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灰色の町で、君に名前を呼ばれるまで

作者: 冬野 灯
掲載日:2026/05/26


エルメア王国の北端、灰色の街リダルは、冬の長い土地だった。


春は短く、夏ですら風は冷たい。石造りの家々は煤で黒ずみ、人々は皆、寒さと貧しさに心を削られて生きている。


だから、この街では“普通ではないもの”は嫌われた。


ミナが嫌われていた理由も、それだけだった。


生まれつき、髪の半分が白い。

左目の色だけが薄い灰色。

さらに幼い頃の熱病の後遺症で、緊張すると言葉がつかえる。


ただそれだけ。


それだけなのに、人々は彼女を“呪われた子”と呼んだ。


「見ろよ、白髪の」

「目を合わせると運が落ちるんだって」

「気味悪い……」


子どもは露骨だった。


けれど、大人はもっと残酷だった。


露骨に石を投げたりはしない。

代わりに、見えないように傷つける。


パン屋では最後に売れ残った硬いパンだけを渡される。

洗濯屋では「客が嫌がるから」と追い返される。

市場では値段をごまかされる。


ミナは怒ることができなかった。


自分でも、自分が“嫌がられる理由”を理解してしまっていたからだ。


鏡を見るたび思う。


――たしかに、怖いかもしれない。


白黒まだらの髪。

血色の悪い肌。

愛想のない顔。


うまく笑えない。


昔、一度だけ頑張って笑ったことがある。

すると近所の子どもに泣かれた。


それ以来、ミナは人前で笑うのをやめた。


十七歳になった今では、自分が誰かに好かれる姿なんて想像もできなかった。


だからせめて。せめて役に立つ人間になろうと思った。役に立つなら、ここにいても許されるかもしれないから。


その日も、ミナは夜明け前から畑へ向かっていた。凍った道を歩くたび、靴底から冷気が染みてくる。


畑を管理する老人グレフは、無愛想で厳しい男だった。


「遅い」

「……す、すみません」

「謝る暇があるなら動け」


ミナは頭を下げ、すぐ石拾いを始めた。


春前の畑には凍った石が大量に混じる。

それを一つずつ取り除く地味な作業だ。


腰を曲げ続けるせいで、夕方には背中が焼けるように痛くなる。けれどミナは弱音を吐かなかった。

いや、吐けなかった。


弱音を吐いた瞬間、「役立たず」と言われる気がして怖かったのだ。


昼過ぎ。


空腹で手元がふらついた時、グレフが眉をしかめた。


「飯は」

「……だ、大丈夫です」


嘘だった。昨日からまともに食べていない。すると老人は舌打ちしながら干し芋を放って寄越した。


「倒れられる方が迷惑だ」


ミナは目を丸くした。

誰かに食べ物を“分けてもらった”ことなんて、いつぶりだろう。


「……ありがとう、ございます」


グレフは顔を逸らした。その横顔は、少しだけ不器用に見えた。その日から時々、老人は余り物を寄越してくれるようになった。


ミナは気づいた。優しさって、もっと大きくて綺麗なものだと思っていた。でも本当は、こういう小さなものなのかもしれないと。


春が近づいた頃、畑に新しい働き手が来た。黒髪の青年だった。背が高く、ぶっきらぼうで、目つきが悪い。街の人間ではないとすぐ分かった。


服は古いが質がいい。立ち姿に妙な隙がない。


「ルークだ」


短く名乗り、彼は荷車を軽々持ち上げた。

ミナは小さく会釈する。


「……ミナ、です」


ルークは彼女を見た。その瞬間、ミナの身体が強張る。


――ああ、まただ。


この後、視線が変わる。気味悪そうに目を細める。眉を寄せて距離を取る。そう思った。


けれど。


「ああ」


彼はそれだけ言った。嫌悪も、憐れみもなかった。まるで普通の相手を見るみたいな目だった。ミナはひどく戸惑った。


数日働いて分かったが、ルークは変な男だった。愛想がない。口数も少ない。


けれど、人を傷つけない。


ミナが言葉につまえても待ってくれる。失敗しても怒鳴らない。


ある日、ミナは井戸で水桶を倒してしまった。女たちが笑う。


「またあの子」

「本当にのろまね」


ミナは慌てて桶を拾おうとして、凍った地面で手を滑らせた。


その瞬間。


大きな手が桶を持ち上げた。


「重いだろ」


ルークだった。


「……え」

「持つ」


当たり前みたいに歩き出す。ミナは呆然とした。

どうして。どうしてこの人は、平気なのだろう。怖くないのだろうか。


「あ、あの……」

「転ぶぞ」


ぶっきらぼうな声。

でも、優しかった。


ミナはその夜、一人で泣いた。理由が分からなかった。


ーーいや、本当は分かっていた。嬉しかったのだ。優しくされたことが、普通に扱われたことが。同情や憐れみでもない、本当に普通の優しさ。人として扱われたこと。


そんなことで泣いてしまう自分が、少し情けなかった。


それから二人は少しずつ話すようになった。本当に少しずつ。


「寒いな」

「……はい」

「また手、赤い」

「だ、大丈夫です」

「大丈夫しか言わないな、お前」


そう言われた時、ミナは少し困って笑った。するとルークが一瞬、目を見開いた。


「……お前、笑えるんだな」


ミナの顔が熱くなる。


「す、すみません」

「なんで謝る」


不思議そうな顔だった。

その時、ルークは初めて思った。


――この子は、自分が笑うことすら悪いと思ってるのか。胸の奥が妙に痛んだ。




ルークには妹がいた。昔の話だ。病弱で、周囲から疎まれていた妹。守れなかった。


だからルークは、ミナを見るたび昔を思い出していた。誰にも助けてもらえず、自分が悪いのだと思い込んでいた妹を。だから放っておけなかった。


最初はそれだけだった。


だが気づけば、視線で追っていた。


重い荷物を運んでいると気になる。

無理して働いていると腹が立つ。


ある雨の日。


二人は作業小屋で雨宿りしていた。

雨音が響く中、ルークがふいに聞く。


「なんで、そこまで働く」


ミナは少し黙った。


「……私、何もないので」

「何も?」

「きれいじゃないし、頭もよくないし……魔法も使えないし」


言葉にするたび、自分が空っぽな人間に思えた。


「だから、せめて役に立たないと」


ルークは黙る。

そして低く言った。


「役に立つかどうかで、人間の価値は決まらない」


ミナは目を見開く。そんなこと、誰にも言われたことがなかった。


「お前、誰より働いてるし、嫌なことされても逃げない」


ルークはそこで少し迷った。本当はもっと言いたかった。お前は優しい、と。


でも、まだ言えなかった。代わりにぽつりと呟く。


「……強いよ、お前」


ミナの喉が震えた。強いなんて、一度も言われたことがなかった。彼女はずっと、自分は弱くて醜くて、嫌われるだけの人間だと思っていたから。




その日から、ミナは少しだけルークを目で探すようになった。姿を見つけると安心した。声を聞くと落ち着いた。でも同時に怖かった。


期待してしまうから。


もし嫌われたら、きっと立ち直れない。だからミナは、自分の気持ちに気づかないふりをした。



     ◇



ーーだが冬。


疫病が街を襲った。人々は怯え、誰かを悪者にしたがった。そして矛先はミナに向く。


「呪われた子のせいだ!」


広場で石を投げられた時、ルークが前に立った。


「やめろ」


男たちが怒鳴る。


「庇うのか、その化け物を!」


その瞬間、ルークの拳が男を殴り飛ばした。場が静まる。


「次、ミナに触ったら許さない」


殺気すら滲む声だった。ミナは震えた。嬉しくて。

怖いくらい嬉しくて。誰かが自分のために怒ってくれる。そんなこと、この世界にあると思わなかった。




だがその夜。


ルークは倒れた。疫病だった。


高熱にうなされる彼を見て、人々は離れていく。


「感染るぞ」

「もう駄目だ」


ミナだけは残った。怖くなかったわけじゃない。でも、ルークを一人にする方が怖かった。彼が眠る横で、ミナは何日も看病を続けた。熱で苦しむルークが、朦朧とした声で呟く。


「……なんで、いる」


ミナは震える声で答えた。


「……ルークさんが、私を一人にしなかったから」


彼は薄く笑う。


「馬鹿だな」

「……はい」

「お前も感染る」


ミナは少し黙ってから言った。


「……それでも、いいんです」


そして小さく続けた。


「……大事な人、だから」


言った瞬間、涙が出そうになった。ルークは驚いた顔をした。そして熱に苦しみながらも、どこか幸せそうに笑った。


「……治ったら、ちゃんと聞かせろ」


後にミナは知る。ルークの正体を。彼は元騎士だった。王都で“白狼”と呼ばれた騎士団の一員。だが妹を救えなかったことをきっかけに、騎士団を辞めたのだ。守れなかった後悔から逃げるように、彼はこの街へ流れてきた。



そしてミナと出会った。


春。


疫病は収まり、ルークも回復した。店先で薬草を干すミナを見ながら、彼は静かに言った。


「俺、お前が好きだ」


ミナは泣いた。特別じゃない自分を。醜いと思っていた自分を。そのまま好きだと言ってくれる人がいた。


その涙を見ながら、ルークはようやく思った。


今度こそ、自分は守りたい人を守れたのかもしれないと。


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