先生の香水
「先生」
わたしが後ろから声をかけると、先生はいつものように低い声で返事をした。窓の外は真っ暗で、ぽつんぽつんとある街灯がひどく寂しく見えた。
「今日なにかつけてる?」
「すまん、くさかったか」
「ううん。いいにおい」
へへっとわたしが笑うと、「なんか照れるな」と言って先生も笑った。
ラジオから流れてくるボン・ジョヴィの力強い歌声。それにのって運転席から後部座席に座るわたしの所まで、爽やかな香りが誰もいなくなった車内を泳いだ。
「ねえ、ひとつ聞いていい」
答える代わりに先生はラジオのボリュームを少し下げた。わたしは、声が震えないように制服のスカートをぎゅっと握った。「もしかして、この後デート?」
すー、はー、すー、はー。
緊張を紛らわすように深呼吸をしていると、先生の匂いがくるくると肺を回って、わたしの細胞のひとつになるような気がした。
「……ホント、鼻が利くな。菊田、他のやつには内緒にしてくれよ。まあ、おまえは口がかたいからな。いらん心配だったか」
先生は一拍おいて、わたしの好きないつもの声で答えた。 どんなひと?歳は先生よりも上、それとも下?どこで知り合ったの?
次から次へとパッと浮かぶ質問たちに上から布をかぶせてはロープで縛った。
先生にこの質問をしてわたしは、一体どうするつもりなんだろう。
「うん。先生とわたしだけのひみつね」 先生がハンドルを右にきった。わたしの家まであと数百メートル。この数百メートルが終わったら、先生は彼女のところへ行ってしまう。そんなの、いやだ。
「そういえば、今日の引退試合のとき言ってたよね。勝ったらいいものやるって。わたし、せんせいがつけてる香水がほしい」
「おれの香水?だめだよ。使いかけだし、もらいもんだからな。こんなものより、もっといいもんやるから」
車が家の前で止まる。わたしは早口で捲したてた。
「ううん、わたしはそれがいい。もう頂戴なんて言わないから、すこしつけさせて」
先生はすこし困ったように笑うと、「じゃあすこしだけな」と言って香水をわたしの手首につけてくれた。
わたしが車を降りると、「菊田、また明日」と軽く手を挙げて先生は行ってしまった。
きっと今日、先生は彼女とふたりで夜を明かすだろう。
だけど、せめて匂いだけはわたしと共に。