灰色の町で、君に名前を呼ばれるまで
エルメア王国の北端、灰色の街リダルは、冬の長い土地だった。
春は短く、夏ですら風は冷たい。石造りの家々は煤で黒ずみ、人々は皆、寒さと貧しさに心を削られて生きている。
だから、この街では“普通ではないもの”は嫌われた。
ミナが嫌われていた理由も、それだけだった。
生まれつき、髪の半分が白い。
左目の色だけが薄い灰色。
さらに幼い頃の熱病の後遺症で、緊張すると言葉がつかえる。
ただそれだけ。
それだけなのに、人々は彼女を“呪われた子”と呼んだ。
「見ろよ、白髪の」
「目を合わせると運が落ちるんだって」
「気味悪い……」
子どもは露骨だった。
けれど、大人はもっと残酷だった。
露骨に石を投げたりはしない。
代わりに、見えないように傷つける。
パン屋では最後に売れ残った硬いパンだけを渡される。
洗濯屋では「客が嫌がるから」と追い返される。
市場では値段をごまかされる。
ミナは怒ることができなかった。
自分でも、自分が“嫌がられる理由”を理解してしまっていたからだ。
鏡を見るたび思う。
――たしかに、怖いかもしれない。
白黒まだらの髪。
血色の悪い肌。
愛想のない顔。
うまく笑えない。
昔、一度だけ頑張って笑ったことがある。
すると近所の子どもに泣かれた。
それ以来、ミナは人前で笑うのをやめた。
十七歳になった今では、自分が誰かに好かれる姿なんて想像もできなかった。
だからせめて。せめて役に立つ人間になろうと思った。役に立つなら、ここにいても許されるかもしれないから。
その日も、ミナは夜明け前から畑へ向かっていた。凍った道を歩くたび、靴底から冷気が染みてくる。
畑を管理する老人グレフは、無愛想で厳しい男だった。
「遅い」
「……す、すみません」
「謝る暇があるなら動け」
ミナは頭を下げ、すぐ石拾いを始めた。
春前の畑には凍った石が大量に混じる。
それを一つずつ取り除く地味な作業だ。
腰を曲げ続けるせいで、夕方には背中が焼けるように痛くなる。けれどミナは弱音を吐かなかった。
いや、吐けなかった。
弱音を吐いた瞬間、「役立たず」と言われる気がして怖かったのだ。
昼過ぎ。
空腹で手元がふらついた時、グレフが眉をしかめた。
「飯は」
「……だ、大丈夫です」
嘘だった。昨日からまともに食べていない。すると老人は舌打ちしながら干し芋を放って寄越した。
「倒れられる方が迷惑だ」
ミナは目を丸くした。
誰かに食べ物を“分けてもらった”ことなんて、いつぶりだろう。
「……ありがとう、ございます」
グレフは顔を逸らした。その横顔は、少しだけ不器用に見えた。その日から時々、老人は余り物を寄越してくれるようになった。
ミナは気づいた。優しさって、もっと大きくて綺麗なものだと思っていた。でも本当は、こういう小さなものなのかもしれないと。
春が近づいた頃、畑に新しい働き手が来た。黒髪の青年だった。背が高く、ぶっきらぼうで、目つきが悪い。街の人間ではないとすぐ分かった。
服は古いが質がいい。立ち姿に妙な隙がない。
「ルークだ」
短く名乗り、彼は荷車を軽々持ち上げた。
ミナは小さく会釈する。
「……ミナ、です」
ルークは彼女を見た。その瞬間、ミナの身体が強張る。
――ああ、まただ。
この後、視線が変わる。気味悪そうに目を細める。眉を寄せて距離を取る。そう思った。
けれど。
「ああ」
彼はそれだけ言った。嫌悪も、憐れみもなかった。まるで普通の相手を見るみたいな目だった。ミナはひどく戸惑った。
数日働いて分かったが、ルークは変な男だった。愛想がない。口数も少ない。
けれど、人を傷つけない。
ミナが言葉につまえても待ってくれる。失敗しても怒鳴らない。
ある日、ミナは井戸で水桶を倒してしまった。女たちが笑う。
「またあの子」
「本当にのろまね」
ミナは慌てて桶を拾おうとして、凍った地面で手を滑らせた。
その瞬間。
大きな手が桶を持ち上げた。
「重いだろ」
ルークだった。
「……え」
「持つ」
当たり前みたいに歩き出す。ミナは呆然とした。
どうして。どうしてこの人は、平気なのだろう。怖くないのだろうか。
「あ、あの……」
「転ぶぞ」
ぶっきらぼうな声。
でも、優しかった。
ミナはその夜、一人で泣いた。理由が分からなかった。
ーーいや、本当は分かっていた。嬉しかったのだ。優しくされたことが、普通に扱われたことが。同情や憐れみでもない、本当に普通の優しさ。人として扱われたこと。
そんなことで泣いてしまう自分が、少し情けなかった。
それから二人は少しずつ話すようになった。本当に少しずつ。
「寒いな」
「……はい」
「また手、赤い」
「だ、大丈夫です」
「大丈夫しか言わないな、お前」
そう言われた時、ミナは少し困って笑った。するとルークが一瞬、目を見開いた。
「……お前、笑えるんだな」
ミナの顔が熱くなる。
「す、すみません」
「なんで謝る」
不思議そうな顔だった。
その時、ルークは初めて思った。
――この子は、自分が笑うことすら悪いと思ってるのか。胸の奥が妙に痛んだ。
ルークには妹がいた。昔の話だ。病弱で、周囲から疎まれていた妹。守れなかった。
だからルークは、ミナを見るたび昔を思い出していた。誰にも助けてもらえず、自分が悪いのだと思い込んでいた妹を。だから放っておけなかった。
最初はそれだけだった。
だが気づけば、視線で追っていた。
重い荷物を運んでいると気になる。
無理して働いていると腹が立つ。
ある雨の日。
二人は作業小屋で雨宿りしていた。
雨音が響く中、ルークがふいに聞く。
「なんで、そこまで働く」
ミナは少し黙った。
「……私、何もないので」
「何も?」
「きれいじゃないし、頭もよくないし……魔法も使えないし」
言葉にするたび、自分が空っぽな人間に思えた。
「だから、せめて役に立たないと」
ルークは黙る。
そして低く言った。
「役に立つかどうかで、人間の価値は決まらない」
ミナは目を見開く。そんなこと、誰にも言われたことがなかった。
「お前、誰より働いてるし、嫌なことされても逃げない」
ルークはそこで少し迷った。本当はもっと言いたかった。お前は優しい、と。
でも、まだ言えなかった。代わりにぽつりと呟く。
「……強いよ、お前」
ミナの喉が震えた。強いなんて、一度も言われたことがなかった。彼女はずっと、自分は弱くて醜くて、嫌われるだけの人間だと思っていたから。
その日から、ミナは少しだけルークを目で探すようになった。姿を見つけると安心した。声を聞くと落ち着いた。でも同時に怖かった。
期待してしまうから。
もし嫌われたら、きっと立ち直れない。だからミナは、自分の気持ちに気づかないふりをした。
◇
ーーだが冬。
疫病が街を襲った。人々は怯え、誰かを悪者にしたがった。そして矛先はミナに向く。
「呪われた子のせいだ!」
広場で石を投げられた時、ルークが前に立った。
「やめろ」
男たちが怒鳴る。
「庇うのか、その化け物を!」
その瞬間、ルークの拳が男を殴り飛ばした。場が静まる。
「次、ミナに触ったら許さない」
殺気すら滲む声だった。ミナは震えた。嬉しくて。
怖いくらい嬉しくて。誰かが自分のために怒ってくれる。そんなこと、この世界にあると思わなかった。
だがその夜。
ルークは倒れた。疫病だった。
高熱にうなされる彼を見て、人々は離れていく。
「感染るぞ」
「もう駄目だ」
ミナだけは残った。怖くなかったわけじゃない。でも、ルークを一人にする方が怖かった。彼が眠る横で、ミナは何日も看病を続けた。熱で苦しむルークが、朦朧とした声で呟く。
「……なんで、いる」
ミナは震える声で答えた。
「……ルークさんが、私を一人にしなかったから」
彼は薄く笑う。
「馬鹿だな」
「……はい」
「お前も感染る」
ミナは少し黙ってから言った。
「……それでも、いいんです」
そして小さく続けた。
「……大事な人、だから」
言った瞬間、涙が出そうになった。ルークは驚いた顔をした。そして熱に苦しみながらも、どこか幸せそうに笑った。
「……治ったら、ちゃんと聞かせろ」
後にミナは知る。ルークの正体を。彼は元騎士だった。王都で“白狼”と呼ばれた騎士団の一員。だが妹を救えなかったことをきっかけに、騎士団を辞めたのだ。守れなかった後悔から逃げるように、彼はこの街へ流れてきた。
そしてミナと出会った。
春。
疫病は収まり、ルークも回復した。店先で薬草を干すミナを見ながら、彼は静かに言った。
「俺、お前が好きだ」
ミナは泣いた。特別じゃない自分を。醜いと思っていた自分を。そのまま好きだと言ってくれる人がいた。
その涙を見ながら、ルークはようやく思った。
今度こそ、自分は守りたい人を守れたのかもしれないと。




