太陽と月と疑惑と。
もう一度、走ることができたら。
― おれの人生、にがじょっぱい。
……喩えて言おう。
醤油をちょっと垂らした大根おろしが横に添えられている、香ばしく焼き上げられた、脂がたっぷりのったサンマ……の、ハラワタだ。
苦くてしょっぱい。
最初からそれが目当てならともかく、甘くて酸っぱい人生を心のどこかで期待していると……結構手痛い。
箪笥の角に、親指をぶつけるくらいには。
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日向秀人は、今日も輝いている。
秀人が「おはよっ」って言って教室のドアを開け入ってきた瞬間、まだ低血圧な朝の教室に、明るさが幾分、足されたんじゃないかっていうほど。秀人は、すれ違うクラスメートに爽やか挨拶をさらさらと振りまきながら、英単語をブツブツと暗記中のおれの席に近づいてくる。
「や、マヒロ、今日もイケてるね」
「お前がな」
ったく。朝から、その純度百%の笑顔を見せられると、おれはもう、それだけでクラクラする。いや、性的な意味ではなく。秀人は自分の荷物も降ろさず、まだ席の当人が登校してきていない、おれの眼の前の空席に腰を降ろした。明るい色の天然パーマが朝の光を反射して、揺れる。
「なんだよ、朝から英単語帳とにらめっこしてさ。『おはようシュート、今日も張り切って行こうぜ』みたいの、ないの?」と、事もなげにさらりと言った。
今日の三時間目の英語テストに全くの無勉強で挑んで百点取れるのはお前だけだ。バカめ。いや。
「ごめんな天才野郎」
「えー、マヒロ、テンション低すぎ。いつもだけどさ。マヒロって低血圧だっけ?」
「違うし。ごめん、昨日も言ったけど、おれ今回マジでやばいんだ、今日のテスト後にしてくんない? そのテンション」
「えぇー……分かったよ……」本気で残念そうにそう言うと、シュートはすっくと立ちあがった。
「おれ、ヨシカに挨拶してくるね」
「学校来て、最初にしとけ。それは」
「だいじょぶだよ、マヒロもヨシカも好きだから、さ。また後でね」
立ちあがったシュートは鞄を自分の席に置くと、続々と入ってくるクラスメートに「おはよっ」と言いながら、教室の外へ颯爽と駆けて行った。
「男に好きとか言うな。バカ」
三時間目のテストは、クラスの平均点が五十九点という、難度の高いものだった。おれは必死こいて何とか九十二点。シュートはクラス唯一の満点だった。いつも通りだ。
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日向秀人は光、太陽だ。
いつも地元じゃ負け知らず。へたすりゃ地球で負け知らず。十二月二十四日、聖クリスマス生まれ。サンタが日本に寄越した小粋なプレゼント。
勉強は授業中しかしてないのに成績優秀、全国模試でトップレベル。部活に所属してないけど運動神経抜群、たまに運動部の助っ人に呼ばれてる。持ち前の明るさで話しかけやすいし、人懐っこくて積極的に他人に話しかける上に、喋りも上手くて対人関係良好。
父親は国立大学の教授で母親は弁護士、海外に留学中の美人の姉がいる。本人は均整整ったスタイル、ピアニストみたいな長く美しい手と、目元は涼しげだけどパッチリ開いた二重の眼が特徴の爽やか系イケメンで、おまけに生徒会長。
街を歩けば奇麗なおねぃさんに「ぼく、どこ行くの?」と声をかけられ、友だちの家に行けば友だちのお母さんに「秀人クンみたいな子ども、欲しいわぁ」とか言われ、学校でだってもちろんモテモテ、それどころか他校にも秀人を好きな女子がいる。後輩の女の子なんて、もう「日向しゃん♡」って呼んでるし、さらには女教師のうち数人は、あからさまに秀人を贔屓にしている、そんな有様。
しかし、高一の夏から、同じ生徒会に所属していた才色兼備の同級生と付き合い始め、現在進行形でラブい。眩しすぎる。お前は少女漫画の登場人物か。誰に届け、なんだ。人生甘口すぎるだろ。いっそ殴りたい。
絶対、男子を敵に回すタイプ……なのだが、男子は『日向秀人と一緒にいると、無数の女子にもお近づきになれる』という魅力的すぎる特典があるため、秀人に近づきたがる男子は、むしろ多い。何だかんだ言って、男子高校生は心のどこかでは……モテたいのだ。切実に。
そして近づいたが最後、秀人のグウの音も出ない聖人っぷりにやられて、爽やか度がプラスされて帰ってくる。
男子生徒Aの証言・「日向? 良いヤツじゃね? も、信じらんねぇくらい善人っていうか…何かアレだ、車に轢かれそうな仔猫とか助けて死んじゃいそうなタイプ? つうの?」
まるで無自覚の宗教団体だ。ビフォアアフター、匠の技。しかし、そんなこんなで男友達も多かったりする。すなわち高校生の中でも最上階級、「友だちを選べる部類の人間」だ。
新月真大は影、月だ。
いつも地元じゃ戦ってこなかった。八月十五日、終戦記念日生まれ。誕生日を素直に祝っていいのか、戦没者の為に黙祷すべきなのか……毎年、悩む。
二年前に死んだ父さんは『誰かのことを思える広い心を』と「真大」と名づけてくれたけど、少し荷が重い。成績は上の下、野球部を退部済、対人関係やや難あり。おれの自己評価だけど。
唯一の肉親の母さんは図書館司書。定期テストではだいたいいつもクラスで一ケタだけど、頭がいいわけじゃないから、いつも必死で勉強しないといけないし、好きだから、というよりは途中で投げ出すのが嫌で続けていた野球でもレギュラーにはなれず、それが悔しくて懸命に自主トレに励んだが、逆に練習のしすぎでオーバーワーク、脚の腱を切ってしまい、スポーツができなくなったため、退部した。
今でも、速く走ることはできない。それで、野球を忘れるため、今は勉強に必死で打ち込んでいるが、それでも最高はクラス四位。
バラエティー番組も見ないし、会話のネタなんてのも持っておらず、しかも大昔のラジオ番組の再放送が大好きで、おれが分かるネタのほとんどは、酔っ払いのおじさんが大好きな、昭和初期、中期のものだ。悲しいかな、それがおれの性分で。
だから上手に人と話す自信がなくて、自分から人に話しかけられない。もちろん女の子と付き合ったことなんて無いし、かつては野球の練習に明け暮れ、今は慣れない炊事洗濯で荒れたゴツい手は、女の子の手なんて握ったことどころか、触ったこともない。
……たぶん、この先も。
嗚呼、にがじょっぱい。
にも関わらず、おれ、新月真大と、日向秀人は、仲がいい。
というよりは、シュートがおれに寄ってくる。純度百%の笑顔を持って。小学校三年生、転校先の小学校で、隣の席になってからの腐れ縁が延々だ。
二人はコンビ。美男子っぽい方と、フナ虫っぽい方。
あ、自分で言ったけど、フナ虫って凹む。磯にいる便所虫の亜種、みたいなヤツ。
全然希少種ではない。
そんなおれは、シュートといると、いつも凄く敵わない悔しさと、シュートが側にいてくれる嬉しさで、心がゴチャゴチャになる。
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昼休み。おれとシュートは誰もいない、教室のある校舎とは別館建ての、美術アトリエ校舎のベンチに並んで座り、学食パンを齧っていた。
体育館に続く簡易アーケードの向こうに見える、秋の校庭は銀杏が色づき始めているけれど、ここは陽だまりになっていて、制服のセーターを着ていると、黙っていても少し暑い。おれは十六茶をアイスにしなかったことを後悔した。
しかし、サッカーボール一つぶんの間を開け、横に座っているシュートは、セーターの上に制服のジャケットも羽織っているのに、涼しげな顔でリプトンのレモンティーを飲んでいる。
本人いわく「生徒会長が必要になった時、誰でもおれが分かるように」とかで、生徒会長のバッジを着けたジャケットを夏でも脱がない。脱衣麻雀やっても有利だ。
なお、こいつはヨシカちゃんという学年一、二を争う美人の彼女がありながら、昼飯は大抵おれと食う。ヨシカちゃんといろよ、とおれがいうと「大丈夫だよ、マヒロがいないとこで仲良くしてるからさ」とかいいやがる。鼻毛抜いたろか。
「そうそう、マヒロ」
レモンティを飲み干し、サンドイッチを食べ終えたシュートは、胸ポケットから派手な色の紙きれを取り出し、話しだした。
「オリカミさんって人と、話したことある? 今日、なんか手紙渡されたけど、おれ、話したこと無くて」
「いや、おれも知らんけど。てっか、その人うちの学校?」
おれも焼きそばパンを食い終え、お茶を飲む。あぁ、暑い。
「うん、うちの学校。でもおれ、話したことも無いから、どんな人かマヒロが知ってればな、って思ったんだけど……ええと、二年五組。あ、同い年か」
シュートの手元から、やたらと丸いカラフルな文字が一瞬、見えてしまった。
「手紙って、それラブレター? 今どき?」
「ううん。ただLINEしましょう、って書いてあっただけ。それとIDね」
「あー」
思えばおれは、中学生から数えたら、何十回、こいつと見知らぬ女の子の橋渡しをやったんだろう。
見知らぬ女の子がオズオズと話しかけてきたら、それは甘い甘ぁい告白タイムか? 否、おれがシュートとヨシカちゃんの現在状況を説明するタイムだ。にがじょっぱいにもほどがある。
「おれにはヨシカがいるんだけどなぁぁ」と歎息する。
「LINEくらいいんじゃねぇの?」
「ダメだよ。おれにその気がないのに、変に期待とかさせたら。この人にもヨシカにも失礼だよ……。でも、ゴメンナサイ言いに行って辛い顔されるの、キツイなぁ」
なら無視すりゃいいのに、と思うのだが、シュートは毎回、相手のところに顔を出して『おれは彼女がいて、彼女が大切なので、そういうことはできません、ごめんなさい、でも嬉しかったです』と説明し、謝りに行く。妙に義理がたいというか、頭が固いというか。こいつの良いところは、毎回本当に苦しむところと、ヨシカちゃんが好きだ、というところからは絶対に動かない所。
ま、これだけバラ色の人生送ってたら、行く道のところどころで痛い思いをしてくれないと、こっちが報われない。でも、シュートが苦しむのは、あまり見たくない。って、なんだ、矛盾してるぞ、おれ。
「で、さ?」
ひとしきり、それについて考えた後、シュートはおれをヒョイ、と覗き込んできた。目に輝きが戻っている。いつものアレが始まる。
「……んだよ」
「や、マヒロもいい加減、好きな女の子、できたかなぁ~っていう、ね」
やはり、か。
「なんていうか、お前もしつこいね。いねぇし、おれを好きになってくれる子もいねぇよ」
「まぁたそんなこと言ってぇー。子どもの頃から変わらなすぎー。渋いイケメンが逃げるなよー、マヒロぉっ」
「逃げてねぇし。あと今も子どもだし、イケメンはお前だろ。ていうか、おれはお前にあと何回、さっきの台詞を言うんだろな。ほれ、休み終わるぞ。戻んぞ教室」
「あ、ちょっとマヒロぉ。まだ全然平気だって。ねぇ、本気で思ってるの? マヒロかっこいいし良いやつなんだよ? ってマヒロ! 待ってってばー!」
いつか気付かせてやりたい、おれはお前に好かれる価値なんか、ないんだってことを。
おれは、お前に見合わないおれが、許せないんだ。
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「いたいた。マヒロくんっ」
放課後、シュートに頼まれていた、生徒会の事務仕事の手伝いをするため、教室で帰り支度をしていたおれに、違うクラスのシュートの彼女、生徒会筆頭書記員、ヨシカちゃんが話しかけてきた。
本名、美鈴美香。高校二年生、属性、光。って、今おれが決めたけど。御父さんはどこだかの官僚とやらで、絵にかいたような箱入り、しかも箱を開けたら、かぐや姫よろしく美しい女の子が入っていた。そんな女の子。
四字熟語で表してみよう。
文武両道、品行方正、才色兼備。
シュートを僅かに劣化させて、女の子にしたら、多分こんな感じ。
ヨシカちゃんとシュート、この二人がうちの学校の最強のカップルである事に疑いの余地はない、というか疑ったら卑屈に思われるって。
おれのすぐ脇まで駆けて来たヨシカちゃんから、ふ、と仄かに甘い香りがする。美人の香りがする。イッツ・美人スメル。
教室には部活のない、数人の生徒しか残っていない。
ヨシカちゃんはカーディガンを脱いで腰に巻き、ワイシャツの第一ボタンを外し、袖を肘まで捲くっている。スカートは膝から三分の二の長さ。着こなしより動きやすさを重視した着方、でも自然と目の行く着こなしを、すらりと手足の長い、小顔の九頭身ポニーテール女子がしている。君はどこのモデルだ、と突っ込みたい。まったく、今まで何人の男がヨシカちゃんを目で追いかけたんだろう。
「お、ヨシカちゃん、おつ。シュートならもう生徒会室行ったよ」
「知ってる。ねぇマヒロくん、ちょっとだけ、いい? 秀人には私、マヒロくんと話あるからって言っておいたから」うわ、手回しのよろしい事で……。
「あ、うん。そういうことなら。少し」
シュートほどではないが、人生の表街道を本人は無意識で、ただただ走ってきた感のあるヨシカちゃんに対面する時も、おれは少し、腰が引けている。これはモテない男のカルマか。
風を切る様に先導して歩くヨシカちゃんの後ろを、トボトボとついていく。陽に当たった、奇麗なうなじが見える。
ヨシカちゃんは、おれを使われていない進路指導室に案内し、先におれを入れて、後ろ手で扉を閉めた。静かな教室は窓から西日が差し込み、校庭で練習しているサッカー部の掛け声が聞こえてくる。
― オラァ、アガレアガレアガレ!
自分が野球をやっていた時は感じなかったが、スポーツをやっている高校生特有の、低く太く荒いガラガラ声は、聞いていると、少し胃が痛くなる。
「ごめんね。時間とらせて。ねぇ、あのね、マヒロくん、この子、どう思う?」
そう言いながらヨシカちゃんは携帯を取り出し、軽く操作して、おれに見せた。
差し出された可愛らしいカバーがついた携帯には、どこかの大学の学園祭、らしきところにいるヨシカちゃんと……ヨシカちゃんに後ろから抱きつかれて、恥ずかしそうに少し、俯いている女の子、が写っている。
休日らしいのに、紺のブラウスの制服を着て、深い紺に近い色の髪を後ろで一つに束ねた、色白で、ヨシカちゃんに抱きつかれているだけで儚く折れてしまいそうな、か細い身体の女の子だった。
チラリと見える、灰色がかった暗く青い瞳に、おれはどこか、でも強く、引き寄せられた。
「あ、ああ。可愛いね。その、うんと、なんだ、上手く言えなくてごめんだけど、なんていうか、おれは好感、だよ」本当に。
「ほんと? マヒロくん、そう思う?」
「ウソつかないっしょ。そんな咄嗟だし」
「よかった。そうだね、マヒロくん、ウソついたの、みたことないもんね。シュートも言ってた」
「一回ウソついたら、絶対もう一回つかなきゃいけなくなるから」
「ふふ、マヒロくんらしい。ね、マヒロくん、今彼女いないよね」
「今も昔も未来も、ね」
「またまたぁ。ふふっ」陽を浴びて笑う、ヨシカちゃんの白い歯が眩しい。
「ね、本題。あのね、今度私と秀人とマヒロくんとこの子、四人で遊び行かない?」
― サガレサガレサガレ、ソッコークンゾサガレ!
サッカー部の掛け声が聞こえている。
「はぁ? 何言ってんの、ヨシカちゃん」
「あのね、この子、わたしの中学の時の友だちなんだけどね、こないだ会った時、つい流れでマヒロくんの写メ見せちゃったら、マヒロくんを素敵な人だねって言うの」
「写メ見せた? おれの? ねぇ、やめてよそういうの。知らない人に顔とか、見られたくないんだ」
「ごめん。ごめんね? たまたま、流れっていうか。ほんとごめん。マヒロくんそういうの嫌いだって分かってたけど、この子、ずっと長い友達だから、つい……ごめんね、本当に」
「はぁ。もういいけど。もうしないで」
「うん。もうしないね、ごめん。でもね、この子、自分からそんなこと言わない子なの。ずっと友だちだけど今まで恋バナ、あんまりしたことないくらいの。ねぇ、来週の土曜とか、だめかな?」
― ダセダセダセ! クリアクリア!
「はは、ムリっしょそんなの。ていうかそんな大人しい子がおれと遊びたいって? 会ったこともない男、しかもおれに?」
「うぅん、話してみたいな、って言ってたの。だから私、カナシーが、ってその子のあだ名なんだけど、カナシーがそんなこと言うなんてすごく珍しいから、嬉しくて、今度聞いてみるねって。カナシー、その人に迷惑だから良い、って言ってたんだけどね……」
「ご明察。だいたい、おれみたいな恋愛偏差値底辺の男に会っても仕方ないって。普通、女の子が話したいって思うのはシュートでしょ、どう考えても」
「そんなこと無いよ。カナシーじゃないけど、マヒロくんって素敵だよ? 誰にでも優しいし、新月君って良いよねって子、結構いるよ? ほんとに」
ヨシカちゃんの視線は、真っ直ぐにおれを見ている。
少しも濁ってない、人の手に触れられない宝石の様な美しい目。耐えられず、目を逸らしてしまう。
「ごめん、そういうのマジやめてくれる? ねぇ、悪いけどおれ、もう行くよ」
「待ってマヒロくん。待って」慌てた様子で彼女は、床に置いた鞄を拾い直し行こうとしていた、おれの手を取って、放さない。
「……何? まだ、何かあんの?」
「うん、あのね。あの」
そう言いつつ、ヨシカちゃんの大きな目が泳ぐ。言葉を宙に探すように。
「……どしたの?」
「あのね。こんなこと考えてるの、ダメだなって思うんだけどね。あのね……」
長く細い腕で、腰に巻いたカーディガンの裾を引っ張っている。憂いを帯びた瞳が、艶っぽい。って、いやいや。
「うん、なに?」
「あの。マヒロくんって、あの、ゲイ、だったりしない、よね?」
― ナイッシュー!! イェー!
「……はぁぁ?」
「ごめんねごめんね、変なこと言ってごめん。ほんとごめんね、私バカなこと言ってるね、ごめんね」
血色のいいヨシカちゃんの顔が、すうっと白くなっていく。間違えて恥ずかしがっている、とかの類じゃなくて、頭で整理できてないことが、言葉に出てしまった焦りのような。
「や、なんつうの……」動揺が隠せない。今度はおれが言葉を探す。「その、正直、意外すぎて戸惑った。え、おれ、そんなん見えんの?」
「違うの。違うの。ただ、その、ね」
「……シュートと、いつも一緒いたりするから?」
「違うの。それは違うの。そんなことなくて……」
いや、絶対それは入ってる。ていうか、意外なのは疑われたのがアイツじゃなくて、おれ、ってことなんだけど。彼氏がゲイより、その友達がゲイだ、ってなった方が、そりゃきみには都合がいい、だろうけどさ。
「マヒロくん、その、かっこいいのに、そういうこと触れると、嫌がるし、女の子と楽しそうに話してるの、見たこと無いし……」
シュートの横で、あいつのコミュニケーション能力を見てれば、そうなるよ。おれっていう木彫り人形がいくら頑張っても、その横のミケランジェロの彫刻を引き立てるだけ、っていうか。そんなの見てたら、おれなんか、もう叫びたくなるほど、情けないっていうか……。
「ごめんね、私、ちょっと疲れてるのかも。変なこと聞いてごめんね、ほんと、なんでもないの、忘れて?」
いやいやいや。忘れられるわきゃないでしょ。ってヨシカちゃんに口に出して言われた、って事は、たぶん女子の四十人くらいには、広まってんのかな? ゲイ疑惑が。おいおいおい、参るぞおい。普通だし、おまけに童貞なんですけどね。……あぁ、にがじょっぱいわぁ。
「あはは、ごめんね、つまんないことで時間とらせちゃって。生徒会、手伝ってくれるんだよね。一緒行こ? ごめんね、秀人に私、謝んなくっちゃ」
いや、あの、このままだとおれ、ゲイ扱いのままですよね。どーしろと。あーもうめんどくさい。
「あのさ、ヨシカちゃん」
おれは血が出そうな勢いで頭をかきつつ、くるりと後ろを向いて指導室を出て行こうとしたヨシカちゃんを引きとめた。
「え、なに?」
「悪い、その、さっきの話、来週の土曜? おれ、行けるんだけど?」
「さっき?」
「その、さ……四人で、遊び、行くの」
― バッチコーイッ! 今のは、野球部。
来いと言われて、おれは何処に行ってしまうのか。
もしや、大人の階段を昇るのか。
昇るのは死刑執行の十三階段な気がするが。
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― 土曜日。午後一時四十五分。駅前の彫像の前。
待ち合わせの十五分前には、まだ誰も来ていなかった。シュートにしては、珍しい。あいつと待ち合わせると、あいつは大抵、二十分前にはもう、待ち合わせ場所に来てなにやら小難しい本を読んで待ってるのに。で、おれが十五分前に来ると、ぽん、と本を閉じ、おれに向かって大きく手を振る。凄く嬉しそうに。
……やっぱり、ゲイ疑惑はおれじゃなくてあいつにかかるべき、じゃないのか。理不尽。この世に存在する見えない格差の一つだ。
それに、ヨシカちゃんも、待ち合わせには早めに来る人だったはずだ。
以前、三人で水族館に行った時があって、おれが、今日と同じように十五分前に待ち合わせ場所に着いたら、おれが一番遅かったってことがあった。
二人とも、今日はなにかあったのかな。
見上げた空に浮かんだ雲はどことなく重そうに、上空の風にゆっくり流されている。
彫像に寄りかかるようにして、待つ。
五分前になったら、シュートに電話をかけよう。たぶん、なにかあったんだろう。いかに完璧超人のアイツにも、ミスがないわけではない。
彫像に寄りかかってみると、石の冷たさが背中に伝わる。おれがこの街に引っ越してくるずっと前からここにあった、ハイモダンすぎて意味不明な形のこの彫像は、待ち合わせスポットとしてけっこう有名で、月末の土曜日の午後なんて、かなり賑わっている。
待ち合わせに来ている人たちは、みんな、携帯電話を見つめているか、ヘッドフォンで音楽を聴いてるか、電話をかけているか、喫煙スペースで煙草を吸っているか、そんな風にして時間をつぶし、相手を待っている。
手持無沙汰なのは、おれだけだ。なんとなく、性分として、スマートフォンを眺めるのは、おれには合わない。なんでみんな、人が目の前にいるのに、ツイッターやフェイスブックを平然と見ていられるんだろう。
なんて意見は、おれたち世代では恐ろしくマイノリティで、おれ以外はたぶん絶滅した。さながら、おれは現代のシーラカンス。特に貴重では無いけど。
十年前、暇つぶしの道具は携帯だった。今はスマホだ。十年後は、何になっているんだろう。変わって行くのか、なにもかもが。
ぼうっとそんなことを考えてると、足元がふわふわする。現実感がズレる感じ。そう言えば、シュートも、あまりスマートフォンをいじらないタイプ、だと思うけど。それを言うとあいつはまた、きっと。などと思っていた時だった。
「あの…シンゲツマヒロさん、です、よね…?」
「は」聞き慣れない声で、いきなり名前を呼ばれた。
少しビビりながら振り向くと、白いストローハットを深めに被った、白いカットソーワンピースに、ベルボトム、という出で立ちの女性が立っていた。腰には赤いポーチをベルトで止めて。深い紺の髪を前に垂らして、表情がよく見えない。深い紺の髪? あれ? この人、写真の……?
「あ。ひょっとして、カナシー、さん?」
「……はい…」
いや、そんな消え入りそうな声で言われても。
「あ、ははは、はじめまして。新月真大、です」
「……知ってます…」ですよね。
「あの、本名とか、聞いても?」
「椎名…要…」しいな、かなめ。シーカナ。え? なんでカナシー?
― ピーピーピー。説明不足。解読不能。
「あ、あぁ。椎名さん、かぁ。苗字が要さん、なのかな、って思ってました。カナシー、だったから」冷や汗が出る。
「…そう、ですか…」沈黙。
― 説明、終了。
……すみません。おれ、この空気、無理です……
ヨシカちゃんに紹介してもらえないと、おれ、この人と話せる自信、ないです。だって、ホラ、帽子も脱がずに強烈な『話しかけないで』ってオーラが出てますって。傍目から見たら、おれら、待ち合わせ同士に見えませんて。赤の他人通り越して、赤銅色の他人ですて。あの、阿修羅とかの顔面の色だよ。おれが見知らぬ女の子と二人きりって。チンパンジーに因数分解やらせるより無理がある。うっきっき。いや、チンパンはうっきっきとは言わんか?
んなことを考えてるうちに、あぁ、もう彼女の目線は一切、おれに向けられて、ない。何、見てるんですか。虚空の果て、ですか。あなた、そんなん見えるんですか。せめて、分厚い本でも読んでて下さいよ。文学少女って、萌えるらしいですよ。いや……ごめんなさい、この状況では無理かも。ていうか、ヨシカちゃん、遅くないですか。シュートもだ。なんでこんな時に限って遅れるんだ、あいつは。アホか。いや天才だけど。
……何の会話もないまま、五分が過ぎた。
ダメだ、この沈黙は、気まずすぎる。これから遊びに行く同士なのに、一切の会話がないとか、不自然すぎる。よし。話しかけるぞ。何か。何を言おう。考えろ、おれの脳内CPU……! むむっ! 閃いた。額に閃光が走ったね。服はそれ、お洒落なヤツですよね。デート用のヤツ、ですよね?
「その服、似合ってますね。良いセンスしてるなぁ。どこで買われたんですか?」
「お母さん、買ってきた、から…」
― 会話、終了。
……待ち合わせ、五分前。
諸行無常、盛者必衰、時は誰しもに平等なはず、だけど、今、この瞬間は、物凄く長ぁく感じる。永遠と書いて「とわ」と読んでしまいそうなほど長い。なにしろ、抜群に気まずい。人生の中で、これほど時間を長く感じたことは、もう、そうそうない気がする。
むしろ、ここまでの苦悶に耐えた自分を自分で褒めてあげたい。心の中のおれは、舞台上のおれに向け、スタンディングオベーション、万雷の拍手を送っている。心の拍手、エア拍手を。ブラヴォー。ブラヴォー!
椎名さんは、相変わらずおれの方を向かず、彫像をじぃっ、と睨んでいる。
なんであろうか。彫像を通して、何か見えるのか。もしくは、おれが見えないのか。見たくないのか。分からん。
おれは、自分のゲイ疑惑を晴らすために、こんな苦行をしなきゃならんのか。気まずさの苦行。
忘れ物を取りに放課後の教室に入ったら、中で見知らぬカップルがイチャついていた、みたいな。入れませんて。でもココ、おれの教室だし、みたいな。
ていうか、なんでこんな気まずい? いくらおれでも、今まで、こんなに人と話せないことなんて、なかったよね?
いや……違う。
いつもは、シュートが横にいたんだ。そうだ。いつも、おれから話を振ったことなんて、なかった。おれはシュートの話についていけば、それでよかったんだ。でも今は。
― ぶぅぅん。
着信だ。表示名は「日向 秀人」。
「もしもしぃ。マヒロ?」
携帯電話から、親友ののんきな声が聞こえる。親友のピンチにお前は。若干、腹が立つ。
「もしもし。おいシュート、お前どうしたんだよ今日」
「あはは、早口だね。焦ってる? ひょっとして」
「何が焦ってる? だ、お前が焦れ、遅刻しそうなんだろ」
「ぶぶー、実はもうとっくに着いてます」
「は? どこだし」
辺りを見回す。いない。何言ってんだこいつ。
「いやぁ、二人が見えるとこ?」
「頼む、わけわかんないこと言ってないで早く来てくれ、ヨシカちゃんも来てないんだ」ていうか、おれがこの人と二人ってもう全然アウトだよ。
「だってヨシカ、おれといるからねー」
「……ごめん。けっこうおれ、ギリギリだわ。お前、どこにいるの?」
「あのね、マヒロ。今日はさ、カナシーと二人で楽しんでおいでよ」
「お前、何言ってんの?」
「シングルデートだよ。マヒロ。マヒロはさ、女の子と二人っきりってなかったろ、今まで。だからね?」
「……本気で言ってるのか。それ。お前?」
背筋が寒くなってきた。あの、どこを見ているのか分からない、アイアンメイデンと……二人きり? 悪すぎる冗談だ。
「はは、もうずっと、マヒロにウソ、ついてなぃなぁ」
振り返って椎名さんを見ると、スマートフォンを耳にあて、顔を真っ赤にしている。おれと同じように、ヨシカちゃんから着信があったんだろう。
「違うわよ…ウソでしょヨシカ…無理に決まってる…だって、そんなの聞いてない…」
泣きだしそうな彼女の声が、聞こえてくる。片手でストローハットをぎゅっ、と抱きしめて。
うわ。さっきまでの、あのポーカーフェイス、っていうか鉄面皮みたいな顔で、こんな必死な表情、するんだ。泣きだしそうな顔は、ごめん、見てると可愛い。
ドックン。
写メじゃ分からなかった、生きたカナシーの表情。あれ、ひょっとして、おれを見なかったのは、興味がないから、じゃなくて、照れていた、のか。あー、耳まで真っ赤だよ。可愛いな。
ドックン。
あれ? いま、おれ。いや、さっきも。おれ、なんつった? パードゥン?
「大丈夫だよマヒロ。脈ありだ。おれが保証する」
― でも、なんでおれなんだ?
それは言葉には出せない。
「最高の善なる悟性は、恐怖を持たないこと。ニーチェだよ。マヒロ。きみならきっとできる」
電話は、そこで切れた。






