「え、カナシー、いいよ、なんか、血が出てるけど、変なくらい痛みはないし。病院行くよ」
元気な怪我人ってのも珍しいだろうけど、仕方ない。それにどうみたってこの人、お医者さんには見えないし。マッドサイエンティストって言われたら、たぶん信じる。
「いーやいや、悪いなぁぼうず、それ、俺の管轄。どら」そう言って男はおれの両手をとった。
「……ありゃまぁ。こぉりゃまぁずいかぁ?」
「うそっ…!」両手で顔を覆ったカナシーが凍りつく。
「あー、いや、嘘だウソ。ぜぇんぜん大丈夫だよ。単なる影縫いだよこりゃあ。元のカゲも断ったし、今は道具ねぇけどよぉ、うちにくりゃホホイのホイ、傷跡も残らねぇさ」
「ヨシヤ……!」
うぉ、カナシーの目が怖い。あ、最初に会った時に感じた『話しかけないでオーラ』なんか、今の剣幕には比べものにならない。
「まぁてまてまてまて。わーりわり。いや、要のンな純情っぷりなんざ初めて見たもんで、ついついなぁ」
「そんな…純情だなんて…」
はは。カナシー、信号機みたいに、顔色変わりますね。血圧が心配ですよ。
「ま、ぼぉず、おまぇさんもこぉんな薄気味悪いとこにいたくねぇだろぉ? 傷も治してやっから、うちに来いや」
「うちって…病院ですか?」
「いやいやぁ、そんなわけねぇわぁ。イカしたコーヒーショップだぜぇ」
「はぁ? コーヒー?」
冗談か? いくら痛まない怪我とは言え、おれ、怪我人ですよ。笑えん。
「あの…ごめん、なさい…後で、理由…話すから、来て…くれる…?」
カナシーはそっと、おれの手をとる。そのしぐさと声。からかっているわけじゃなさそうなのは、分かる。でも、怪我人を喫茶店に連れていくってのは、どこの世界の話なんだ? 困惑するおれの手を、カナシーは握り締める。縋るように。
……ああ。冷たいな。きみの手は。
「わかった。信用するよ」
「…ありがとう…マヒロくん…」
ほどけた様に笑顔。目じりが深い。初めて見たよ、笑顔。はは、目標、もう達成しちゃったな。
「あいあい、二名様、我がぺんぎん堂にご来店っと。商売繁盛繁盛ぅ」
……一瞬、ラブい空気だと勘違いしました。このオッサンがいましたね。はい。すんません。
おれの人生ってやっぱ、にがじょっぱい。
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賑わう公園から、真大たちを見つめる影が、三人。
すなわち「こちら側」から公園の噴水に映る『白黒のあちら側』の真大たちを見つめている。
もちろん『白黒のあちら側』の真大たちに気づいているのは、この三人だけだ。
一人は長身で、黒いワイシャツに白いタキシードを身にまとった、若い男。彫りの深い顔立ちと青い瞳は異国人のようだが、長い金髪を後頭部で結い上げ、更には引き締まった逆三角形の肉体は、侍の佇まいを感じさせる。
もう一人は、やはり長身だが濡れた厚い唇の女性で、こちらは膝まである長い髪の毛を下ろしている。肩幅は広く、大きな胸を露出させ、背中の開いた派手な黒いロングドレスを着ている。
最後の一人は、健康的に小麦色に焼けた肌に、白髪の癖っ毛の少年。半袖のポロシャツに、サスペンダー付きの半ズボン。背丈は、隣にいる女性の腰までしかない。
三人の佇まいは、少年を除けば休日の公園では明らかに浮いているが、周囲は誰も気に留めない。
今、飛んできたサッカーボールが、男に当たった。
しかし、ボールは何も無かったかのように、男をすり抜けた。子どもがボールを追いかけて走ってきたが、子どもも、三人を意にも介せず、三人の身体をすり抜け、駆けて行った。
「ねぇ、あの子。どう思う?」
女が二人に聞く。艶のある、湿った声。
「……」
男は瞑想するかのごとく、深く強く目を閉じている。
「まぁた聞いてないわね、天子。メロはどう?」
「若い男の人だよねー?」
白髪の少年が声をあげる。無邪気で高い声色。
「そうよぉ。あっちの女はもう知ってるじゃなぁい。男の子よ、オ、ト、コ、ノ、コ、ン。なぁんて。うふふぅ……」
「あのね、ぼくね、うん、良い感じだな。あの人の影、濃いよ。すっごく強いよ。あの人が纏って、戦ったらすっごく」少年はとび跳ねて、声を上げた。「気っ持ちよさそう!」
「あらぁ。あたしも同感。あの強い瞳。鞭で打つたびにあの目で睨みかえされたら、もう、たまんなぃ! も、想像しただけで濡れてきちゃうわぁ! もうちょっとであの子のカゲ、見れたのに。ホント、邪魔してくれたわ、あの女……!」
「うーん。ヨシュア、言ってたじゃん、『ぺんぎんず』も警戒して、彼の事は必ず守って来るだろう、ってさ!」
「それは分かってるわよ! でも、あぁ、もう、あたし、もう少しでイケそうだったのにぃ……ん……」と、女が見悶えるように股間を抑えた瞬間であった。
男が、かっと眼を見開いた。
「……下衆が」
男は見下したように言い放った。
「ナニヨ。あんたにだけは言われたくないわねぇ。もう一回、聞いてあげるけど、あんたは、どうなのよ」
「ふん。貴様になぞ語る舌を持たん。だが、敢えて教えてやろう!」
「うん、ぼく知りたい! 教えて、テンテン! どう思ったの?」
「その名で私を呼ぶな! 何度そう云わせる気か。迷惑千万だ! いいか、メロウ・メロディ。彼の瞳に、私は心奪われた……!」
男は、深いため息をついた。
女はこめかみを押さえ、やれやれと別の意味のため息をついている。
「否、否だ。私と彼は惹かれあっている。無論、運命の赤い糸でな。あの深い影を落としつつも命に溢れた瞳。もはや牡牛座の私は、昂る感情を抑えられんっ! 私の内なる獣、ユニコーンは猛り狂っているぅ!」
タキシードの股間がサラミを詰め込んだ真空パックのように張り裂けそうだ。確かにユニコーン。
「……やぁっぱ、あんたには言われたくないわぁ。聖なる獣のユニコーンに謝りなさいよ……」と歎息する女のため息は深い。
「うわぁははっ! すごいねテンテン! 触ってもいい?」
「ちょっと! やめなさいメロ、バカがうつるわ。だいたい、アンタあたしと言ってること同じじゃない。どこが下衆よ。このバカ!」
「私の高尚な感情の昂りと、貴様の陳腐な劣情を同義と見做すとは。それこそが下衆の証しだ」
「こ、高尚、コウショウ……。ま、まぁいいわ。とりあえずぅ、ヨシュア様に伝えに行きましょっか」
女がそう言って、先に一人歩きだし、連れ立つ様に三人は立ち去る。午後の公園は、相変わらず賑わっている。