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雨の音

作者: 笹峰霧子

五感の中で一番心打たれるのはかつての経験で、耳のような気がする。

何故かというと、私は井の中の蛙で、旅行などに出かけて素晴らしい景色をみたことがないからだ。

その代わり、耳から入るものは家の中にいても感じられる。

 

 学生時代のことであるが……、


 私は母の知り合いの町医者である眼科医に頼み込んで一間借りていた。

そこは静かな町なかでも一番の繁華な通りに面していて、当時睡眠に過敏で引っ越しを重ねていた私はどういうわけか、三年生から卒業までの二年間ずっとその家に住み続けることができた。

次第に家の前の大通りを走る車の音も気にならず安眠できた。


 当時私は大学で軽音楽部と宗教部に所属していた。どちらも物珍しさから選んだ部で大してのりのりではなかった。

軽音楽部はピアノが弾けるということで入学早々誘われて入部したものの、ジャズは楽譜がないのでアドリブで連中の演奏に合わせることはできず早々に退部したのたが、たった一つ良かったと思えるのは良き友を得たことだった。

フラダンスを踊る女性グループの一人である。


 二年生が終わり三年になって引っ越しをした女医さんの家の二階にはまだ一間空いている部屋があった。

引っ越し先を探していた軽音楽部のその友が私のいるところに来たいと望んでいたので、私は大家さんに頼んで彼女を入居させてもらうことになった。


 軽音楽部のその友は遠慮がちに毎夜ギターの弾き語りをしていた。

その内私もコードのことを教えてもらい、歌の弾き語りができるほどに全てのコードを覚えた。

毎日夕方になると、二階に併設された白いベランダで私たちはギターを弾いて歌った。


その友とは、彼女が半年遅れの卒業になったので、見送られて私は卒業し実家に帰ることになった。



**

 私はそれまで雨の日が嫌いだった。

 鬱陶しくてなんとも気分が沈んだものだ。

 

 彼女は雨が降る日、部屋の中で一緒にギターを弾き歌っていたとき言った。

「あのパラパラっという音好きなのよね……」


私はじっと耳を澄まして雨の音を聴いた。

雨の音をしみじみ聞いたのは初めてのような気がした。


彼女は夜更かしをするので、三時間目の授業に合わせて起きていたようだ。

入学した当初はまだおかっぱ頭で素顔の彼女は子供っぽかったが、私の借りた家に入居した時にはすっかり成熟した美しい女性へと変貌していた。



 間借りしている二階の狭い廊下には、水道の蛇口がある洗い場がついていて、私達はそこで自炊していた。

自分が何を料理していたのかよく覚えていないのだけれど、彼女が乏しい仕送りでまかなっている*鶏肉のもつのごった煮を作っていたのを思い出す。


 身体が弱かった私は、予習復習する以外の時間帯にはよく布団の中に入っていた。

彼女が料理を始めると、フライパンに何かを入れてはじける音を私は快い気分で聞いていた。

そして水道から水が流れ落ちる時の、あのしゃらしゃらっと音立てるのも……。



**

 実家に帰ってから自分で料理するとき、水道の水が流れる音をきくといいなあと思うし、雨がパラパラっと屋根や庭木に落ちる音に耳を澄まして聞いている。

あれからもう何十年経っただろうか。

あの友とは文通をすることも年賀状を出し合うこともしていないので彼女の音信は分からない。


遅く入学した私が年齢のことを明らかにしておらず、「言っていないことあるのよ」と言ったら、わたしにも秘密があるの……、と彼女は言った。



 若き日の友の、他人に言えないことって何だったのだろう。

時々、もう知りえない遠い記憶の中の疑問を思い出すことがある。


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― 新着の感想 ―
[一言] 文章全体が落ち着いた薄茶色に見えて心地よいです。 水の色さえ輝かず、それが好きです。 上手く表現出来ませんが、語り口が色のない、人のいない建物と街を見せてくれます。ありがとうございました。
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