雨が上がれば希望は生まれる。たぶん。
たとえば取り返しのつかない過ちを犯した時、人はどうすればいいのだろうか。
どうしようにもない、と振り切って前を向くのだろうか。
それは一見正しく見える。
でも、同時に人間らしさが全然無いんじゃないだろうか、と思う。
例えば人が亡くなった時、それは取り返しがつかない。
だから人は『お葬式』という儀式を行う事で、亡くなった人はもういない、そう確認して、自分たちの心を埋め合わせて補わなければ、たぶん前を向くことはできないんだろう。父さんはそう、おれに教えてくれた。
では、おれは。
ジュンさんのお兄さんを殺めたおれは、何をすれば許されるのだろうか。
……分からなかった。許されない、と思った。確かに、言い訳はあるのかも知れない。
「知らなかった」。
「相手は影法師だった」。
「やらなきゃ、こっちがやられた」。
……それらは、免罪符になるのか?
わからない。おれには。
おれに決める権利は無い、そう思える。
でも、どうにかしたかった。そうしてぺんぎん堂のドアを開いた。
そこには、いつものようにメイド服姿でカウンターに立つジュンさんがいた。
「あら、マヒロくん。今日はシナモンティー、淹れて見たの。飲んでくれる?」
「へ」
肩に力がガチガチに入っていたおれに、早く腰掛けるよう促す。おれは面喰って、そのまま席に着いてしまう。
優雅な手つきで差し出されたカップに淹れられた紅茶からはふわ、と鼻を通る爽やかな匂いがしている。
「ロイヤルミルクティにシナモンとかカルダモン、ナツメグをミックスしたマサラを淹れて見たの。温まるわ。飲んでくれる?」
「え、や、あの」
「それとも、嫌いだった? こういうスパイスみたいなものは?」
「そ、そうじゃなくて」
そうじゃなくて。
でも、それに続く言葉が出てこない。
ちくしょう。おれは。いつだって、言葉が足りなくて。
鼻が詰まり、口に直接飛び込んできたシナモンの香りにむせる。
あの。 そう言いかけた口にトン、と人差し指を当てられた。
「……言わない、で……」
「……?」
「分かってる、から」少し、震える声で言われた。「分かってるから」目を伏せ、前のめりのような早口で、ジュンさんは、言葉を絞り出している。「あなたが殺したくて殺したんじゃないって……分かってる、から。お兄ちゃん、最後には正気に戻って死んだんだって。ずっとずっと、苦しんで、影法師になってしまったの。あなたは、それを解放した。そういう、ことよ」
「……」言葉を探すおれの前で、ジュンさんの肩は、小さく震えている。
「そう、理屈はね、分かってるの」そこでジュンさんは唇に笑みを浮かべた。窓から射す夕焼けの色に染まったそれは、おれが今までに見た中で、一番悲しげな笑いだった。無理やり作った笑顔、苦い、漢方薬よりずっとずっと苦い笑顔。
「理屈ではね、分かっててもね、どうしようにも無いのよ。それで悲しみを抑えられる? 嘘よ、そんなの。片づけられない。片づけらんないのよ」下を向き、吐き捨てるように、言った。
思わず、おれはジュンさんの手を取っていた。あの時の、雨の日のように。
「罰して下さい。ジュンさん。あなたには、その権利が……ある、おれは、そう思います」
その言葉に、さっと顔を上げたジュンさんの眼に、冷たい光が宿った。
「そうしたら、お兄ちゃんは帰って来るの?」
「……っ。それ、は……」
その通りだった。何言ってんだ、おれ。
罰して、だなんて、簡単に言って、おれは、おれが楽になりたかっただけじゃないのかよ。ちくしょう。
「……ねぇ、マヒロくん。お兄ちゃんが最期に言ってた言葉、覚えてる?」夕焼けの中に浮かぶジュンさんの声が、頭に滲みてくる。
「……はい。『よしゅあ』って言う、ヤツらのボス……みたいなものを、倒してくれ、って」
「そう。そう言ってたの……だからね、もしあなたが罪を感じるなら、そうして。叶いそうにない願いでも、その心に抱いて、持っていて。そうでもしてくれないと、私、わたし……」
眼を伏せ、掌を重ねたジュンさんは、祈るように言葉を紡ぐ。
「ごめんね、私、やっぱり奇麗には生きられないみたい。優しく、なれない」
「そんなこと……」声が漏れてしまう。「そんな、そんなこと、ないです」
おれも、声の調子がおかしい。かまうものか。
今じゃなきゃ、今、言わなきゃダメなんだ。
「ジュンさんは、ジュンさんは、優しいです。だって、辛さも、憎しみも、悲しみも……おれにぶつけようとしなかった。『どうしようにもない』って、ジュンさんは言ったけど、でも、してるんです。どうしようにも、してます。自分のところで悲しみを終わりに、してるじゃないですか」
泣きやんだ子どもの様な眼で、ジュンさんはおれを見ている。
「だから、だから。おれは。その優しさに……報いたい、です。すみません。こんなにも優しい人に、人を憎ませるようなことを、させてしまって」
おれ達は、どちらからともなく、カウンター越しに、そっと抱き合った。
お互いの傷を舐めあう、獣の様に。
良い、悪い。
……善悪。それは、そんなに簡単に決まるものじゃないんじゃないのか。人は、自分の行動基準を簡単にしたくて、良いという風に、悪いという風に、自分をどちらかにポイ、と置いてしまうんじゃないのか。
本当は、善も悪も、両方持っているはずだ。
そう思って手元のカップに目を落とす。カップに描かれた二羽のぺんぎん。
そうだ。
おれは、ぺんぎんだ。黒も白も、その身にはある。
白だから良い、黒だから悪い、そんなんじゃない。どっちもある。
その中で、おれは。
悲しみを消してくれる道具や手段なんて、おれらには無い。できるとしたら、優しさをそっと持ち寄ること、だけなんだ。
一瞬で崩れてしまうかもしれない、弱くて儚い優しさを、それでも懸命に積み重ねていく、だけだ。
夕焼けの西日が眩しい店内で、知らずおれは握りこぶしを作っていた。
なんだこれは。『ガッツだぜ』か?
酸いも甘いも……いや、知らんがな。
にがじょっぱいのしか知らんがな。
翌々日。
草食系男子だの仙人系男子だのと言われようと、女体への興味が全くないと言ったら嘘になる。
何をいきなり、告解のようなことをしているのか。先日、心から流した涙の価値が今、第一次世界大戦後のドイツの貨幣より暴落してるぞ。
だが、おれは言いたい。
ヨシカちゃんにゲイ疑惑をかけられたり、加賀美さんに女の子に興味がないと言われたりしたが、それは大きな誤解である、と。
おれだって立派な男子高校生だ。いや……ごめん、立派じゃないけど。
おれは男子高校生略してDK、ドンキーコングではなく……なのだから、すなわち、この頭はリビドーと言う名の煩悩で満ち溢れている。
分かるかね!! すなわちだ!?
女体には興味津津だよ! 興味ありまくりだ!
かーっ、たぎるぜぇ!
いや、待て待て待て。燃えあがった情熱を弱火にしろ。
冷静になれ。急いては事をし損じるというぞな。Be cool.
だが、しかし、but,健全な男子高校生たるもの、未知なる異性への興味を抱かずして、何の大義がありしや?
己の知の及ばざる範囲、すなわち未知なるを解き明かして、初めて学究の僕として足り得るのではないか。
すなわち。要約しよう。
キスの一つはしてみたいな、と。
乳の一つは揉んでみたいな、と。
地球の気温が三度低下。
地球温暖化防止キャンペーン。やったね。おれの人としての価値はもはや氷点下。
最低だ。最も低いと書いて、最低だ。
だが。はぁぁ。我ら男子高校生には、オナゴの乳は遠いぜ。
三蔵法師が天竺行くレベルの遠さだぜ。
なんか、ちょっと大学生の事を書いた文学作品とか読むと、女の子と飲みに行くと、もはや当確でワンナイトラブに発展してるけど、ホントかよ?
そんな、お酒と女の子が合わさるとワンナイトカーニバルに発展、なんて化学反応は現実に存在すんのか? 甚だ疑問である。
夏目漱石の『三四郎』よろしく、一晩女性と同じ部屋、同じ布団で寝たのに何もできずにショボくれた挙句「意気地なし」と言われる方が、格別のリアリティじゃないか。
そもそも、鈴虫が美しい音色で鳴いたり、蛍が悲しげなほどささやかな光を放ったり、孔雀が艶やかな尾羽を広げたりするのも、つまるところ意味するのは求婚なわけで、そりゃつまり、日本語に訳せば
「ぉぉう、交尾してぇよぉ、交尾がしてぇよぉぉ!」
……なわけじゃないか。
切実。命がけのアピール。
潔いね。
なのに、人間ときたら凄まじい変化球を使う。全盛期の稲尾和久か。
「ウチにさ、『アナと雪の女王」のブルーレイがあってさ、今日は親いなくて……」だとか、「ボクの行きつけにチーズとワインの美味しいお店があってね……今晩、どうかな?」などと、なるべくお洒落なスポットで、なるべく涼しい顔をして、下心全開のトークをのたまったりするのだ。
えぇい忌々しい。
だが、万が一、いや億が一、件の話をストレートに交際相手にぶちまけたとしよう。
「カナシー、おれを助けると思って、乳を揉ませてくれないか?」
うん。絶交されんね。
フツ―に考えて。
実際、授業中だろうと、デート中だろうと、入浴中だろうと、寝る前だろうとオールウェイズ悶々と性の悩みについて熱く考えてしまって、いついかなる時もちょっとした心の旅に出てしまっていたりすると、ときたま異常にアホらしくなる。
だが。
しかし。
ところが。
but。
逆説の接続詞、なのだ。
アホらしくも真剣に悩めるもんは悩めるのだ。こんな若き日にこんなに真剣に悩めるだなんて、あぁおれってば、何て若きウェルテルなんだろう。
……ゲーテに土下座した方が良いかも。
というか、大抵の真剣な悩みとは他人から見たら実際、誠に持ってアホらしいことだったりするが。
例えば吉野家に行って牛丼を大盛りにするか特盛りにするか、なんて事だってわりかし真剣に悩んじゃったりする。よし、決めた、なんて次の瞬間には新たなクエスチョン、汁だくにする? しない?
ネバーエンディングストーリー。実にアホらしい。
でも例えばプラトンの『饗宴』なんか読んでみたら、良い年のおっさん、それもソクラテスだとか、哲学者と呼ばれるような人たちが同性愛について延々と哲学的に語っていたりする。
HEYプラトン、そんなんヲタクが萌えについて熱く語ってんのと大差ないじゃん。古代の偉人もおれ達と同レベル。Year!
YO! 哲学とエロ。
ええい、おれは逃げないぜ。自らの身を、その混迷の業火の中に投げ込む事を望むさ。
だから、そうだ。
エロってのは究極的にバカバカしくって、同時に究極的に真剣なもんなんだろう。
オール・ウィー・ニード・イズ・ラブ。
オール・ウィー・ニード・イズ・エロ。
なんて、カイさんのよーに異性への関心ごとを、原稿用紙四枚ほどの文章をツルッと頭に浮かべられちゃうには……理由がある。
それは、つまり。
カナシーが、グラマラスだった。
パイオツが、カイデーなのだ。
……それに今しがた、気付いた。
始業式を明日に控えたおれたちは、ぺんぎん堂のカウンターに揃って腰掛け、ジュンさんが振舞ってくれた紅茶を味わっていた。
ところが、何気なく横を見たらカナシー、黄緑色の薄手の縦縞セーターを着ていて、いつもは前に垂らしている長い髪を、今日は後ろで結いあげていて……その、セーターの縦縞によって、身体のラインが浮き彫りになっていたわけで。
そしたら、おっぱいが、なんともまぁ大変にけしからん有様に映えているのだ。
……これは!?
俗に言う、ボン、キュッ、ボン。である。
嘘ぉ。
手にしたカップがカタカタと震え、オレンジ色の紅茶に波が立つ。俺の心に震度4。
マジで?
……付き合って三カ月、ほとんど気に止めてなかった。
ていうか、日頃はジュンさんの胸部連装砲かよって言うくらいのおっぱいにばかり気を取られていたし、その、なんて言うか、女性の胸に視線をやる事って、いや、内心ではやりたいんだけど、相手に対して失礼極まりない気がして、おれは気合を入れて視線を上、顔に集中していたから。
いわゆる童貞紳士。ビージェントル。イエス。
ま、秋口から付き合い始めたから、デートで海とかプールとか行ったこと無いしね。
うわ、参った、そんなん意識したら、急に生々しい男女の距離感。
参ったね。
あぁ、膨らむなぁ。夢と、希望と、妄想と……股間が。
……なんかおれ、プリミティヴに最低だな。
くそう。童貞におっぱいだなんて、毎日シラス食ってた亀に唐揚げあげるようなもんだぜ? 毒だよ毒。ポイズン。歩く度にダメージだよ。
「……マヒロ?」
はぁっ?! すわ、おれの眼はカッと見開かれる。
「……え……ねぇ……どうか、した……?」
眉毛を少し寄せて首を傾け、こっちを心配そうに覗きこむ。深い色の瞳がおれを見ている。ジュンさんは滑らかな布でカップを磨いている。
「ナンでもなぁいよ?」やべ、声裏返った。
「……そ、う……?」傾げた小首を元に戻したが、視線はおれの方に完全に向けられている。
こんな状況で「君のおっぱいに思考をとられました」なんて正直に言った暁には、社会的にも交際的にも完全に終わる。
「要のスタイルに見とれちゃってたのよ、マヒロくんは。童貞らしく、ね」
なんば言よっとね、こん人? ESP? 思考、読みとられた?
「……そん、な……」途端に顔を背けられてしまった。濃紺の髪からちょこっと出た耳が真っ赤に染まっている。
「いいぃやややや、あああの、そ、そその」
ミキシングDJか、おれは。あ。『壊れたレコードプレイヤーのような』って喩え、もう使えないね。
「まーったく、貴方たちってば、付き合って何カ月なの?」 ジュンさんは呆れたようなため息をつく。
「二人して、いっつもウチでたむろしてばっかりだし…マヒロくん、あなた、まともなデートとか誘った事、あるの?」
「い、いや、だ、だって、その、ぺんぎん堂でいっつも会ってるし……」
ふうん。そう言ってニッコリ、ジュンさんは満面の仏の如き笑みを浮かべ、やおら、おれの頬っぺたを摘み上げたかと思うと、
「いいいいいいっ!」万力のよーな力で捻じりあげられた。
「いいこと? 童貞ボウヤ。あのね、何年付き合おうと、夫婦になって毎日顔を合わせてようとね、するのよ。デートって、そういうものなの」
「そ、そうれふ、かぁ……」童貞ボウヤって。直球すぎるだろ。
「ねぇ、要?」鉄面皮の笑顔のままジュンさんはカナシーの方を向いた。「……無いの? マヒロくんからデートのお誘いは?」
……沈黙。
「あ、あの、一緒に…帰ったりとか、は……」
「違うわよ。二人でお休みの日に待ち合わせて、映画とか水族館とかショッピングとか。そう言うのをデートって言うの。この二十一世紀ではね」
再び、沈黙。おれの頬は抓られたまま。
「要……まさか、本当に……無い、の?」口元に笑みを浮かべたままジュンさんが、再度尋ねる。「まさか、よね?」
こく。ゆっくり、カナシーが頷く。
おれの心の中で、断頭台の糸が切られた。執行人、南雲ジュン。
“イッツショウタイム!”
「ぎぃぃぃぃっ!!」千切れちゃうって! んな鉄腕アトムみてぇな力で捻じられたら、こぶとり爺さんみたいに伸びちゃう伸びちゃう!
「命令よ、マヒロくん」観世音菩薩のような頬笑みでジュンさんは語る。
「男として、今すぐ要とデート、してきなさい」鬼神の如き力で、頬を抓りながら。
「れ、れぇとって、ろ、ろこに? い、いふ?」
で、デートって、ど、どこに? い、いつ? とおれは言いたかったの。涙目で。
「おバカさんねぇ。脳にカニミソでも詰まってるのかしら。今言ったじゃない。いつやるの? 今でしょ?」
んな、2014年の流行語大賞で言われても。
……え、今、今って、まさか、これから?
などと疑問の表情を浮かべた瞬間、観世音菩薩は無言で包丁をかざした。きらり、刃が妖しく光る。
顔は菩薩だが、行動は般若。
……あらかじめ言っておくが、この状況、ギャップ萌えなんて無いよ。
つーか脅迫じゃん。
お山の木々が木の葉をすっかり散らした真冬の上野動物園前は、平日と言う事もあってか、わりかし閑散としていた。
鳩が寒さを紛らわすように群れをなして歩き、モコモコのジャンパーを着込んでポンポンの付いた帽子を被ったおじいさんが、その鳩の群れにパンくずを与えている。その鳩の群れをモーゼのように割って、ランニングマンが列をなして走って行く。どこかの大学の部活か。風船を持った子どもを肩車した親子連れがいる。出来たばかりのスターバックスの前でたむろしているおばさん達がいる。
その合間を、トボトボと歩くおれ。
しずしずとついてくるカナシー。
……目指すは、国立科学博物館。
般若と化したジュンさんに追い立てられるようにして強制デートイベントに突入したおれ達は、もといおれは弱り果てた。なにしろ東京ウォーカーだのdancyuだの、そう言ったデートスポットが載っているらしき雑誌だってロクに読んだ事も無い。
弱り果てて、仕方なしにカナシーに、何処か行きたい? と尋ねたら返って来た答えは、とびきりのウィスパーボイスで
「か、化石……見たい……かも……」
……へー、化石かぁ……。
えっ? 化石?
えっ化石?
……思わず二回、聞いちゃったよ。
映画とか、水族館とか、ショッピングではなく?
ボーンが見たい、と? 骨を観賞?
……マジで? 見たいの?
うら若き乙女がそんな願望を持っているとは、御釈迦様でも気がつくめぇ。ノストラダムスだって予言不可能じゃなかろうか。
こういうエキセントリックな言動が眼に付くので、体型とかを気にする様な状況にほとんどなり得なかったのも、また事実。
しかして、おれ達は電車を乗り継いで上野に見参、公園口から改札を降りて右折、スタコラ歩いて左手に巨大なクジラの像が建てられた博物館に到着、学生二人分の入場券を購入していざ、闖入した。
あれ?
博物館、おれが子どもの頃と入口が変わっている。
おれが小さい頃に父さん母さんと来た時は、レンガ造りの本館入口から入ったのに、今はその脇から、するすると新館に入るようになっていた。
おっかしいなぁ。
昔は、入るといきなり肉食恐竜タルボサウルスと草食恐竜マイアサウラの複製化石が展示してあって、ドッギャーン! と度肝を抜かれたもんだったけどなぁ。
今は違うのね。ふぅん。いや、でも、本館の下からひょこっと顔を出して吹き抜けの造りになっている階段を見上げるとウワァ、明治の建築様式?
聖堂のような白亜のドーム型天井が見えてなかなかにドリーミィだね。天井にはめ込まれたステンドグラスが、大変に美しいではないですか。良いではないですか。
そうして一階の天文学的展示を眺め、二階に上がると日本の自然が展示されている。たくさんの鮮やかな野鳥の剥製。
剥製と言うのは、精気が無いのに完璧に生き物の形をしていて若干不気味だけど、色鮮やかな展示には心躍るね。
おや、漁夫の利と言う諺のモデルになったシギの剥製が。長い嘴を貝に突っ込んだら貝が蓋を閉じて、おい、開けろコラ、んだと、そっちこそ嘴でオレを食おうとするな、なんて二人(?) で暴れているところを通りかかった漁夫に二人(?) とも捕まってしまうと言う。
……なんて、心の中で心赴くまま勝手に解説して楽しんでいたが、待て待て、おれ一人が浮かれモードに突入しても虚無、カナシーはどう思っているんだろうか?
この突飛なデートを楽しんでくれてるのか?
と今更、肝心要の事を思い出して横を見ると、は、ニホンジカの剥製に眼を奪われている濃紺の髪の乙女。
腕を胸に当てて、小鼻がぷくぅと膨れている。
「シカ、好きだった?」小声で囁いてみる。
はっとこちらを振り返った彼女は、一瞬目を泳がせてから少し頬を赤らめ、コクリ、と頷いた。
……そか。良かったぁ。
「で、でも……」シカの剥製を見つめながら、ちらちらとおれの方に視線を投げかけ、胸の前で合わせた指をこしょこしょと、躊躇いがちに動かしている。
「わ、私は……ね……」
「うん」
「あ、あのね…ジュンから、じゃなくて……ま、マヒロに……マヒロから、さ……さ……」
さ? 山頭火? 産廃?
「おれが?」おれが産廃?
カナシーは胸元で両手をきゅっと握りしめ、こちらを見る。ふいに視線が重なる。
「誘って……ほ、欲しかった……の……」
「あ……」
キャハハハ。階下で子どもがはしゃぎまわる声が聞こえた。
あー、あー、あー……。なるほど、おれがモテないのも道理だ。
物語では主人公がやたら鈍感で、主人公に好意を寄せる女の子がヤキモキする、なんて場面があったりしますが、そんなのはイケメンだけの特権だ。
チョウチンアンコウのように獲物がかかるのをただ待っているだけじゃダメなんだ。顔に資本の無いおれが、そんなんでどーする。おれと一緒に出かけるの、嫌なんじゃないか? なんて、そんな風に変なところでだけ気をまわして、肝心なところで気が効かない。
なんじゃそりゃ。
そりゃ、単なる馬鹿な根暗じゃないか。
そんなんで、誰からも愛されない、と思い込んで、心を勝手に凍らせて挙句、ノミのように背中を丸めて一人、ゴミ溜めの中で世界を呪うわけだ。救いがないにも程があるわ。アホ。
モテないのに待ちって、なんだそれ?
自決したまえ。おれよ。ただしなるべく周囲に迷惑がかからない形で。
脅えてたって踏み込まなきゃ、ダメだ。
野球と同じだ。三振が怖くったって、振らなきゃ当たらない。
みっともなさとか照れとかを、どこかでぴょい、と超えなきゃ。ノミならジャンプ力くらいは見せてみろ、と。
「……ごめん。次は、ていうかこれからは、おれがどっか連れてくよ。君を誘って。だから、君も、行きたいとこあったら、その、どしどし、言って欲しい」
「め、迷惑……じゃ、ない、かな……?」
「そっそんなこと、ない、よ」なんだ、この無駄なシンクロニシティ。「その、二人なら、どこでだって、いつだって、きっと楽しいよ。きっとさ」あぁ、十六年間の人生において、かつて無いほど顔が赤いぞ。今のおれは。
「きっと。うん。今だって、おれ、すっげぇ楽しいよ。なんだかまるで、おれの人生じゃないみたいに、さ。カナシーは?」
返事の代わりに、彼女はそっと手を重ねた。
軽く触れたその手を、引き寄せるようにギュッと握る。か細くて白い指。でもいつもおれを引きとめてくれた、光みたいな、手。
吹き抜けになっている階段を登り、三階に上がったところには、天井から吊るされたフタバスズキリュウの全身骨格模型があった。
「う、わ……ぁ……」 カナシーの眼が、大きく見開かれた。繋ぎ合った手に力がこもって来るのを感じた。あぁ、これが、お目当て?
「カナシー、化石、好き、なの?」
「え? あ、あの……う、うん……す、好き……」
そいつぁ……驚いた。
化石に思いをはせる少女とはいかに。この年で、既に悟りを開いてしまったかのような。アノクタラサンミャクサンボダイ。
ある意味、時をかける少女だね。
もう駆けると言うより飛んでるよね。スカイハイ!
なんて、おれが三段跳びの様な突飛な感想を頭に浮かべているうちに旧館は見終え、新館に移動した。
長い長いエスカレーターで下に降りる、降りる降りる急速潜航…ってぐらい深く潜る、そして辿り着いた地下一階には、出たぜ巨大恐竜の化石模型。
高さ二十メートル、学校の体育館ほどはあろうかという広大な展示フロアに、所狭しと巨大な骨、骨、骨。
立像もあれば発掘時の再現で地層に埋められた状態のもの、更には天井から吊り下げられたものまで展示の種類も仕方も実に様々。
そして、ぬわぁ、眼が完全覚醒してるぜカナシー。完全に骨にロックオンされてて……あぁ、おれの方に視線が一切来ないのが若干悔しいが、えぇいおれは逃げないぜ。堪能するぞ、レッツ古代の息吹。
巨大なカモノハシみてぇなマイアサウラ、半分寝かされてるトリケラトプス、スティーブ・ジョブズみたいに立派な額のパキケファロサウルス。こいつはどうやら頭突きで群れのボスを決めていたらしい。シカの角のドつきあいみたいなみたいなもんかね。
そして、さぁ、来ました、展示フロアのド真ん中を占領して、カナシーガン見のティラノサウルス・レックス。
くぅぅ、手を繋いでなきゃおれの存在意義が虚無、ってなくらい、彼女、コイツに首ったけです。あのおれ、何が悲しくて恐竜の骨に嫉妬しなきゃなんないわけ? これ何てカルマ? 何のカルマ? あはは。何だか無性に泣きたくなった。あははは。
フィリリン! フィリリン!
……なんだよ。こっちゃ嫉妬に狂う高校生だぞ? なんて思いながら携帯を覗く。ていうかマナーモードにしてなかったっけ。なぜ鳴る? そう思って覗きこんだディスプレイには
「『カゲ・危険度・小』」
……そうですか。
初デートの最中に。
カゲも、TPOをわきまえていただきたかったなぁ。なんて。ま、おれらしいっちゃ、そうかな。
「カナシー?」彼女もポーチから携帯を取り出して確認している。
残念そうな憂い顔、しかし瞬時一転、険しい眼差し。お互い軽く携帯を見せあい確認、頷いて、ぱし。掌を軽く叩きあう。
「あとで、ね」急ぎ足でトイレに向かう。
うわ、なんだこのトイレ。すっごい奇麗なんですけど。塵一つないしピカピカしてるよ。人、住めるんじゃないの?
トイレだけど。
なんて、言ってる場合か。幸い、人影はない。鏡に携帯をかざす。カゲの世界が広がる。飛び込む前にちょっと右手をスナップさせ、つぶやく。
「変身」
色を失った、光と影だけの、白黒の博物館。
化石には似合いの世界だった。
ぱららららーらーらーらーらーん。
ラッパとハーモニカ、陽気なカーニバルが踊るように奏でられている。白い風船が、ほわほわとクラゲの群れのように飛び交っている。
風船やら音楽やらが出てくる方を追って展示場に入って見つけたカゲは……テ、ティラノサウルス?! の、化石?!
白と黒に彩られた展示場で、巨大な化石のカゲが暴れまわっていた。
うわ。そういえばティラノサウルスって『暴君竜』 なんて呼び名があったっけ。暴れまわったせいで周りの展示模型が崩され、ケンタッキーフライドチキンの食べ痕よろしく、瓦礫の山と化している。ってっか、生き物じゃなくてもカゲになるのか? 知らなかった。
ケタっカタっケタっカタっ!
顎関節症じゃないかと疑うような笑い声を、虚ろな眼窩の骨が上げている。
『ナイトメア・ビフォア・クリスマス』みたいだな。はたまた『ナイト・ミュージアム』か。もっとストレートに『ジュラシックパーク』?
いやいやそんなことはどーでもよい。人を襲いだすようになる前に、さっさと倒す。
悪、即、斬なり。
虎徹を取り出す。わりぃけど、そっこー、決めるぞ。すう、と息を吸って上段に構える。
でぇやっ! 躍りかかるように跳んで刃を振り下ろす。
シャキィン! 完璧。もらった!
……と思ったら、バラ! と化石が空中で分解し、おれは盛大に空振りしてしまう。
化石はその隙に、おれの背後で再び合体した。
あれ? 合体ロボ? コンバトラー……何?
とか考えた瞬間、今度は一鳴きしたカゲが、尻尾の骨をバラバラにして四方から飛ばしてくる。え? しまっ……!
-ビ、ビビビビビッ!
いっ!てぇぇっ!
全方位からの一斉攻撃は、さすがにかわしきれなかったし、刀で受け切ることもできなかった。おれにぶち当たった部分の化石は、空中で方向転換し、再び本体にくっついていく。
こんなろ! 再度、今度は駆けよってシバ! 斬り上げるが、斬りつけた部分だけ、またしても分解して宙を舞い、空中で合体。
ぬぬぬ。カゲを『夜半』まで引き出して身に纏ってるから、そう簡単に致命傷は受けないけど、こっちの攻撃があんな風にかわされ続けると面倒だ。
かといってこれ以上カゲの濃さを上げたら『禍時』 になっちまうし……くそ、デートを邪魔されてイラついて、挙句に舐めてかかって速攻、と思っていたけど、こいつは結構厄介、かもな。
コカ、カカカカ! 乾いた笑い声を上げながら、牙の化石を宙に舞わせた。
え、あれは…喰らうとちょっとまずいかも……。
ビビッ!
まずいって言ってんのに! 空気読め!よまないだろうけど!
……あれ? 牙の化石は、宙で浮いたまま止まって……あれは、影縛り?
そうか! カナシー!!
なら!
クイックダッシュ、間を詰めて跳躍、牙を狙い、虎徹をコンパクトに振りぬく。まるでティーバッティングだ。次々と虎徹に打ち砕かれた牙のカゲは、サラサラと砂のように崩れていった。はは。これでこのカゲ、歯無しだ。どうぞ、入れ歯のご用意を。
「マヒロ……っ!」顔を引きつらせたカナシーが駆けよって来る。
「あ、ご、ごめん。これ、カナシー?」
「そ、そうよ……間に、あった……?」
「大助かりだよ。ありがとう」
「ううん」
あぁ、髪を結いあげると、縦縞セーターにおっぱいが……強調されてるなぁ……この期に及んでまで、こんなことを考えてるって……おれ……人として最低だけど……。
「あの、ね、マヒロ……カゲや影法師って、特殊能力……? みたいなの、必ず一つは、持っている、の……」
「え」言われてみれば。最初に見た猫のカゲや白虎は身体を刃にしていたし、犬のは声を衝撃波にしてた。特殊能力って、影法師の特権じゃなかったのか。
なるほど。で、こいつは分離と合体能力、てわけか。なら、たぶん、どこかに心臓部みたいのがあるんだろう。
……ゲームみたいで、困る。
カラカラカラカラ!
全身骨格は一際高く鳴くと、全身をバラバラにしてきた。全身を使っての攻撃かよ。彼女と二手に分かれて飛びのく。
「カナシー!」飛んでくる骨を防御しながら叫ぶ。
「次に合体した時に狙う! 君は!」
バチィ! 顎をカチ上げられた。んのやろぉ。
「君は、その瞬間、影縛りで固めてくれ!」
距離が開いてしまうと、カナシーのウィスパーボイスは届かない。
……頼んだよ、カナシー。
おれは四方の骨を蹴りと虎徹で振り払い、一瞬の間を作る。
―集中。
虎徹が青白い光を帯びる。
空中に浮いた漆黒の頭骨は、それを見て怯んだか、キィ! と叫んで地面に合体しはじめた。
「今だ! カナシー!」叫ぶと同時に跳躍。
カラカラカラ! 嗤ってやがる。動くって事は……ダメか?
カラカラ、カ、カ……。
いや!
止まった! ナイス、カナシー! カゲの真っ向に躍り出、真一文字に虎徹を振り下ろす。
でぇぇっ!
ジャ、キィィン!!
クルルルゥゥッ……!
奇妙な鳴き声と共に、化石のカゲは崩れた。黒い輪郭が、白い背景に溶けていく。
……やった……か。
現実世界に戻って、おれ達は白く枯れた芝生に囲まれた中庭のベンチに腰掛けた。ため息とともに缶コーヒーを飲む。
「はぁぁ。なんか、その、ごめん」コーヒーで温められた吐息が、冷えた外気に触れて、白い霧のようになる。
「え…?」ホットココアを握りしめた彼女は、不思議そうな顔でおれをみつめる。
「や、その、デート、おれ、おれから誘え無くて全然ダメダメだったし、しかもカゲが出てくるとか、ホント、すみませんっていうか」
「そ、そんな……」ふるふると首を振りながら、彼女はおれの手に小さな手を重ねた。
「もう、いいの……それに……」
「それに?」
「その、何だか、二人きりだったの……嬉しくて……」ふふふ、と笑ってくれている。被っている毛糸の帽子のてっぺんに付いたポンポンが、小気味よく揺れる。
「そ、そっか……」ははは。と笑いを返す。
そっか。なら、いいや。君が楽しいなら、世界が楽しく見えるから、おれ。
明日からは、再び新学期が始まる。
教室に通う日々が、また始まる。
おれに、シュートの不在を確かめさせるかのように。




